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- 2000年3月24日(金)
異動の発表。4月1日から図書館に戻ることになりました。なかなかしんどい二年間でありました。4月1日から図書館員日記を再開します。
- 某月某日
住民票はややこしい。本籍地と続柄の欄を省略するのか載せるのかを申請書に書いてもらっているのだが、どちらでもいい、と思っている人が実に多いのであった。一応、その欄に○をつけていない場合には省略で出してしまいますよ、と書いてあるのだが、だからといって○をつけていない人になにも言わずに省略して出してしまうのは不人情というものであろう。本籍地を知られたくない、続柄を知られたくない、と考える人が少数であるから○をつけていない場合は載せてしまう、という手もあるとは思うのだが、それもやはり問題である。本籍地を変更したので免許の記載をかえてもらう場合や、パスポートの申請には本籍地の記載が必要。自動車の購入は本籍地も続柄も不要。不動産の相続の場合はどちらも必要。携帯電話の購入については電話屋さんによって違うみたい。と、まちまちであり、お客さんは知らない、こちらもわからない、といったケースもあったりする。訊いてもらえばすぐにわかるけれど、別にどちらでもいい、と思っているお客さんは適当に○を打って申請書を出したりする。どちらも省略に○を打ってくる人が申請理由に「パスポート申請」と書いていたりもするので、理由を書かずに「省略」としてくる人にも一応念のため、「ほんせきとつづきがらの欄は省略しておいてよろしいのですよね」と訊くと、「住所と同じだから」とか「ひとりしか住んでいないから」と答える人も多い。住民票を出された側にはそれはわからないのだけれどもなあ、と、そのことについて説明をはじめる、と、そんなのべつにどっちでもいいよ、という態度に出られたりする。実は私もどっちだっていいんだけれども、訊かねば後でどうして教えてくれなかった、と言われるやも知れず、これが実になんともめんどうくさいのであった。なんとかならないものだろうか。なんともならないのだろうなあ。戸籍除籍の謄抄本についてのやりとりもなかなか鬱陶しい。そんな話聞きたくない、と思ってる場合が多いからだ。私だって聞きたくないし、したくもない。しかしさすがに図書館で十数年接客業務をしてきたので、焦らず、怒らせず、ゆっくりと説明をする私であった。毎日似たようなやりとりをするせいか、利用者に説教めいた感じで接する職員も実は多かったりする。でも、住民票や戸籍謄抄本なんて普通に生活してる人は一生に何回も申請するわけでもないのだからわからなくて当たり前。気持ちはわかるが説教してはいけないと思うのでありました。こうしたことにむいた職員を配置しなければ、いつまで経っても市民課は感じの悪いところでありつづけることでありましょう。きっとこういうのが好きで就きたいと思ってる人だっているだろうになあ。
- 某月某日
住民票の請求理由でこの頃多いのが携帯電話の使用料の滞納の人の住所確認をしたいためというもの。私は生理的に携帯電話を好きではない。現場仕事の人とか、必然性があっての利用であればさほど何とも思わないが、十代の若者などがさしたる用もないのに携帯電話で中身のない話を歩きながら、また、電車の中で大声で話しているのを見たり、いい大人が自動車に乗りながら馬鹿な顔をして携帯電話で話していて、信号が変わっても発進しないのを見ると、「十年前の人がタイムスリップして来たら、こいつを気違いだと思うだろうな」などと想像して楽しむようにしている。そうでも思わないといらいらしてしかたがない。あんなもの本当に要るのか、と思うのは私だけなのだろうか。便利であろうことはわかるが、便利であることとかっこわるいことは紙一重であるとも思う。美からはほど遠いところにある機械。それはさておき。そもそも携帯電話の使用料は安くないのである。月々3600円などと宣伝しているが、それが最低料金だったりするわけで、当たり前だが使えば使うだけ高くなるのだ。あとさきも考えずに無駄話をして、電話代を数十万円だか数百万円だか滞納して、夜逃げをする若者。その為に要らぬ仕事が増える役所。クレジット会社、金融会社からの住所確認も実に多い。ほどを知るということがなくなっているのであろうなあ。分相応なんて言葉を長らく聞かないような気がする。人間の欲望には際限がないのである。抑制のきかぬ人間が年々増えているのではあるまいか。万葉の時代の人間と現代の人間とを比較して、現代の人間の方が優れている、恵まれている、と言えるのであろうか、などと考えてしまう私である。便利なものがあること即ち幸せなのであろうか。
