「従二公儀一被二仰渡一御条目」と村の生活
これは、妹尾崎村青井家文書の一部をなすもので、弘化二年(1845)の資料である。
内容は、百姓農民に対する日頃からの生活上の心得をことこまかに箇条書きした、いわば農民支配の基本姿勢を示しているものである。
従って、幕藩体制下における武士による支配下にあって、郷土の村々に生活していた人たちの生き方の一端を知る貴重な資料であり、既に村役人のところでは一部引用ずみである。
御条目の第一条には「前々より公儀(幕府)から守るべく申し付けられている各条目についてはもちろんのこと、当節仰せ出されている御禁制については村中の大百姓・小百姓(年貢を負担する本百姓の中にも、上層の者や年貢高の少ない者もいた)をはじめ、全べての者によって一層厳重に相(あい)守るべきこと・・・。」と書き出している。以後詳細な生活上の心得が七十六か条に及び、日常生活万般に及んでいる。そして、武士の経済的基盤となっている年貢米の納入手続きに至っては特に油断なく言及されている。
七十六条を述べた後に「右の条目堅く相守り、若し条目の主旨に違背する輩(やから)があるなら曲事(くせごと)として処罰する。なお、以上の御条目は毎年正月・五月・九月・十一月の年四回にわたり村中の大百姓・小百姓などを集めて、たしかに読み聞かせ、常々示されている趣をじゅうぶん合点(がつてん)(納得)させるよう特に念を入れるよう申し付ける。」としめくくっている。
これを受けて、最後に村方より誓いの一筆がつけ加えられて差し出されている。
「前書の御か条いちいち拝見し、村中の大小の百姓、五人組一人残らず承知いたしました。これらの御か条書を早速庄屋のもとへ書き写し置いて、仰せの趣を読み聞かせ、一か条ずつ納得させてきっと守ります。
若し仰せに背くようなことがありましたら如何様にでも罪をお受けいたします。その誓いとして連判をご提出申し上げます。 以上
備中都宇郡妹尾崎邑」
(1) 五人組
近世農村の最も特徴的な制度の一つとして五人組制度があげられる。
五人組を最初に掟書に定めたのは豊臣秀吉であって、慶長二年(1597)のことである。この年に広く一般に五人組組織 をつくることを命じているが、そのねらいとするところは、農民の相互検索という警察的なものであった。
これが農村で適用されると、全てが共同責任という形で発展していくことになる。
1.五人組のことは、町場では軒なみに、村にあっては最寄(もよ)りの家五軒ずつで組をつくり、子供、使用人にいたるまで悪事をな さないよう五人組の中で常々互いに注意し合い、若し平常不行跡の者がいて庄屋の意見にも従わないようであったなら訴
え出ること。
五人組は耕作を互いに励ましあい、公の諸役を完遂するよう利用されただけでなく、禁制のキリシタンの取締りや、牢 人をかくまうことへの罰則についても規制されたものであった。
村に悪党がいれば、五人組全体の曲事(くせごと)であるとし、不審の者は届け出るべく、盗賊をかくまいおくのも五人組の曲事で
あった。さらに他村から入りくる農民についても気をつけることを命じている。犯罪の防止と検索のための組織であり、百姓
の移動の取締り機関でもあったことがわかる。
その上、年貢収納が完全であるよう、困っている者を互いに援助させる機関でもあった。
1.父母に孝行を、兄弟仲睦(むつま)じくあること。若し一族仲が悪く、注意にも耳をかさず、親不孝をし、道義にはずれた輩がある
ならば、庄屋・年寄・五人組でじゅう分に調べただした上で申し出ること。
1.他所へ出ている者が一晩泊まりでやって来る場合には、庄屋の了解が必要である。若し他国へ奉公に出ている者が、用事でやって来るようなことがあったら、五人組からその事わけを庄屋・年寄に対し書面をもって報告して了解を得なければならない。公の訴訟のために公儀へ出る時でも、その趣を庄屋・年寄・五人組へ届け出よ。庄屋・年寄はこの件につ いて直ちに報告すること。土地の者であっても、他所へ出て長年にわたっている者が立ち帰って来るといえば、その旨申 し出よ。
1.切支丹(きりしたん)であって、現在改宗している者がいたならば、一族縁者についても別紙に記帳してさし出すこと。若しこのような者
