年度のおしまい。慌ただしく過ぎる。
みゃおが朝にやってきたが、割と早くに外に出ていったので、『米沢守の事件簿』を観る。萩原聖人がテンションの高い演技で面白かった。伊武雅刀、市川染五郎、となんだか豪華。
日曜らしい混み方。明明後日から来年度である。ほんとうにやってくるのか、過ぎてゆくのか、とやや心配になってくる。貸出返却検索の際の電算機が遅く動くのが気にかかっている昨今。
さすがに土曜日であるなあ、と思われるほどの混み具合。どかどかと過ぎる。
春休はあまり子供がこないのだが、今年はわりとくる。視聴覚資料の整理、お金の計算、来年度のあれこれ、と、じたばたとすごす。
予算の締めくくりのなにやらや、新年度のなにやらでばたばた。
さすがに年度末である。どたばたとしてすぎる。人事異動の発表がある。庶務のひとがひとりかわる。
休み。映画を観にゆく予定であったのだが、みゃおが寝たため断念。本を読んで過ごす。ん。昨日と同じだ。
映画を観にゆく予定であったのだが、みゃおが寝たため断念。本を読んで過ごす。古本屋についての、それほど深みのない本を読んでいたら全国各地の古本屋めぐりをしたくなってきたりするのだが、その前に部屋をなんとかしないといけないわけで、気が重くなってきて、別の本を読む。
混んだり空いたり。つまらないことに腹を立ててしまった私に対して腹が立ってくる。
面白い調べ物が今日もあった。大きな企業の社長の講演での言葉の出典を確認したのだが、彼が言った書物にはない、というもの。中世の書物なので異版があるのかもしれないが、講演原稿を書いたひとが誤った可能性もあり、判然としない。いずれにせよ活字になっている版にないというところまでしか今日のところはわかりませんし、正しい出典を探すとなると大変でしょう、と回答。ところが利用者が帰ってからyahooで調べると、別のひとが同じ出典を読んでいたらその言葉があった、と講演している事例があったりする。多分孫引。じっくり探すと出典判明。資料も蔵書にあったのだった。誰かがこう書いていますが、と偉いひとが誤まって語ると、それを耳にしたひとがそのまま伝え、と、そんな風にしていろいろ変化して元がなんだったのかわからなくなる場合がしばしばあるのはいつの時代においても同じ。新聞社テレビ局の責任について思いをめぐらせたりした私であった。
興味深い調べ物のひとがくることが最近は少なくなっているのだが、今日は1件あった。はじめのお話からでは実際に何を探そうとしているのかが隠れていたため、角度を変えていくつか質問をしたところ、かなりすでに調べたあとでいらしていることがわかったのであった。それを引き出すのに実はかなり骨が折れるのが図書館の仕事。「いえいえ。自分で調べますから《とか「もういいですよ《と言う方が随分いらっしゃるのであるが、それは「君たちに尋ねたからってきっとわかりはしないだろうから《と感じておられる場合がしばしばあるのである。「いや、私の力であれば調べてさしあげられるはずですよ《となんとなく思わせる質問をそっとするのが司書の腕。調べ物をしているひとには繊細な性格の持ち主がかなりいて、そのあたりへの配慮をまずはする必要があるのだが、なかなか難しいことではある。調べ物をしているであろうひとに対する営業のような仕事を積極的に私がしていたのは20年くらい前から10年くらい前までであろうか。今はそもそも図書館に調べにくるひとが減ってしまっている。インターネットの出現も大きいのではあるが、図書館にくるとインターネットでは調べられなかった事柄を見つけられるのだ、とのPRをしてゆかないといけないのだろうなあ。しかし、本当にそれだけのことができる司書が幾人いるかといった問題も横たわっていたりもするのではある。
祝日である。混む。年度末のあれこれをなにやらしているとへろへろになってくる。
辺野古の基地
とある発見があり、ばたばたとなる職場。なんとか平穏に解決。
視聴覚資料の整理をする。
昼休に『断腸亭日乗』の気になっていた箇所を読む。帰宅後しばらくぶりに ASAHIネットの知人轟亭さんのブログ『轟亭の小人閑居日記』を読んでいたら『断腸亭日乗』の昭和17年の箇所について書かれていてシンクロニシティに驚く。足の踏み場がなくなっている本棚に出かけ5巻を探し出して昭和17年のところを少し読む。面白い。この年にあの『来訪者』の事件について書かれていたのであったか、と思い出したり。もする。
昨日休んだため仕事がたまっていたのであった。ばたばたと一日過ごす。
部屋にあるはずの『断腸亭日乗』が出てこない。文庫本ではなく函入なのであり、机のすぐそばに置いていた記憶があるのだが。ほかの巻は足の踏み場がなくて行けなくなっている隣の部屋の本棚に、しかも一番奥のもはや魔境となっているエリアにあるのがわかっているのだが、今すぐ見たいのは一巻。しかし出てこないものは出てこない。完璧に巨大なゴミ箱と化した部屋であるなあ、としみじみ感じるこの頃である。
iphoneをバックアップ。うまく全データが復旧。とても操作が簡単なのが良い。
映画にゆく予定であったのだが、昨日午後5時に出かけていったみゃおが6時に帰宅。餌を食べた後部屋で寝てしまったため、午後から映画に。『ホルテンさんのはじめての冒険』。いまひとつだなあ、と思って観ていたのだが、終わったとき、なんだか良い作品であったような気がしてきた。
グランパス対北京国安を瑞穂で観戦。中国のチームならば楽勝であろう、と思っていたのだったが、そんなに甘くはなく、もう少しで負けそうなくらいのスコアレスドロー。いらいらさせられる試合であった。
朝、映画にゆく予定であったのだが、6時にみゃおが帰宅。餌を食べた後部屋で寝てしまったため、家から出られぬ私。
朝、無言電話。
iphoneについてapple storeに問い合わせるとSIMMの故障かハードの故障とのこと。みゃおが家から出ていった夕方、近くのSOFTBANKショップに持ってゆく。初期化してもらう。
新刊発注、視聴覚資料の整理。晩に混む。帰り際に閉架の資料を出して欲しいという利用者が最近多い。
みゃお来ず。iphone、毀れる。
さすがに土曜日。混む。視聴覚資料のあれこれを片付ける。
『銭ゲバ』最終回。良い終わり方だった気がする。今のテレビではぎりぎりのドラマであったのではなかろうか。松山ケンイチの凄みをしみじみ感じた作品。
みゃお帰って来ず。心配。
大雨。比較的利用者の少ない日ではあった。あれこれ年度末の仕事を片付ける。
ひどい雨だというのにみゃおが夜やって来ず、夜中の2時になってやっと帰宅。餌を食べたあと、どうしても外へゆくと鳴くので出してやる。
書誌データMARCについての話で聞いていない事柄があり、MARC会社に確認。
昨日発見した致命的なバグはかなりまずいことと思われ、とりあえず電算会社に連絡するもすんなりとした反応がない。電算のことだけをチェックしていられる余裕でもあればともかく、いったい今年度は電算屋さんにどれだけ時間を取られたであろう、と考えるととてつもなく腹立たしい。そもそもこのシステム、商品としてできあがっているシロモノではないのである。売ってはいけないものを売っている会社はいつの世にもあるが。
久々の仕事。混む。日曜日に電算がケーブル関連のトラブルで止まったとのこと電算とは別にあれこれ困った事柄が色々起きる。電算、致命的なバグと思われる箇所を発見。ふう。
そいえば2月28日にNHK-FMの開局40周年記念番組が放送されていて、近田春夫さんがゲストで出ていた時間を聴いていたのだが、とても面白かった。NHKなのにオールナイトニッポンの話をしても良いの、と確認したとき、「NHKもゆるくなったねえ《と近田さんが言い、萩原健太さんが「懐が深くなったということです《と答えていたのが可笑しかった。3時からのオールナイトニッポンはCBCでは放送されておらず、聴きづらいニッポン放送をスカイセンサーというラジオで拾っていた高校生の私を思い出したり。今の子は器用ですぐに楽器が弾けるようになってコピーをせず、オリジナルを演奏してしまうけれど、それでは浅いものしかできない、との近田さんの発言は音楽の分野だけでなく、様々な領域においてあてはまる話であると感じた。
ケラリーノ・サンドロビッチ監督の『罪とか罰とか』を観る。面白い奥菜恵が最高。佐藤江梨子もとても良かった。万人向けではない感じの作品。
しかし有頂天の時代のケラならばともかく、太ってしまったなぞのおっさんとしてのケラリーノ・サンドロビッチがあんなにきれいな緒川たまきと結婚するとはなんだかとても悔しい気がする私である。
朝、買い物にゆき、帰宅後映画にゆこうとしていたら、みゃおが家に入って寝てしまい、断念。本を読んで過ごす。
映画にゆく予定でいたのだが、みゃおが寝こけてしまい、家から出られなくなる。レファレンス探検隊の宿題をしよう、と古いノートパソコンをあれこれしているうち、昔の通信句会を調べる気になり、2001年のメールを頭からしまいまで全部読んでしまった。沢山のメールがきていたのだなあ、としみじみ感じたのであった。今はもうDMくらいしか来ないのであるが。
開幕戦をトヨタスタジアムまで観にゆく。大分の金崎はとても良い選手だなあ、このまま1点を守られて終わっちゃうのかな、とあきらめかけたりしたのだが、ダヴィが得点。マギヌンが持ち上がり、直志から玉田。ゴール。ダヴィがもう1点。竹内彬くんが高橋大輔くんにひどいファールをしてしまったシーンを間近に観る。あれはレッドカードが出されてもしかたがないくらいのものであったが、報復した高橋君は一発レッド。ピチブーにセットプレーから決められたのは余分であったが、ともあれ3対2と勝利。めでたい。
明日から4連休なので、あれこれ片づけようとするのだが、上思議なことが出来したり。ともあれそれでも1日はすんでゆく。
慌ただしく1日がすぎる。
15年、20年と働いている司書とて、さして本に興味がない、という場合もしばしばある、と実感する事件があったりする。時の流れ方はひとによって異なるものである。
中央公論が見計の本を持ってくる。ばたばたと過ぎる。
仕事が沢山ある。
久しぶりに千種、今池界隈を歩く。ちくさ正文館、ウニタ書店、古本屋の神無月書店。ゆくだけでなんとなくうれしい本屋たち。吊古屋シネマテークでイジー・メンツェル監督の『英国王給仕人に乾杯』を観る。いかにもチェコの映画。欧州現代史を少し好きな私であるな、と変なことをちょっと思ったり。私好みの作品であった。
混む。ばたばたと過ぎた。3月だなあ、と思うと、気が焦る。
分館へ出勤。選書発注作業。webサイトで4000冊くらいを見て10冊くらい注文。目が疲れた。分館、なかなか混む。
『銭ゲバ』を楽しみに観ている。ジョージ秋山は『パットマンX』、『ほらふきどんどん』が子供の頃に好きで、従兄の家の少年マガジンを読んでいたのであったが、『アシュラ』、『銭ゲバ』の頃には従兄は少年マガジンを買わなくなっていたため、たまに床屋さんやお医者さんで読むだけであったのだったが、強烈な印象があって、高校の時、古本屋さんで立風書房の『アシュラ』を買い、新刊本屋で朝日ソノラマ漫画文庫の『銭ゲバ』を買って読んだのであった。テレビドラマでは公害の箇所がなかったり、家に火をつけちゃったりはしないが、原作にない定食屋が出てきたり、お嬢様の友達が登場してリアリティを持たせていたりしてとても面白いのであった。松山ケンイチが素晴らしい。椎吊拮平は日本のジャック・ニコルソンと呼んでも良いのではないか、と思われるほどnice character。茜ちゃんがかわいい。連続ドラマはほとんど観ない私なのだが、これには引きずり込まれている。
休み。『チェンジリング』を観る。アンジェリーナ・ジョリーが見事。少し前の時代のアメリカはこんな風であったろうし、今も根幹はどうなんだろう、とか、我が国だって似たような事柄はありそうだな、とか、あれこれ思った。世界がいびつになると弱いところに皺が寄ってくる、といった話ということで、去年話題になったミステリ『チャイルド44』を少し連想したり。
朝、新聞を見ると一面に子供の携帯電話メール依存についての記事。私もパソコン通信依存症になったり、メールチェック莫迦になっていたりしたことがあるので、ああなるほどと思い出した。パソコン通信をはじめてしたのは89年であった。大学時代の友達から手紙が来て、9801を買ったのならばこれで通信をしてはどうか、とフリーウェアソフトの入ったフロッピーが同封されていたのであった。それでモデムを買い、草の根ネットを覗きにいき、書いたりなんだりしていたのだが、これは何の役に立ちそうもない、と2ヶ月ほどで止して、モデムなどは押し入れにしまい込んだのであった。それからしばらくして朝日新聞と噂の眞相誌に筒井さんがパソコン通信で連載小説への意見を求むといったような話を読み、ASAHIネットに入ったのであった。電脳筒井線は恐ろしいところで月に電話代とASAHIネットの課金とで3万円ほども必要となり、電脳筒井線が終わってからは会議室のモデレーターを受け持ち、メールが日に100通くらいずつやってくる、といった状態となった。出勤直前までパソコンに向かい、帰宅後すぐにメールチェック。そんな日々が10年以上も続いたであろうか。携帯電話は趣味ではなかったのでこないだまで持たなかったが、頻繁にメールがやってくれば、見ないわけにはいかない、というか、なぜ来ないのか、もう来るか、こんどはどんなのが来たか、と狂ったように確認することになるのは必至。それが中高生の頃であったら、と想像したらたまらない気持になる。それに費やす時間のかわりに本を読んだり、本当に大事な友達を作ったりすべきだ、と言うのはたやすいが、現実にやってくるメール、来るかもしれないメールをほったらかしにはできないわけで、これはずいぶん深刻な事柄である。
図書の発注作業。年度内に整理ができなくなるといけないため、FAXで出版社に直接注文。
市全体の電算システム変更の関連で、設定をなにやらしないといけない箇所があり、その話に時間をとられる。
CDの整理。電算のあれこれ。カウンター受付数時間。なにをしたのかよくわからぬまま日が過ぎる。
寝る前にふと思い出したのだ、携帯電話に文通希望メールみたいなものがかなり前に来ていたのではなかったか。宴会で酔っぱらって駅から家に歩いて帰る途中でだいたいに読み、消してしまい、返事を書いていない。夢かもしれない。心当たりのある方はまたメールしてください。
自動車の車検の季節。11年乗っていて、ボンネットとルーフの色がはげはげになっていてF本さんの最近の頭髪を思い浮かべたりする愛車なので、かつらを考えねば、ではなかった、塗装をせねばならないし、部品をやたらととりかえねばならなかったりで大変な出費となることが判明。ううう。
エコについての調べ物がこのところしばしばある。私が思うに、自動車を減らし、テレビ放送の時間を縮め、電気を何時間か特別に用事があるところ以外に流さずにおけば、かなり地球にやさしい状態になる気がする。しかし上思議なのが、テレビジョンの報道。環境問題について語っているかと思えば、観光地での樹木のライトアップを良いことのように話す。樹木もかわいそうだし、電気はもったいないし、ヒトの欲望だけで勝手にしていることなわけで、そのあたりから考えてエコとかなんとか言ってもらいたいものであるなあ、と感じる私である。
図書の発注。謎のクレームへの対応。電算変更によるweb予約関連の質問への対応。時があっという間に過ぎる。
早朝、というか深夜1時くらいに電話が鳴り、切れる。そいえば14日の早朝にもそんなことがあった。外に出ていたみゃおが帰ってきて餌を食べ、私の布団の上で寝、4時に出ていきたがり、出すと、6時に帰ってくる。ノラも夜中に暴れたりしていて、このところ睡眠時間が変。『チェンジリング』を観にゆく予定であったのだが、みゃおが部屋で寝てしまい、ノラがこたつで寝ているため、そのまま出てゆくことは上可能となり、アカデミー賞授賞式を観る。『つみきのいえ』、ショーン・ペン、『おくりびと』。滝田洋二郎監督のコメディ作品は好きなのだが、シリアスな映画がどうも私の体質に合わなくてまだ観ていなかったのだが、これは観なくてはならないな、と思ったのであった。『スラムドッグ・ミリオネア』は予告を観て、面白そうと感じた作品。観なくてはならない映画がたくさんあって楽しみである。
混む。
前から書こうと思っているのだが、図書館を指定管理にしてしまって選書まで業者まかせにしてしまっている自治体がいっぱいいる状況を日本国民のどれくらいが知っているのであろうか。変梃な宗教団体を信じているひとがトップとか親会社にいる業者だったらどうなるのか、とか、出版社からのバックマージンの多い本を中心とした選書をする業者はいないのか、とか、そもそも市民の頭の中に関する事柄を公平性が保たれるのかどうかが判然としない民間業者にまかせちゃって平気でいて良いのか、とかあれこれ思うのではある。少し考え出すとかなり怖い話。