- 某月某日
恐ろしいミスを発見。外国からA市へ転入するのに戸籍抄本と戸籍の附票(住民登録した住所の履歴がわかるもの)の写しが必要だと言われたので、とその人のお父さんが取りにきたのであった。だが、附票には今いるはずの国の名前が書かれておらず、B市に住んでいることになってしまっている。お父さんに事情を尋ねると、「息子のほかの家族も一緒に外国に住んでいて、一足先にA市に転入している。B市から外国に出たのも家族より少し先だったが」とのこと。附票を見ると確かに家族は外国に出たあとA市に転入しているのだが、この息子さんだけは外国に出ていないことになってしまっている。とりあえずB市に電話をし、現在この息子さんが住民登録しているかどうかを確認。登録されておらず、住所地から確認するとその部屋には別人が住んでいるとのこと。外国に引っ越したのが十年以上も前なので転出の記録もB市に残っていない。転出したら本籍地の役所に連絡が来ることになっているわけで、その連絡をもらって附票に記載をするはずなのである。が、あるべきその記載がない。B市が連絡を忘れたか私の勤めている町が記載を落としたかのどちらかである。転出手続きをせずに外国へ行ってしまったとも考えられるが、その場合、市からの郵便物が届かないことで住んでいないことがわかり、住所地に確認して住んでいないことが明確になれば、職権消除、つまりその人は住所不定状態となるわけで、その旨の連絡も本籍地の役所に連絡が来るはずなのである。ともあれどちらかの役所のミスである。さてどうしよう。お客さんの息子さんの家族に連絡をし、何年何月何日に外国に行かれたか、を尋ねたのだが、はっきりとした日にちまではわからないとのこと。本人に電話をかけて確認しておきます、と言ってくださった。このご一家が実に優しくて良い人で助かった。ただの役所のミスのためでものすごい迷惑をこうむっているのだけれど、一度もお怒りにならず、こちらの問い合わせやお願いに快く応じてくださったのでした。とりあえず今の状態の附票の写しを持っていっていただいてもしかたがないので、あとで郵送します、とお客さんに説明したのでありました。附票担当の主任が休みをとっており、住民基本台帳の担当、戸籍の担当と相談。役所のミスは明かであるが、今現在、その人が転出手続きをとったか否かが不明であり、何の書類も残っていないのだから、B市に今現在いない、と職権消除するしかないのではないか、との意見、本人は転出手続きをとったであろうはずでそれをいきなり住所不定にしてしまうのはおかしいとの意見様々であった。私の意見も後者である。しかし法律とは恐ろしいもので役所のミスのせいで住所不定にされてしまうようなこともあったりするのであろうな、ということがわかったのでした。一応その線もあり得るわけで、息子さんのご家族に、「今現在では転出届を出されたかどうかの記録が一切ないため、B市かうちかのどちらかのミスであることははっきりしているのですが、附票への記載が外国へ行ったことにならず、現在A市に住んでいませんという記載になる可能性があります。はっきりしたことは明日の朝、附票担当責任者との協議で決まるのです。A市への転入には問題はないのですが、附票の記載が、ある期間、どこにいらしたかがわからないことになってしまうかもしれないのです」と、住所不定になるかもしれないのですけどごめんなさい、とのひどい内容の電話をかけたのでした。私ならばこんな電話がかかってきたらきっと暴れちゃうだろうなあ、と思いながら。しかし温厚な方で、「そうですか。しかたありませんね。ご連絡をお待ちいたします」とおっしゃっていただいたのでした。翌日、担当と相談。「そりゃあ、住所不定にしちゃってはまずいだろう。