が、縁組などによって当村へやってくるようなことがあったら、直ちに報告せよ。
(2) 年貢
江戸時代の身分制度では、農民は支配階級である武士につぐものとして、庶民の上位に置かれていた。農民は生活の糧(かて)を生産し、当時における経済的基盤である年貢を負担していたからに他ならない。
領主は、農本主義の立場に立って米麦中心の農業を奨励し、農民をきびしく統制して、できるだけ多くの年貢を取り立てるようにつとめた。「百姓と胡麻(ごま)の油はしぼればしぼるほど出るものである。」ということばは、領主側の意図をはっきりと表現
している。
年貢米の基準となるのは、面積・地味・収入である。これは検地によって定められている。見地というのは土地調査に当たるもので、村単位に一つ一つの田畑(屋敷なども含む)を測量して、その面積・地味・収入及び耕作者(所有者)を調べて検地帳に記入した。全ての土地の収入は玄米の収穫量で認定し、これを石盛(こくもり)といい、これによって全村の収穫量は何百石というように表示され、この石高をもとにして免(めん)(租税)をかけると年貢米の量が定まることになる。
田畑の地味は上・中・下などの等級に分け、石盛は上田一石八斗ぐらい、中田一石六斗・下田は一石四斗といったところが普通である。
これらの基準に租税を掛けると年貢の額が決定する。免五つといえば租税五割ということであり、六公四民とぴえば免六つのことで、収穫の六割を貢納し、四割が百姓のもとに残ることになるわけである。
天領ではおよそ五公五民であったが、大名領では一般に高率で六公四民の場合が多く、それ以上の重税を課すところも あった。
免のきめ方には、毎年の作柄(さくがら)に応じ、実際の収穫によって決める検見(けみ)法と、定免(じょうめん)法という過去何年間かの収穫を平均して一定期間の免を決めておく方法とがあった。定免法の場合でも、はげしい凶作・不作の年には、農民の願いによって、検見
をして軽減することもあった。
一村の収穫をもとにして一村単位に租税が定められると、これを村ごとに通達する。これを年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)または借免状(かりめんじょう)という。
この割付状の末尾には、村役人以下全百姓が集って、不公平のないよう各自の負担額を定めるように記してある。そして一般農民も、村全体の負担がどれだけであるか、また自分に対する割当てがどれだけあるかをよく知らせるようにと指示している。公儀御条目もこの点に触れている。
1.毎年御年貢免定(割付状)が出たならば、村中の者に披見させ、庄屋・年寄は村中の大小百姓残らず振れまわって寄合い年貢の割当てをいたすべし。小物成・口米・夫役など臨時の附加税・雑税なども割当てて納入しなければならない。現物納・金納それぞれ一人ずつ明細書を整え、小百姓たちにも納得させるようその内容を申し聞かせよ。
この明細書を書き取って割付状の最後に継ぎ足し、年貢割付けに立会い披見した旨を書き加えて一人一人の印判を取っておくこと。
この年貢割当の写しは御蔵(郷蔵(ごうぐら)と呼ばれる共同倉庫)の扉へも張っておくこと。
割当てに際し、不公平のないよう、算用まちがいのないよう慎重に処理すること。御年貢はもちろんのこと、他の附加税、雑税にいたるまで、指定された納入日限を厳重に守るよう常々村中で申し合わせをしておくこと。
1.御年貢銀や小物成銀の納入日限が触れ出されたら、日限に遅れることなく役所へ持参すること。若し遅滞に及ぶ節は吟味の上、きつく処罰する。
1.御年貢銀を庄屋のもとへ集める場合、控帳を作成し金額、納主名を書留め置くこと。庄屋は金銀領収証を作り、控帳に割印を取って記録にのこし、領収証を納主に渡すこと。そして年ごとに年貢割当て通り完納したならば、惣百姓から、御年貢割りの件につき異常なく納入の旨を御年貢割帳の最後に書き付け、惣百姓(検地帳に登録された村中の本百姓)の連判を取りおき、後日いざこざが生じないように備えよ。もし、いいかげんな御年貢割当てをし、惣百姓の連判も取りおかないで後日紛糾に及べば、庄屋・年寄の落度とし、きっとその責任を追及する。