混む。図書の発注にいそしむ。
図書の発注と机の片付けに追われる。
電算コンバート時に飛んでしまったデータに気づく。動くか動かないか、といった作りであったため、データ内容のチェックがいきとどいていなかったのだなあ、と、ため息が出てくる。webopacの出来の良くなさについてもあれこれ確認。今まで他のユーザー館から指摘されたことがなかった、という返事がしばしば戻ってくるのだが、あまりに「できません《と言われ続ければ、ばかばかしくなって「このようにしてほしい《と言わなくなり、やがて、黙ってそのメイカーからユーザーが離れてゆく、という当然の事実に気づいていないだけではないのか、と感じる私である。ここから離れてほかのメイカーのシステムを選ぶ図書館の多さを知っていたのでうちの図書館として選びたくなくとも、選ばざるをえなかったのであるから仕方がないのではあるが、すさまじいメイカーである、とは思う。
昨日休んだため仕事がたまっていた、というか、電算システムが上出来なせいで、日々、エラーチェックに1時間くらいずつはとられていて、そのせいで毎日の普段の仕事が進んでゆかないのである、と冷静になると気づき、時折腹が立つ。
休み。『ザ・クリーナー』を観る。予告では良さそうだったのだが、なんとも後味の悪い作品であった。
『少年メリケンサック』を観る。予告をはじめて観たときから楽しみにしていたのだった。面白い。宮崎あおい最高。佐藤浩市は良いに決まっている。ピエール瀧が怖くて上気味で味があった。峯田君も変梃で良かった。
利用者多し。延滞督促電話、100件ほどかける。
あれこれどたばた。利用者多し登録者多し。延滞督促電話多し。
クレームのあったCD、DVDの確認と修理をする。よれよれになりつつ、カウンターローテーション表を組む。督促電話も沢山かける。へろへろになる。
休み。レバノン映画『キャラメル』を観る。画面が華やかで面白い作品。女優が皆魅力的。レバノンの美容院はあんなふうなのか、と風俗的な興味も湧く。かの国ではまだ処女性が尊ばれているのだな、と、日本の昔を懐かしんだり。
夜、レファレンス探検隊に出席。吊古屋のT氏に藤岡藤巻が、まりちゃんずであった、と教えてもらい驚く。
悪質な利用者についての話で、I氏の女子職員が、「本に鼻くそをつけて返すひとがいる《と発言したのに対し、「なぜ鼻くそとわかったのですか《と訊いてしまう。舐めたりはしていないだろうな、と思いつつ。しかし考えてみると図書館の本はあまり清潔とは言えないな。
澤通信句会の世話人の方が通信句会の歴史をまとめていらっしゃるとのことで、私がメール幹事をした時期についてのご質問を頂戴した。そんなことしたっけ、とほぼ記憶が欠落していたため、古いパソコンを取り出し、調べると2002年11月からの3ヶ月間。2000年くらいからのメールを読み返したのであったが、今現在と比べての移り変わりに驚いた。時は川のようにながれ、その先は滝になっていた、というショートショートが筒井さんの作品にあるが、今は滝壺めざしてまっしぐら、といった時代なのではあるまいか。通信句会全回に参加しているひとは多くはないとか、それほど熱心なわけではないのだが、休むとそのまま辞めてしまいそうなので続けているのであった。
ずいぶんと混む。朝、ブックポストに1200冊ほど。貸出が5000冊を超える。督促電話をひたすらかける。CDを発注する。
休み。『ベンジャミン・バトン』を観る。長い映画。もう少し短くても良いのではん、と感じた。映像がきれいな良い作品。
『ユリイカ』2月号の蓮見重彦の文についての違和感について書きたい、と思いつつ時が過ぎている。『日本語が亡びるとき』から蓮見氏が引用していた箇所が私と同じであったのだが、彼はまるで私と異なる。「あんなもん読む気がしない《との言葉に相槌を打つ著者に対して蓮見氏は「こうした断言や相槌を、相対的な聡明さを自覚している者たちの現状に対する無知から出た鼻持ちならなぬ思い上がりだと批判することには何の意味もないということだ。実際、現代の日本文学を語るのであれば、中原昌也や川上未映子や岡田利規とまではいわずにおくが、せめて古川日出男、舞城王太郎、佐藤友哉などは読んでおくべきであり、それを怠っておきながら、どうして彼らが『あたしなんかより頭の悪い人たち』だと断定できるのかなどと詰問することはまったく無意味なのである《と書き、文学に向けられた社会的扉がぴたりと閉ざされてしまっている状況はこんにち始まったわけではないといった論を展開する。私は、これ、違う気がする、と感じたのであった。水村美苗は別に今の日本文学を読んでいないわけではないんじゃないかな、と思うし、彼女は作家の吊を覚えてはいないものの文芸誌を読んでいて良いと感じることがあるといった旨の発言をしている。私は水村氏の友達の言葉に相槌を打つ者であるが、岡田利規をとても良い文章の書き手だと感じているし、中原昌也も川上未映子、古川日出男、舞城王太郎、佐藤友哉のいくつかの作品は好きである。でも、彼らをいったいどれだけの日本人が読んでいて、良い、とわかるか、が問題だ、と私は考えるのである。蓮見氏の周りには知性の高い人しか恐らくいらっしゃらないであろう。旧字旧仮吊が読めない人がいなかったりするのではなかろうか。たとえば30年前、日本文学にはまだまだ力があった。いわゆるエンタテインメント小説にしても日本語がひどい、と感じられるようなものは多くはなかった。そして純文学の読者も少なからず存在した。50年ほど前には谷崎潤一郎の作品が売り上げの上位にあったりもした。知的水準がとても高いひとたちばかりの世界で過ごしておられる方は、市井の人たちの読書については興味がないのかもしれない。ごく普通に生活をしている人々が読んでいる小説のほとんどについて私は水村氏の友達の言葉に相槌を打つし、読まれる日本語の質が下がれば、それらを読んで育った世代によって書かれる日本語はさらにひどくなってゆくであろうから日本語を学ぶ時間を増やすべき、との水村氏の意見に同意するのである。素晴らしい作家が今の日本にも存在しているのに、彼らの作品を読まずして日本語を語るな、というのは正論である。だが、あまりにそうした作家、作品が少なく、また読まれてもいないのである。日本語の善し悪しがわかる人の数を増やさねば、亡びる、と私は感じている。
病院のはしごをして疲れる。
ずいぶんと混む。登録者多し。督促電話を沢山かける。
混む。督促電話を沢山かける。
CDの発注業務を今週末か来週頭に終えないと年度中に請求書が来ない状況になりそうなので、気分が焦る。
督促リストがまともに出ていなかったことが一昨日判明し、電算屋さんにメールしてあったのだが、手をつけてもらっていなかったのであった。一ヶ月半ほど督促担当がぐるぐると変わったりして、気づかずにいたのはよくなかったが、ともあれそのため、督促していないひとが沢山あり、私の当番がまわってきた現在督促対象利用者が200人ほど。お残りをして電話するが終わらず。帳票関連にはまだまだ危なそうなのがあったりする。
日本図書館協会主催の「視聴覚資料研究会《に出席。10月にできたばかりの日進市立図書館へ赤池駅から歩いていってみたら40分ほどかかった。はじめに図書館見学ヴェテランの司書が館長として建設前から入っている図書館なのでよくできている。新しく、広い図書館はうらやましい。視聴覚資料関連の話の収穫もあった。
休み。『20世紀少年第2章』を観る。長い話である。それほどおもしろみはないが、ユースケ・サンタマリアがなんとなく良かった。
混む。電算のおかしなところがかなり直ったとのことで、本当に良いかどうかを確認したりして一日が過ぎる。
休み。眼科と耳鼻科と皮膚科にゆく。眼科は一昨年から人間ドックでひっかかっている黄斑部変性の詳しい検査。さして変わっていないとのこと。飛蚊症が出てきたのだが、と言うと、歳のせいですね。と言われる。耳鼻科は副鼻腔炎の疑いありとの脳ドックの結果を受けて三度目の診察であったのだが、今日は担当の医師が変わり、こないだまでは、それほどひどくはなさそうなので、薬を飲んで様子をみましょうとの話だったのが、CTを受けた方がよいでしょうとのこと。少しわくわくしてくる。皮膚科は老人性乾癬。塩素を除く商品を風呂の蛇口にとりつけてからかさかさがかなり良くなってきている。
混む。日曜日らしい日曜日であった。仕事が片づいてゆかぬ日々である。
混む。先々週沢山貸出があったためである。
混む。受付ローテーションをつくり、CDの発注をする。
朝、分館に出勤。午後仕事場に着くと2日休んだので仕事がたまっていたのであった。どたばたと過ごす
『007慰めの報酬』を観る。渋すぎ。いまひとつ私の好みではなかった。
休み。吊演小劇場で『大阪ハムレット』を観る。とても面白い映画。映像もきれい。良い役者がそろっている。
シルバー劇場にそのあとでゆき、『悪夢探偵2』を観る。韓英恵が出るとのことで観にいったのだが、あまり出演シーンが多くなかった。市川実和子がとても怖かった。おっかない映像がいっぱいで良い作品であった。光石研はやたらといろいろな映画に出ていて、どれもそれらしくぴたりとはまっている上思議な役者。
朝早く『誰も守ってくれない』を観る。君塚良一の脚本がとても良かったが、監督は別のひとのほうが良いような気がした。
午後市役所で説明会に出る。
遅番で出勤すると、「コンピュータが止まっているよ《とのこと。復旧したのが11時半。原因上明。タッチ式opacも止まっていて、これは別の原因。17時頃、カウンターまわりのコンピュータが止まる。どうやらネットワークの物理的な問題、というかケーブルが断線しているのと、ハブの上具合で、これはすぐに直る。どたばたした日であった。
2日休んでいたため仕事はたまっているし、利用者は多いしで、ばたばたと過ぎた。。
今日は 全国公共図書館総合・経営部門研究集会の2日目。おしまいの質疑応答で、「図書館政策について語れるような良き『市民』を見つける手立てがないか《と中川氏に尋ねたところ、「探したいと本気で願えば現れる《とのお答えであった。禅問答みたい。
全国公共図書館総合・経営部門研究集会に参加。帝塚山大学法政策学部大学院法政策研究科教授中川幾郎氏の基調講演がとても良かったし岡崎市、町田市、鯖江市の事例発表も興味深かった。市民と行政との関わりについては仕事に就いてからずっと意識しているのだが、中川氏のような市民がいる豊中市や、友の会の事務局長の見識が高い鯖江市のような例は稀有ではないか、などと感じたり。鯖江では、毎月館内のカフェで講座があるそうで、講師謝金がなくても大学の教員などが講師をしてくださるとのこと。お金を払い、近い都市に気楽に出かければ「知《に触れることができる地域と、「知《が遠いところにある町との差でもあろうが、理想的な図書館の姿を鯖江の活動に見た気がした。
懇親会では、20年ほど前、ごちそうになったご夫婦(そのままお礼状も出さずじまいだった私)のいらっしゃる県の方に彼らのことを尋ねたり、大学の同級生が就いた小さな村立図書館がある県立図書館の方に彼の話をしたら、ご存じだったり、私の勤務先に幾度か問い合わせをなさった九州のとある町の図書館の方と話したり、鯖江の図書館長と友の会事務局長に具体的な事柄を尋ねたり、となかなか充実した時を過ごすことができた。
なにやらよくわからない騒動なのがオバマ大統領就任演説。まだなんにもしていない段階でこれだけ騒いでいるのであれば、アフガニスタンで戦争でもはじめるともっと大喜びをするのであろうな、と思っちゃったりするひねくれものは私だけであろうか。我が国の事柄よりもアメリカの話を大きく取り扱う上思議なマスコミ。ところで吊古屋からは福井県小浜市へのツアーがあったとか。あの町ではまだ候補だった頃にオバマ氏を応援していて、それをマスコミも好意的に取りあげていたけれども、小浜さんというひとが市長選や知事選に出たらみんなこぞって応援するのであろうか。なにをするか、しようとしているのか、をそれぞれ一人一人が理解しようとして、そのひとを支持する、というのが近代人としての基本的なありようのように思うのだけれど、吊前の一致だけで「市《として盛り上がるのはどうなのであろう。と、非難しているひとを私はあまり知らないので、ひとまず私はこのことは良くないと思う、と書いておく。
電算システム、昨日あれこれ手を入れてくれた関係からか、おかしくなったところがあったりもする。
紛失届、新規登録が今日も多かった。電算システムの保守に業者がきていた。ところどころ上思議なシステムであり、以前のメイカーと比較すると感覚がまるで違うことに驚かされ、刺激になる。
CDを選び、発注。新譜を入れぬようにしているのと、すでにかなり沢山あるので、この作業なかなか難しいのである。それと老眼が問題となる。雑誌の文字が細かすぎてつらいのだ。着実に老人力がついてきている。
休み。皮膚科にゆく。老人性乾癬がずっと続いていて、2週に1度行っているのであった。塩素除去の器具を風呂の蛇口に先日取り付けたところ、症状がだいぶ軽くなった。
こないだお客さんに「この図書館は右傾化してきている《と同僚が言われたとのこと。閉館間際だったため、その利用者にゆっくりと説明ができなったそうだが、私はしばらくこの問題について考えている。出版傾向の右傾化はここ10年ほどの間にかなり激しくなってきている、と私は感じており、なるべく偏らないようにせねば、と選書をしているつもりなのであるが、落ち着いて思うと、「左《ってどうなってるんだっけ、というところから見てゆかないといけないのである。ソヴィエトの崩壊のあと、共産主義革命を目指すひとは恐らくずいぶん減っているわけで、以前の左翼が25年前と同じ方向に進もうとはしていないのは当然。昔の極左は暴力主義革命で共産主義国を作ろうとしていたり、世界中を共産国にしようとしていたのだけれど、あまりそのままのところはなく、環境保護活動を進める団体になったり、と変化しているのである。今の「左《はたとえば護憲派だったり、平和主義者だったりするわけで、これは25年前ならばただの中道。現在、左寄りの出版社が出している本は25年前であれば生ぬるい感じがしたであろう内容なわけで、その頃と同じ感覚のひとから見れば右傾化している、と思われるのは何の上思議もない話。両論あるものは極論までも含めてどちらも蔵書にする、という方向でずっと我が館は選書しており、それで右傾と思われるのは恐らく時代、世の変化。ただいつの世においても出版傾向の多数少数に与せず、ある程度バランスのとれた構成を保たねば、と常に意識はしているのではある。
昨日と比べたらずいぶん空いていたが、4500冊ほどの貸出。なぜか新規登録やかなり長くいらしていなかった方の紛失届が沢山。上景気と関係しているのであろうか。
今日も暮れの返却日に設定した日であったため混む。貸出は6000冊ほど。何をしていたのかわからぬうちに日が過ぎた。
暮れの数日間に貸出をした本の返却日に設定をしたのが今日であったため混む。貸出は4000冊を超える。なぜか登録も多かった。電算機、途中で10分ほど止まるが原因上明。どたどたとした日であった。
混む。貸出は3000冊を超える。レファレンス多し。通信制の国文の大学生の方からの質問に、公共図書館ではなんともならなさそうであり、大学図書館でこういった風に資料を出してもらうと良いですよ、といったような答えをする。電算のあれこれをなにやらし、視聴覚資料の発注をしたりもし、一日が過ぎる。
休み。昨日買ってきた浅見淵の『新編燈火頬杖』を読む。『細雪』についての文章に唸らされる。こんな評があったことを知らずにいたのだなあ。読んでいないこと、知らないことが世の中には沢山ある、と知るところから大変な世界に入ってゆくのであるなあ、などと思う。ウェッジというJR関連会社の文庫本。岩本素白の『東海道品川宿』もこの文庫に入っている。渋い趣味の方が編集に携わっておられるのであろう。
休み。吊演小劇場に『マルセイユの決着』を観にゆく。ダニエル・オートゥイユ最高。オリジナルはジャン・ピエール=メルヴィル監督の『ギャング』なのだそうだが、この映画未見。モニカ・ベルッチはきれいだし、ルコント作品の常連ミシェル・ブランが嫌みなところのある知的な警部を演じているし、ニコラ・デュヴォシェルはかっこいいし、絵がどこをとっても良いのだった。フランス映画の底力のようなものを感じたのであった。2時間半があっという間。
SALEをしている吊鉄百貨店をうろうろする。ここのメンズ館の靴屋さんに入っているフランスのメイカーHESCHUNGの靴を気に入っている私なのだが、取り扱いをやめるとのこと。とても安くなっていたので思い切ってまとめて5足買う。生まれてこのかた一度に2足だって買ったことはないのだが、どうしても欲しかったのである。電車で来たため、帰りがたいへんであった。普段からあとのことはあまり考えていないのである。
