村の政治

 江戸時代の村々の大きさは、だいたい現在の大字に相当していた。
 江戸時代の終わりの頃の文久元年(1861)に刊行された「備中村鑑」によると、当時備中国に、およそ五百八十八か村の村があり、そのうち都宇郡内に四十六か村があげられている。
 福田村関係の村名には山田村・山田入作村・妹尾崎村・古新田村・北大福村・中大福村・南大福村などがみられる。これらの村には人口・面積・収穫などについて大小の差はあったが、現在の村にくらべれば極めて小さいものであった。

 吉田家文書の中に妹尾戸川領の戸数を記録したものがある。年号の記載がないが、大体寛政十年(1798)頃のものと推定されているものを次にあげてみる。
 妹尾崎村     六拾軒
 古新田村     百四軒
 北大福村     七拾壱軒
 南大福村     九拾軒

 江戸時代の村は封建支配のための行政単位であった。年貢の割り当てや、納入から訴訟・契約・貸借にいたるまで村全体の名で行われた。
 領主は郡代
(ぐんだい)・郡奉行(こおりぶぎょう)・郡代官などを任命して、上から村を支配統制したが、一方農民のがわからは村役人(むらやくにん)を選任させ、なかば自治的に村の政治に責任を担当させて支配の徹底をはかったのである。
 農民身分のままで任用された、広い意味での村役人としては、大庄屋・庄屋(名主
なぬし)・組頭(くみがしら)(年寄としより)・百姓代(ひゃくしょうだい)(判頭はんがしら)・保頭(ほうとう)などがいた。この中で庄屋・組頭・百姓代を「村方(むらかた)(地方ぢかた)三役」と呼んだ。
 村役人は、領主が農民支配を進めるための末端機関に立つものであるが、他面、農民のひとりひとりとして支配されるものであった。しかし、基本的な性格としては支配者的なものであり、領主からは特権を認められ、農民社会で特有な地位に立つものであった。
 大庄屋は、一郡に数人の割合で置かれ、郡奉行などの藩役人の命を受けてそれぞれの組内の村役人を監督した。そして一般農民の風俗を正し、田畑の荒廃を取り締まり、犯罪人を上申するなど職務はあらゆる面にわたっていた。
 天領においては、正徳三年(1713)に大庄屋は廃止されている。
 私領の大庄屋は、明治三年に大里正
(だいりせい)と改称するまで続いた。
 一村の長である庄屋は、大庄屋の推薦、または村民の入札
(いれふだ)によって藩から任命したようである。世襲の場合もあるし、いろいろな形で交代することもあった。庄屋株(格)をもった数人が交代してつとめたところもあった。庄屋は多くの田畑を持つ名門、旧家のものが任命されるのがふつうで、村人に一人が通例であった。
 庄屋には給料が支給され、高掛
(たかがか)り物(村高に応じてかけられる付加税=雑税)も一定限度免除される特権があった。
 給料に付いては、岡山藩の場合、村高百石につき二斗の割で支給されていた。他に高掛り物が三十石まで免除された。
 仕事としては、法令の伝達、年貢の割りつけと徴収、宗門改帳
(しゅうもんあらためちょう)の調整から村内山林・原野・河川の利用や管理、農業技術や農作業の指導にあたるほか、農民の生活全般にわたる監督など、行政役人として極めて広い任務と権限をもつものであった。
 妹尾崎青井家にあった弘化二年(1845)の「従御公儀被仰渡御条目」には、百姓農民支配の一環として、農民の日頃から心得置くべき心得を箇条書で記されている。この御条目の各所に庄屋・年寄りの任務がのぞいている。

 「庄屋は正直専一にし、私利私欲に走らず、すべてに慈悲の心をもって百姓たちのことに心遣わなくてはならない。身上のなり行かぬ者については援助してやれ。村うちにいざかいが生じた場合は、年寄と共に立ちあって双方の云い分をよく聞き分け理非をわきまえ、毛頭たりとも依怙贔屓(えこひいき)のないように。」
 庄屋の制度は明治三年に藩制改革で「里正
(りせい)」と改称されるまで続いた。
 岡山藩では元禄以後庄屋を名主(なぬし)と称している。
 組頭は庄屋の補佐役である。年寄と称したところもあり、福田村の各地でも年寄といっている。村に一人か二人置かれ、その任命方法は庄屋に準じていたが、ひんぱんに交代していたようである。
報酬は米三斗か四斗ぐらいで高掛り物もいくらか免除されていた。
 組頭も明治三年に目代(もくだい)または保長(ほちょう)と改称されている。
 百姓代は、岡山藩で元禄以後判頭
(はんがしら)といったが、庄屋、組頭の行う事務、中でも年貢の割りつけなどの監査に当たるものである。村民の選挙によって大庄屋が任命する場合が多く、村の大小により一人ないし数人が置かれていた。
 以上の村方三役の他に保頭
(ほうとう)と称する「触れ歩く役」が村に一人か二人いて、村役人の使役に当たっていた。百姓代並みの報酬を得ていたようである。
  『備中村鑑』の中から福田村関係の村役人を次にあげておく。石
(こく)数は村高である。

  『備中村鑑』(文久元年刊行)
  御料所
(ごりょうしょ)(天領)御陣屋(ごじんや)倉敷(倉敷代官所)
 千百六石四斗八升五合        山田村
                            岡 六郎右衛門
 五百五十六石九斗四升九合     山田村入作
                            龍治与一郎
  戸川近江守様御陣屋妹尾
 百七十石                 妹尾崎村
                            龍治与一郎
                            龍治太郎右衛門
                            同 文吉
 三千石余                 古新田
                            吉田新左衛門
                            木村城平
                        年寄 渡辺安右衛門
                            吉田徳太夫
                            同 利右衛門
                            木村東作
                        北大福
                            佐藤官蔵
                        年寄 松下伴次
                            佐藤松右衛門
                        中大福
                            難波忠右衛門
                        年寄 神埼五平
                            佐藤太右衛門
                        掛屋 井上弥惣兵衛