以上のようにして定められるのが本年貢(物成(ものなり))である。岡山藩の場合、一般的に年貢といわれている定米(じょうまい)としては、この他に諸種の付加税があった。
付加税には夫米(ふまい)(夫役が米納にかわったもの)・口米(くちまい)(郡奉行などの役料にあてる)・糠藁(ぬかわら)代があった。岡山藩では本年貢の8.6%が付加税として本年貢に上積みされている。
この他に雑税として運上・万請代(よろずうけしろ)(小物成(こものなり)ともいわれる魚鳥請代、川請代・藪(やぶ)請代など)とがあった。
年貢は米で納めるのが原則であったが、畑の年貢の一部を麦成(むぎなり)といって麦で納め、麦成の一部を大豆や小豆・そば・粟などで納め、また銀納することもあった。麦成の場合、麦一石が米五斗に換算され、大豆一石は米七斗に換算されてい
た。
年貢に類するものとして、堤防修築・川除(かわさらい)普請や、山田入作村の助郷(すけごう)などのような雑用に人夫として労役に従うものがあった。
これを夫役といい一日一升程度の日用米が支給された。
天領では五公五民が普通であって、その中三分の一は銀納であった。江戸時代中期に米一石が銀五十匁ぐらいであった。その他に付加税として六尺給米・御伝馬宿入用米・御蔵米入用米の高掛り三役があり、さらに小物成と称する雑税も上納した。六尺給米というのは、江戸城中台所に使役する、六尺という男丁(だんてい)を微する代わりに納めさせたもので、享保六年(1721)から高百石につき米二斗と定められている。五伝馬宿入用米(ごてんましゅくにゅうようまい)というのは、五街道の問屋・本陣の給米、その他宿駅の費用としたもので、享保六年には高百石につき米六升とした。御蔵米入用米は、江戸浅草の米蔵の費用にあてるためのもので ある。上方(かみがた)では銀十五文を微収している。
小物成として入会地(いりあいち)(村共同利用)の馬草・薪炭・肥料などの採取について、農民は山手・野手・鎌役・炭役などの名目で税を収めて下草や薪炭の原料を得ている。この例として大福村・古新田村の足守川・笹ヶ瀬川河川敷内の葦(よし)刈りをあげることができる。
一般の貢租とは異なるが、農民の負担からいえば、村入用費なども考えなければならない。
この費用はほとんど村の雑費程度であったが、農民にとっては決して軽い負担ではなかった。村入用費も高に応じてかけるのが普通であった。福田の村々で最も大きいものに用水割費・堤防工事費があった。
年貢の微収にけんめいであった支配者は、この村入用費については極力出費を切りつめさせようと、御条目でこまかく指導を試みている。村入用の負担が大きいために年貢納入に支障があってはならぬという配慮があったのであろう。
1.村中年中の夫銭・掛り物諸入用の儀は、じゅう分庄屋・年寄によって吟味して、入用が多くならないよう念を入れること。全ての村入用は、細大もらさず記帳し、立会人の印を取っておくこと。二重帳簿を作成してはならない。
帳面に記載されたもの以外の掛り物を割掛けすることは、庄屋・年寄の曲事(くせごと)である。
毎年正月中に前年分の村入用帳の写しを提出せよ。検閲の後、本帳面は返却するので、毎年の帳簿は紛失しないよう大切に保存すること。
1.公用や村中の申合せなどのため、庄屋の家で百姓が寄合う際、村入用で飲食することは一切しないこと。
1.河川用水路工事や掘さらえ作業について庄屋・年寄はもちろん、人夫などの飲食費を村入用に掛けないこと。
(3) 年貢米の納入
貢租を納入する場合、貨幣で行うのは比較的問題ないが、米年貢には領主から厳重な規定が示されており、大いに農民を苦しめた。
一村の納入すべき額が決定通知されたなら、必ず納期までに完納することが第一条件である。一村の納入額は、必ず村全体の者が知った上で、公平に分担しなければならない。
幕府は貢納額を掛札にして翌年まで庄屋の家に揚げ、周知をはかるように命じている。
年貢は米をもっとも精選したものでなければならない。従って、自作の精米を上納すべきであり、給米や小作米、または貸付の差引米などで上納するすることはもってのほかであった。
年貢米を精選させるのは、一つには当時の大部分の領主がこれを大坂その他の地で売却して藩の費用にあてていたので、品質が粗悪であると直ちに売値に影響してからである。