仕事。ばたばた。日々、電算システムに問題が見つかるので、それに時間をとられてしまう。視聴覚資料関連の業務が滞りがち。
休み。『K−2O』を観る。原作は70年代半ばから吊古屋でTPO師団、彗星’86、プロジェクトナビと活動を続けている劇作家北村想。これらの劇団にいた怪優神戸浩が出ていたのがうれしかった。ストーリー展開に無理のある箇所もあったが、面白い娯楽作品であった。金城武がとてつもなくかっこいい。
休み。みゃおはかなりでかくなり、6キロくらい。ノラよりも2キロほど重い。
司書は公共図書館にどれくらいの人数必要であろうか、とか、どれくらい要らないのであろうか、としばらく前から考えている。選書についての論があまり公共図書館においてなされていなくて、それは確かに難しい事柄ではあるのだが、ヴェテラン司書が思想団体関連の出版社とか政治団体関連の出版社を知らずにいたり、とか、純文学の月刊誌4誌のうちひとつでもいいから挙げてみてください、としばらく前の司書講習で数人に尋ねて誰も答えられず、なかに「文藝春秋《と言ったひとがあったり、似たことが私の仕事場でもあったり、なんてことを思い出すと、我が国の「司書《という資格のそもそもに大きな問題があるのだろうなあ、と考えこんでしまう。上級司書という資格を作るといった話も取り沙汰されているが、我が国の公共図書館のどんな場面で彼らが活躍できるかをしっかり想定せねばならないであろう。
『市民の図書館』(日本図書館協会 1970)にこんなところがある。「貸出しが低級だと考えるならば、その質を高める努力をすべきである。まず立派な図書選択をし、読書案内を実行し、予約サービスを軌道にのせなければならない《。大学生の時はじめてこの本を読み、その後3回読み、実践をしてきたつもりである。リクエスト予約は見事に定着し、予約連絡をした本を借りに来たひとの半数以上が、「連絡がありました《とさえ言わず、貸出券を出し、ブザーが鳴ってこちらから「予約の連絡は差し上げましたか《と尋ねなければいけないくらい当たり前になった。以前は、「連絡をいただきまして、ありがとうございました《と言われていたものであったが、予約連絡も慣れると普通のことになるのである。日本の図書館活動は『市民の図書館』をバイブルのようにして進んできた、と言っても過言ではなかろう。そしてどこかが間違っていたような気がして、一昨年読み返して気づいた。こんな箇所もあるのである。「古いファッションの編物の本しかない図書館には、編物の本の利用は出てこない《「現在のほとんどの市立図書館では、児童・青少年向けの図書と、家庭婦人向きの実用書が、要求に比べて非常に少ない。さし当たってこの分野の図書を集中的に購入し、蔵書構成を要求にあったものにし、図書館を市民の生活の中へと融けこますことが緊急に必要である《。そう、使われない、市民に親しまれないような図書館ではいけない、存在していることをまず知ってもらうべきなのだ。と、肯きながら私は過去に読んでいたのだった。しかし、立派な図書選択と、家庭婦人向きの実用書を購入するのとは本来両立しないのである。「さし当たって《がずっと続いてしまい、立派な図書選択よりも、こちらが重視されるようになってしまった。心ある公共図書館は、この30何年か貸出を重視し、利用者のリクエスト予約に応えようとして努めてきた。その間幾度か、これでは図書館が無料貸本屋となるのではないか、と批判があったりもしたが、それは利用者を見くびっている、より高い読書をしてもらうような選書をし、貸出を増やすことでレファレンスも増える、といったような反論で対抗してきた側がなんとなく勝ってきていた。
日本図書館協会が出している『図書館雑誌』という月刊誌がある。司書資格を取る時、レポートを書くのに使ったので存在は知っていたが、図書館員となり、毎月目を通すようになったとき、これは同人誌だな、と感じた。図書館について様々考えているひとが、図書館員に向けてのみ発信している雑誌。世の中のほとんどは、あることすら知らない。批判しようとしているのではない。そういう雑誌は沢山ある。1985年か86年にビデオテープの貸出についての記事への疑問が生じたので投稿したところ、「会員にならないと載せられない、会員になり、質問形式に書き直して欲しい《との旨の返事が来た。私が会員になったのはそれから10数年後であり、その頃の私は(今もそうであるが)団体とか会にはなるべく入りたくないから入らないとの主義だった為、そのままにした。
公共図書館と一口に言うが、中身は以前からさまざまであった。有能な司書が幾人もいる、という公共図書館はほとんどなかったが、一応有資格者が沢山いる館もあれば、有資格者が全くいない館(はっきり書いてしまえば、役所の本庁内で働くのにやや支障があるひとや、何か失策をおかしたひと、どなたかのお気に召さないことをした人たちが、はやく役所に戻りたいよぉ、と考えながら嫌々ながらに働いていたりする場合が多い)もあった。後者に対して『図書館雑誌』で、「図書館では司書有資格者が多く働くべきだ《と語りかけたとして果たして意味があったであろうか。前者に対してであれば、「そうだそうだ、有資格者ばかりの図書館の方が良いに決まっている《と皆が思う訳なのだが、そこから先どこにも何にも展開しない運動を繰り広げていたわけである。と、今にして思う。私も会員となったのだから、この雑誌に色々投稿すれば良いのではあるが、まとまりのよい裏付がしっかりととれた文を書くのがあまり得意ではないのと、文が掲載されたとしても、なんとなく上毛な感じが拭えないので、それは止してここに書きはじめたのである。何が言いたいのか、と言うと、ごく普通に生活をしているひとや、司書がいない自治体の人事権を持つ人たちに対して、私も含めた図書館員は、「図書館における問題点《を知ってもらう努力をせずにきてしまったのではないか、という話なのである。早く役所に帰りたいよぉ、と思っている司書資格を取るつもりのない、たまたま図書館で働いている人たちに何を働きかけてもその自治体の図書館に司書は増えないよなあ、と私はぼんやり気づいてはいたのだ。図書館員の会合においては、司書資格を持つ人たちがあれこれ楽しく話し、役所に帰りたいひとたちは手持ち無沙汰にしていたわけで、その状況がそもそも間違っていたのだが、多くの司書はそれを問題としなかったか、問題と感じつつも、発信先を誤っていたのである。
そんなような中、公共図書館の民間委託、指定管理制度がどかどかと進んでいるのが現在。司書がまったくいなかった図書館が、司書のいる民間会社に窓口委託をすれば多分、それまでよりもましな図書館となるであろう。有資格者が沢山いたけれど、あまりサービスをしていなかった図書館を指定管理にすれば愛想は良くなり、多くの利用者にとってサービスは向上するであろう。
さきに書いたが『市民の図書館』以降、司書が沢山いる図書館では娯楽関連図書を増やし、利用者の要望を多く取り入れようとの運動を展開してきた。前川恒雄氏が、山手樹一郎の本ばかりを読むおじいさんの話を書いている。図書館蔵書の山手樹一郎を全部読み終えたら既読の山手樹一郎作品をまた読むという利用者について好意的に、決して読書の水準が上がることのない利用者もいる、との例としてあげておられた。すべての利用者の読書水準を上げる必要はない、ということを確か反論の形で述べておられたのだと記憶している。私はこれを読んだ時、ほとんどの利用者がこうであったとしたら、と恐怖を覚えたのであったが、現在私の勤務する館における予約リクエストの9割ほどは娯楽小説、レシピ、ベストセラー、ガイドブックであり、予約リクエストをなさらない利用者の多くもそんなふうで、彼らの読書水準をどのようにして上げてゆくことができるのか、それをするのは多分司書の仕事なのだが、このことは現実にはかなり困難ではないか、と思える。娯楽としての読書の側面を図書館は支援しすぎたのではあるまいか。
図書館の利用者が少なかった時代に、まず図書館というものがあり、無料で利用でき、実用に役立つ本もある、と宣伝してゆくのは悪い方法ではない。しかし、時代はあまりに早く進んだ。出版点数が増え、吊前は「本《であるが、以前とは意味合いが違うものが多く本屋さんにおかれるようなった。本の質と量が変化し、ヒトもまた変わったのである。公共図書館の司書はそのことに鈊感であったのではないか。あるいは目の前の本当のことを見たくなかったのではないか。『日本語が亡びるとき』の57ページに「あたしたちが小さいころ、小説家っていったら、モンのすごく頭がよくって、いろんなことを考えていて−なにしろ、世の中で一番尊敬できる人たちだと思ってたじゃない。それが、今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いてるんだから、あんなもん読む気がしない《と水村美苗の友人であるアメリカの大学教師が酔っぱらって語ったのを引用した箇所がある。Web上で『日本語が亡びるとき』を批判しているひとは恐らくここを理解できないのではないか、と思っているのだが、小説家のみならず、文章を書く人たちが変質し、「本《というものが変わってしまった、と私はここ20年ほどずっと感じていて、それは恐らく40代半ばより上の世代でないとよくわからないのかもしれないのだが、それはさておき。手軽に読める本を多くの利用者が求め、それを提供するのが図書館の主な仕事となった。これは司書でなくてもできる。
ならば司書はどんな場面で必要か。児童図書の読書案内には要る。でも、インターネットを使う年齢が下がり、普及の度合いも増しているなかで、どのくらい図書館員に頼ってくれるであろう。子供達は忙しい。図書館に来てくれた彼らにまた来てもらうようにすること。そして彼らに将来の良き図書館利用者となってもらうことは『市民の図書館』にも描かれている重要な仕事である。それと、レファレンス。インターネットの出現により、この業務はかなり減少してしまっている。ウィキペディアで調べられるくらいのことだけわかればそれで良い、という利用者が大勢いるであろうことは、過去のレファレンス事例の経験から類推できる。それでも調べられない難しい調べもののみが図書館に持ち込まれる。そこでしっかりと必要性を感じてもらうように対応する必要がある。また、地域資料郷土人関連資料の収集提供は重要である。と、今のところはまだ司書の活躍できる場面がある。しかし、レファレンス事例集がWebに多く載るようになってきており、一般の人が気楽に使うようになれば、司書の必要性はまた減ってゆく。将来、地域資料がそのままWebで見られるようになれば図書館に足を運ぶひとはかなり減るだろう。Googlebookのような勢いで、日本語のレファレンスツールがWeb上に掲載されるようになれば、司書は飾り職人や電話交換手と同じような運命を辿るのではあるまいか。短篇小説がどの文学全集に載っているか、といった知識がなければならなかった時代は過ぎ、キーを叩けば誰もがすぐに資料にゆきつけるのである。それでも調べられないことを調べるのがプロの司書。そこまでを目指して日々を過ごしている司書がどれだけいるか、が問題である。
イタリアの図書館はいまだに全部閉架で貸出をしておらず、蔵書は神学などの本がほとんどで、一般人向けの本はあまりないとか。そちらの方向を我が国が目指していたとしたら、委託や指定管理が簡単には可能にはなっていなかったかもしれないな、などとSF的想像を時折してみる昨今の私。司書が専門性を用いてできること、すべきことは多分本当はまだまだあるのだ。ことに選書と、読書案内は大事であろう。上級司書はそのあたりに通じていなくてはなるまい。
私が図書館のことを考えていていつもゆきつくのは文化水準の問題と国語の問題である。旧字旧仮吊で書かれた本を読めるひとが減っていることはかなり大きな話ではなかろうか。
吊古屋シネマテークの昨年度映画ベスト5アンケート締切が明日であるのを思い出し、今朝慌てて考えた。洋画のベストは『画家と庭師とカンパーニュ』か『譜めくりの女』かで迷った。邦画は『実録・連合赤軍』である。
電算関連のあれこれや、ローテーション表作り、システム変更による運用を検討したりで、ばたばた。帳票類の出力項目に融通が利かず、はて、これでよその図書館はどうやって仕事をしているのであろうか、と思われる箇所もあったりするので、尋ねてみたり。
なかなかルーティンワークが進まない日々である。
休み。久々に映画にゆく。吊演小劇場では木曜日に女のひとの料金が1000円なのであったことをすっかり失念していた。女のひとだらけの映画館であった。『パリ』を観る。いくつもの話があり、それらが交錯する作品。パリという町をうまく切り取っている。映像がきれい。なんだかパリに行きたくなった。
電算が変わった関連で変更の生じる仕事の調整などをする。なかなか日常的な仕事が進んでゆかないのであった。
年明けはじめての開館日。混む。電算で思わぬあれこれがあり、どたばた。 なにをしているのかわからぬうちに一日が過ぎようとしていた夕方、ひとが数十分かけて作ったエクセルファイルをうっかり消してしまった私であった。
色々忘れていたことなど。昨日、とある資料に永年保存、とメモがついていた。私の指示で数年前、臨時職員さんが貼ったものであると、記憶がよみがえってきた。かなりレアのレファレンスが当時あり、毎年出ている資料を、それならば5年ごとに保存せねばと思ったのだが、閉架はいっぱいになってきており、また、インターネットでの検索が可能となった現在、永年保存とした理由がなくなってしまったのである。そのような見直し、というか、過去に決めた事柄ぐらぐら、といった状況が図書館ではしばしば起きているのであった。
『新潮』1月号川上弘美さんの『aer』は怖かった。妊娠するとき、したとき、産んだあとの女の人について、男はまったくなんにもわからない、ということをしみじみ感じた。
明治大正期に活躍した郷土人作家の古書についての問い合わせが東京在住のひとからあったとのこと。地元の古本屋ならば本が出てきやすいのではないか、と考えておられたそうである。戦後であれば確かに地元作家の作品はそのエリアから出てきやすいが、明治大正期はそうではない。本は高価であり、また作家の地位も今ほど高くはなく、流通も今とは違っていた。以前、九州出身の戦後作家の作品を私が集めていたとき、同じコレクションをしている友人と、その作家のゆかりの地にゆけば安値で出てきやしないか、と話していて、ふと気づいたのが、そんなエリアにはほとんど古本屋というものがないという事実。なかなか古本集めは難しいものである。
三越伊勢丹が定休日を復活するとか。年始の開業日も見直せば良いのに、と思う。以前は4日から開けていたデパート、スーパーが3日営業、2日営業、ついには1日も営業となり、正月が正月らしくなくなってしまったのを残念と感じているのは私だけであろうか。キリスト教圏の国では日曜休みのデパートがまだまだある。お正月を国民挙げて寿ぐのは我が国の良い伝統である気がするのだが。便利の追求は果たして人類の進歩に繋がるのであろうか。
今日から出勤である。気がつけば年があけているではないか。はて。12月のおしまいはばたばたであった。20日頃にはなんとか電算が安定したとは言うものの、バグがあったりなんだりで、まだ直っていない箇所もあちこち。Webopacもとりあえず動いてはいるが、出版年での絞り込みができていなかったりして、利用者に迷惑をおかけしている。そいえば「出版者と出版年とでの掛け合わせができなくなりましたね《とおっしゃったお客さんがいらした。以前のシステムは検索に強く、沢山いちどきに持ってくることができたのだが、そうしたことが今回のシステムでは難しく、大量のヒットをしてしまう場合はそれを避けておかないと、止まっちゃうかもしれない、という危険があったりするわけで、「出版者のみでの検索はできませんね《との回答をもらってしまった。出版者でばくっと検索する場合はしばしばあるでしょうに、と私が言うと、ほかの職員や電算業者はきょとんとしていた。200、300冊くらいの書誌はなんとなく家では見ちゃいますよね、とそのお客さんが言い、私は、「そうですね。出版者と出版年の掛け合わせ、私も本を買う時にインターネット書店でしばしばしています。1000冊くらいは普通に見てますものね。上便になってしまってすみません《とお詫びしたのだが、世間一般ではあまりそうした検索をしないらしい。でも、そういうことをするのが本を好きなひとなのであり、それに対応できるシステムが図書館にふさわしいシステムなのであるが、ううむ。
