妹尾郷百姓一揆

 江戸時代には、訴訟や訴願に関する法規が制定されていて、農民の個人的な訴えや、村人全員の願いは、いつも村役人の手を経て所定の手続きに従って行われなければならなかった。
 しかし百姓一揆の原因となることがらについては、百姓がきめられた合法的手続きによって訴願しても、これはたいてい途中で役人によってじゃまをされ、百姓の考えは領主に届くことは不可能であった。
 そこで百姓たちは禁を犯して越訴という訴えの方法をとった。強訴すれば犠牲者を多くだすだけで目的が達成されないからである。
 越訴というのは自分たちの領主またはその代官に直訴したり、将軍または幕府の代官に直訴したり、他領の領主または代官へ直訴することである。
 第一の方法はほとんどが内密にすまされてしまうので、ほとんどの場合第二・第三の方法がとられた。
 妹尾領のように、将軍直参の旗本領の場合には、代官が政治をあやまり、非道があった場合、直接代官に抗議し訴願しても効果がないとすれば、代表者を江戸に派遣し、幕府へ直接直訴するのが最も有効な方法であった。
 しかし天保十五年の妹尾郷の場合には、幕府へ直訴する前に他領の領主に対して直訴し、自分たちの領主の悪政を暴露する方法をとろうとしている。備前藩や庭瀬藩・撫川・早島両知行所に百姓たちが逃げこみ、そこの領主に妹尾領主の悪政をあばき、自分たちの苦しみを訴え善後策を歎願する悲散越訴という方法をとった。
 近隣から百姓の逃散地となった岡山藩では、妹尾郷の農民を領内にとどめ、早速妹尾領主にかけあい、善後策について相談し、円満解決をはかるからとりあえず帰村するようにとさとし、数日後に引き揚げさせている。
 天保十五年九月二十一日、戸川助次郎知行所備中都宇郡妹尾郷一円の農民二千名が、日頃の圧政に対してついに立ちあがったのが妹尾郷一揆である。
 事件の起こりは、手形札を地頭所より貸し付けていたが、今すぐその残金を返却するよう命ぜられたことと、新しく恵比寿講というものをつくり、その講金を耕作に応じて村人全員に強制的に割り当て、集金しようとしたことにあったようである。その日暮らしに近い農民にとって二重の経済負担となったわけである。また。一揆にいたるには、他にも要因があった。
 この一揆の祭の歎願書には当時妹尾郷の百姓支配をしていた代官屋吹・木村両人の圧政が数々あげられている。
 屋吹氏の若旦那が自分の犬をひき連れ、村々の犬猫鶏などを殺したり、弁才天の祭礼の時、わざと他の人に突き当てたり、はげしくうちたたいて相手にけがを追わせたりした。
 馬の資料の与え方が少しまちがっても刀を引き抜いて追いまわす。
 松田という者が酒に酔い、町屋数軒の戸障子をけ破り、その上農業をそている者を打ちなぐって大怪我をさせたが、重役の屋吹・木村はその悪行を放置したまま罪をさばこうとしない。
 そのくせ、百姓にいささかでも落度があると特にきびしいとがめだてがなされる。
 屋吹は、自家の普請に祭し、寺社境内に禁止の制札がある霊木を切り倒し、神前の神遊石といっていた大石を切りくだいて自家の石垣に築いたうえ、農繁期に百姓多数を普請のために使役した。自分の屋敷地とするために、近隣十五軒ばかりを立ちのかせ
村の主要道路をも自家の敷地にとりこんだ、そのために村人は非常に不便なまわり道をさせられている。
 また、矢吹・木村両人は、出店を多数つくって商売を独占したりもしている。
 村人に対し、少しの落度があっても罰金を課したり、牢屋へ入れて苦しめる反面、会所の公金百八十両、また役所で百両が紛失した祭はうやむやにし、調査もしていない。
 最も許せないのは、暦左衛門が夜分に百姓を捕らえて闇討ちすることや、腹たちまぎれに農家へ踏みこみ、刀を振りまわし、そのうえ風呂場に置いてある多量のたき木に、火をつけた松葉を投げ入れ、そのために大火になりかけたというような非常な行動が数多いことである。