秋の収穫時から年貢を完納するまでは、農民の行動に制限を加えて皆済(かいさい)確保をはかった。
米の移動は厳禁され、他村へ出すことはもとより、個人間の貸借返済も許されない。商人などの入村も禁じられる。違反者を発見した時は、誰でも商品を取り上げることとし、他領の商人に対しては、商品を持ち込まないように通告していた。
一方、農民は米拵(こしら)え、俵拵えに懸命の努力をしなければならなかった。不足米があると過料米を微収され、籾(もみ)が米の中にまじっていてもいけない。青米・赤米・折米等があっても同様である。
このように、米は特に精選を必要とした。俵も念入りに作り、しかも二重俵として湿りけを防ぐようにし、米を入れて俵装する縄のかけかた、結びかたまで規定されていた。
備中地方では一俵が四斗であるが、これに口米(くちまい)・延米(のべまい)・欠米(かけまい)・込米(こみまい)等の附加米がついていた。口米というのは、代官所の経費として年貢に加えたもので、一石に対して三升を課すものである。延米は、一斗ますに盛った米を切り落とした余分を見積もり、三斗五升につき二升であった。欠米・込米は運搬の途中に減るものへの補いのものであったが、後には当然入れておかなければならないものとして扱われたので、四斗一俵にそれ以上の米が必要となるのである。欠米は一石につき三升、込米は一俵につき一升であった。
納入場所は、天領の場合、いったん村内の御蔵(郷蔵)に収納し、江戸へは船で廻送するのであるが、身元のはっきりした者に責任をもたせ輸送に当たらせている。
米蔵に並べる場合も、むしろの上に置いて、ねずみ、雨もりなどにも気をくばり、米を損じることや減少にも責任を持たせた。
納める時の検査は特に厳しく、調査事項は乾燥・製米・各種混合物の三項であって、一つでも不備、不合格があると刎米(はねまい)としてつき返される。また斤量方役(きんりょうかたやく)の調査は、一俵ごとに軽量を測って規定に達しないとこれも刎米である。
このようにして納入が完了すると、農民としての一か年の重荷から開放されることになるが、若し納入ができないと、その農民は悲惨なめに会わされ、籠舎につながれなくてはならなかった。
1.御年貢納入については、庄屋・年寄が立会い、青米・砕米(くだけまい)・籾糠(もみぬか)などまじらないようにじゅう分調べ、また桝目(ますめ)が不足しないよう俵づめに当たって念をいれること。
1.俵装については、二重俵とし、口を縫い合わせ、規格に合った縄で縦縄・横縄をそれぞれ三か所にかたくかけて、船積みなどでいたまないように作ること。中札・外札を準備しておくこと。代官によって、生産地・庄屋・年寄・貢納者・検査者(米の
内容・重量の検査者各一名)の氏名及び重量を記入し、それぞれの者の連判を取って俵ごとに入れておくこと。外札には、
代官によって、何年の御納米、代官所所在地及び貢納者名を記入し、札の裏に俵の重さを記入する。
1.御年貢米を収納する際、庄屋より貢納者へ納入証を渡しておくこと。そして納入帳簿を作成して押印すること。納入証なしに後日いざこざが起き、これを訴え出ても取り上げてはならない。なお、郷蔵に雨もりがしないよう念入りに補修しておくこと。蔵に収納した後は、昼夜番人をつけて油断なく警戒し、庄屋・年寄も見廻らなければならない。若し、火災・水害または米盗(ぬす)っ人(と)にあった場合、早速村中でこれをうめあわせしなければならない。御米がぬれるとか、あるいは下敷のむしろが薄く
て米が痛んだり、ねずみに食われたりした俵があって、正式蔵詰に際して米不足になれば、村中で弁納させるので庄屋・年寄は落度(おちど)のないよう注意すること。
1.郷蔵の年貢米を何方(いずかた)の御蔵へ納めるよう命ぜられても、船積み輸送に際し、身元のたしかな者を村内から選んで、これに当たらせること。他所(よそ)の者に請負わせるべからず。
御蔵前の検査で欠米(かけまい)その他損米等があったなら、村として必ず不足分を納めるべきこと。また、郷蔵から御蔵へ輸送搬入するに要する人用が多額にならないよう、くわしく帳面に記載して入用を整理すること。