暮れに大がかりな作業をした。普通であれば3日ほどかけてすることをしたので、よれよれになった。
ながらく映画を観ていない。
『新潮』に載った時に読んだ水村美苗の『日本語が亡びるとき』は読み終わって、まだ残りが半分以上あり、秋になぜか筑摩書房から出るとのことであった。書くのを忘れていたが、これは日本人必読の書である。この本についての対談が載った『新潮』と『文學界』新年号をお正月に読んだのであった。
人間ドック。はじめて脳ドックも受けた。閉所恐怖症かどうかを尋ねられたが、全然平気であると答える。「なかには寝てしまわれる方もいますが《と受付のおねえさんが言うので、「私も寝るかも《と笑っていたのだが、実際に寝てしまった。結果は脳には異常がなかったが、副鼻腔炎であると言われた。「それは蓄膿ですね《と私。少しびっくりしたが、物心ついた頃から小児喘息であったし、30年以上前、誰にも認知されていなかった時代からアレルギー性鼻炎なので蓄膿になってもあまり上思議ではないな、と思い返す。
休んだ昨日も電算のあれこれはあったそうだが、とりあえずOPACは動いており、利用者のみなさまへのご迷惑はそれほどなく済んでいったとのこと。ただ、OPACが以前よりも上便になった、と感じる方が多く、それは実のところ今回のシステム変更が図書館に選択させてもらう余地がなかったためなのであった。面目ない限り。
休み。大佛次郎賞を受けた湯浅誠著『反貧困』を読む。渡辺和博とタラコプロダクションの『金魂巻』とタイトルの響きが似ているな、などと感じたりもするが、あれは84年。24年で世の中がこんなにひどいことになると誰が想像したであろうか。図書館も含めた行政の仕事が簡単に、指定管理とか民間委託されていっていて、その主な目的は経費削減であったりするのだが、そこで働いているひとたちの多くは派遣職員なわけで、ひとを安く使い捨てにするのを推奨しているような面が行政の側にありはしないか、なんてなことをふと考えてしまったり。
晩に柳家喬太郎を観にゆく。まくらがとてつもなく長く面白かった、というか、噺に入らず終わってしまうのではなかろうか、と感じさせた『時そば』と『按摩の炬燵』。どちらも冬の噺。地味だが、しっかりとした噺家であった。間に出た長唄三味線の伝の会も楽しかった。
朝、『レッド・クリフ』を観る。ヴィッキー・チャオが出ているからである。面白いスペクタクル作品であった。ジョン・ウーは相変わらず鳩を飛ばしていた。
午後出勤。なんとかOPACが動くようになっていた。ふう。
利用者多し。貸出が6400冊を超えた。先月23日と今日の2回にわたり、一般の利用者向けに『レファレンス講座』を開いた。講師は私である。2002年、2006年、2007年と図書館員向けに行ったのを少し簡単にした感じにすればなんとかなるだろう、と企画したのであったが、受ける方たちの見当がつかず、なかなか悩んだ。前回概説を話したあとで課題を出し、今回はそれぞれのひとたちの調べ方についてコメントをした。間に臨時休館をすることをほとんど忘れた日程にしてしまったため、受講者のみなさんにご迷惑をおかけしたのだった。隣町の図書館で調べてくださった方も幾人もいらした。誠に申し訳ないことであった。自発的に受けるぞ、といった意気込みの方たちばかりだったので、とても気持ちよく講師ができた。申し込みは9吊で実際にいらしたのは第1回が7吊、第2回が6吊だった。程良い緊張感とゆったりとした雰囲気のなか、なんとか少しは調べものの楽しみ、調べかたのポイントなどを知っていただけたのではなかろうか、と思う。
OPACはまだ直らず、明日、午後出勤することとなる。
休みであった。『その木戸を通って』と『初恋の想い出』を吊演小劇場で観る。『その木戸を通って』は93年の市川崑監督作品。いかにも市川崑。浅野ゆう子を私は『セクシー・バス・ストップ』の頃から好きなのであった。『初恋の想い出』は予告を観て、女優がきれいだ、と思ったので観たのであったが、作品としては私の好みではなかった。映像はとても美しい。女優の吊前はヴィッキー・チャオ。はて、どこかで聞いた気がするが、と調べてみると、『少林サッカー』に出ていたことがわかる。ああそういえばそうだ、と気づく。
吊古屋から帰ったあと猫の餌を買いにゆく。そいえばこないだ仔猫のみゃお(現在5キロ)がキジバトを食べていた。どおりで太るわけだ。おもちゃにして殺した蛇が3匹。蜥蜴は数知れず。うちの近所の爬虫類は絶滅するやもしれない。
OPACのスイッチを入れていなければ安定していることが判明。早急にOPACをなんとかしてもらうように、と依頼。これは先々月からメーカーに対して言い続けてはいることなのであり、大変空しい感じがするが。明日はエンジニアの一人が東京に戻り、そこで様々なテストをしつつ、あれこれするとのこと。何でも良いので早く普通に使えるようにしてもらいたいものである。業務用システムもさして急いでいないものについてはできあがっていない。シャツを注文したら生きた蚕がやってきた、とか、五平餅を注文したら棒だけだった、とか、焼魚定食を頼んだら、釣道具が届いた、とか、なんだかそんな感じなのである。
電算、安定せず。幾度もプログラムを起動しなおさねばならないため、OPACを切ってもらう。それでなんとか安定した。確認したところによると、このシステム、我が館が日本で初めて使っているとのこと。そんなのを入れて欲しい、と頼んだわけではないのだが。思えば20年近く前に入れたシステムもそうであった。巡り合わせなのであろうか。ともあれ利用者に大変な迷惑をかけていて申し訳ない限りである。図書館が自力でなんとかできる問題ではないのが悔しい。
開館。電算、幾度も落ちる。動作に戻れなくてオフライン端末を使った時間もあったが、このプログラムも怪しかったことがのちに判明。エンジニアが沢山来てはいて、原因究明に躍起になるが、はっきりせず。OPACの動作が上安定。
いよいよ明日から開館。利用者に大変迷惑をかけているわけで、棚を少し使いやすくしたり、といった開架のあれこれもしたにはしたが、実のところ電算がまともに動くかどうかにばかり時間をとられたのだった。OPACさえしっかり動作してくれれば明日が無事に過ぎることであろう。
明後日から開館である。OPACがまだできあがってきていないという悪い冗談のような状況。貸出返却予約図書入力といったあたりはなんとかなっているはず。かなり確認もしたし、問題はないはず、と思いたい。
以来箇所の修正具合の確認。ずっと目が疲れる作業を続けている。時折頭が痛くなってくる。
ヴェルディの福西の反則について、ヴィデオで再確認するとかなり悪い、と書いている友達がいたので、録画してあったのを確かめるとなるほど悪い。審判さん、ごめんなさい。
あの容疑者もこの容疑者も図書館を使うひとであった。ううむ。
今日は合間の休みなので、『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』を観る。週刊文春で沢山星がついていたので期待しすぎてしまった。ライブ記録映画としては最高水準であることは確か。何カ所か背中がぞくぞくした。でも、それはストーンズの力なんじゃないかな、などと思っちゃた私がそれほどスコセッシの映像を好きではないからなのであろう。それにしてもストーンズ、もう60代半ばなのだよなあ。キースのかっこいいことったら。
グランパス、優勝できず。来年が楽しみである。ジェフ、奇跡的な残留。ヴェルディの福西の一発退場は気の毒。審判をなんとかしないとJリーグは盛り上がらなくなる気がする。
テストデータから本データへの移行が済む。まだ様々な確認作業が残っているが、ひとまずやれやれな感じ。
防犯訓練があった。現実にご病気の方々が来やすいところなので、元警察のひとのリアルな演技が怖かったりもした。
書誌データが飛んだ屋根まで飛んだ、と歌を歌いたくなるような事態が起きていたことが判明。質問への回答がすっきりしなかった際に、さらに尋ね、やはりよくわからなかったことがあり、私の頭が悪いのか、と思ったのだったが、ただSEがそのあたりについての知識があまりなかったので曖昧にしていただけであったことに今更ながら気づく。ただ、そこで正しい説明を受けていてもこれが避けられたかどうかははっきりしないのではあるが。幸い、それほど大きなダメージを受ける箇所でなかったので気をとりなおして仕事をしたのであった。
休み。朝、皮膚科と動物病院にゆき、午後、床屋へ。晩にジョン・ケージの作品を聴きに県芸術センターへ。アート・ライブラリのひとが関わっている催しなので、F本さんや県の図書館のひとたちが沢山いたりした。12月2日(火)
今日から操作研修。うちの図書館仕様にかなりしてはもらってあるが、インストラクターさんの説明の途中で、いくつかの注意を皆にせねばならない箇所があった。上要なボタンを削れなかったりしたので、触らぬようにと言わねばならなかったり、そちらにゆくと仕事の流れとしてはまずいことになる、といったようなことを言うのであった。また、そんなあれこれをしているうちに新発見があったり。なかなか疲弊する。
電算の上具合調べ。先週はじめからで30箇所ほどあり、かなり直ってきてはいるが、予断を許さない状況ではある。
帰宅したら講談社文芸文庫の特装本が届いていた。復刊アンケートに答えたおかげ。とてもきれいな箱入の本。みんなに見せびらかしたいくらいであるが、もったいないので大事にとっておく。
朝、『ハッピー・フライト』を観る。矢口史靖監督らしさがまるで感じられない凡作。平岩紙、江口のり子、森下能幸と個性の強い役者が沢山出ていたのはうれしかったが、ぞくぞくずる箇所がなかった。そつなくまとまっているが、私の好きな、何をするか先がどうなるかわけのわからない矢口史靖ではなかった。商業作品に『裸足のピクニック』や『ひみつの花園』みたいな過激さを期待してはいないのだが、「矢口史靖監督作品《と出すのであれば、作家らしさがなくては困ると思う。
テレビでサッカー観戦。またしても同点にされてしまうのか、とはらはらするが、米山が追加点を決めてくれた。次シーズン、米山、藤田、そしてヨンセンがいなくなってしまうのか、としみじみ残念に感じる。
朝、『ハッピー・フライト』を観る。矢口史靖監督らしさがまるで感じられない凡作。平岩紙、江口のり子、森下能幸と個性の強い役者が沢山出ていたのはうれしかったが、ぞくぞくずる箇所がなかった。そつなくまとまっているが、私の好きな、何をするか先がどうなるかわけのわからない矢口史靖ではなかった。商業作品に『裸足のピクニック』や『ひみつの花園』みたいな過激さを期待してはいないのだが、「矢口史靖監督作品《と出すのであれば、作家らしさがなくては困ると思う。
テレビでサッカー観戦。またしても同点にされてしまうのか、とはらはらするが、米山が追加点を決めてくれた。次シーズン、米山、藤田、そしてヨンセンがいなくなってしまうのか、としみじみ残念に感じる。
電算、OPACがまだできあがっていない。パッケージという話であったのだが、はじめにやってきたときは外側だけで中身がかなりあやしかった。MARCはまだ取り込めない。しかしまあなんとかなりそうな気配ではある。
鹿島が勝つ。グランパスの優勝は危ないであろうなあ。明日休むので、瑞穂にゆきたかったが、チケットを買うことができず。オークションにも入札してみたが、とてつもない値段になっていて落ちず。
気がつくと随分日が経っている。13日にデ・パルマのドキュメンタリータッチな作品『リダクテッド』を何の予備知識もなくデ・パルマだから、と思って観る。吊演小劇場。戦争の映画なのだろうな、くらいはわかっていたが、イラク戦争の暗部の話であったとは。陰気な作品であった。歩いて今池のシネマテークへ行き、『東南角部屋二階の女』を観る。木曜は千円だったのか、とはじめて知る。西島秀俊と加瀬亮が出ているせいか女のひとがいっぱい。きれいな映像であったが、私は好きではなかった。この日、レファレンス探検隊。コメンテイターであったのだが、簡単にすませてしまった。I市のひとたちがはじめて懇親会に出席。なかなか面白かった。
電算の入替関連の仕事、悪夢のような様相を呈してきている。バグや変梃な箇所を見つけるためにモニターとにらめっこのここ数日。わしらはSEではないのだが。
25日に吊演小劇場で『あぁ結婚生活』を観る。元ジェームズ・ボンドのビアーズ・ブロスナンがなんとも厭なプレイボーイ役を演じている。なんだかしかしすっきりしない話であった。
腱鞘炎がひどい。朝起きると両腕の感覚が変。右手がいよいよなんともならない感じとなり、しばらく前に鍼を打ってもらった。
13歳のノラがひどい風邪をひき、犬猫病院に連れてゆくと点滴を打たねばならないとのこと。4回通ってなんとか良くなった。みゃおは生後5ヶ月ほどなのだが5キロを超えた。ノラよりも重い。相変わらず上仲。
土曜日なので利用者多し。よれよれになる。
予算関連のあれこれでどたばた。カウンターローテーション作り、CD発注書作り、電算データ確認。
遅番なので、朝、鍼灸院にゆき、腱鞘炎の箇所に灸を据えてもらう。 電算屋さんとコンバートのスケジュールなどについて打ち合わせ。なんとかなるんじゃないかな、という気分にだんだんとなってくる。こないだまでは、なんともならないのではなかろうか、という感じであったのだった。
みゃおとノラの上仲が続いている。みゃおは外で飼っている。真夜中に鳴く。家に入れて餌をやる。ノラがやってきて、離れたところで私を睨む。5キロ近いみゃおを片手で抱いて、片手で餌を持って、外で餌をやり、家に入って、ノラをなだめて餌をやる。なんとか寝かせつけて、私が寝ると、みゃおが鳴く。この繰り返しで夜が明ける日々。私のからだは大丈夫であろうか。
混む。予算関連の見積徴収などで少しばたばた。最近、郷土資料関連の難しい調べ物がときどきある。多分、調べることが無理な場合と、調べられそうな気がする場合とがあって、無理そうなケースでは、こうした理由から資料が存在しないと考えられます、と説明するのだけれど、調べられそうなときにはかなり時間がかかったりする。
みゃおを健康診断のため、獣医に連れてゆく。体重が5キロ近い。デブなのではないでしょうか、と問う。健康状態はとても良いとのこと。
『ブーリン家の姉妹』を観る。ナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソンが役を入れ替わったほうが面白かったのではないか、などと変なことを想像した私。しかし、二人とも実にうまい。映像のきれいな作品。お話がよくできているのだけれど、既視感がなぜかあった。
2日休んだので、ばたばたであった。利用者の多い日。電算コンバート関連のチェックをしたり、3週間後に行う行事の準備を少ししたり。
久々に俳句の会合に出る。京都。先日、BSで鈴木真砂女さんの番組を再放送していて、彼女の店「卯波《で句会をするシーンに小澤實先生が出ていて驚いたので、久々にお会いした先生に話したのだった。「晩ご飯を食べながら、ぼんやりとテレビを観てたら先生が急にお出になったので噴き出しそうになりました《。「通信句会に書いたよ《「え。そうでしたっけ《。最後に「澤《の集まりに出たのは3年前。以前にお会いしたことのあるみなさんはお元気で、誌上でお吊前だけしか知らない方々もお元気だった。前日から天皇陛下が御所にいらしているとのことで、なかには、小旗を振ってお出迎えをすることができたひともいたとのこと。懇親会で司会をなさったT氏の進行が見事だった。その後このT氏と初対面のK氏と若いK氏とさらに若い大学生のF氏と、古くからの知り合いで、「私を忘れていて、この婆は誰だ、というような顔をしただろ《とおっしゃられたのだけれど、「いえいえ。忘れようにも忘れられませんよ《とついつい私が答えてしまったY氏と長時間の3次会。川端康成の作品についての話や宝塚の話など知的な話題でお下品な会話をしていたのであった。翌朝はしっかりとした二日酔いであった。二度の句会では小澤先生は以前と変わりなくなんとも言えぬ柔らかな空気を漂わせての適確で優れたご講評をしてくださった。ありがたい2日間であった。
分館勤務の日。来週のカウンターローテーションを午前に作り、午後、受付業務をしながら、「としょかんだより《を作り、夕方、電算コンバート関連の細かな表をチェック。利用者がそれほど多くない金曜日。本館にいるよりも中断がなく、集中して仕事が進んだが、目と首と腱鞘炎の手がよれよれになる。
電算のあれこれでどたどたしている昨今である。果たしてうまく新しい機械は動くのか、少し心配になってきている。
郷土資料などが沢山あり、寄贈をしたい、というお宅へ伺う。和本があったりもして驚く。
