金毘羅街道と福田村
備中・備前の道路について江戸時代には大道・中道・小道及び灘道に分けられていた。
大道は全国的な道路といえる大規模なものである。福田地区を通っている大道としては金毘羅街道(往来)がある。
中道は備前・備中・美作地内の城下町・陣屋町・港町などを互いに結んでいる道である。
岡山・撫川・倉敷を経て笠岡方面へのびている鴨方往来。岡山を中心にして備中高松・総社・美袋・高梁(松山)へ通じる松山往来。牛窓往来(岡山・益野・西大寺・牛窓)。津山往来(岡山・金川・福渡・弓削・亀甲・津山)。倉敷往来(岡山・牟佐・町苅田・周匝・林野)などがあった。江戸時代には、林野を倉敷と呼んでいたので倉敷往来の名が起こっている。現在、これらの道沿いに当時を偲ぶ道標のいくつかを見ることができる。
小道は村々を連絡する網の目状の道であり、灘道というのは海辺をたどる一本道である。
江戸時代に福田地区を中心とする道路網の主要なものは、岡山・米倉・妹尾・茶屋町・天城・味野・下津井を通る金毘羅街道(往来)である。
この道は金毘羅宮(香川県)、瑜珈大権現・熊野神社などに参詣する信者の往来というだけでなく、本州と四国を結ぶ重要な街道であった。
この道については「児島道草」の記録によって、昔時の往来を想像することができる。
児島道草「冬の旅路」 流雲竹
神無月(陰暦十月)ふりみふらずみ定めなき、時雨せぬ間に浦々を、めぐり児島の浜ひさし、久しき望を遂なんと、初の五日朝まだき、思い立ぬる旅の空道すがらの事あちこちと胸の内田に考つ、しばしながらも何くれと跡にも心岡村のこなたを通り古松や、東と西の中野をも、あとにし市とあゆみ行、けふは日和も米倉や、あすはどふやら白石の小舟渡しわたりつつ、向の堤に打上れば、風大福おお寒や、手先きの色は藤の棚、もり重ねたる大つまいも、妹と背尾の中にては、ふたはしからぬ事ながら、是より先の二筋道、どちらへ行ふと案じつつ、もう何時と尋ねれば、四ツと答へて行き過ぎる、さても日足の早島や、帯江にさける近道は、爰も児島の内尾哉、西うね・中疇・東疇・曽根ひに言へと真直ひ、新開道をはるばると春の湊の行末や、藤戸の渡りこここそは・・・・・・・・以下省略
冬の旅路は往路であり、春は帰路の金毘羅道である。岡山城下千阿弥橋にある一里塚を出発点としている。
そして上中野にある道標にしたがって南進する。道標は黒住教祖、宗忠の生まれた土地の黒住教本部前のある。やがて鹿田荘の西の市場として物資が集散されることになった西市である。さらに南西へ進むと、寛永五年(1628)備中松島の浪人和気与左衛門が一族下人を率いて開田した米倉新田へ出る。
町はずれの笹が瀬川堤防、今の相生橋北西隅に「右おかやまむねただ宮 左金毘羅 ゆうが宮」と刻んだ石の道標が立っている。道標の前面は笹が瀬川で、付近は江戸時代中期頃から金毘羅参り、ゆうが参りの旅人が往来する街道町らしく、はたご屋や、舟着場から金毘羅参拝の客を乗せた舟、堤防の米倉から米を積み出す舟、渡し舟を利用する旅人の姿など、小さいながら港町としての賑わいをみせていた。
この渡し舟で対岸の大福へ着くと、両がわに松並木の道が続いている。この道は大福新田の開発に際して、防潮堤として築かれた土手であった。続く道を南西方向に進むと妹尾の町並みへはいる。松並木はそのおもかげをとどめていないが、往時は、何百本と植えられた福田の名所として知られ、風よけや旅人に木かげを提供する役目を果たしていた。
興除の干拓が進められたのに伴い、松並木はいつしか鳥の巣づくりの場所となり、稲作に被害を及ぼしたり、水田の陽かげをつくったり、老朽化も加わったりして、しだいに伐採されていった経過が福田村役場の記録にとどめられている。
堤防並木及枯木取調書
都宇郡 大福村
古新田村