(4) 農民の日常生活
百姓は農耕に専(もっぱ)ら精を出すべきことの他、当然にその分を守らなければならなかった。
よけいな欲望を起こし、望みを立てるのはとかくその業を怠らせることとなり、ひいてはその百姓たる身を亡(ほろ)ぼすことにもなるであろう。そこで倹約令という名称でいわれる、一連の制限例が出されることになる。
百姓は、百姓として不似合いな服装をしてはならなかった。そのために衣服類一般にわたり、名目をあげて制限を加えている。
そして倹約には勤倹が不可分の関係として存在していた。百姓として応分の身を持することと、それだからこそ、ひたすらに農耕に励むべきであるということが結合して守らされたのである。
1.全て家族を第一に励むこと。百姓に不似合いな遊芸を好む輩(やから)があったら申し出よ。何事によらず一味同心の徒党と疑わしいことをしてはならない。
1.諸作第一とし、よい種を選んで蒔(ま)き付け、念入りに耕作すること。荒作のようにしているものがいたらきびしく取り調べるも のとする。
1.常々農耕にも商売にも精出さず、収入の道のない者があったら、よく調べた上で訴え出ること。
1.百姓に不似合いな風俗をし、長脇差(ながわきざし)(刀)を差し、けんか口論をよくし、大酒を飲んで酔狂(すいきょう)したりして不行跡の者があるな らば訴えること。
1.百姓の衣類については、庄屋は妻子共に絹・紬(つむぎ)・木綿(もめん)を着用し、平百姓は布木綿以外を着てはならない。綸子(りんす)・更紗(さらさ)・縮緬(ちりめん)などは襟布や帯としても使用しないように申しつける。男女共乗物に乗ってはならない。家台(やたい)が目立つ普請をしたりして奢(おごり)がましいことをしてはならない。
1.聟取(むことり)・嫁取・養子縁組などの祝事(いわいごと)について奢りがましいことのないよう、分限(ぶんげん)の範囲内で取りしきること。多勢を招待して大酒を飲んではならぬ。所により蚊屋(かや)の祝・新築披露、初産の祝などの不相応な行事がなされているようであるが、これは禁止する。全(す)べて分限に応じて内輪に軽く祝うこと。葬儀についても野酒は一切禁止とする。
公儀御条目の他に、南大福庄屋難波忠右衛門の手控(てびか)えの一部がある。「御上より被仰付候隋覚」であるが、これは主として百姓の労働休憩についての御触(ふれ)である。
朝は六ツ(午前六時)から農作業に出て、九ツ半(午後一時)まで野良仕事をして昼休みをとり、八ツ半(午後三時)には再び野良仕事に精出すよう申し付けている。
昼休みや午前、午後各一回の休み時間にはたばこを喫い、雑談に興じてもよいといっている。(ほら吹かせる可申事)
そして最後の一項で、夜なべ仕事として一晩中にする仕事の標準量を定めている。
それは内俵ならば四俵、上巻俵は三俵、俵縄は六十尋(ひろ)(一尋は両手を左右にひろげた長さ)細縄は百尋、米つきについては、真米は一斗・餅(もち)米一斗などと細かくとり決めている。
これだけの夜なべ仕事ができれば一人前ということなのである。
また農村における諸興行物(しょこうぎょうぶつ)・博奕(ばくち)諸勝負を禁じている。この頃ようやく都市文化が農村に浸透してきていることを物語っているが、支配階級は、農民を都市文化に感染させまいとし、その職とする農耕に専念させようとしている。
同じように遊芸などの会を催したり、けいこしたりすることも禁じた。
食物についても、振舞いや酒宴、ご馳走などむだな飲み食いが禁じられている。粗食して耕作に専念することこそ百姓たるゆえんであることが強調されて、ささやかな農民たちの喜びや楽しみを取り上げてしまっている。
1.当村のうちで能・操(あやつり)人形浄瑠璃(じょうるり)、勧進相撲・狂言・芝居その他興行物はいっさい致してはならない。村であろうとも村境のまぎらわしい場所であろうとも興行していたら報告すること。
1.全て遊女野郎の類を置いてはならない。一夜の宿であろうとも致してはならぬ。
1.博奕(ばくち)や全ての賭(かけ)勝負や、あるいは百人講と称したり、商売にことよせて博奕に似たものがあるが、何であろうと一切禁止。
若し違反する者があったら直ちに訴え出よ。
