日蓮宗不受不施派の弾圧

 江戸時代のはじめにはキリスト教も盛んであった。島原の乱(1637)以後は鎖国によってキリスト教徒の摘発が行われ、弾圧された。寛文四年(1664)からは諸藩でも「宗門改」を実施するように定めた。
 寺院に対して「宗門改人別帳」「寺請証文」をつくらせて、キリスト教徒でないことを証明する権限を与えたので、全国民は強制的にどこかの寺院の檀徒にならなければならなかった。
 この帳面には家族及び下男、下女にいたる全員の続柄から名前、年齢まで記入されていたから、一種の戸籍簿の役割を果たすものであった。また所持している牛馬の数や石高についても記載されることもあったので、人口や家族構成及び農業経営の規模についても知ることができる。
 キリスト教の他に日蓮宗の不受不施派も幕府及び諸藩による弾圧を受けた。
 ほとんど全ての仏教各宗派が、江戸時代においては、幕府権力者に服従してその保護を受け、御用宗教となって幕府に協力した。
 そんな状況の中にあって、ただ一派あくまでも権力者に服せず、キリシタンと同様に徹底的に弾圧されたのが、日蓮宗不受不施派である。
 寛文五年(1665)に、幕府は同派の寺院に対し、今後寺領は三宝(仏・法・僧)への敬田供養としてくだすから受領の書類を提出するよう命令した。この時受領書を出して不受不施派から転向したものは許されたが、あくまで受領書の提出をこばんだ者は追放され、寺院の寺請も停止され、禁圧を受けることになったのである。
 こうして多くの僧や信者が、斬首・入牢・入水・自刃・断食あるいは流罪などの殉教者となった。
 日蓮宗不受不施派に対する弾圧の影響は、岡山県南部の日蓮宗に大きな影響を与え、福田村山田においても天保二年(1831)の法難が起こり、近郷では貞享二年(1685)庭瀬三僧の法難、享保二年(1717)に惣爪法難などが記録されている。
 「備前法華」という呼びかたが起こるのは、せいぜい四百年程前のことである。日蓮宗が最初に岡山県へ行ってきたのは、此れよりもずっと古い時期で、今から六百年以上も前の、南北朝鮮時代のはじめのことであり、大覚大僧正によって伝えられたものである。
 大覚は、南北朝の動乱期に備前・備中・備後の各地の民衆に新しい宗教を勢力的にひろめ、山陽道に日蓮宗を伝播させる大きな力となった。
(写真50)
 
備前における法華宗(日蓮宗)の発展は、室町時代の中頃から戦国時代にかけて、松田氏の保護によって最盛期を迎えることになる。(写真51、52)