記載の遺漏なのだから聞き取りで記載すればいいはず。外国への転出は国内と違って他の役所からの転入通知がないんだから、本人の申し出で書いているわけで、パスポートの写しをもらうか、いついつに転出しました、との書類をもらえば記載可能だ」との判断。早速その旨をご家族に連絡したのでした。以前のパスポートも保管しておられるとのこと。申し訳ありませんが、出国日の記載のある箇所をコピーしてFAXか郵便でお送りいただけませんでしょうか、と連絡。快諾なさってくださったのでありました。その後、ご本人から国際電話。海外にパスポートはあり、そこからFAXで送ってくださるとのこと。一度も声を荒げることなく、こちらを詰問もせず、淡々と事務的に、「では送ります」と話が終わったのでした。ほんとに良い人達。これが私のような怒りっぽいひとであれば、まず暴れますな。暴れたって不思議がない状況。自分はただ引っ越しの手続きを役所に出して帰って来ようとしてお父さんに附票を取りにいってもらっただけなのに、すごくめんどくさいわけのわかんないこと言われてあれがいるこれがいる、引っ越したのはいつだのなんだのって電話がかかってくる。一体俺が何をした。悪いのはみんなそっちだろう、と言われたら、「はい、そのとおりです」と答えるしかないものなあ。まるで聖人のようなご家族で救われました。私もこうした事態に遭遇したときにはあのような態度で応対できるようになりたいな、と思ったのでした。それにしても市民課でのミスは実に恐ろしいことになるのであるなあ、としみじみ思いました。何も悪くない人を住所不定にしてしまうところだったのですから。
- 某月某日
一年か二年か三年か四年あとに図書館に戻るわけで、司書としての専門性を維持せねばならぬのだが、それがなかなか大変である。図書館に働いていれば、日々図書等の資料に触れ、山のように送られてくる新刊案内に目を通し、新刊の見計らいをしているのであるが、図書館で働いていないと、まるでそこが欠落しているのである。頭に入っている分類は耳から流れ出してゆきそうであるし、書名著者名出版社名出版年などのデータもある程度私のなかに蓄積されているのであるが、まるで使わない日常になっているとこれまたどこかへ行ってしまいそうである。さらに新刊は毎日出版されているのであるから、その情報も得なければならないのだが、今までは仕事時間中に新刊の半分ほどを実際に手にとり、残りのいくつかもパンフレットなどでだいたいどんな本であるかを把握していたのであるが、これができない。TRCの「今日の新刊」に毎日目を通していたのであるが、更新されない日が増えている。「今週の新刊」は更新されているようなので、これには欠かさず目を通す。土日のどちらかで名古屋の大きな書店に行くようにする、といった程度のことしかできないのでありました。図書館から離れる年数が長くなれば、どんどん私の専門性は薄くなってゆくに決まっている。などということは市役所の多くの人とは何の関わりもないことなのでありましょう。司書の仕事が国民にもっと知られなくてはならない、と強く思う反面、市役所に異動になって、どうやら世の中には本を読まない人の方が数が多そうであるから、司書はこんなことをしてるのだ、などと話しても仕方がないのかもしれない、とも思えるのでありました。「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」ですな。
- 某月某日
珍しい利用者が来る。印鑑証明書の申請をしたので、出し、名前を呼んだのだがいない。さらに一、二分間をおいて、二度、三度と呼んだのだが、いない。そうした場合、いつ来るのかわからないので、基本的には申し出ていただくまで置いておく。たまに一時間ほど来ない人もいたりするのである。その印鑑証明書を申請した人もなかなか来ないな、と思っていたのであるが、閉庁間際になって、窓口付近の椅子に怒ったような顔をして座っている人がいるのに職員が気づいた。「何か御用でしたでしょうか」と尋ねると、「印鑑証明が出るのを待っているのですが」とのこと。「出ていますよ。幾度かお呼びしましたけれども」と答えると、「ここに座っているのは私だけなんだから声をかけてくれてもいいじゃないの。