耕作については、田畑の米や雑穀の生産に影響があるとして、たばこ・なたね・木綿(きわた)などの商品作物の栽培を禁止し、特に田の作物の制限は厳しかった。
田には米作が行われるべきであって、他のものは米作の邪魔にならないよう、適宜(てきざ)に畑で栽培すればよいということであった。
こうして、土地利用に関する制限は、作物だけでなく、その土地に無駄なものを栽培させず、その土地を荒らさないことがもっとも重要なこととされた。
土地処分の問題については、永代禁止令があり、また質入れについても厳しく、田地の分地については、さらに厳しい分地制限令があった。
こうした田地処分問題は、差し当たってその田地の年貢の完納がいかに重要であったかということに始まっており、この問題がおろそかになれば農村の分解を早めることになる。
そして、一定の年貢負担能力をもった農民が離農することは、封建社会をゆさぶることにもなるのである。
1.独身の百姓がながわずらいしていたり、幼少の者が親と離れていたりして農耕が困難な者がいたら、庄屋・年寄がなかに立って、村中で助け合い、田畑を荒らさぬようにすること。田畑に不相応な作物を栽培して、米作をおこたる者がいたら取り 調べ、注意にも得心しない場合は届出ること。
1.田畑を荒地のままにしておいてはならぬ。永年荒地であった場所を開墾したり、新しく田畑を造成したなら早速届出るこ と。隠置(かくしおいて)周囲から訴えがあったりすると、庄屋・年寄の曲事(くせごと)である。田畑をつぶし、衣食の助けにならない作物は一切栽培 してはならない。
1.田畑山林等永代売買は御停止(ちょうじ)である。若し質入れする場合、十か年までのものならば、庄屋・年寄・五人組が証人となり
証文を作ることで認める。田畑を質入れして金銀を借(か)ったならば、返済期限までその田畑は貸主が作配(さはい)(管理)し、年貢も 同人より納入すること。
1.田畑の分家配分については、高十石・面積十町歩より少なく配分すること停止なり。
然(しか)る上は高二十石、地面二町歩より少ない田畑を持つ百姓は、子供や親類などへ田畑を配分することはならない。長男以外の者は、村うちで耕作労働によって生計を立てさせ、または相応の奉公人に出すこと。
家督相続については、現主人の存命中に庄屋・年寄ならびに親類立会いの上、書付けを作成しておき、後日に問題を残さないよう心がけること。跡式譲(あとしくゆず)り証文には庄屋・年寄・近親者全員の印判を取っておくこと。
兵農分離政策としていちじるしく目立っているのが、農民の武器所有の禁止である。
農民が武器を持っているということは、単にそれだけで領主にとっては対策を必要とするものであった。すなわち、それは直ちに農民の反抗と結びついているからである。
また、このことは百姓一揆の危険や、年貢割当てへの違背防止の立場から、百姓は農具さえ持っていれば長久の基(もとい)であるとする考えに整理されるのである。百姓は百姓として耕作にのみ専念させようという、農村統治の基本姿勢が確立されることになる。
百姓の帯刀禁止は、一面では農民と武士の身分を明確にするうえにも役立つもので、刀を持つことが武士の特権なのである。この特権を、一部の農民から選ばれた庄屋に与える恩典によって、庄屋を武士のがわへつけることにも成功しているのである。
兵農分離政策によって身分が明確になると、職人・商人身分もまた、しだいにはっきりしたものになっていく。
1.武家諸士に対して無礼のないよう気を付けること。
1.百姓の帯刀は堅(かた)く禁止する。若し庄屋・年寄が百姓の帯刀を放置していたならば曲事とする。
1.鉄砲(てっぽう)については、猟師の持つ威筒(おどしづつ)鉄砲のほか村中へ隠し置くべからず。若し隠し置いているのが発見に及べば、当人は
もちろん庄屋・年寄・五人組も同罪とする。
1.領内村々の百姓共、何事であろうとも願筋(ねがいすじ)のことについて強訴(ごうそ)・徒党・逃散(ちょうざん)などは堅く禁止する。近来、天領に於ても願筋につき御代官所へ大勢集って訴訟に及ぶこともあるというが、不届至極(ふとどきしごく)である。今後厳しく取調べの上重罪に処するので、百姓共へ平素からきつく申し付けておくこと。