第50写真 題目石、高尾の  「大覚さま」 第51写真 題目石 外野にて 第52写真 古新田用水路のほとりに立つ題目石

 松田氏は金川城(御津郡金川町)・富山城(岡山市万成)の二城により、西備前最大の勢力をもった戦国大名であった。
 松田氏はその武力と政治権力を背景にして、領内の他宗派寺院をさかんに日蓮宗に改宗させた。
松田氏についで宇喜多氏も強くこれを信仰し、宇喜多氏の家臣であった戸川・花房両氏が日蓮宗に帰依したのも自然のなりゆきであった。この二人は兵力こそ用いなかったが、領内寺院に迫害を加えて改宗を迫っている。
 こうして吉備郡南部から都窪郡にかけては現在でも日蓮宗信者が多く「妹尾千軒みな法華」といわれるくらいであった。
 この地方の日蓮宗の普及状況を物語るものとして村内各所に「南無妙法蓮華経」「大覚大僧正」などの題目石が立っている。現在でも道端や堂(祖師堂)の中にまつられて、土地の人から「法界さま」とか「宗祖さま」などと親しまれている。
 日蓮宗のさかんな地方に祖師堂が多いのは、大覚大僧正が巡錫先(巡錫=徳の高い僧が各地をまわって仏法を説くこと)で祖師尊崇の念を養い、民心を教化していった。
 なお、祖師堂には必ず地水両神をまつっていたので、題目石のそばに並んで「地神」「水神」「牛神」の石碑が立っている。
 これは土地、水が生活の基本をなしているからであり、牛神は農耕尊重をあらわすものである。
 日蓮宗不受不施派弾圧のことの起こりは、豊臣英世氏の時代にさかのぼる。
 文禄四年(1595)九月、秀吉は亡き父母の霊をとむらうため、京都東山に大仏殿を造営し、大かかりな法要を計画した。各宗派から多数の僧を招いた、いわゆる千僧供養である。
 天台・真言・律・禅宗五山・日蓮・浄土・一向・遊行の八宗から各百人ずつの僧を招いた。これを大数をとって千僧供養といった。
 この時、他の宗派よりの供養を受けないという宗のおきてをもつ日蓮宗で、これへの参加をめぐってうちわもめが生じた。
 秀吉は日蓮宗の信者ではない。日蓮が「念仏無問・禅天魔・真言亡国・律国賊」と他宗信仰はかえって罪悪を深めていると攻撃して以来、日蓮宗においては他宗の者を
謗法者つまり仏法をそしる者とみなす。その謗法者のおこなう法要に出仕して供養を受けるときは、みずからも謗法の罪におちるという意見が起こった。
 そこで各寺の長老たちは、京都本圀寺に集まって相談した。多くの者は「もし秀吉の命令をこばんで出仕しなかったら、寺をこわされてしまうかもしれない。とにかく一度は出仕しよう。」という意見に傾いた。これに対し京都妙覚寺の日奥は「もし祖師日蓮以来の制法を一度でも破って謗法者の供養を受ければ、永久にわが宗義は崩れてしまう。たとえどんな大事に及ぶとも法は重く、身命は軽い。宗義の制法を堅く守るべきである。」と主張した。
 これに対し秀吉は、たとえ祖師の法度といっても、公儀の命令は特別であるから出仕せよと命じた。他の僧たちは秀吉の再度の命令をこばみきれず出仕した。日奥はあくまでも拒否し、寺を飛び出して丹波にかくれながら、大仏出仕の連中を攻撃し続けた。
 大仏殿の千僧供養は、豊臣氏滅亡まで毎年行なわれ、日蓮宗の僧もそのつど供養を続けたが、日奥は出仕しない。謗法者の供養を受けないので不受不施といい、他の日蓮宗を受不施という。日蓮宗は他宗信者には功徳を施さないから不施という。以後両派はするどく対立するところとなった。
 専制君主の支配下にあっては、その恩恵を辞退する自由もない。徳川家康も秀吉と同様不受不施の存在を許さなかった。
 慶長四年(1599)家や巣は日奥を大阪城へ招き、「ただ一度でよいから出仕せよ。他宗の僧との同席がいやなら別席にしてもよい。一飯を供養されるのが迷惑ならば、膳に向かって箸を取るまねごとでよい。また後日、人に批判されることを懸念するなら、宗旨の瑕にならないように、なんとでもおまえの好きなような文句の書付を書いて渡してもよい。どうか一度だけは出仕して供養を受けるように。」と奉公衆を通じてさとした。しかし日奥は承知しなかった。
 そこで日奥は家康の前へ引き立てられた。ここでしばらく受不施僧と問答をさせたが、日奥はあくまで妥協しないで拒否し、謗法者を折伏(自分の宗派に従わない人々を屈服させること)のみだとがんばった。ついに家康は「上意によって仰せつけられる大仏出仕を拒否するならば、白夷・叔斉が周の天下をきらって首陽山に餓死した例にならうべきである。」とばかり日奥の袈裟をはぎとらせて城から追いかえし、翌年対馬に流した。日奥は十三年の後、赦免されて京都妙覚寺に帰った。
 その間身延山久遠寺が幕府により本寺としての特権を与えられていた。
 寛永七年(1630)日奥の弟子である武蔵国池上本門寺住職日樹が身延山の悪口をいいふらし、そのために身延山信徒を池上に奪われたといって、身延山日暹が幕府に訴え出た。
 幕府は当事者をふくむ両派六名ずつを出頭させ、幕府がわからも諸老職・町奉行・儒者などが参列して対決させた。
 その結果としての判決は、不受不施派を邪宗としておもだった者を追放の刑に処するということであった。日奥はふたたび対馬へ流された。
 寛文五年(1665)不受不施派は禁制の宗派となった。そして本山妙覚寺へ、平法華の身延山から日乾上人が入山してきたので、庭瀬・妹尾の信徒たちはおさまらない。こうして彼等は、本山を離脱して本山をもたない無本寺になった。
 たまたま、戸川家では第四代藩主安風が九歳で早世した。お家断絶となった後の領主として久世氏が入り、久世氏のあっせんで庭瀬・妹尾の両山は房州(千葉県)小湊の誕生寺末寺に列することになった。
 幕府の不受不施派禁令と共に、誕生寺では「悲田派」と称する一派を立てて、ひそかに不受不施の教義を布教していたが、これも元禄四年(1691)に発覚し、関係者は流罪に処せられた。
 幕府は諸大名以下に対して、今後支配下の者に不受不施派の者があったら、受不施か他宗へ転宗させるように命令している。
 そこで、庭瀬・妹尾の信徒たちも止むなく平法華の身延派になったが、中には表向き他宗信徒に転向したかのように装い、寺請証文もとって、内心では不受不施派にとどまる「内信」となった者が多かった。特に一部の強信者は、無籍となって、「法中」の仲介役をつとめている。これを「法立」または「施主」などといい各地の「法燈」によって統率されていた。
 このように不受不施派は、 法燈-法中-施主*-内信とつながる地下組織を構成して、たび重なる弾圧や迫害を乗り越えときたのである。
 これとても、発覚するときびしいおとがめを受け、転宗の誓約書を取られるのである。
 山田村では天保二年(1831)に法難が起こっている。この時逮捕されたのは、庄屋岡治五郎・組頭岡良助・笠石岩吉他数人である。
 不受不施派信仰の活動がうわさされていても、当時の山田村は天領であったので、公然と備前・備中の藩役人が信者の偵察捜索することはむずかしかった。倉敷代官所の役人たちは虚無僧姿などに変装して不受不施派を厳しく監視していた。
 こうして三年あまりを要して天保二年、ついに前記の信者たちを捕らえたといわれる。
 逮捕された良助は、江戸へ護送されていく途中の天保二年七月二十八日、死亡した。
 庄屋治五郎は、天保二年八月八日、江戸の牢中で死んでいる。
 岩吉ほか数人の者は、赦免されて山田村への帰国を許されたそうである。
 山田字砂場には、華降り日詔上人の石碑と天保法難者の墓がある。備中往来の高名の人の中に「・・・・・華降り日詔は都宇郡山田村・・・・・」と述べられている。日詔上人は、不受不施派の僧で山田の出身であったらしい。

