十二か郷用水
福田村が十二か郷用水の一画を占めるようになったのは、江戸時代の初期の頃とみられている。
板倉郷は、江戸初期まで独立した一郷として存在していたが、その頃庭瀬郷に編入され、さらに庄内郷に編入されている。妹尾郷が十二か郷に属するのは、この板倉郷の負担を引き継いだ後のことであったという見方なのである。妹尾崎の一部、引船、古新田などは室町時代末期から江戸時代初期にかけての開発である。
妹尾郷は、すでに平安時代の末期に成立したといわれるが、当時はこの地域と庭瀬郷や撫川郷との間に広い低湿地があった。低湿地は満潮時には潮にしずんでいたのである。従って、妹尾郷が十二か郷用水掛り地域となったのは、この間に新田開発がなされ、足守川堤防が整備された室町時代末期以後と考えられる。慶長時代から十二か郷の灌漑地になったとの研究もあるようである。
江戸時代湛井十二か郷用水は、「湛井川用水」または「湛井用水」とよばれていた。現在の「湛井十二か郷用水」という名称がつかわれたのは、明治三十三年に湛井十二か郷組合が結成されてから後のことである。
江戸時代の十二か郷用水水掛り地域は、賀陽・窪屋・都宇三郡十二か郷六十八か村に分かれ、その総石高四万六千余石であった。
上流から刑部郷・真壁郷・八田部郷・三輪郷・三須郷・服部郷・庄内郷・加茂郷・庭瀬郷・撫川郷・庄郷・妹尾郷があって、上流から服部郷までを上郷といい、庄内以下六郷を下郷と呼んでいる。
江戸時代の湛井堰と十二か郷用水の管理運営は、「湛井用水組」または「湛井井組」・「湛井組」などと呼ばれていた十二か郷六十八か村から選出された惣代出役の合議によって自治的に行われていた。そして各郷は用水の配分、湛井堰と水路・樋門等の維持管理についての平等な権利と義務とを分担していた。
惣代出役の定数は、江戸時代中期以降は十七名となっていたようである。それを選出する権利は、各御料(天領)・私領諸藩から石高や村数にかかわらず最低一名と、そのうえに伝統的な郷による地域分けが加味されて十七名が選ばれていた。したがって、御料・私領の村数・石高と惣代出役の数とは必ずしも一致していない。領主の所領変更によっても、多少の変動はあったようである。
惣代出役は御料・私領の村々の相談によって大庄屋・庄屋の中から選ばれることになっていた。
実際には複雑な水利慣行に習熟していなければならなかったので、一定の村に固定し、世襲的に勤める場合が多かったらしい。
嘉永七年(1854)八月付、備中国賀陽郡湛井堰起立拜明細書上帳一冊の最後に署名押印している十二か郷惣代出役は、次の十七名になっている。
佐々井半十郎様御代官所(倉敷)
都宇郡 上庄村 庄屋 内 田 八 郎
同郡 新庄下村 庄屋 栗 原 悦 蔵
同郡 下庄村 庄屋 平 松 一之祐
同郡 山田村 庄屋 岡 鹿 之 助
松平内蔵頭様御領分
窪屋郡 西郡村 名主 守 安 良右衛門
真壁村 名主 平 井 順太郎
板倉周防守様御領分
賀陽郡八田部村 庄屋 小 山 恒次郎
木下備中守様御領分
賀陽郡 高塚村 庄屋 渡 辺 種 治
窪木村 庄屋 岡 諸 平
板倉摂津守様御領分
賀陽郡西花尻村 庄屋 太 田 助 内
東花尻村 庄屋 森 安 与右衛門
戸川方之助様御領分
都宇郡中撫川村 大庄屋 太 田 健次郎
蒔田左衛門様御地行所
窪屋郡 小屋村 大庄屋 江 口 才 市
花房凡之丞様御知行所
都宇郡西加茂村 庄屋 片 山 清右衛門
蒔田数馬介様御知行所
窪屋郡 三須村 大庄屋 近 藤 吉兵門
戸川右近様御知行所
都宇郡 妹尾村 庄屋 佐 藤 太一郎
榊原小源太様御知行所
都宇郡 津寺村 庄屋 多 田 国 蔵
惣代出役は御料・私領及び各郷の代表であって、彼等による十二か郷用水の管理運営は「旧例をもととして出役和談の上」で決められる。その合議事項は十二か郷村々によって遵守せられるべきものであった。
文化十二年(1815)の「郷中申合締書帳」のよると「惣代出役によって相談の上とりきめたことがらについて、組合の村々でかれこれ要望や異議が出されても取り上げないこと。」を申し合わせている。用水の管理と運営について惣代出役の権利は絶対的なものであった。