一体どれだけ待たせるの。私が言わなければいつまでも放っておかれるの?」と大変な剣幕。「間をあけて三回は呼んだのですが」と言うと、「その後からは呼ばないの。私は一二分、そこのキャッシュコーナーでお金を下ろしただけなのよ」と言う。とりあえず平謝りに謝ってその場をおさめたのだが、納得した様子もなく帰ってゆかれた。それは確かに気づかなかったこちらが悪いと言われれば悪いのだが、ほかにもその席近くのテレビを見ている人もいたし、席に座っているからといって市民課に用のある人とは限らないわけで、ただ人と待ち合わせているという場合も多いのである。申請をしておいてその場から離れ、その間にできたかどうかを尋ねもせずに三十分も待っていて怒る人が世の中にいるとは想像していなかった。一二分、ということはないはずで、五分くらいの間に私だけでなく、もう一人の職員も呼んでいた、とのこと。戻ったあと、「離れてましたが、できていませんか」と訊くのが当然のような気がするのだが。三十分も待てば腹は立つであろう。そもそも頼んでおいて、その場から離れること自体失礼だと私は思うのだが、世の中にはどうにも不思議な人がいるのである。そして役所は態度が悪い、などと投書したりするのがこういうタイプの人であったりする。ま、あんまり対応が良い窓口であるとは言えないと、私も思うけれども、この件に関してのみ言えば、自分勝手な利用者の言いがかりである、と敢えて言い切ってしまう私であった。
- 某月某日
印鑑登録の恐ろしさをしらない利用者が多くいることに驚いた。登録印鑑の七割がいわゆる三文判なのである。印鑑登録証を紛失でもしたら、すぐに同じ(ように見える印鑑)を入手され、何に使われるかわかったものではないのだけれどもなあ、などと、ミスをおかしやすく他人を疑る癖がある私は心配してしまうのだけれども。印鑑登録証の紛失の多さもなかなかのものである。日に数件は必ずある。ひとつの町でそんなものをなくす人が沢山いるものかなあ。免許証もそれくらいの勢いでなくなっているのであろうか。免許証をなくすよりもずっと恐ろしいと思うのだけれども。小学校、中学校、高校あたりで印鑑についての知識をもう少し植えつけておかないと詐欺師が大喜びするような状況である、と私は思うのでありました。世の中にそれほど悪人がいないのかもしれない。
- 某月某日
配置転換が不当ではないかと組合交渉。本庁でどんな仕事をしているか、出先に勤めているからと言って知らないのでは困るから勉強をしてもらう云々と幹部職員が言う。そんなことくらいならばどの課でどんな仕事をしているかの一覧を作れば良いのである。ならば役所に勤めている職員は各課の仕事をすべて把握しており、利用者に問われた時に、的確にどの課に行けばよいかを説明できるとでも言うのか。図書館から電話で問い合わせる際でも電話をたらい回しにされることしばしばである。こんなくだらない理由で異動をされたのかと思うと笑える。専門職でも本庁で云々とのことならば市立病院勤務の医師も看護婦も建築技師も異動させねばならないことになるはずだ。今のところ電算技師と司書を異動させているだけ。そして多分私にとってこの異動は恐らく何の役にも立たない。それよりも新刊図書の情報を私生活でいかに得てゆくか、レファレンスの勘を落とさないようにどのように過ごしてゆくのかが私にとっての大きな課題である。今まで寝ていてもできたようなことが、司書という仕事の専門性を無視した今回の異動でかなり難しくなるのである。本を読まない、調べものをしない、図書館を利用したことのない人間の不思議な思い込みは実に恐ろしい。しかし、役所というところはそうした人たちの手によってまわっていたりするのである。組合は「一体何年本庁にいさせるのか」と質問。「電算技師が異動したときは二年であった。長期間本庁にいるままということはない。一年ということもある」との答えであった。二年の間に本は十万冊出版されるのである。
- 4月1日(水)
市民課へ異動。印鑑証明や住民票を出す。私は印鑑登録担当とのこと。緻密さに欠ける私には向かない仕事である。
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