地形及び地質

 福田の地形区分は、大ざっぱにいえば、西の丘陵部と東の平地部とに分けられよう。岡山平野を「豆板(まめいた)式平野」と呼んだ地形学者がいたけれども、まったく豆板(小豆(あずき)を砂糖でかためた平らな菓子)のような地形をしている。豆板の小豆の部分が昔の島であり、現在の丘陵地にあたるわけである。もともと岡山平野とは、東から西へたどっていくと、東は三石(みついし)から吉備高原の南の端(はし)を経て、西は笠岡におよぶ断層線以南をさしている。地帯(ちたい)構造からいえば、西南日本の内帯(ないたい)に包含されている。岡山平野も以前は海底にあったところで、平野のなかの高いところが、内海に浮かぶ大小の島々であった。そこに土地の隆起がおこり、さらに高梁川、旭川、吉井川などが土砂を運搬体積(うんぱんたいせき)してデルタ(三角州)などをつくり、陸化を促進(そくしん)して現在のようになったのである。
 わたくしたちの福田村は、豆板式平野と呼ばれる平地部と、ところどころに点在する地塊
(ちかい)(「何々島」などの地名がついている)とが交互に織(お)りなす岡山平野の一部に立地している。 
 中国地方と四国地方は、瀬戸内海を間にはさんで離れているが、地質的には連
(つら)なっていたことが立証されている。
すなわち、北四国と中国地方とは共に同じ内帯に属し火成岩が広く分布しているのである。
 瀬戸内海一帯の国立公園は、わが国を代表する海の公園で、白砂青松
(はくしゃせいしょう)の海岸があり、火山地形があり、侵食地形があり、堆積地形があるというように非常に変化に富んでいる。
 西部丘陵地の海岸線は、入り江の多い海辺で、海上交通も盛んであったことが想像できる。天神様(菅原道真が流された時、処々休んだところに天神の名をつけたと伝う)関係する名前が残っていることは、それを物語るものだと、ある古老は力説する。
 この瀬戸内海がいつごろでき、そして現在のような地形になったかは、ひと口で言うことができない。それは長期間にわたる地殻(ちかく)の変動、すなわちだいたい第四紀の洪積世
(こうせきせい)とよばれる地質時代から沖積世(ちゅうせきせい)とよばれる地質時代のはじめにかけておこった陸地の陥没(かんぼつ)運動と、海進(海面が上昇すること)によって生まれたものであるといわれている。
 この地域は、断層運動が非常に激しく行われた関係上、断層地形が数多く存在している。とくに花崗岩
(かこうがん)地域が広く分布し数多くのブロックに分かれている。備南台地もその中のひとつのブロックである。
 わたくしたちの郷土は、岡山西部から倉敷に広がる「穴海」
(あなうみ)と呼ばれていたところと、大小の島々が分布していた地域の一部である。第3図によって、よく当時の姿を知ることができる。同じく土肥経平著『寸簸(すんは)の塵(ちり)』(寸簸の塵は約200年前に書かれたもの)に掲載されている古代の図のうち、岩井嶋、津島、津島郡、笹迫はあるが山田・妹尾崎をはじめ、郷土の地名はのっていない。

第3図 
  かつては大小の島々であった西部の丘陵は、70メートルから80メートルの高さをもち、帯江地塊と呼ばれていたが、最近では備南台地と呼ばれている。地質的には花崗岩質岩石でおおわれており、平坦でところどころに侵食谷(しんしょくこく)をもっている。東西の距離約8キロメートルで、ところどころに馬の鞍(くら)の形をした低い部分があって、南北の交通はその鞍部を利用しておこなわれている。その距離およそ3キロメートル平坦化されたこの丘陵は、早くから耕地化が進められており、集落の発達も早かった。丘陵の東端(とうたん)は明神鼻(みょうじんばな)(妹尾町)といわれ、穴海に突き出た地形であり、その北は山崎といわれ、これに向かい合って瀬尾崎の岬が存在して、あたかも山田本村を囲む形になっている。ここをさしあたり山田入江(やまだいりえ)とよぶことにしよう。
 山田入り江にはまた津ノ崎や地蔵鼻の突出部がある。この入り江は、現在は、海面上高度3メートルほどの高さになっており、同じ平地でも、東部の古新田、大福よりも、およそ2倍の高さでである。このことは、西部からまず陸化がはじまったことを意味する。
 地盤が安定し、土砂が堆積をはじめたのは、今からおよそ5、6千年程前である。
 西部の丘陵地は花崗岩、低地部は礫、砂が多いが、東部の平地部は礫や砂より粘土が多くなっている。(土地分類図、経済企画庁による総合開発局の土地分類図附属資料による)これは東部平地が若い干拓地であることを示している。
 高尾山の西側入り江に面したところに、「高尾貝塚」がある。弥生前期のものでシジミ貝を含んでいる。この入江は、最も早く海退が行われた。この貝塚の西方300メートルの地点はおそくまで水が淀
(よど)んでいた(平松病院のあるあたり)ボーリングしてみると、上層部の粘土層が厚く、砂利層を経て基盤に達するまで、17メートルもあった。また、汗入を越した製粉工場附近では、23メートルでようやく基盤に達した。
 また東部の平地部に、農業協同組合の倉庫の建設にあたって、東建地質調査鰍ェ行った調査によると、上部から、粘土、砂、シルト、砂礫の四層から成っている。マイナス11.5メートルまでは、軟弱層である。基盤に達するには、あと数メートル以上を要すといわれている。(地質断面は略す)