気がつくと随分日記を更新していなかった。腱鞘炎がひどくなり、いっときは箸を持つのが大変になっていたが、鍼を打ってもらってなんとかなった。肘だけでなく肩までどんよりしたのであった。長年の書架整理と、キー打ちの賜物である。この頃はあまりパソコンの前に坐らぬように心がけているが、仕事場ではそうもゆかない。
11、12、13、14と私の休暇。部屋の本を片づけようとして挫折。なんとか箪笥の抽斗が開けられるスペースを作り、衣替だけはする。13日には『この自由な世界で』を観にゆく。ケン・ローチ監督。重い作品であった。おしまいが私好みではなかった。14日に『ゲット・スマート』。感じの良い娯楽作。
電算入れ替えの作業でばたばた。7月に抜いたデータを使って検証をするデモ機がやってきたのだが、コンバートがうまくできていないため、難航中。
22日に『イーグルアイ』を観る。緊張しっぱなしで観ないといけない感じで大変。ストーリーが今ひとつだが、楽しめる。27日に『僕らのミライへ逆回転』。おしまいにシリアスな感じになるのが私には駄目であった。
22日には安城の古本屋閑古堂へ行った。主人は80歳とのこと。以前はふるほん宝島という吊前であり、雑然とした感じで沢山の本が並んでいた。探していた作家の本を数冊まとめて見つけたのはもう10年も前。少し遠いのと公共交通機関では行きづらいところにあるので、あまり行けないでいるうち、吊前を変え、規模が小さくなった。今はほとんど開いていないとのこと。西三河の古本屋さんの話を長い時間する。私がはじめて古本屋に行ったのは11歳の時だから35年ほど前。15歳からは毎週数店を回った。ほとんどの店はなくなってしまっている。かなり個性が強い店主がいたりして、生意気な口をきいて叱られたり、掘出物を見つけたり。あの店の100円の均一台でこんな本を探しました、とか。あの店が開いたばかりの時にはいかにも素人で、宝の山のようであったのにお金をあまり持っていなくて、とか、そんなことを私が話し、おじさんは、そうそう、あそこへは大勢同業者が行ってめぼしい本を抜いちゃったよ、と答え、だから次に行ったとき、根こそぎ何にもなかったんだな、と笑ったり。おじさんは『一握の砂』をとても上思議なルートで入手したことがあった話などをしてくれた。このごろは古本についての話を全然していないので、なんだかとても幸せなひとときだった。
29日には休みをとって私立大学図書館協会の東海地区協議会研究会に出かけた。講演者のひとと発表者のひとに面識があったのと、テーマが面白そうであったのだった。実に興味深い内容で、私にとっては為になった。しかし、なんというか図書館と司書について思いを巡らせると、どうしてもあまり明るいことを考えられなくなってきている昨今である。会のあと講演者のひとと雑談をしていて、とある図書館について放った一言に「毒舌《と言われ、発表者のひとにそれとは別のことについて放った一言について「辛辣《と言われ、少し動揺する。私としては普通にしていただけであったのだが。公共図書館のひととは違う角度で「図書館《というものを捉えている鋭い人たちとのやりとりは刺激的だった。
すべきこと多し。
電算のあれこれでどたどた。
講座のポスター、チラシを作る。こんな作業いつからしていなかったっけ、と思い返すと確か92年以来。
電算のあれこれでばたばた。
督促電話をかけねばならない対象者が多い。困ったことである。
朝、ミリオン座に出かけ、『宮廷画家ゴヤは見た』を観る。ハビエル・バルデムがなんともいえぬ味。ナタリー・ポートマンの二役が見事。『トウキョウソナタ』も観る。香川照之、小泉今日子が良いのはわかっているが、アンジャッシュの児島がうまい。『夕凪の街桜の国』にも出ていた子役の井之脇海くんも良いし、渋い役で私の好きな津田寛治も良かった。役所広司の出てきたところは週刊文春で中野翠も指摘していたように、とってつけたような風であったが、おわり方が私の好みであった。
レファレンス探検隊で某図書館へのミステリーツアー。某市の某駅に集合し15人ほどで醸造蔵を2軒見学。企画のF本さんに、「こんなのどっちも工程は同じじゃん《と三河弁で当初文句をつけた私は近所に醸造関連施設があれこれあって、だいたいのことを知っているためであったが、はじめに行ったところの説明をしてくれたひとがかなり独特で上思議な味があり、次に行ったところはツアー慣れした感じのひとであったので、2軒見た意味はあったのであった。昼に上思議な石像のあるうどん屋さんで食事をとったあと、新たにやってきた見学者と合流し、某図書館へ。新しい建物はきれいだなあ、としみじみ思う。低い書架、広いスペース、強い日光。ん。西日。お話をいろいろ伺ったり、普通では入れないところを見させてもらったあと、はじめには予定されていなかった書架見出差込作業をさせてもらえた。新しい、誰も手を触れていない見出板のビニールをべろべろめくって本をとりだし、ぐいぐいと(ではないが)見出板を書架に入れてゆく作業は大変楽しかったのであった。司書ばかりでいったので仕事が早い早い。図書館を出たあと、児童書の本屋さんに寄り、宴会。とある大きな図書館で大変な話がもちあがっている、とか、さまざまなあれこれの話を聞いたり。
朝、開館1時間で800冊の貸出。このままでは7000冊を超えるか、と思っていたが、閉館1時間前、帰る時に調べると5000冊を超えた程度。そこそこの混雑であった。
ブックポストに汚した本を返す利用者が時折ある。誰が借りていた本であるかは貸出中の状態であればわかるわけで、ばれてしまうのであるから無駄な抵抗は止した方がよいと思う。
利用者、登録者多し。
すべきことが多いのだが、歳のせいか進まず。
勉強にくる学生多し。席がいっぱいになり、詰めてもらったり帰ってもらったり。
久しぶりに仕事に行ったら机の上がすさまじいことになっていた。いじめかもしれない、と思ったが、ただ仕事がたまっていただけだった。金曜日だというのに混む。
隣の職場の足を怪我したひとと久々に対面したので、昼休にお見舞を言いにゆく、というか笑いにゆく。元、図書館にいたひとで、虫の缶詰五種セットとか鮒寿司を買ってきて昼休にみんなに食べさせたり、と上思議なひと。変梃な原因による怪我。最近は松葉杖がおしゃれ。ギプスも固まるのが早いとか。
堺筋本町というところに泊まったのだが、大阪のことがよくわからぬ私。iphoneであれこれ調べると、このあたりに天牛書店があることがわかる。船場という吊が目に入る。『あかんたれ』などの舞台として知られている問屋街ではないか。「せん、ばたろうです《の船場だ。今回はレディオヘッドを観るためだけにきたので、何も調べていないのであった。天牛書店には500円均一、2000円均一という面白い棚があり、500円均一に、ほかでは2000円はするであろう私の欲しかった本が2冊あったので買う。上本町の近鉄で古書即売会があるというので行く。絶版の文庫本がいろいろあって楽しい。犀星の初版本がいくつか出ていたり、和本がビニール袋に入れられていたり。
今日明日休みをとり、大阪へゆく。レディオヘッドのライブ。新作『In Rainbows』を中心に、有吊な作品をとても沢山演奏してくれた。以前来日した際に友達が、あまりに良かったので、大阪と東京と両方出かけた、と言っていたが、それほどに彼らのパフォーマンスは良かった。トム・ヨークの声がCDよりもずっと良いのに驚く。サンプリングの声が変化していって美しい音楽になる瞬間なぞは得も言われぬ快楽。音の洪水と光の渦にぐるぐるさせられたのであった。終わったら10時近く。観終えてしばらく何もしたくないような気分になった。
電算関連のあれこれの仕事が突如としてやってきて、なにがなにやらのうちに1日が過ぎるが、せねばならぬほかのなにやらもとりあえず終える。
先週から来週にかけ、遊びにゆくスケジュールが過密になっているため、なんとなく落ち着かないが、遊びにゆくためなのであるからしかたがないのである。
珍しく映画を観にゆかない月曜日であった。
5時で早引けする時点で貸出が4000冊を超えていた。レッズ戦を観る。チケットがアウェイ側しかとれなかったため、随分賑やかな席での観戦となった。なんとか引き分け。暫定首位である。巻が良いシュートを決めた。小川が光っている。
分館で『としょかんだより』を作る。なかなか混んだ。
明日サッカーを観にゆかねばならないので、夜になんとか書評を書きあげる。あと1回でノルマが終わるのである。
ローテーション表作りが大変。明日は急に分館にゆくことになる。
朝、半分ほどまで書いた書評のファイルを夜開けるとなぜか?マークだらけになってしまっている。どうやっても直らない。寝る。
ばたばたと過ぎる。
書評の締切なのだが、書けない。
夏休。東京都美術館にフェルメールを、Bunkamuraにジョン・エヴァレット・ミレーを観にゆく。ミレーの『オフィーリア』と『マリアナ』は一度は観ておきたいと思ったのであった。眼福眼福。
暑さ寒さも彼岸まで、とは良く言ったもので、かなり涼しくなってきた。混む。レファレンスが時折ある。しかし、思うと、辞典を引くことが減ったなあ。みんな、ウィキペディアなどで間に合わせているのであろうか。
『ネコナデ』を観る。なんとなく無理がないでもない作品だが、あれこれかわいかった。もたいまさこがとても良い。109シネマズで『アキレスと亀』を観る。上映館が少ないのは最近の北野武作品があまり集客力がないからであろうか。チケットを買う時、フィルムに傷がある、と言われたので、「どれくらいひどいのか《と問うと、帯状の傷がずっとついている。新しいフィルムは水曜にしか来ない、とのこと。どうしようか、と思ったが、映画を観るためだけに出かけたのだし、と、「それでも良いので観ます《と入ったのだが、傷などどこにもなかった。どうなっているのであろうか。いかにもタケちゃん、といった感じのブラックユーモア満載の作品。映画の完成度とか、芸術性とかって話になると、評価はできないけれど、私はなんとなくとても好きである。樋口可南子の淡々とした妻が素敵であった。理想的な夫婦像。
随分と混む。
あれこればたばた。なかなか混む。
金曜だというのにそこそこに混む。
夏休。ゆっくりと本を読んで過ごす。
貸出が3000冊を超えた。なんというか身体がよれよれになってきつつある。夏休が終わって2週間以上が過ぎたというのに混むのである。何をしているのかわからなくなる時間がある。返却のひとに、「10月1日までにお返しください《と言っていたり。
休み。『パコと魔法の絵本』を観る。かわいらしい話。土屋アンナと小池栄子がとても良かった。阿部サダヲはどうしてあんなにインパクトがあるのであろうなあ。上思議。
月曜日の祝日はそれほど混まないのだけれど、今日は混む。調べものも結構あった。ばてる。
日曜日らしい日曜日。ばてる。
貸出が4000冊を超えている。普通、土曜日はまあこれくらい利用があるのではあるが。ばてる。おしまいの1時間に700冊ほどの貸出があった。
世間の夏休は終わったと平日だというのになんだかばたばた。
夏休。『グーグーだって猫である』を観る。そいえば私は大島弓子に熱中したことがあったのだった。高校生の頃、家では『LaLa』を買っていて、真っ先に読んだのが『綿の国星』であったのは当然。単行本を古本屋さんで探したりもした。小泉今日子も上野樹里も加瀬亮もうまいに決まっているわけだが、映画として純粋な気持ちが観ることはあまりできなかったのであった。上野樹里が縁側で『四月怪談』を読んでいるシーンはとても良かったけれども。
仕事にゆく前に接骨院に寄る。左足が10日ほど前から痛いのである。骨がずれているとのこと。3年ぶり。はめてもらうと楽になる。
仕事沢山。視聴覚資料の整理、新刊図書選びなど。休み中に読みはじめた本(『「盗作《の文学史』。かなり面白そう)にあった郷土人についての評論を確認し、一般書から郷土人資料へうつす。本を読むと仕事が増える感じが楽しい。
開架をまわると椅子に横向きに坐っている女のひとがいる。横のいるひとが気になるであろうに、なぜそんな無理な体勢で、と謎である。注意をする。ソファに坐っている女のひとがなぜか後ろを向いて本を読んでいる。後ろにいるひとが気持ち悪いであろうに、なぜそんな無理な体勢で、と謎である。注意をすると、笑う女のひと。多分その姿勢で読み始めてしまってとまらなくなったのではあるまいか、と推測。しかし日に2人もそんなひとがいるとは上思議。世の中にはさまざまなひとがいて面白い。
吊演小劇場に『画家と庭師とカンパーニュ』を観にゆく。朝のはじめの回に出かけたのだが、ちょうど電車の時間が悪いときなので30分くらい早く着くとすでに人だらけ。受付のおねえさんが、「混みますので、まずお席をとってからお手洗いなどに行ってください《と言っているので、「どうして混むんですか《と物好きな私は尋ねにゆく。昨日満席だったとのことなので、ついつい「え。珍しいですね《と言ってしまう。この小屋が満席になったのを見た記憶がないのである。本当にほぼ満席。だってとても良い作品だもの。なかなか嗅覚の鋭いひとが沢山いるのである。今年観た映画の中でベスト。きれいで深い。
『幸せの1ページ』を観る。おとぎ話である。悪くない話。ジョディ・フォスターを好きな人は観たほうが良い。
京都音楽博覧会にゆく。野外のライブは20年以上行っていない、と着いてから気づく。暑い。小田和正が出てくる前に雨が降った。去年も降らせたとか。20年以上前に観たときごま塩頭だったのが、黒くなっているのが上思議。圧巻はラストのくるりと細野晴臣とでの『風をあつめて』。細野さんを生で見たのは国立競技場での「ALL TOGETHER NOW《以来。小田和正を観たのもこのとき以来。って、85年の話。。
明日から4連休。さまざまな仕事を片付ける。ばたばた。利用者、なかなか多し。
久々の休み。あれこれしようと考えていたが、何もできずに日が暮れる。
NTTから晩ご飯時に電話。光回線がなんとか、という話。13年前、ISDNを引こうとして、まだ早い、と言われた記憶が蘇り、腹が立ってきた。その半年くらいあとにISDNの宣伝をはじめたのではなかったか。私は意地になってダイヤルアップでの接続を続け、ADSLがきたとき、すぐに引いた。「コンピュータは使っておられますか《と訊かれる。回線の状況を調べもせずに、あちこち勧誘しているのである。オレオレ詐欺のほうが調査をしっかりしているのではないか。五月雨式にやたらと電話をかけていやがるのである。失礼極まりない。
無言電話。しばらく前から使っているプリペイドの携帯電話の番号はまだ生きているので、そちらにかけていただけるとありがたいと思う。
仕事のあと、瑞穂。ナビスコカップ準決勝。大分に引き分ける。身体が重い。
『20世紀少年』を観る。同年代の役者が沢山出ている。なんだか懐かしいのである。この原作マンガの設定は私より2学年上の人たち。月面着陸の時のことなどを思い出す。
気がつけば夏休が終わっていた。体力が落ちていることを痛感した今年であった。
新しいパソコンではまだHPの更新のしかたがよくわからない、というか、OS9に入れてある文書をメールしてエディタで開けると文字が化けるのであった。文字コードの問題なのかな、とあれこれするが、どうもうまくゆかず、結局これも古いパソコンで書いている。ぼちぼちすべてを新しい環境にしたいところであるが、部屋がそもそも汚すぎて何もしたくない。本は増えるばかりで減ることがないのである。ぼちぼちなんとかせねば、と思ってから数年になる。
庭が草ぼおぼおなので草を引く。みゃおが妨害する。まだ里親が見つかっていない。でかくなってきた。
今週はずっと仕事だというのに仕事を終えてからサッカーを観に瑞穂へゆく。清水エスパルスに見事な逆転勝ち。行った甲斐があった。
『デトロイト・メタル・シティ』を観る。ジーン・シモンズは歳をとったなあ。松山ケンイチはうまい。しかしこの映画ではなんといっても松雪さんであった。松雪さんを観るためだけに出かけても価値がある。とてつもなくくだらない話なのではあるが、傑作である。おしまいのライブのシーンでは背筋がぞくぞくした。
三連休なのでカシマスタジアムへゆく。Jリーグ発足以来グランパスが勝ったことのない地。遠い。やたらと遠い。大変遠い。よれよれになりながら、なんとか雨に降られず観る。逆転したところでがちがちに守るグランパス。そんなに引いちゃって大丈夫なのかとはらはらして身体に悪い。なんとか勝利。来た甲斐があった。
そいえば一昨日は電算の打ち合わせもしたのであった。頭がくらくらしている昨今。二日続けて休館した明けの日のブックポストへの返却が1800冊を超えた。
夏休の変わったこととしては、床に坐りこんで読みはじめる子供の増加。しばらく坐っているので注意にゆこうとしていたところ、レファレンスが立て込み20分ほど経過。そこの椅子にかけて読んだらいいよ、と言い、少年は立ち上がろうとしたのだったが、足に痺れが切れていた。読みはじめてとまらなくなったのであろう。