 このように、数多い日頃の悪行にかかわっている屋吹氏の立案で恵比寿講が設立され、威圧的に講金を割りあてて、加入契約を強制的に押しつけてきたこと自体が百姓たちには迷惑至極なことであった。さらに講金が何にどのように使われるか、今までの屋吹氏の私欲的な疑惑をもち、ついに日頃のやり方に対するうっ憤が爆発したのである。
 この百姓一揆の経過と結果については、大阪御番所に提出されている「奉指上候手続書」・「乍恐奉御窺申上歎書之事」・「祭文辞」などに記録されている。
 一揆のはじまりは天保十五年八月二十七日、晩ごろから妹尾領郷一円の百姓たちはめいめい備前領久米村・今保村へ他所働きをするといって村を出ていった。その人数がしだいに多くなっていったので備前藩役人にさしおさえられ、三日間ほどそこに滞在している。その間、備前藩役所に対して、妹尾領代官の政治向きについて七項目の歎願書(乍恐以書
附け御歎奉御願申上候)を提出し、そのうえで備前領内での他所働きについての許可を願い出たが、一応の吟味を受けたあと百姓たちは妹尾郷へかえらされている。
 九月十六日、屋吹氏はことのなりゆきをうやむやにするため、江戸表の領主である戸川の殿様へ報告に出発しようとした。これを知った百姓たちは、日ごろの屋吹氏
の言動からすておくことができず、妹尾郷内にある和田の氏神で寄り合った。そこで村人たちは、撫川・早島両役所(妹尾と同じような戸川一族の知行所)への、歎願のための密談をはかり、翌十七日に十二、三人が歎願(撫川・早島両役所之御願申歎書ヶ条)に出向いた。
 それを知った妹尾郷の村役人は、早島の役所まで村人を引きとりにかけつけたが、既に帰村したあとであった。早島の役所では歎願書をうけとり、その文面の内容を重大視し、評議するからということで村人を帰らせている。
 九月十八日に妹尾領の東磯・西磯・北大福・南大福の判頭・惣代の者が、観行院で内密に歎願書連判帳をこしらえている。その祭、妹尾領内の古新田村、妹尾崎村の者たちは連判帳に印形はとらなかったが、既に十六日の密談で一味同心の固い約束ができていた。この連判帳をもって代表者十四、五人が撫川役所へ訴え出ている。
 惣村九月二十一日(あるいは二十二日か)の氏神の祭礼当日、百姓たちは夜分の酒宴にことよせて寄合いをした。
 亥の刻(午後十時頃)頃、酒の勢いにまかせて屋吹氏宅や商売を独占していた十八、九軒の金持ちや薬店・酒屋などにおしかけ、大勢で打ちこわしをかけている。
 打ちこわしを聞いた戸川一族の撫川・早島・帯江の役所から取りしずめの役人がかけつけてきたが、屋吹氏宅その他の場所はむざんにこわされて百姓たちは逃げ去ったあとであった。
 この事件発生のため、九月二十二日早朝より近隣領主たちは一堂に会し、対応策をいかにすべきか話し合っている。
 この打ちこわし関係者の取調べについては、翌弘化二年2月に、倉敷代官所からの手入れがあり、参加した者が召し捕られた。その際、掛りのものも召し出されて吟味を受け、入牢かまたは宿預けに決定し、十一月になり村預けの者だけが帰村を許され、一同つつしんでいたが、弘化三年六月大阪東御番所へ引き渡された。
 参加した一人に花屋町菊次郎という者がいたが、自分の老衰と酒によってころんだのが原因で身体が不自由であったことに将来をはかなんでいた。これにこのたびの一揆に際し、打ちこわしの先頭に立っていたことから尋問を受けた心労が加わって、天保十五年十一月に明星川に投身自殺している。村人は独身者で見よりのない彼のために、ねんごろな野辺の送りをし、若干の金を出しあって墓を建ててやり、「修羅道へ届け春辺の茶の煙り」の一句を捧げて冥福を祈ったという。