第53写真 山田のお塚 中央一段高い墓碑が日詔上人のものと伝えられる

 ここの石碑と墓を信者たちは「山田のお塚(山田のかくし墓)」として尊敬し、不受不施派の霊場として、信仰のよりどころにしている。(写真53)
 
他に山田村には、法中一同で建立している石碑が二か所にある。その一つは、お塚の北、谷合いを百米くらい登った山道のすぐそばにあり、いま一つは高尾山の切り通しを西に出たところの道の北がわに立っている。
 「妹尾千軒みな法華」といわれてきたおひざもとの妹尾崎村及び山田村のうち、坪井・大年・北高尾に多くの真言宗信者が信仰を維持してきたことは特筆にあたいする。
 戸川氏の日蓮宗改宗への領内寺院政策は、花房氏と並んで有名であって、山田村の真言宗浄泉寺は日蓮宗に改宗した。
 妹尾郷は、もと真言宗に属していたが、戸川達安は慶長十年(1605)妹尾知行所内全部に改宗を命じ、応じない信徒を妹尾崎村へ移転させたという説もある。
 真言宗徒と日蓮宗徒二派が存在するこの地では、氏神信仰にも影響がみられる。
 山田村字庄田にある伍社神社は、妹尾崎村と高尾を除いた山田村の氏神である。
(写真54)そして高尾山にある厳島神社(写真55)は、高尾及び古新田の氏神である。
 この両社には、まったく同じ社殿が二つ並んで建てられていて、片方は日蓮宗徒が祭祀し、他方は真言宗徒が祭祀している。
 宗門改人別帳によると、福田地域の檀那寺としてでてくる主なものは浄泉寺・妙泉寺の他に妹尾の盛隆寺(大寺)及びその末寺である智応院・浄園院・善立院・安祥院・観行院さらに下撫川の応徳院などである。

弟54写真 伍社神社の門向かって左側が日蓮宗徒のもの 第55写真 高尾厳島神社本殿手前が真言宗徒のもの

 各檀那寺の檀家を地域によって大別すると次の通りである。
 古新田村・大倉・北大福が妙泉寺、山田村は浄泉寺である。中大福と外野を含む南大福は妹尾字千鳥にある盛隆寺及びその末寺智応院・浄園院・善立院・安祥院及び観行院などである。観行院(妹尾字後田)以外の四末寺は何れも盛隆寺境内にあった。
 中大福・南大福に盛隆寺及びその末寺檀徒が多いのは、大福新田・外野新田開発後新田村へ入植した住民の出身地とのからみである。
 記録によると、北大福村へは古新田村より、中大福村へは妹尾西磯の者が、南大福へは東磯の者がそれぞれ入植したとされている。もちろんその他の村からの移住もあったらしいが、その数は極めて少ない。
 北大福村の檀那寺は妙泉寺がほとんどである。それは古新田村からの入植者が多いからである。
 大内田の千手寺を檀那寺としているのは、山田村のうちの坪井・大年・北高尾(一部)及び妹尾崎村を占めている神郷宗徒である。
 ついでに氏神信仰に触れると、地域内には五社神社(山田)厳島神社(高尾)
厳島神社(古新田)鴨池八幡宮(北大福)三社宮=祇園社(中大福)外野八幡神社(外野)の六社がある。そして、それぞれの所在地に属する村々の住民が氏子となっている。
 伍社神社と高尾厳島神社については、既に述べた通りである。
 妹尾の隆盛寺及びその末寺の檀徒を占めている中大福・南大福には、三社宮(祇園社)、外野八幡宮が氏神として祭られているが、本格的行事に際しては現在でも妹尾の栗村神社、通称和田の宮または栗村様へ参詣するならわしを守っている家がある。
 栗村神社は東磯・西磯を含めた妹尾の産土神なのである。