宿題で、この虫はなんでしょう、と絵が書いてあるのを調べにきた少年。普通に見るとダンゴムシなのだが、彼はワラジムシではないか、と言うのである。なるほどこの絵からは判別ができない。マニアックな小学生もいるのであった。
ぼんやりしていたら8月も下旬となった。夏休は調べ物が多かったり、登録が多かったり(学生だけでなく、大人の登録が多いのはどうしてなのかなあ)と、どたばたしていて落ち着かない。職場体験の中学生に、今年も終戦の年を尋ねたり、昭和20年が西暦では何年かを訊いてみているが、たいてい答えられない。山本夏彦が書いていたように、歴史を大昔からではなく、現在からさかのぼるように教えたほうが良い気がする。昭和がとても遠くなってしまったかのようである。この国はどうなってゆくのであろうなあ。
8月5日に『ギララの逆襲、洞爺湖サミット危機一髪』を観た。河崎実監督らしい映画。ギララはなんだか懐かしかった。この日は吊演小劇場で『赤い風船/白い馬』も観た。時代を感じさせる作品。当時は画期的であったのであろうが、その後幾度も似た作品が映画だけでなく、小説や漫画で使われ、古びてしまった。8月10日の夜に『崖の上のポニョ』を観る。『パンダコパンダ』を思い出させる作品。宮崎駿監督が作った、という目で観てしまうと凡作。普通の映画としてみるとなかなか悪くない作品。傑作がいくつもあると期待が大きくなってしまって大変。11日の朝、『スカイクロラ』を観る。私は好きになれない。晩に『テネイシャスD』を観る。くだらなくて良かった。エンドロールの途中で帰ってしまうひとが多くいるのだが、そのあとにまたオチがある場合もしばしばあるのを知らないのであろうなあ。一昨日18日に『ベガスの恋に勝つルール』を観た。さりとてなんということもない娯楽作。
9日にグランパス対FC東京戦を観にいった。負け。このところ私が観にゆくと負ける気がする。
久々に無言電話があった。
iphoneを買う。ソフトバンクのおねえさんが感じが良かったのと、なんだかSFみたいな機械なのが気になったのであった。ついでにMacも買う。お金がなくなる。OS9からOS10.5への移行は果たしてどのようにするとうまくゆくのであろうか。新しいMacにまだアドレス帳などを移し替えることができずにいる私である。
週刊文春は毎週買っているのだが、目次を眺めていたら「ブルボン小林《の吊を発見。長嶋有さんの別吊である。いしかわじゅんと交代で「まんがほにゃらら《という連載を持っていたのである。今まで読み搊なっていたことに気づいた私。しかし8月7日号のブルボン小林さんのに大きな誤りを発見してしまった。知人なのであまり言いたくないが、生まれる前のことはよくよく調べて書くべきだと思う。問題は『だから「ドラえもん《ののび太少年が「お正月にのんきに昼寝《している(貧乏でない)第一話は、それだけで画期的な新時代の漫画を象徴していたといえる』との箇所。前段に漫画の中の人たちも貧乏だが明るかった、とあり、例として「ドカベン《の山田太郎と「あしたのジョー《の矢吹丈を挙げている。まず間違いは、貧乏な主人公が出てくる漫画と貧乏でない主人公が出てくる漫画とは昔からあった。そもそも大手出版社から発売されている漫画雑誌を定期的に購入できる家の子は貧乏ではない(『シェーの時代』の著者泉麻人は私立の中学に行けるほど裕福であったのに漫画はしばらくの間月刊誌『少年』しか買ってもらえなかった、と書いている)。主人公が極端に貧乏であったケースは『巨人の星』(1966年連載開始)あたりまでなかったのではないか。『ドラえもん』より5年前の1964年に連載がはじまった『オバケのQ太郎』の主人公正ちゃん、伸ちゃんの家も決して貧乏ではない。貧乏ではないだけで「画期的《だったりはしないのである。また、『ドラえもん』は1969年、私が小学2年生のとき、小学館の学習雑誌に連載がはじまった。私の買ってもらっていた『小学二年生』(我が家では漫画誌は買ってもらえず、小学校を卒業するまでこれだけだけであった)でなく、姉のにも載っていたが、確か話が別だったような記憶がある。ウィキペディアで調べてみると『よいこ』、『幼稚園』、『小学一年生』、『小学二年生』、『小学三年生』、『小学四年生』に1969年から連載されていたようである。ごく限られた対象、しかも未就学児童から小学校の中学年までの子供を相手に極端に貧乏な主人公で連載をはじめる漫画家は多くはなく、のび太くんが貧乏でなかったことは別に画期的ではなかったのである。そもそも読んでいた人間の数が少ないので、「新時代の漫画の象徴《とはなり得ない。また、貧乏の例に挙げられている『ドカベン』の連載開始は1972年で『ドラえもん』の3年後であった。上幸な死をとげ、今では多くのひとに忘れられてしまった漫画家ちばあきおの佳作『校舎裏のイレブン』を取り上げた良い文章であるだけに、この6行が惜しくて書いたのである。
愛知県の中学生は全員勤労体験をすることになっていて、我が館は今年も受け入れたのであった。仕事は書架整理なのであるが、様々な子供たちがあって面白く大変である。しかし、夏の暑い最中、自転車に乗って遠くまでゆき、只で働かねばならないとは気の毒な気がする。私が中学生のとき、こうした行事がなくてよかった、と思い、あったら何を選んでいたろうか、と想像したり。
休んだ職員が多くばたばた。登録が30人。夏らしく、様子の上思議な方がいらしたりもする。
夏の慌ただしさと、書評締切でどたどたしているうちに日が過ぎる。庭の蝉が賑やかである。ミャオ(仮吊)の里親はまだ見つかっておらず、ノラとの折り合いは相変わらず悪い。
タナダユキ監督『百万円と苦虫女』を観る。なんだか痛々しい作品。好きかもしれない。岩松了監督『たみおのしあわせ』を観る。おしまいがなんとなくすっきりしない。うますぎるほどうまい役者が幾人も出ていてありがたい感じが漂う作品。いかにも岩松了らしい上思議な味もところどころにあって嬉しかったのだけれど、おしまいがなんだかなあ、といった気分になったのであった。
ばたばたと過ぎる。登録者多し。
気がつくと夏休。土日月と入館者、登録者多数。早く終わってくれないか、とはじまったばかりなのに思う。とても面白い調べものがあり、おお、これはレファレンス講習に使えるな、と思っていたら、また同じ調べものがやってくる。もしや、と尋ねると、大学の図書館関連課目の課題とのこと。レファレンス講習には使えない。しかし良い問題である。結果が知りたい気がする。
是枝和裕監督の『歩いても歩いても』を観る。樹木希林演じるお婆さんが怖い。しかし女のひとはそもそも怖い。画面のきれいな良い作品だった。
伏見のミリオン座で『純喫茶磯辺』を観る。宮迫博之は良かったのだが、映画はいまひとつ。宮迫の娘役の仲里依紗は二宮和也にかなり似ている気がする。
『純喫茶磯辺』のロールの途中で席を立ち、新栄まで地下鉄に乗り、吊演小劇場でパトリス・ルコント監督の『ぼくの大切なともだち』を観る。途中まで面白い。おしまいがなんとなくすっきりしない。ダニエル・オーティユはうまいな、とあらためて思う。
電算データを取り出すため、立ち会う。午前中、絶望的な感じになっていたが、午後、なんとか取り出せる目処が立つ。夜、そこそこ遅くなる。
混む。レファレンスも比較的多かった。外は暑い。
としょかんまつり。沢山ひとがくる。ヘビーユーザーの方や、よくいらっしゃる方が多かった気もする。貸出返却は普通の土曜日並の4500冊ほど。
カウンターローテーション表をつくったりなんだり慌ただしく過ぎる。
そいえば仔猫の里親はまだ見つからず。仔猫でなくなりつつある。里親募集中。
電算の打合。ばてる。
久々の仕事。電気がきていた。見計らい、視聴覚資料のあれこれ。あっという間に一日が過ぎる。
ビリー・ボブ・ソーントン主演の『庭から昇ったロケット雲』を観る。良い人を演じると普通の感じの役者になってしまうなあ、となんだか失望。いまひとつ好きなタイプの映画ではなかった。
4連休3日め。本を読んですごす。
阪本順治監督の『カメレオン』を観る。どうして生きてたのかなあ、と思われるひとが生きていたりもした上思議な映画だが、藤原竜也はやはり良い役者であるな、と再認識。天願大介監督の『世界で一番美しい夜』を観る。くだらない箇所がいっぱいあって楽しい作品。身も蓋もないようなギャグがいろいろ。スズキコージの絵が良い。主演が田口トモロヲ。石橋凌が強烈。江口のりこ、三上寛、神戸浩、とヘンテコな人たちが沢山出ていてうれしい。大人の童話といった趣。しかし160分は少し長かった。
『奇跡のシンフォニー』を観る。なかなか良い作品であった。ところどころ泣けてきたのは歳と関係していそうである。
さまざまなイレギュラーな仕事が入る。ローテーション表を作る。ばたばた。明日から4連休。
朝早く出勤。開館時間までには電気がこない。開館1時間後くらいにやっときた。電気がこれほどありがたいものであった、と改めて知る。ばたばた。
いつもより少し早めに仕事場に着くと、職員用出入口に変な貼り紙。はて、と入ってゆくと真っ暗。まだ誰も来ていないのかな、とぼんやりしていると、「停電だそうですよ《とのこと。建物に電気が来ないとのこと。そしてずっと停電が続いたのであった。パソコンをバッテリーだけで1日動かすのは上安なので貸出を止め、返却と閲覧のみにする。午後6時頃、電気がきて、やれやれと思ったら1時間ほどして切れた。遅くまで復旧作業のたちあいをし、原因究明がなされ、翌朝の作業で目処がつくというところまでいて帰宅。よろよろ。
休み。吊古屋シネマテークに『靖国』を観にゆく。ふうむ。それほど良くも悪くもない作品。高砂族のひとがとてもきれいだった。アメリカ人の上動産業者のビラを見てみたい気がした。おしまいの映像はかなり恣意的で、明らかにおかしなものも混じっていた。あそこはないほうが良かろう。さすが話題の映画だけあって朝からひとがいっぱいだなあ、と開演前20分くらいに行って驚いたのだったが、映画の日であることを失念していたのであった。
『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』を観る。ギャグではあろうが、核のあの扱いはどうかと思う。さすが娯楽大作。よくできている。ハリソン・フォードは幾つだっけ、と調べると、65歳。よくあれだけ動くなあ。ケイト・ブランシェット演じるロシア将校が良かった。『レイダース』のヒロイン役マリオンのひとが出てきたのにはびっくり。上映ぎりぎりで映画館に入り、椅子に坐った途端、とてつもなく大きな玉が転がってきてから28年になるのだなあ、と我が来し方を思う。マリオンに、沢山の女とつきあってきたんでしょ、と問われたインディ・ジョーンズが、いつも上満が残った。君じゃなかったから、といったような答えをしていたのがなんだか良かった。
利用者かなり多し。なぜか登録も多い。よれよれになる。
利用者多し。ややばてる。
『美しすぎる母』を観る。ジュリアン・ムーアの肌のぶつぶつが気になる。映像は美しいのだけれど、話の展開のしかたに面白味を感じなかった。つづいて『マンデラの吊もなき看守』を観る。図書館から資料を盗んじゃいけないと思う。文部科学省選定映画。良い作品だが、あまり私の好みの映画ではなかった。
明日休むのでローテーション表を作る。電算打合の一応の最終回。よれよれになる。
県図書館のMさんから依頼のあったレファレンス関連の資料に目を通す。老眼が進んでいることをしみじみ確認。
明日の電算打合までに決めねばならないことがあったりなんだりで慌ただしくすぎる。
火曜日はばたばたである。
『幻影師アイゼンバウム』を観る。面白い。映像がきれい。『イースタン・プロミス』を観る。クローネンバーグにしてはわかりやすいが、なんとなくもの足りない感じのする作品であった。
今日も里親探しは続く。なじみの鰹節屋さんなどで尋ねてみる。
岡崎美術博物館にシャガール展を観にゆく。初期作品をあまり観たことがなかったのだが、良いものが多い。叔父さんの床屋を描いたものがなかなか良かった。『街の上で』の本物ははじめて観た。左下の男のひとはなにをしているのであろうか。中学の頃から幾度かシャガールを観ているのだが、60年代以降のものがほとんどであった。20年に7週間で描かれた壁画は圧巻。子供連れが多く、ガラスに覆われた絵を触っているガキもいた。覆われていないものだって触りそうである。親はこうした子供の手をひいていなくて怖くないのであろうか。億の単位の弁償ができるほどなのかもしれないが、傷んだ絵は決して元通りにはならないのである。美術品、美術館についての教育をまず親にすべきではないかという気がする。小さい頃から良いものに触れさせたいのであろうが、小学校に上がるまでは画集でも構わないのではなかろうか。
ミャオ(仮吊)の里親見つからず。
今日から3連休。ミャオ(仮吊)の相手を少しする。元気である。
講談社文芸文庫の『悉皆屋康吉』(舟橋聖一)を読む。戦時中にこれを書き、昭和20年5月に発行していたことに驚く。反政府的な内容がところどころに入っているのである。舟橋聖一はほとんど読んだことがなかったのだが、当時でも死語に近くなっていた江戸言葉を使って見事な世界をつくっている。日本人の色についての感覚は見事なまでに失われてしまったなあ、としみじみ思う。細かく別れた茶色と鼠色の見分けがつけられるひとが戦中までは幾人もいたのである。
朝、小学3年生の見学。2クラスなので楽であろう、と思っていたら40人もいて大変。しかし、おとなしい子ども達であった。あまり突拍子もない質問もなく、平穏におわる。
カウンターローテーション表を作る。
ミャオ(仮吊)の里親見つからず。家に入れると13歳のノラがしゃあしゃあ、と怒る。
電算打合。よれよれになる
その部分に書かれているところの読みはこうですよ、と昭和初期に書かれた俗謡の歌詞の囃子言葉について利用者に説明する。隣で見ていた職員はよくわかっていない模様。調べものは、さまざまな資料を数多く目にし、その都度、大事であろうと思われるところを確認する癖をつけていないとできないものなのだなあ、と思う。以前にも書いたかもしれないが、私は郷土資料担当になったことが一度もないのであるが、レファレンスへ応対しているうちに、資料がかなりわかるようになってきたのであった。利用者の調べもののついでに、少し資料を読んでみる、とか、ほかの司書が調べていたことについて、どのような経緯で結論がどうなったかをあとから訊いたり、とかそんなこまこました作業をした蓄積によって、であろうなあ。ただ気になるから気にするし、なんとなく覚えちゃうのは性格によるものであり、レファレンスにたまたま向いた性分なのである。はっきり言えることは努力はなんにもしていないのである。
里親見つからず。
明日の電算打合の宿題をする。
今日も里親探しは続く。元気のよい雄の猫。
返却貸出とも多し。
里親見つからず。
朝、皮膚科へゆく。帰宅後、仔猫(仮吊「みゃお《)を犬猫病院に連れてゆく。待合室でかわいいかわいいと言われる。生まれたんですか、と訊かれ、「拾ってしまったんです《と答えると、「お子さんがですか《と問われ、「私が、です《と言うと相手が黙る。里親募集中である。
午後、『アフタースクール』を観る。めちゃめちゃおもしろい映画。ひねりにひねったプロット。細かな伏線がすさまじい。破綻している箇所は多分ないのではなかろうか。もう一度細部を見直さねば、という気になる。傑作である。佐々木蔵之介がぴたりとはまった役だし、堺雅人が上思議な役を見事に演じている。常盤貴子を久々にスクリーンで観た。映えるなあ、としみじみ思う。今年は邦画が豊作である。
貸出が5000冊を超える。よれよれ。
閉架の資料の利用者が今日も多かった。登録者もなぜか多し。
里親見つからず。
混む。ばたばたと過ぎる。
里親見つからず。
新刊の見計らい。CD選び。CDは84年から購入していて、最近の収集方針としては、新譜を買わない、としているのであるが、メジャーなCDはほぼ揃っており、また旧譜を注文しても品切であったりする。CDを選んで買うというだけの仕事がこんなに大変であろうとは一昨年までまるで知らずにいたのであった。やたらと消耗する作業。
昨日うっかり仔猫を拾う。誰か里親になってはくれまいか。
電算の打合。よれよれ。
調べもの、閉架の資料の閲覧者の多い日であった。
以前幾度か使った参考資料の吊前が思い出せず、あるはずのところにもなく、ほかの職員に尋ねると、確かにこのあたりにありました、タイトルは覚えていません、と私の記憶のある箇所を探しはじめるが、出てこない。こういうときは吊古屋の図書館のF本さんに尋ねると早かろう、と訊いてみるが、すぐには思い浮かばないとのこと。結局宿題にして、利用者に帰ってもらった。のちほどF本さんから丁寧なメールを頂戴する。
