「……ひょっとして、2組の三浦クン?」 思わずと驚いてしまったが、確かにその通りだったのでああ、だの、まあ、だの曖昧に応えると、彼女はさっきまでより仄かに温度があがったような面持ちで、捲くし立てた。 「やっぱり! うちの学年でサッカー部で超うまいんでしょ?」 「いや、そんな言うほどは、べつに」 「謙遜してる。さっすが」 ニヤニヤと笑っていた。僕はなんだか拍子抜けしたというか、考えていたものと違うというか、いやそれはそれでおかしな話なのは自分でもわかっているのだけれど。だって、僕は彼女のことを何も知らないのだから。 「でも焦ったー。入部希望者だったらどうしようかと思った。あたし全然わかんないし」 「えっと……」 「あたし1組の設楽」 「『したら』」 「建設の設に楽しい」 「ああ。あの」 名前の読み方がわからない人。 「名前の読み方がわからないので有名」 自分で言っちゃった。 「設楽……さんは、美術部員じゃないんだ?」 「そりゃそうよう。美術部ってガラじゃないし」 「そうかな。結構、サマになってたけど」 「え?」 余計な事を言ってしまった気がした。 「それより、ええと、じゃあなんで絵描いてるの?」 「これ授業の課題。あたしほんっと絵とかヘタでさ。補習よ補習」 手招きされたので寄っていく。覗いたキャンパスにはミミズが這うような線と色とりどりの水溜りみたいなカタマリ。何が描いてあるのかすらさっぱりわからないといった有様。 「うわ……」 「すっごい率直な感想をありがとう」 「あ、いや、えっと……。……すまん」 「やー、そんなマジで謝んないでよ! 三浦クンて面白いねー」 ぺしぺしと二の腕をたたかれる。僕がすまんと言ったのには彼女が知る由もないもう一つの理由があって、つまり僕は、なんとなく……ここには来なければ良かったな、なんて思ってしまったものだから。 この気持ちを落胆と呼ぶにしても、それは本当に自分勝手なものだと理解していたから、だから僕はもう一度すまん、と心で告げて、でも、やはり、 僕が来たかった美術室は、ここではなかったのだろう。 「で、三浦クンは何しに来たの?」 どきっとした。彼女は何一つの深読みの仕草も見せず、ただ無邪気に首を傾げている。僕は色々な意味でやりきれないような、その先に申し訳ないような気持ちになってしまって、 「えっと……。そうだ、美術部」 「え? まさか入部?」 「……いや、えっと……。ちがう、あれだ、興味がある段階」 「だってサッカー部じゃん」 仰るとおりです。 「見学はタダだ。見るだけ見るって感じはアリだろう」 「そりゃまあ自由だけど……」 「ってことで、絵描いててくれ」 「え、あたし? だから美術部じゃないって!」 「まあいいだろ。なんかそれっぽい、雰囲気とかわかればいいんだ」 「なにそれー。えー。やだな恥ずかしいよ」 「俺、そっちにいるから。邪魔になっても悪いし」 椅子を引っ張って少し離れたところへ。背もたれを前にして両腕を乗せる。 本当言うと、まともに見ていく気はなかった。ただ、とんぼ返りをするのも心証が悪いと思ったから、だから適当なところで切り上げて帰ろうと思う。 設楽はちらちらとこっちを見ながらえー、だの本気でー、だの照れ笑いで抗議していたがやがて緩慢な動作で作業を再開した。 かくて、夕さりの美術室に奇妙な二人がいる。お互いに美術部員でもなければ大した知り合いでもない。 ――俺は何をしてるんだろう、と僕は思った。 僕はここで何してんだろう、何をしに来たんだろう。 どうにも、虚しくなってきた。 「ん」 設楽は時折、独り言のような呟きを漏らす以外は黙々と、真面目に筆を動かしていた。はじめはこちらが気なったようだが、すぐにも作業へと没頭していった。 しゅっ、しゅっ、という筆を摺る音が間断なく響いている。 「(ああ……)」 僕はその時、郷愁に似た感覚に襲われる。 僕はこの光景を知っていた。それは窓と窓ごしに、あるいは空想の中で。 しゅっ、しゅっ、という音と、かすかな思案の呟き、筆を置く音、椅子を動かす音、制服の衣擦れ、時計のチクタク、空白の耳鳴りに、校庭からの野球部の練習音がどこか遠くに聞こえる。 ただひたすらに、熱くも寒くもない按配で、彼女が筆を鳴らす。 僕はどうやら、一つだけ思い違いをしていたようだ。 彼女は、ずっとここに居た。ここにずっと居たのは、紛れもなく、彼女だったのだ。 当たり前の話だけれど。 「(……涼しい)」 僕はいつしか、背もたれの上に組んだ両腕に、顎を乗せてそして目を閉じた。目を閉じていても開いていても、そこにあるものは変わらないような気がした。 遠くで生徒達のはしゃぐ声がする。チャイムの音がする。金属バットは真芯でボールを打ち返し、調子外れのトランペットの音が響いて、僕はずっと筆の音を聞いている。筆の音を聞いている。 しっかりと、それは鳴り続けている。 はっと気がついたらもう遅い。少しだけ意識が途切れていたようだ。 一度欠伸をして見回す頃には異変に気がつく。オレンジの続く美術室には、もう僕しかいなかった。 どこからが夢だったか、とかそういうようなことはこれといって考えはしなかった。僕は立ち上がり一つ伸びをして、椅子を片付け、トビラに手をかけたところで、 「あ、起きたんだ」 設楽が姿を現した。手には絵。 「今もう先生に今日の分見せてきたから、今日はこれでおしまい」 ちらっとその絵を見る。 「なんか、俺が来た時からあんま進んでないな」 すると設楽はぎくっとした後に手をパタパタさせ、誤魔化し笑いのような声を出しながら僕の横をすり抜けて行った。 美術室の棚に絵をしまい、せかせかと帰り支度をしている。 「あ、いや、変な意味じゃないぞ。あんなに真面目にやってたのに……と思って」 「そ、そうだねー。おかしいねー変だねーアハハ……」 そのぎこちない所作の理由がイマイチとわからなくて首を傾げていると、設楽はやや強引に別の話題をひっかぶせてきた。 「それで、三浦クンは結局どうするの」 「なにが?」 「美術部」 僕は自分でも驚くくらい、すんなりと答えを返した。 「もう何度か見学して考えよう……とか思う」 「ふーん……」 言ってから自分でもびっくりしたけれど、どうやら本当にそうしようと考えているらしくて。設楽はカバンを持ってマフラーを首に巻くと、こう呟いた。 「あたし、美術部入ろっかな」 「は?」 「三浦クンの寝顔って結構幼い感じだよねと言いました! それじゃバイバイまた明日!」 そのまま、設楽が横をすり抜けて駆けていくのをぼんやりと見送る僕が居た。 それにしてもちょっと前くらいからお互いに顔が赤らんでいたような気はするのだが、そういうのは全部、夕日の所為だということにしておきたい。 |