大福村字外野堤一円古新田村字金谷堤一円
1.松並木 七百五十六本
此松葉 弐千弐百六十八抱
但壱本に付平均三抱見込
1.枯木 弐拾本
1.ヤク木 壱本
メ
右の通取調進達候也
右村
戸長 久山 丈太
堤塘並木枝葉影伐御願
都宇郡 古新田村
大福村
右並木旧戸川領主に於て潮風除の為め植付以来、外野続々開拓す 故に樹木田圃の中間に狭り耕地の肥沃を奪い枝葉繁茂し 雨露の雫 且日光を遮り作物の障害をなす尠しとせず 加之鳥類巣屈を造り 其の群来する亦勘し 勢ひ猖獗之れが為め収穫を恣にし、終に立毛荒焦に属し 一同困難仕候条 至速御視倹之上 枝葉影伐御採用被成下度依之人民総代連署を以て 此段奉願候也
明治十七年三月二十日
古新田村人民総代
渡辺 純一
木村 東作
大福村人民総代
渡辺幾太郎
吉田豊太郎
戸長 久山 丈太
都宇郡長橋本貞固殿
書面願いの趣聞届候事 但入札の儀は別途相達すべく事
明治十七年十一月二十五日
都宇郡長代理
都宇郡書記佐々木高信
都宇郡大福村堤防並木
大福村大字大福
落札人 神埼与治郎
1.官有松損木 拾六本
此代金 六円六銭七里
右枯損木検査も上入札申付候処、書面の通落札取極可払下候条 来る十三日限り代金上納の上伐採可致 右相達す
明治二十五年九月九日
都宇郡長 杉山清心
大福村村長難波幾太郎殿
「本来この道は防潮堤であり、それを道路として利用していたのである。ところが、南部に新田開発が進むに伴い、防潮堤としての意味は失われていった。
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第48写真 松並木が大福の景色を象徴していた大福防潮堤と松川用水 |
大正時代になって、道路事情は道幅の拡張を進められるようになったが、道沿いにある松並木は幅員拡張のさまたげになるにで、伐採されることになったのである。(第48写真)
松の木は入札に付し、拡張工事費の一部に繰りいれられた。大二次大戦中には、エネルギー源として松根油採取のため、残る松の木もほとんど姿を失うことになり、宇野線にまたがるあたりがいちばん最後まで残っていたように思う。」(吉崎治夫氏談)
「児島道草」のよると、妹尾からは興除新田開発後は、早島の山麗部を遠まわりする旧道の他に、新しく四国街道がつけられている。
福田村の北を東に向かって流れる足守川は、笹が瀬川と合流して南東に流れを変えている。
このことは、自然条件的にたびたびこの地に水害をもたらすことになるし、交通上の大きな障害となっていたようである。
明治の中頃まで、これらの川に橋がかけられていなかったので、旅人はもっぱら渡し舟を利用しなくてはならなかった。
増水時の交通遮断や、渡し舟利用に要する渡し賃などの不便がつきまとっていた。
渡舟賃取調書
下津井道路
備前国御野郡平田村
備中国都宇郡古新田村
明治十六年二月二十二日渡舟免許
北笹が瀬川筋字平吉
南足守川筋字金谷
1.渡舟場 壱ヶ所
川幅 九拾間 水勢 緩
渡舟 弐艘 常水 舟子壱人乗
中水 舟子弐人乗
大水 舟子三人乗
右賃銭
人 壱人 常水 金五厘
中水 金八厘
大水 金壱銭
牛馬 壱頭 常水 金壱銭
中水 金壱銭五厘
大水 金弐銭
人力車壱人乗壱輌 常水 金五厘
中水 金八厘
大水 金壱銭
同 弐人乗壱輌 常水 金壱銭
中水 金壱銭五厘
大水 金弐銭
小荷車 壱輌 常水 金五厘
中水 金八厘
大水 金壱銭
大荷車 壱輌 常水 金壱銭
中水 金壱銭五厘
大水 金弐銭
但 常水より壱尺五寸増 中水
常水より四尺増 大水
右の通候也
御野郡平田村
戸長代理
用係 大森千三郎
岡山県令千阪高雅殿
渡舟賃取調書
備中国都宇郡古新田村
備前国御野郡当新田村
足守川・笹ヶ瀬川合流筋字東新田(通称米倉渡)
1.渡舟場 壱ヶ所
