幕藩体制下の福田村

 江戸時代になって、慶長五年(1600)最初に妹尾郷を支配した戸川氏は、代々宇喜多氏に仕えていた。初代藩主となった肥後守達安(みちやす)の父秀安は、児島の常山城をあずかり、達安は宇喜多直家の家老として、多くの戦いに参加して数々の武勲を立てていた。
 宇喜多氏が秀家の代となって、秀家に信任されていた長船紀伊守の専横に対し、花房職之(もとゆき)(のち高松知行所)ら譜代の老臣たちが結束して対抗した。この対立で達安らは秀家のきげんを損じ、その結果、宇喜多家を去るはめにおちいった。宇喜多家を離れた彼等は徳川家康の保護を受けることになり、のちの関が原の戦いで、徳川家のために、いちじるしい戦功をあげた。
 関が原の戦いの後、達安は都宇郡(妹尾郷を含む)、賀陽両郡のうち二万九千二百石の庭瀬領主として大名の列に加えられた。こうして当時妹尾郷に属していた福田地域は戸川氏の支配を受けることになった。
 その後、早島(三千四百石)・帯江(三千三百石)・妹尾(千五百石)・撫川(千石)・中庄(四百石)にそれぞれ分家して各地に戸川氏の知行所をつくった。
 幕府は将軍直参の家臣である旗本
(はたもと)に対してそれぞれ格式に応じて領地を与えた。この領地を知行所(ちぎょうしょ)といい、およそ三千石以上の旗本はその知行所に対して大名に準じた支配権を認められていた。
 岡山県内に知行所を与えられた旗本は約二十名、その知行高は三百石から最高八千石余まであり、各旗本は知行所内に陣屋を設けて領地を支配した。妹尾に残っている
戸川陣屋あとはその一つである。
 その後庭瀬藩四代目戸川安風は弟達富(みちとみ)に千石をゆずって撫川知行所をおこさせたが、四年後の延宝七年(1679)に九歳で夭逝した。安風にはあとつぎがなかったので領地は没収されることになり、庭瀬藩戸川氏は断絶となった。
 しかし、四年前に撫川領主として分家していた弟達富が五千石に加増され、戸川氏の本家を継ぐことになった。そして、各地の戸川氏知行所は、明治維新にいたるまで一族による支配が続いた。
 庭瀬藩は戸川氏断絶のあと、久世
(くぜ)重之・松平信通らが一時領主となったが、元禄十二年(1699)以後は板倉氏が藩主となった。
 板倉氏は備中松山(高梁)城主板倉氏の分家筋にあたる二万石の大名であった。板倉氏は、以後明治に至るまで十一代、百七十一年間庭瀬領を支配した。
 妹尾知行所は、庭瀬三代藩主安宣
(やすのぶ)が寛文九年(1669)に相続した時、弟安成に千五百石を分けたことに始まる。以後、妹尾崎・古新田及び大福・大倉は妹尾領に属することになった。
 山田村・山田入作村は庭瀬藩にのこった。
 しかし、興除新田の開発に伴う東用水路の工事に最後まで反対したため、遂に幕府の強権発動にあい、山田は天領に編入されることになり、庭瀬藩へは小田郡内から替地を与えられることで問題解決がはかられた。
 文政七年(1824)天領に編入された山田村・山田入作村は、以後倉敷代官所の支配を受けることになった。
 妹尾郷では江戸時代のはじめに寛永六年(1629)の二回にわたって村々の編成替えが行われている。
 二回目の寛永九年の改組は、妹尾知行所の設立のためのものであった。
 妹尾分家に際して、幕府が指図した分家領は千五百石であった。これでは、この前に分家している早島・帯江領との差が開き過ぎるということで、庭瀬藩では妹尾郷の村々を複雑に組み替えて、妹尾本村を千五百石に改組し、これを幕府の指図通り妹尾領として分家した。
 この他に古新田の石高を七百十三石に改組し、これを込高(余分の石高のこと)として妹尾領につけ加え、妹尾知行所の石高は表面上千五百石、実質二千二百十三石ということに落着いた。
 寛文の改組が行われた事情は以上の通りであった。