妹尾郷とのかかわり

 孝徳天皇の頃、すなわち大化年間(645−650)に全国を国・郡・里とする制度を定めたが、その後において里を郷(ごう)に改めている。
 古代律令成下の行政区画であった郷は霊亀元年(715)頃に設けられた末端の地方行政区画であった。
 この制度は律令制が崩れて武士が支配する封建社会となっても農民支配のための単位として、また農民の自治的結合の単位として長く続いた。
 平安初期に編纂
(へんさん)された「和名抄(わみょうしょう)」によると、備中国宇都郡に河面(加波毛)郷・撫川(奈都加波)郷・深井(布加井)郷・駅家郷の四郷が記録されている。
 古代の深井郷は「備中誌」によると、妹尾村・福田村・庄村・中庄村鳥羽
(とば)あたりとみられている。このうち江戸時代になって湛井(たたい)十二か郷用水掛りに属しているのは庄村・妹尾町・福田村であって、庄郷(庄村)と妹尾郷(妹尾町・福田村)にあたっている。
 江戸時代の十二か郷は賀陽・窪屋・都宇三郡六十八か村に分かれ、水掛り地域は上流から刑部
(おさかべ)郷・真壁郷・八田部郷・三輪郷・三須郷・服部郷・庄内郷(生石郷)・加茂郷・庭瀬郷・撫川郷・庄郷・妹尾郷である。
 妹尾郷は平安末期に妹尾太郎兼康
(かねやす)の所領であったところであり、彼によって開発されたと伝えられている。妹尾兼康については、源平盛衰記(げんぺいせいすいき)や平家物語の中にもかなりくわしい記述があり、彼が妹尾郷を本拠とする有力な武士であったことを物語っている。
 備中誌は十二か郷用水路が兼康によって開かれたと伝えているが、このことも彼が妹尾郷地方の開発領主であったことを推測させる材料である。
 兼康は平氏の厚い信任を得ていた。板倉に山城を築き、妹尾に平城・須浜城(宇峰の城址)を構え、そして高尾に別邸があった。
 寿永二年(1183)兼康は木曽義仲軍に追撃され笹が瀬、板倉で必死の防戦を試みたが、武運つたなく兼康・宗康父子は板倉で討死した。
 兼康の墓については、家来の陶山
(すやま)道勝が板倉の山城址に道勝寺という寺を建てて兼康の菩提所(ぼだいしょ)としたことが伝えられている。現在、鯉山(りざん)小学校(吉備津)校地内にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)がその墓であるといわれている。
 高尾の五輪塔、妹尾町盛隆寺境内の石碑もそれぞれ兼康の墓であるという説があるが、くわしいことは明らかでない。
 「吾妻鏡
(あづまかがみ)」によると、平家滅亡後の文治元年(1185)四月に源頼朝は備中国妹尾郷を京都の崇徳院御廟所法華堂(すとくいんごびょうしょほっけどう)へ寄進している。
 すぐる保元の乱の際、讃岐国へ配流されて、この地でなくなっ崇徳上皇の菩提を弔うためにということであった。
 妹尾郷が平安時代の末に妹尾太郎兼康の所領であったことと、源頼朝が備中妹尾郷を崇徳院法華堂に寄進している事情から、当時すでに妹尾郷が成立していたことは確かと思われる。
 吾妻鏡には、この他文治六年(1190)北条俊兼の奉行地として備中国狭尾辺
(せのおへん)(妹尾)の名が記録されている。このように十二世紀の末になると妹尾に関する記録がわずかながらみられるようになってくる。
 妹尾郷がすでに平安末期に成立していたといっても、庭瀬郷や撫川郷との間は低湿地の状態である。この地帯が新田として開発され、足守川堤防が整備されるのは江戸時代の直前からのことである。こうして円郷・引船・古新田・延友・平野・大福・外野などが出現することになる。