(自己紹介)
広島県庁入庁 (昭和51年4月1日) |
・大学進学の際に,理数系が得意だったのに,人と社会と関わる仕事がしたいと政治学科を選び,そのまま迷わず地方行政の世界に入りました。この選択は間違っていなかったと今でも感じています。 | |
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・甲山保健所 | ・最初に配属された中山間地域の小規模保健所での経験が,現場感覚という点でとても大切なものとなっています。配属後2年で廃止となりましたが,庶務担当として数十年の歴史のある組織・施設を整理する中で,周囲の多くの方々の手助けを得ることの大切さとありがたさを学びました。 | |
・交通安全企画 | ・警察本部から出向の警察官の方との共同作業は,その後の多様な方々との協働の原点のような気がします。 | |
・広島空港立地計画 | ・新空港の立地計画では,地域社会にとっての選択肢を分かりやすく描き出すことの行政の責任を感じました。市街地の中にあり地形的な問題から計器進入に制約があるため便利ではあるものの東京だけにぶら下がった空港か,多少遠くても国内国外に直接つながった空港を選択するのかという問いかけに関わらせていただいたことが,行政職員としての仕事の原点となっています。 | |
・人事課(給与制度,人材育成) | ・人事課においては,飴も鞭もない組織での人事管理における担当者の使命感の大切さ,偉ぶらずへりくだり過ぎず社会の人々と同じ土俵で議論できる公務員の大切さを感じました。一人で1か月の海外単独派遣制度や,県として初めての1年単位での商社,シンクタンク,大学院への派遣制度の創設に関わりました。 | |
全国初の公務員の1年間商社派遣 (昭和62年) |
・人と情報で仕事をする組織への派遣研修制度を企画し,自ら立候補し派遣される。営業部に配属され,自分で仕事を見つけろということで,スリルとやりがいのある1年を過ごさせていただきました。 ・最後に審査部で学ばせていただき,事業部門と管理部門との緊張感とプロ意識を学ばせていただきました。 |
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・産業振興 (商工労働部・初代企画員) |
・既存事業の足し合わせではなく,めざすべき産業構造と産業政策体系を元に,不足している産業振興対策を明らかにし生み出していく,言葉で言うのは簡単ですが,実行には実力が必要です。 ・広島県で初めて作られた職名「企画員」の初代であることが自慢です。 ・「広島の商工業」の全面改訂をしました。 |
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初代シンガポール広島事務所長 (平成3−6年) |
・広島県内の商工会議所と行政が共同で設置した東南アジアとの経済交流事務所の初代所長として立候補し,ビザの取得や電話の申し込みなど,事務所立ち上げに一人で走り回りました。 ・思い込みや決め付けでないものの見方,人との付き合い方を学ばせていただきました。 |
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・国際協力係長 | ・海外の県人会を訪問し移民の現状に触れさせていただいたことは,人生のいろいろなありようと重さを考えされられました。また,自らのアイデンティティに悩む日系2世3世との交流も,自らを考える機会でした。 ・知事の,中国,ハワイ,南米4か国訪問を担当しました。ペルーのフジモリ大統領にもお会いし,大使公邸人質事件の3か月前に同じ場所でパーティーに出ていました。 |
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・地域医療担当課長補佐(兼)係長 | ・地域医療で,多様な専門職の方々と現場での仕事ができたことが,大きな転機になりました。行政のやりがいと面白さを強く感じさせられた仕事です。この分野をライフワークにしたいと思っています。 ・地域医療計画,全国初のインターネットベースの救急医療情報ネットワーク,へき地医療支援対策,障害者歯科医療対策,医科歯科連携など,充実した日々でした。 |
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(財)ひろしま国際センター (平成11−12年) |
・民間企業6社と広島県からの出向者で構成される財団事務局の総務課長。民間企業と行政というステレオタイプの見方ではなく,それぞれの個々の問題意識の大切さを感じました。 ・「ひろしま国際センターの概要」の全面改訂をしました。 |
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広島県庁退職 (平成12年12月31日) |
・24年9月勤めました。 | |
広島大学(平成13−17年) ・大学情報サービス室 助教授 |
・全国初の社会との窓口役の教員組織として立ち上げられた大学情報サービス室の助教授として採用される(平成13年1月1日=21世紀の初日付けのミレニアム採用辞令が自慢です!) | |
平成16年4月 地域連携センター 教授 | ・大学と社会との連携推進のために新設された組織です。 ・教授選考の際には,目の前での無記名投票のスリルを経験させていただきました。 ・『文部科学時報』への論文掲載が自慢です。 |
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広島国際大学非常勤講師 (H14-16) 「医療福祉情報管理論」 |
・学生が変化していくこと,成長していくことを感じるとともに,責任も感じました。同時に,翌年にはまた最初から始めるという,教育の大変さも痛感しました。半期で14回+試験も大変でした。 | |
平成17年3月31日 広島大学を辞職 | ・中途でやめさせていただくことで,お世話になった学内外の方々には申し訳なかったのですが,現場の組織でもう少し仕事をしたいとの思いで,ご理解いただきました。4年3か月勤めました。 | |
広島県庁(再)採用 (平成17年4月1日) ・自治総合研修センター(ひろしま人材開発機構 事務局)研修企画監 |
・久しぶりの行政の現場でとまどうこともありましたが,充実したスタートを切らせていただきました。 | |
・政策企画部企画調整局企画監 | ・次のポストに移った後に,私が担当していた仕事の一部を他課に移した残りの仕事が「政策企画課長」という名称になりました。こちらの方が分かりやすいかもしれません。総合計画の新たな柱と位置付けられた人づくりについて,2年がかりで「広島県人づくりビジョン」をまとめたのが印象的です。 | |
・総務局秘書広報部国際課長 | ・出戻りで国際課です。海外人材の活躍環境づくりなど,地域の生き残り戦略としての「国際化」に取り組んでいます。 ・優秀な留学生受入促進等に取り組んでいます。 |