大福新田と外新田

 福田古新田の南方前面に開けているのが大福新田である。
 この新田は庭瀬藩戸川氏が寛永二十年(1643)に開発したものであり、割付
(わりつけ)(年貢を割りあてること)検地は寛文四年(1664)になっている。そして、高入(たかいれ)(石高を定めること)倹地は延宝六年(1678)であったらしい。
 この新田の一部は妹尾本村へも編入されたが、大部分は北大福村・中大福村・南大福村に分割された。妹尾本村に編入された地域は瓜疇
(うりうね)・荒田(あらた)・毎羅(まいら)などである。
 吉備津神社文書の中に「大福新田記」がある。
 大福新田開発について最も信頼できる古文書とされている。その内容は次の通りである。
 庭瀬藩主戸川正安は寛永二十年にこの地域を巡視し農地開発を思いついた。家臣戸川又左衛門と相談し、福田文右衛門を工事司に任じ、領民一万人を動員して千四百間の堤防を築いて干拓した。こうして八十余町の新田を作り出したのである。
 しかし、この新田には用水がなく、区画整理も行きとどかなかったので十数年間にわたって荒地のままで放置されていた。寛文四年になって田を三十八区に仕切り、用水路を掘って作付けができるようにし、この新田を大福新田と称することにしたという。
 また、大福新田の事については南大福村庄屋難波忠右衛門が嘉永四年(1851)に記録した文書がある。その内容をかいつまんで述べてみる。
 大福新田は戸川正安の代、寛永二十年に開発された。新田は古新田村や庭瀬・撫川など近郷の百姓が所有し耕作に精出していた。遠方の百姓は作小屋などを建てたりしていたが二十年間はどうしても作物が育たず収穫をあげることができなかった。
 そこで、藩主正安はこの新田への百姓の移住入植を奨励し、行きとどいた農耕を呼びかけ、寛文四年に大福新田鎮守を鴨池に勧請するに至り、初めて二十戸ばかりの農家が建った。その後、年々農家は増加していき、それぞれ農耕に励んだので、しだいに繁栄をみるようになり、開発年から三十六年めにあたる延宝六年にようやく新田の検地がなされた。
 北大福分の田畑は全部で四十二町二反八歩、高四百九十二石九斗九升六合。
 中大福分は二十一町四反六畝二十八歩、高二百五十六石八斗九升八合。
 南大福分二十六町六反二歩、高三百十五石五斗六升九合であった。
 なお、新田を三村に分割するにあたっては、北大福村は主として古新田村に土地所有者が多く、中大福村は妹尾西磯の者の所有が多く、南大福村は東磯の者の所有が多かった。
 外新田(外野新田)は妹尾陣屋の初代戸川安成の代にあたる元禄元年(1688)の開発であり、元禄九年(1696)に検地された。田畑は全部で十四町二反一畝十歩、高百三十石であった。そして南大福へ編入された。
 この難波家文書によって、大福新田の延宝検地高は千六十五石四斗六升であったことがわかる。
 外野新田は天和元年(1681)に開発着手、領主から五人の百姓に対して開発許可が下されている。
 五人百姓は八郎右衛門、四郎右衛門、弥一兵衛、吉右衛門、作右衛門らであったと考えられる。
 大福新田村には外野新田のほかに九右衛門
(くうえもん)新田、多七新田、作右衛門新田(作新田)などが元禄初年に開発され、同八年までに検地されたと伝えられている。何れも一町数反から二町歩余りの足守川河道内葭生地の開発であったが、その検地高は不明である。
 元禄六年にこの地の再検地が行われているが、これらの添開新田は、この時大福新田の三か村へそれぞれ編入されたようである。
 現在の外野地域の南半分は文政年間(1818−1830)に興除新田が開発された時までは水溜地であった。これが興除新田の開発によって、そのまま新田となり、南大福村へ編入された。嘉永検地高百二十石であった。
 妹尾郷地方の古地図を見ると、寛永三年開発の妹尾新田(のち大部分が古新田になる)の南側防潮堤には松並木が画かれている。寛文開発の大福新田南側防潮堤でも元禄以後、古新田堤にならって松が植えられたのであろうか。つい最近の第二次大戦中にその姿を消すまで、ここの松並木は福田村ののどかな田園風景を特徴づけるものとして近隣に知られていた。
 なお、難波家文書の内容に鴨池八幡宮勧請のことがでてくる。大福新田の開発が成就すると、古新田庄屋吉田甚次郎の次男喜七郎が北大福村へ分家してここの庄屋になった。後喜七郎は古新田厳島神社から三十番神を分祀し、さらに仁徳天皇を合祀して八幡宮とした。当時、社の周囲に大きな池があり、たくさんの鴨が群れをなして住んでいたので、誰いうともなく鴨池八幡と称するようになったということが当社の縁起として伝えられている。

第46写真 鴨池八幡宮