福田の道と旅

 わたし達の村の交通路は、古くは、だいたいが丘の上か海岸線に沿ったところにあった。
 現在の東部の古新田、大福地区が陸地となっていなかったころは、海路であった。
 河川交通に関していえば、最近まで(潮止めまで)満潮時に、笹ヶ瀬川、足守川を利用して庭瀬まで舟が溯航したり、東用水路なども利用して物資の揚げ降しが行われていた。陸路では妹尾崎方面から坪井を経て、箕島、早島、茶屋町に通じる道があるが、これは山の峯を利用した道である。山の峯は、周囲をよく見渡すことができるということから、よく交通路に利用された。その他に山田本村、大年、金場から丘越しに他の村へ通ずる道もあった。このように、丘陵は東西に伸びていたが、南北の往来もよくなされていたのである。
 道路には地蔵さま(写真36)を祀っているところもあるが、必ずしもそれらがすべて遍路道とは限らない。この地方の遍路道(写真68)は、地場大師八十八ヶ所の霊場を廻り、参拝するために利用される道で、その基点は大内田である。それは、吉備町との境界を通り、妹尾崎、坪井を経由している。この道は、巾が1メートルにもみたない狭い道であるが、今まで多くの人々に利用されてきた。八十八ヶ所を一巡すると約4〜5時間かかる行程である。この道は、その昔(今から190年前)寛政四年ごろ、この地域一帯が真言宗の信徒圏であったころにつくられたものらしい。
 さらに天城(あまき)往来とか、天城街道(写真38)とかいわれる道路がある。天城の池田侯が岡山・天城間を往来したことからこう呼ばれるようになった。この道は、妹尾町と福田村の境界にある道を経て金場から山田の西本村・七軒丁から一つ橋を通り、高尾の峰を伝い、山麗におりて山崎のはしから引船に通ずる道である。またこの道は、金場から四条を経て、妹尾兼康が住んでいたと言う屋敷跡の傍をとおり、十五人供養塔の前から山崎に出て、前述の道といっしょになっている。道巾は1メートル余りであった。交通がはげしくなるにつれて道巾は拡張されたが、農地をつぶして道路を拡張することを、当時の為政者はあまり好まなかった。

第36写真 山道脇にある地蔵さま 第37写真 妹尾崎の遍路道 第38写真 高尾地区の天城往来

 封建制の下(もと)、農村地帯であったため、住民は、農業生産にはげまなければならず、許可なく旅に出ることは許されない時代であった。講仲間で他の村の神社、仏閣に参詣に出かけることはあっても、そのようなことができるのは短い期間に限られていた。また、キリシタンや不受不施信仰者などには、強い監視の目があった。
 往来手形は、旅行許可券と身分証明証を兼ねたもので、いわば交通証明書のようなものであった。百姓・町人は名主・庄屋の手形が必要であり、修業者などは檀那寺の手形が必要であった。

     宗門改手形之事
 備中国都宇郡中仙道村・・・・・戸川助次郎様御知行所備前御野郡当新田又四郎妹宗旨代々法花宗拙寺檀那に粉無御座候御法度の切支丹並不受不施・・・・・伝々御座無候 右宗門の義に付何彼と申者御座候はば拙僧出埒明申候為後日宗門請判加件
  天保十四年卯二月          浄泉寺

 備前国御野郷○○村○○殿        

 上記は備中山田浄泉寺から出された文書である。印はその頃使用されたものである。
 明治になっても、自由に他郷へ旅行することはできなかった。そのためには戸長宛に届け書を出さなければならなかった。

         御  届
                                                龍治竹太郎
                                                        私儀
    病気に付此度但馬国城ノ崎温泉為入浴本日より三週間旅行仕度候間此段御届申上候也

                                         
妹尾崎村 壱番地
                                                    
龍治竹太郎
     
明治十七年六月十六日
    妹尾崎村外三ヶ村
    戸長 久山丈太郎殿

         御  届
    私儀他行之処本日帰村仕候此段御届申上候也

     戸長 久山丈太郎殿

 上の二つは、戸長宛の旅行の届出と帰村の知らせである。

 福田村は、北と東を川で囲まれている関係上、交通も制約を受けた。そのため、交通で最も古くから利用され、重要な役割をしていたのが引船の渡しである。これは、はじめの頃は、舟渡しであったが、明治の頃一人四厘の渡船料をとっていた。後大正の初めに橋がかけられた。粗末な橋で橋脚上にただ板が並べられていたので荷車などが通るとガタガタと大きな音がした(第40写真)。渡橋料が二銭の時がながく続いた。ここは交通量が最も多いところであったので、告知板などの立て札がよく建てられた。

第39写真 「引船の渡し」場に建てられた立て札 第40写真 足守川にかけられた引船橋

 (第39写真)は、渡し場の傍に建てられた、幕末の立札である。それによれば、大勢相集って、悪い事を相談したり、勝手に村から逃散してはいけない。と言う布令である。
 架橋が困難な頃は、渡船を利用していた。
 金谷の渡し 平田と結ぶ
 庄田の渡し 今保と結ぶ
などを利用して笹ヶ瀬川を渡った。
 四国街道は、引船を経て、庭瀬街道に合していたが、明治二十年より之を中止し、大福を通過して、米倉に通ずるものとした。
 当時の国道の幅員は三間、延長は十九丁十九間あった。また橋梁は十三ヶ所あった。里道は幅員二間未満、延長二十八里三十一丁二十九間渡し場三ヶ所、主なる道路は、今保に接続するもの。妹尾から山田、妹尾崎を通り、関戸を経て撫川に行く道と、入江橋を経て庭瀬に至る道路で他は村内連絡の道路であった。
 国道と主なる道路は、貨物の運搬が盛んであるが、明治四十三年宇野線の開通により減量した。
 宇野線・山陽線の中間にある福田村は、いずれの駅に出ても、二キロメートルから三キロメートルもあるため、鉄道の利用度は低い。当初は、岡山へ行くにも、徒歩で行く者が多かった。

 明治十七年二月
 都宇郡大福村戸長役場管内召集布達到着里程表

戸長役場が
ある村名
郡役所より戸長
役場に至る里程
戸長役場
所轄村名
戸長役場より各
町村に至る里程
広島鎮台丸亀営所
松山分屯地
大福村 一里二十丁 大福村 四十二里
    古新田村 四十二里
    山田村 三十丁 四十二里
    妹尾崎村 三十三丁 四十二里