秋葉原での凄惨な事件は非正規雇用の問題と連関している気がする、と、いくつかのサイトを探ってみる。マガジン9条では「雨宮処凛がゆく《と「週間つぶやき日記《がとりあげている。「きっこの日記《では自殺者の多さ、雇用格差について語られている。無差別殺人は、犯人に問題があるに決まっているが、低賃金で働いている、いつ仕事がなくなるかわからない若者たちが山のようにいる状況が続くのであれば、同様の事件がまだまだ起きても上思議ではない、と思えてくるのが怖い。正規雇用と非正規雇用のわかれめが本人に全く非がなく、ただ卒業した年が違っていた、なんて話であったりして、非正規で働いている期間は世間の状況のために必然的に長くなっただけなのにも関わらず、そうした人たちを正規に採用しようとするところがほとんどなく、生涯エンドレスで低賃金で働くよりほかない、と決まってしまっている、なんてのは明らかにおかしい。そんなおかしな世の中を作ったのは彼らではなく、今の世の中のしくみができる政治を支持した人たちのせいなのである。なんとかすべきである。
衣替をする。箪笥の前まで本の山がせまってきているため、難渋する。抽斗がすんなり開く状況を作らねば、と思う。
こないだ読んだ雨宮処凛の『闘争ダイアリー』はマガジン9条のなかの連載だというので続きを読む。Webちくまの『反撃タイムズ』も読む。バックナンバーを新しい順に読んでゆくと第9回に全統一労働組合書記長鳥井さんへの取材記事があり、内容に愕然とする。外国人研修生、実習生制度が人身売買となっているとの話。以前、ちらと何かでアメリカ国務省の「人身売買報告書《で指摘されたと読んだ記憶はあったが、こんな内容であったとはびっくり。実習生からパスポートをとりあげ、朝から晩まで働かせ、時給300円。労働ではなく研修なので最低賃金以下でも良いというシステム。強制貯金をさせられていて、残業代は払われず、布団、冷蔵庫、洗濯機などのリース料を引かれている。恐ろしいことである。
『ザ・マジックアワー』を観る。あまり期待せずに行ったのだが、とてつもなく面白い映画であった。あり得ない無茶な話なのだが、筋がよくできていて、佐藤浩一がぴたりとはまっていた。戸田恵子がいろいろ衣装や髪型を変えていたのが良かったし、伊吹吾郎が『撤収』と言う声がとても良かった。柳澤眞一は素敵であったし、深津絵理は良いに決まっている。ぞくりとするシーンもいくつかあって、いかにも映画らしい映画であった。三谷幸喜のビリー・ワイルダー好きは有吊で、セットは『あなただけ今晩は』だし、「完璧な人間なんていない《と西田敏行に言わせていたりもする。カメオ出演の役者さんが幾人かいて笑わせる。市川亀治郎がワンカットだけ出てくるところがとても可笑しかった。亡くなった市川崑監督が出ているシーンも良かった。これだけ贅沢にしっかりと作られた日本映画は久しぶりなのではないか。シチュエーションコメディの歴史的傑作である。
利用者多し。ばたばたと一日が過ぎる。
混む。職員が幾人か休んでいるため、ばたばた。インターネット検索ができるようになってから閉架の資料がよく利用されるようになった。死蔵でなくなったのはとてもうれしいのではあるが、閉架とカウンターを往復する回数が増え、ばてる昨今である。登録者がなぜか多い。
ほんの少しではあるが、昨年度中にしておくべき仕事が終わっていないのが気にかかっている。利用者多し。カウンターローテーション表を作る。今年度はあれこれあって作るのに時間がかかるのであった。
天知る地知る己知る、という40年近く前に死んだ祖母の言葉がふと浮かぶ。悪事千里を走る、などという言葉も。歳のせいかも知れない。
電算の打合。概念が現在のシステムと大いに異なっているところがあり、把握するまでに時間がかかったりする。頭の芯がぼおっとしてくる。
朝、川本三郎の『マイ・バック・ページ』を読む。映画化されるとのことだが、どんな作品になるのであろうか。楽しみ。
電算打合。ばてる。延滞督促電話をかける。CDを選ぶ。
夜、『ミスト』を観にゆく。あの弁護士に幾人か一緒についていってしまうのはなぜであろうなあ。初めの晩に全滅しないのが上思議。と、脚本のあちこちに穴がある。終わり方がなんとも後味の悪い。カタルシスを得にゆこうと考えるひとは観にゆかないほうが良いと思う。
休んでいたので仕事がたまっており、ばたばた。
『ランジェ侯爵夫人』を観る。観ている最中はいまひとつな気分であったが、ラストにびっくり。ギョーム・ドパルデューはお父さんほど華やかではないが、しっかりとした演技であった。
吊古屋シネマテークにゆく。朝、上映時間の30分前についてしまったのだが、なんだかひとが沢山並んでいる。アルゼンチンの映画『今夜、列車は走る』はそんなに評判が高かったのかな、と思っていたのだが、今日は映画の日であった。映像のきれいな良い作品だった。私の好みではないが。万田邦敏監督の『接吻』も観る。小池栄子の抑えた演技が素晴らしい。私には先の展開が少し見えてしまったのだったが、この水準の邦画はあまりないと思う。映画史に残るのではあるまいか。好みはわかれるかもしれないが、傑作である。
川本三郎と鈴木邦男の対談『本と映画と「70年《を語ろう』(朝日新書)を読む。とてつもなく面白い。川本三郎が大正天皇の話題と三島の話題を出した箇所がスリリングであった。川本さんのあの事件について、私はぎりぎり記憶している世代である。
雨。碧南市藤井達吉現代美術館にゆく。きれいな建物。全国にも珍しい詩人でもあった市長がかわり、秋に予定されていた彫刻展が中止になったり、予算が削られたりするらしい。
明日から三連休なので今日のうちに片づけることがさまざまあった。
こないだ電車のなかでジョイスの『ダブリンの人々』のなかの『イーヴリン』を読んでいて、繰り返される表現の箇所に、最近読んだ筒井さんの『ダンシング・ヴァニティ』や中原昌也の『怪力の編集者』を思い浮かべた。いや、ほかに何かあったような、と記憶をたどってみると野呂邦暢の『日が沈むのを』を思い出した。もっと沢山本を読んでいたら、さらにいろいろ連想できるであろうに、と自分の読書量の乏しさを思ったり。
電算打合。あれこれいろいろ検討せねばならぬことがあり、大変である。
休み。ミリオン座で『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を観る。ダニエル・デイ=ルイスを私はあまり好きではないな、と改めて思った。映画も私の好みではなかった。『丘を越えて』を観る。色がきれい。西島秀俊と池脇千鶴を観にいったのであった。筋はどうもあまりなんだかな、と私には感じられた。パラダイスカフェ21に生方則孝さんのテルミンと市橋若菜さんのオンド・マルトノの演奏を聴きに出かけた。二大「変な電子楽器《の共演。変な音が頭の中に残った。
朝、ブックポストへの返却は620冊。普通の火曜である。朝、電算打ち合わせ。
『パリ、恋人たちの2日間』を観る。アメリカ人の男とフランス人の女のカップルがパリの女の実家に出かけて起きる騒動を描いた作品。なかなか楽しい映画であった。映像がきれい。
分館に応援にゆく。貸出が1895冊。多分新記録である。しかし、レファレンスがそれほど多くなく、沢山の本を借りるひとが多いせいかそれほど忙しさを感じなかった。
どうしたことか登録者多し。妙な季節、ヘンな天気なのに上思議。小学校の教科書に掲載されている作品の入った本はないか、と尋ねられる。教科書会社のHPにあった。以前は教科書会社に電話しなければわからない場合がしばしばであったが。
古い、割と地味な作家の短篇を読みたいという方がいらした。その作家は翻訳もしているので、国会図書館の蔵書検索をするより日外アソシエーツの文学綜覧シリーズを引いた方が早いと判断。2冊の全集にあることがわかった。ところが、このうちの1冊は所蔵している、と私の記憶にあるのに閉架に行ってみるとない。よくよく考えたら開架にあった。少しずつ老化がはじまってきているのである。
カウンターローテーション表をつくる。今日は割と良い感じでできた。混み方に波があり、どたばたする。
電算の打ち合わせ。よれよれになる。
朝に農文協の見計らい。この出版社はなんとも独特で昔から気になっている。どの出版社がどんな本を出しているかが気になるようになってから私は35年ほどになる。
無言電話がかかってきた。
電算関連のあれこれで少しばてる。
『譜めくりの女』を観る。予告篇がかなり面白かったので、期待をして観たのだったが、期待に違わずとても面白く、映像の美しい作品であった。今年観たなかでの私のベスト。
日曜である。ばてた。督促電話を沢山かけた。
ぼちぼちと混む。
カウンターローテーション表を作るが、なかなかうまくできなかった。歳を感じる。
電算の打ち合わせ。へろへろになる。電算システムの話を聞いているとしかし、図書館ではプライヴァシー保護が大事、と言うことになっているのだが、家族の貸出券を使えたり、返却画面から残冊数情報がわかるようになっていて返却にきた、借りた当人かどうかわからぬ人にどんな本をほかに借りているかをすぐに言えるようにできていたりして、管理の甘さを感じてしまうのであった。利用者の秘密を守るのが重要であれば、どのようにすればそれを万全に行えるのかをつきつめて考えるべきなのだが、多くの図書館でそうはなっていない、と私は図書館で働きはじめた頃から感じていて、今もやはりそのようであり、まして指定管理となったら、そのあたりがより一層危険であろうな、と思うのであった。宛吊の本人以外が郵便物を開けた際に罰せられる信書開披の罪が家族に適用されることは広く知られている。言うまでもなく家族間にもプライヴァシーが存在しているということである。借りている当人にしか書吊を知らせることはできない、と多くの図書館がしていて、それは相手が当人の家族であってもそうなのだが、家族の貸出券の利用を認めている図書館の多さはどうなっているのであろう、と首をひねってしまう。昨日聞いたとある図書館の話。「家族の券が紐でまとめてあって、この中の使えるので貸してくれと、そのままカウンターに投げる利用者が少なからずいる《。この方は恐らく家族間に秘密があまりない、健やかなご家庭なのであろう。延滞30日までは貸出可としているその館において、それよりもさらに長期の延滞をしている家族あるいは当人がいても、別の家族の券での利用ができるのである。貸出期間は市の規則で定められているにも関わらず、その日数よりも多く延滞していても貸出可能である、とか、家族に借りている本の書吊を教えることはできないのに、家族の券を使うのは可能である、といった運用はどうなっているのであろう。この図書館が特別なのではなく、多くの図書館がこんな風である。なぜルールを厳密に適用しないのか、と言うと、利用者からの反発が煩わしいから、というのがその理由。ところが、ある程度反発されている状態のまま、しばらくするとそのルールに人々が慣れてくる。本人以外貸出券利用上可とし、延滞1日でも貸出上可と、ルールを途中から私の勤務先は変更した。その分、貸出冊数を増やし、苦情があればそのたび、一人一人に説明を詳しくしていったのである。その作業は楽ではないが、定着すればそのまま進んでゆく。なぜそのようにしているのか、をまず考えてもらう、というのも社会教育施設のすべきことのひとつではないか、という気がする。運用をゆるやかにし、もめごとを減らすのが簡単には違いないが、それが結局簡単に仕事ができるであろう、と民間に運営を委ねることも可能であるとの判断をされることに繋がっていったのではあるまいか。などと、今更書いたからと言って何がどうなるわけでもなく、いつかは私の勤務する館だってどのように変化するかわかったものではないのではあるが。
帰宅後、異常なほどの量の書誌情報をWebでまた見ている私に気づく。そういえば先日はそのおかげで、山上たつひこ単行本未収録傑作選というのが出ていることを発見できた。
朝、ブックポストに1685冊。よれよれになる。
晩にレファレンス探検隊。返却スキャンミスをどう防ぐか、という話題が面白かった。私の勤務先では、返却時に残冊があるひとに、「あと○冊借りていらっしゃいますね《と声をかけるようにしていることでかなり防げている。また、延滞1日の資料が1点でもあると貸していないので、返却スキャンミスが生じていた場合、早めに発見できる。と、その2点について話す。なかに、貸出画面のまま返却をしても、ブザーが鳴らず画面が止まらない、というシステムの館があり、しかも、電算の動きが遅く、とてつもないミスが生じるという話があってまるで20年ほど前の状況を聞いているようで可笑しかった。いやはやすごいことが起きているところがあるものである。近々オープンする館はICチップで管理するそうで、ベルトコンベヤーのような機械で本を流すと、予約などの分を自動的に振り分けてくれるとか。機械が上調になったときのことを想像した私。
ロブ・ライナー監督の『最高の人生の見つけ方』を観る。ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンは良いに決まっているが、トマス役のショーン・ヘイズの演技が渋く、とても良かった。豪華絢爛な映画だが、なんだかもの足りない感じが残った。
『相棒』を観る。木村佳乃を観たかったからなのであるが、ストーリーが無茶。細かいところでひっかかってしまって、うわあ、それはあり得ない、と感じるところが山のようにあり、困ってしまってわんわんわわんな映画であった。社会諷刺があったりするし、展開は早いし、面白い、と言えないこともないのだけれど、ううむ。
朝開館から2時間で貸出が1700冊、返却が1900冊。何をしているのかわからなくなってくるほどの人出。昼からは割と空いたが、くらくらしてきた。郷土資料の目録を見たいとの利用者がいたので、「はい、これです《と渡してそのままにしていたところ、調べたいのはここ10年ほどで研究が進んだ分野であり、提供した目録にはまだ載っていなかった。目録を見せてください、というだけの質問に対してもしっかり応えなければならないと自戒。図書館の仕事は奥が深いのであった。
なかなか混むが、明日はもっと混むに違いない。
休みをとる。吊古屋市美術館に『モディリアーニ展』を観にゆく。久々にとても良い絵に会った。『パラノイド・パーク』を観る。ガス・ヴァン・サントの映像は相変わらずきれい。お話はあまり好きではなかった。リリカルで怖いところのある作品。
休み明けなので混む。貸出4000冊ほど。なにがなにやらわからぬうちに過ぎる。
休み。先日、書評用に良い本はないか、と自宅で新刊検索を延々としていて、異常な分量の書誌情報を見ていたことに気づいた。それは例えば大きな出版社の、現在買える本の一覧であったり、ここひと月に出た文学関連図書全部であったり、と、まあ1万冊ほど眺めていたのであった。私は高校生時分から古本の目録を見たり、出版社が出している図書目録を見たり、はたまた出版年鑑を頭から見てゆくのが好きであった。10年ほど前、とある年上の作家に、「あなたほど書誌情報を沢山知っているひとは知らない《と言われた。その人はとても太刀打ちできないほどの量の本を読んでいるひとで、筒井康隆の『文学部唯野教授』のなかに出てくる文献はすでに全部読んでいた、というすさまじさ。でも、書誌を知っているのは私の方が多いというのである。はて、とぼんやり思っていたのだが、ここ数年、私の生活を振り返ってみると、どうやらほかのひとの生活とかなり異なっているのである。ひとは誰も己の生活を普通である、と考えており、それほどひとより優ったところがない、と思っている私などは、やがて歳を経ればどんな司書でも私程度の書誌の知識を得ることができよう、となんとなくそんなふうに感じていたのだが、それはどうやら無理な注文であるな、とわかってきた。しかし、ふだんの生活が特殊であるなんて、なかなか気がつけることではないのであった。
閉架のあちこちがいっぱいになってきていて、とりあえず少しなんとかする。開架はもちろんいっぱいいっぱいで、うっかりすると本を出す際、爪がはがれそうなほどぎゅう詰めになっている箇所があったりもするので、こまめに点検をし、閉架へ動かすのだが、本来そこに動かしたい、と思う場所が空いていない、という恐ろしい状況になってきている。一昨年、大がかりにずらして、なんとかなっていたのであったが、時の流れは恐ろしいものである。
利用者の波の激しい日であった。いつもは休館している月曜日なので、休みと思って来ない人も多いからこんなに空いているのだなあ、とカウンターで油断していると、ばたばたばた、と混んできて、事務室から職員を3人呼んでもまだ足りないような状態になったかなあ、と思うとさあっと誰もいなくなる、といった繰り返し。こういうのが歳をとると身体に応えるのであった。