川幅 九拾八間 水勢 緩
渡舟 弐艘 常水 舟子壱人乗
中水 舟子二人乗
大水 舟子三人乗
右賃銭
人 壱人 常水 金五厘
中水 金一銭
大水 舟留
牛馬 壱頭 常水 金二銭
中大水 舟留
人力車一人乗二人乗共 常水 金五厘
中水 金一銭
大水 舟留
荷車 壱輌 常水 金二銭
中水 金四銭
大水 舟留
但 常水より四尺増 中水
常水より六尺増 大水 舟留
右の通候也
都宇郡大福村外三ヶ村
戸長 龍治竹太郎
岡山県令千阪高雅殿
渡舟賃取調書
足守川・笹ヶ瀬川合流筋字金谷
1.渡舟場 壱ヶ所
川幅 八拾六間五合 水勢 緩
渡舟 弐艘 常水 舟子一人乗
中水 舟子二人乗
大水 舟子三人乗
右賃銭
人 壱人 常水 金五厘
中水 金壱銭
大水 舟留
牛馬 壱駄 常水 金二銭
中大水 舟留
人力車壱人乗二人乗共壱輌 常水 金五厘
中水 金壱銭
大水 舟留
但 常水より四尺増 中水
常水より七尺増 大水 舟留
右の通候也
明治十九年六月
都宇郡大福村外三ヶ村
戸長 龍治竹太郎
岡山県令千阪高雅殿
渡舟賃取調書
備中国都宇郡古新田村
備前国御野郡当新田村
足守川・笹ヶ瀬川合流筋字東新田(通称米倉渡)
1.渡舟場 壱ヶ所
川幅 九拾八間 水勢 緩
渡舟 弐艘 常水 舟子壱人乗
中水 舟子二人乗
大水 舟子三人乗
右賃銭
人 壱人 常水 金五厘
中水 金一銭
大水 舟留
牛馬 壱頭 常水 金二銭
中大水 舟留
人力車一人乗二人乗共 常水 金五厘
中水 金一銭
大水 舟留
荷車 壱輌 常水 金二銭
中水 金四銭
大水 舟留
但 常水より四尺増 中水
常水より六尺増 大水 舟留
右の通候也
都宇郡大福村外三ヶ村
戸長 龍治竹太郎
岡山県令千阪高雅殿
渡舟賃取調書
県道三等道路
備中国津高郡今保村
備中国賀陽郡延友村
同 都宇郡古新田村
明治十年三月二十七日 渡舟免許
足守川筋字引船
1.渡舟場 壱ヶ所
川幅 五拾五間 水勢 緩
渡舟 弐艘 常水 舟子壱人
中水 舟子壱人
大水 舟子二人
右賃銭
人 壱人 常水 金四厘
中水 金五厘
大水 金壱銭
牛馬 壱駄 常水 金一銭
中大 金一銭
大水 金二銭
人力車一人乗一輌 常水 金四厘
中水 金五厘
大水 金一銭
同 二人乗一輌 常水 金一銭
中水 金一銭
大水 金二銭
荷車 一輌 常水 金一銭五厘
中水 金一銭五厘
大水 金二銭
但 常水より三尺増 中水
常水より五尺増 大水
常水より六尺以上 舟留
右の通候也
明治十九年六月
都高郡今保村
戸長 砂田 武治
賀陽郡延友村
戸長 太田始四郎
都宇郡古新田村
戸長 龍治竹太郎
岡山県令千阪高雅殿
米倉に橋が架けられたのは、明治になってからのことである。しかも最初は株式会社による有料橋であった。
米倉橋梁架設設誓約規則
第一条 御野郡津島村・万成村・大安寺村・野殿村・北長瀬村・西長瀬村・中仙道村・田中村・辰巳村・平田村・米倉村・当
新田村・
津高郡田益村・中原村・富原村・首部村・楢津村・山崎村・一ノ宮村・尾上村・花尻村・白石村・久米村・今保村
都宇郡大福村・古新田村 有志者一致結合シ足守川笹ヶ瀬川末流御野郡当新田村ヨリ都宇郡大福村ヘ木橋架設
シ将来公衆ノ便宜ヲ量ルヲ目的トス
第二条 橋梁架設費金額三千円トシ壱株弐拾円ト定メ総株数百五拾株トス
第十七条 橋梁架設費償却ノ為メ通行人ヨリ相当ノ橋賃申請ル事
但橋賃ハ見込ヲ定メ地方庁ノ許可ヲ乞フベシ
米倉新橋架設方法
第六条 橋梁架設費償却方法ハ許可ニ依ルト雖モ概略左ノ見込トス
1、人壱人ニ付 五厘
1、人力車乗客共 壱銭五厘
但空車ハ引テトモ 壱銭
1、諸荷車引人共 壱銭
1、大七大八ハ荷車引人共 壱銭五厘
但空車ハ引人共 壱銭
1、牛馬一頭ニ付 五厘
1、馬車ハ乗客壱人ニ付 五厘
但空車ハ壱銭五厘
貨物積載ハ弐銭