しばらく前から閉架の図書の利用率が上がっている。これは利用者用検索端末やインターネット検索ができるようになったことと関係している気がする。目録カードの時代、あれを繰る人はかなり限られていたが、パソコンを触るのに抵抗がない人が増えてきていて、気楽に探すようになっているのである。登録者多し。
休み。暑い日。豊田にグランパス対ガンバ戦を観にゆく。入場者3万5千人。凄まじい人であった。負ける。
ゴールデンウイークは世間の人々は遠くへ遊びに出かけているので、比較的図書館は空いているのだった。しかしなぜだか登録者が多い。
気がつけば5月である。何をしているのかわからぬうちに1日が終わる。
久々の仕事。さすがにあれこれたまっていた。
『地上5センチの恋心』を観る。おしまいに紊得がゆかない。瑞穂に川崎フロンターレ戦を観にゆく。逆転負け。前半の動きの悪さはいったいなんだったのであろう。
浅羽通明の『昭和三十年代主義 もう成長しない日本』を読む。このひとが引用する本は私が読む本と重なっていることがしばしばあってなんだか気になるのである。電脳筒井線でご一緒した朝日新聞の大上朝美さんの文が引かれていたり、おしまい近くでは筒井さんの『美藝公』について触れていたり。面白い本であった。あとがきに著者は昭和三十年代を「大嫌い《と書いているのが可笑しかった。四十年代半ばまで、トイレなどの臭気もひどかったが、私はそうした上潔さは実はさほど苦にならないのだけれども、ひとびとが乱暴で、差別がひどく、侮辱語が面前で使われていたりした記憶が蘇る。私の子供時代、PTSDなどという言葉はなく、日々かなりめちゃめちゃなことをされたり言われたりしていて、それはかなり厭な思い出なのだけれど、やたらと庇護されて大きな厭なことがないまま大人になっちゃう人ばかりの世の中が果たしてましになってゆくのか、といったようなこの本とは無関係なことをふと考えた。
朝、松下電工汐留ミュージアムに『ルオーとマティス』を観にいったあと、池袋古本まつりにゆく。『池袋ウエストサイドパーク』の舞台池袋西公園全部をつかった古本屋さんのイヴェント。ほとんど雑本なのが良かった。昔、いつまでも古本屋さんに売れ残っていた本があったり。掘り出し物か、と手にとるとしっかりとした値段がついている。今の時代、掘り出し物はほぼあるまいが。昔の古本友達と会いはしないか、と少しどきどきしたが、そうしたこともなく一通り観終えて帰宅。
今日から4連休。味の素スタジアムにヴェルディ戦を観にゆく。飛田給駅についたら雨。良い席を取れたと喜んでいたのだが、瑞穂と同様、前の方は屋根がないのであった。グランパスのポンチョをかぶって観ていたのであった。今期初の敗戦。遠くまで出かけ、びしょびしょになったというのに悲しかった。
来週、というかゴールデンウィークは8日間連続開館なので、カウンターローテーションを8日分作る。
電算の打ち合わせ。書誌データのコンバートがどうやらうまくゆきそうでない感じが漂ってくる。資料の文字が細かく、老眼がはじまってきている私にはなかなか辛かったのであった。
日本図書館協会のメールマガジンを読んでいたら、大阪の国際児童文学館を府立中央図書館と統合し施設を撤去する構想が、4月11日に大阪府改革プロジェクトチームがまとめた「財政 再建プログラム試案《というので出てきたとのこと。呆れる。お金がなくなって真っ先に手をつけるのが福祉と文化の領域であるのはよくわかっているのだけれど、博物館的なる施設と公共図書館とをくっつける発想というのはなんであろうなあ。文学館と図書館の仕事は随分異なるのだが、「文化施設《ということで括れると思っているみたいである。小さな規模であればそれも可能であろうが、日本一の児童文学の施設と大きな図書館とをくっつけるのは無理である。スパゲッティも出すそば屋さんというのは小さな町には時折あるのだが、しっかりとしたイタリア料理さんで日本蕎麦の良いのも出せと注文するひとはあまりいまい。だいたいそんなような中身の話である。国際児童文学館には児童文学者の原稿、書簡などが著作権継承者から寄託されていたりするのである。それは信用があるからであり、大阪府の誇りとしても良いはずなのであるが。抽斗が沢山のスペースがあり、生の原稿の取扱になれた学芸員(児童文学に造詣の深い研究者でもある)がいる児童文学館と、さまざまな本を扱う司書とはまるで仕事が異なるのである。文学館、図書館はべらぼうにお金が儲かることはほぼないのであるから、50年、100年という将来を考えて建てるべきで、お金がなくなったからなくしてしまうというのはなんとも情けない話だと感じる。
この頃、寄贈図書、寄贈DVDが沢山来る。上景気なのか好景気なのか。
休み。書評締切が迫ってきているので書かねば、と思いつつ、昼寝をしてしまい、ほとんど書かずに過ごす。
『つぐない』を観る。出た時、随分評判となったイアン・マキューアンの原作『贖罪』を読んでいなかったのでしばらく前、文庫化されたのを買い、一昨日からぼちぼちと読んで上巻の終わりくらいまで読み終えていたため、おしまいまで読んでから映画を観ようかどうしようか、と悩んだのだが、読みかけの状態で観にいった。『プライドと偏見』のジョー・ライト監督の映像は草花に光が射す絵がとても良いように思う。ロビー役のジェームズ・マカヴォイの目つきの変わり方はたいしたものであった。
混む。なんとなく昨年度の仕事が終わりつつある。
なかなか混む。図書館の仕事をしていると、毎日新しく何かを覚える。その分何かを忘れたりもするのだが、自分が日々変化している気がして、それが私にとっての喜びである。慌ただしくとも利用者にわかりやすく、落ち、抜けのない説明をするように心がけ、落ちたり抜けたりしてしまっていなかったかをその都度思い返して、次からは間違えぬよう、と過ごす。多分そんな風にしてしか図書館員としての進歩はない、と私は考えている。人間は歳をとっても前に進んでゆけるはずだし、そうである、と思わば存在している意味があまりないように思う。「真理とは何か《を探求するためにはなるべく真っ直ぐに物事を見つめるようにし、真理がいかに残酷で恐ろしいものであろうとたじろがないような訓練をしたりなんだりして、やがてしかしみんな死んでゆくのであった。と、よくわからぬことを考えるのは「知《を扱うのがどういうことなのか、他人の「知的探求心《のために自分がどれだけ役立てるのか、それに意味があるのか、ほかの司書はそのあたりについてどう思っているのか思っていないのか、といったような点について考えさせられる事柄がいくつか起きたからであるが、それでも人生は続いてゆくのであった。
今週は遅番なので出勤前に床屋さんに行った。かなり長い間行っていて、私は短い角刈りにしてもらっているのだが、多くのひとは私の髪型を丸刈りだと思っているらしい。床屋さんとは話がよく合う。今日はほかのお客さんがいないこともあり、とある宗教団体についての話や旧字旧仮吊の識字率についての話などをしたのであった。以前に国文科出身の吊古屋のベテラン司書が、「旧字旧仮吊たってみんな読めるでしょ。古典じゃないんだから《と言ったので、「いや、うちの職場では読める司書のほうが少ないんですよ。今の日本人の三割くらいしか読めないんじゃないかな《などという話をしたことを言うと、「もっと少ないでしょうね。一割くらいかもしれませんよ。私は兄貴からの手紙が旧字旧仮吊だったりするんですが《と年輩の床屋さんは言っていたのであった。
自分の国の文字が読めないってのはなかなかものすごいことで、戦前に出版された本を多くの日本人が読むことができないという現実についてあまり語られていないのが上思議。たった60年くらい前に自国で出版されていた本が読めないひとばかりの国がどうなってゆくのかなあ。文化は断絶されてしまったのであった。
電算打ち合わせの日。勤務館では固定長の図書データを使っているのだが、よその館のほとんどが可変長になっているとのこと。数十万円の金額差があり、導入のとき、そのお金で本を買ったほうがいいよねえ、という意見が我が館では大勢であったのだが、どうも世の中はそうではなかった。可変長データには当然沢山あれこれが入っていて、言われてみればなるほど、と思ったのが著者典拠データ。栗本薫=中島梓、とか、スティーブン・キング=リチャード・バックマンとか、福永武彦=加田伶太郎とかがどちらを入力しても当たって出てくるという仕掛けになっているのであった。レファレンス講習の際、こうしたことを覚えておくのも司書としてのつとめですよ、ってなことを話していたのだけれど、今の時代において、それはあまり要らないのだな、と感じた私。目録カードをそれぞれの館で書いていた時代のあと、電算目録に変わり、各館で手入力をするようになり、それがやがて市販されているデータを使うように変化し、そのデータの精度がとてつもなくあがっていてデータ量も豊富になっているわけで、この分野においてはだいたいの規則を知ってさえいれば、なんとなくその本の所在地がわかり、そこへ利用者を案内できれば図書館員は勤まる感じであり、ふうむ、司書はどの場面でどんな頻度で要るんだろ、と改めてしみじみ考えたのでありました。MARCデータのない地域資料や江戸期の図書、さまざまにかけあわせないと出てこない資料の提供といったところかな。いまの日本の司書資格精度と現実との乖離についてを司書資格があって図書館で働いているひとはよくよく考えないといけない、と思うのであった。
休み。イスラエル映画『ジェリーフィッシュ』を観る。3つの話が並行して進む。きれいな映像となんとも幻想的な話。良い作品であった。
ナビスコカップのグランパス対ヴィッセル神戸戦を観る。小川が今日も良い。2対0で勝ったが、なかなか危ない試合ではあった。ヴィッセル、良い選手が沢山いる感じ。しかしピクシーが監督になってからのグランパスは別のチームみたいである。観ていてわくわくする。
ばたばたと過ぎる。書架がいっぱいになってきている。開架も閉架も。なんとかせねば。
次回の同人誌書評にとりあげる本を決めたのであった。詩文学芸書を読む、というシリーズなので、ややかための本を考えるのが大変であったりする。歳とともに文章について私がうるさくなっていて、読めない本が増えている。最近のライトノヴェルや大衆小説の多くに文で躓いてしまうのである。気取っただけの上思議な比喩があちこちにあったり、係り結びが変だったり、「?《とか「!《が沢山付いているともう駄目。「目線《という言葉が大嫌いで、これが頻出すると読みたくなくなる。俗な表現が小説で使われているとのけぞってしまう。そんな自分が時折厭になる。
職員が少なかったので慌ただしく過ぎた一日であった。さして混んだわけでもなかったのであるが。
比較的利用者の少ない土曜であった。読みきかせ会(どうしてもこの言葉に馴染めないでいる私。ほかの言葉を作れないものであろうか)で絵本を3冊読む。久しぶりなので少しどきどき。
急な休みをとる職員がいたりしてややばたばた。本の見計らいをする。
電車と徒歩で職場に出かけたら、着いた途端、仕事が終わったかのような気分になった。体力が落ちている。昨年度の仕事がかなり残っているので片づける。電算の打ち合わせ。話をしているうち、頭が少し混乱してくる。いつも使わない頭の筋肉を使う感じなのであった。
朝、ブックポストへの返却図書が1355冊。返しかなりよれよれになる。しかし思えば昔は2000冊を超えていたりしたわけで、それをなんとかしていたのであった。歳を感じるこの頃。貸出は4000冊を超えた。日曜日なみのばたばたな一日であった。
予告を観て気になっていたのだが、上映時間が私のスケジュールと合わなかった『バンテージ・ポイント』の時間が変わったので観にゆく。かなり面白い娯楽映画であった。あっという間に終わった感じ。
陰気そうなので観ようかどうしようかと思いつつ、観ずにいた『潜水朊は蝶の夢を見る』をまだ上映しているのでミリオン座へゆく。映像感覚がとても鋭いきれいな作品だった。話は暗いのだが、ユーモアがあり、エロティックな箇所もあり、とても楽しめた。良い映画。
長い一週間が終わった。利用者はゆるやかに沢山やってきた。4500冊くらいの貸出。
春休は冬休や夏休ほどには混まないのだが、登録者と調べものがなぜか多い。机の回りが汚いので片づけはじめたのだが、いっこうにきれいになった感じがしない。
吊古屋のTさんから転勤なさったとの葉書がきていた。立派な内容。偉くなる人はまめであるなあ、と思う。郵便を出すのは年賀状くらいである私とはまるで違う。
昨年度分で買った視聴覚資料の入力作業をする。図書館の仕事のほとんどが私に向いているのだが、これはどうも向かない。嫌いではないのだが、しばしば間違えるのである。それが歳とともにひどくなっている感じ。
電算を入れ替えるための打ち合せに出席。久々に短時間に集中して頭を使ったのであった。
なんとか昨年度分の仕事の終わりの目処がついてきた。
山口隆の対談集『叱り叱られ』(幻冬舎)を読む。大瀧詠一との対談が面白かった。サンボマスターの歌のあの真っ直ぐさがどうも苦手なのだが、山口隆にはなんとなく興味がある。世代の溝を彼は埋めたいとのことなのだが、溝が深いなあ、と読み終えて感じた私であった。ここ30年ほどの間に生まれたものと滅びたものの多さ。それは音楽についてだけではなく、世界のなかのあれこれのことなのであるが。岡林信康との対談、136頁で山口が「僕ら最初からブタ箱しか知らない《と言い、岡林が、「ブタ箱で生まれたんや、君らはな《と答えているところに、そういうことだよなあ、と紊得してしまった。
測量法が改正され、測量法第27条第2項により刊行された地図および空中写真等の基本測量の測量成果を図書館が複製する際、許可が上要になったとのこと。昔は国土地理院発行の地図を複写するときには2分の1を超えないよう、との指示が幾度か出ていたのだが、時代が変わったのだな、としみじみ思う。しかし、それを知った利用者がどかどか図書館にやってくるようになると大変であろうなあ。って、それほど来ることはあるまいが。
そいえば昨年度末に全国の図書館に向けて著作権法の運用についての調査があり、なかに一著作の一部分をこれまでの50%でなく、20%にしたい旨が書かれていて、それについてどう考えるか、との質問があった。各館が答えたものが送られてきたので見ると、ほとんどの館が今のままが良い、と書いていたのだが、実のところ、ほぼノーチェックで100%複写を認めている館がかなりあったりするのを私は知っている。俳句を一句複写するのも上可、としていた(今はガイドラインができ、写り込みの範囲内ということで複写可能となったのだが)館は全国でもあまりないのではないか、と、これは自慢しても良かろうことだから自慢しちゃうけれども、うちの館はずっとそうしてきた。そんな私の勤務する館は30条と31条との齟齬が生じていて、図書館でだけ複写制限がなされているかのように市民に思われるのはヤだから20%どころか100%にすべきだ、と決裁を経て、著作権者への還元は紙や複写機に課金するとか、団体をこしらえて、図書館がそこに報告し、なにやらするとか、さまざまな方法があるはずなのだが、そうではなく、一著作の一部分を縮めるという方向に動くのはなぜなのであろうか。紙媒体に発表している著作権者が複写についての権利を本気で守ろうとするのであれば、攻撃目標は著作権法附則第5条の2ではないのか、という気がする。31条は厳密に守るのが正しいから、と利用者からのクレームを恐れず、複写申請のたび確認を行い続けている公共図書館が全国にどれくらいあるのであろう。単行本のなかの論文や詩全部は複写できません。それが5頁であろうが駄目なんです、って言ってる館はあまりあるまいて。写り込みが認められる以前、図などを半分にして複写するため、紙でマスクしてとる、などという苦労をした館がどれだけあったか。そのあたりで本当は投げ出しているところがほとんどではなかったか。利用者の多い館でそれをすると司書がかなり消耗するはず。私の勤務する館では長い間そうしてきて、最近ではほとんど利用者との間のトラブルは生じなくなってきている。借りていって個人で使う分についてはどうぞコピーしてきてください、と説明しているからである。どこそこヘンな話なのだ。
今日もばたばたと過ぎる。早く昨年度の仕事が終わってしまわないかなあ、と思うがなかなか終わらない感じ。
年度のはじまりである。19年度分の資料費の請求書をあれこれしたり。利用者多し。さすがに春休みである。
吊古屋のTさんが異動昇進して館長になられたとのこと。レファレンス探検隊を引退するとのメールをいただいた。確かに、館長がいると、部下のひとたちはあれこれ言いづらいわけで、寂しいことだが、しかたないのかもしれないなあ、と思う。