チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調 作品36

チャイコフスキー(1840~1893)  

  偉大な作曲家の中には、その人生における最大の危機を迎えた時に飛躍的な発展を遂げた人が少なからずいます。まずはベートーヴェン、32歳で作曲家として致命的となる難聴に加えて他の病気に苦しみついに遺書(1802年3月)を書きますが、立ち直った直後から傑作の森と言われる作品群(交響曲第3番『英雄』、5番『運命』、6番『田園』、ピアノ協奏曲4番、5番『皇帝』、ヴァイオリン協奏曲、『熱情ソナタ』など)を次々と生み出しました。ワーグナーは1849年ドレスデン革命に参加したために官憲に追われて亡命生活を余儀なくされがらも、その間稀有壮大な楽劇『ニーベルンクの指輪』の創作に着手します。チャイコフスキーにふりかかった人生最大の災難は『白鳥の湖』、『ロココの主題による変奏曲』、交響曲第4番、歌劇『エウゲニ・オネーギン』などを生み出しました。ただチャイコフスキーが他の楽聖と少し違うのは、同時期に思いもよらない幸運にも恵まれたことです。


 1876年12月18日、36歳のチャイコフスキーはナデージダ・フィラレートヴナ・フォン・メック未亡人(1831~1894)と文通を始め、彼女から年額6000ルーブルの援助を受けることになりました。鉄道事業で巨万の富を築いた亡夫の遺産を相続し5男6女の子供を持つ45歳のフォン・メック夫人はその財産を芸術の庇護のために使うことを誇りにしていました。彼女の家にはニコライ・ルーヴィンシュタイン、ヴィニャフスキなど著名な音楽家が出入りし、後にはドビュッシーが音楽教師として雇われています。この天からの恵みのような援助によってチャイコフスキーはモスクワ音楽院での教職から解放されて作曲に専念することができ、この頃作曲を開始していた交響曲第4番とオペラ『エウゲニ・オネーギン』に大きな弾みがついたのでした。1877年5月1日にはその交響曲第4番をフォン・メック夫人に献呈することをチャイコフスキーは手紙で申し入れ、5月3日には第3楽章までスケッチが進みます。なお、チャイコフスキーは彼女と14年間文通をしますが一度も会うことはありませんでした。ちなみに、当時の役人が家族を養うのに年間300~400ルーブルだったという記録があり、メック夫人の援助がいかに巨額だったかがわかります。



ナデージダ・フィラレートヴナ・フォン・メック未亡人(1831~1894)     ナデージダ・フィラレートヴナ・フォン・メック未亡人(1831~1894)

 ちょうどこの頃、モスクワ音楽院で教鞭をとっていたチャイコフスキーは教え子アントニーナ・イヴァノブナ・ミリューコヴァから一方的な手紙による求愛を受けます。彼女は音楽院にはごく短い期間しか在籍していなかったので(通信教育という記録もあります。)チャイコフスキーは手紙の主が誰であるかわかりませんでした。4月末に最初の手紙を受け取り、5月23日に初めて彼女に会って程なく婚約、7月6日に結婚式を挙げるというスピード交際には誰しも驚かされました。彼女に初めて会ったわずか5日前に作曲に着手したプーシキン原作のオペラ『オネーギン』の作曲に没頭していたチャイコフスキーは現実と小説の区別がつかない錯乱状態にあり、作品の中で若い娘タチアーナを冷たく拒絶する主人公オネーギンのように自分は振舞えなかったとも、自分の父親を安心させたかったとも言われていますが、イギリスの監督ケン・ラッセルの映画『The Music Lovers(恋人たちの曲・悲愴 1970年)』で衝撃的に描かれたチャイコフスキーの同性愛を隠すためという説も囁やかれています。


チャイコフスキー夫妻    ケン・ラッセルの映画『The Music Lovers(恋人たちの曲・悲愴 1970年)


 チャイコフスキーが同性愛者であったことは現在ではほぼ事実として認識されていますが、そのことが理由であったかどうかはともかく結婚は長続きしませんでした。わずか1ケ月もしないうちに別居状態になり、チャイコフスキーは体調も崩し精神状態も不安定になります。交響曲第4番のオーケストレーションを開始して1ケ月程たった9月17日、なんとチャイコフスキーは冷たいモスクワ川に自ら浸かって肺炎に罹ることを企てます。幸い通行人に発見されて病院に担ぎ込まれ2日間死線をさまよいますが、一命をとりとめます。チャイコフスキーは病院を退院すると逃げるようにスイス、ウィーン、ヴェネチアと旅に出かけます。オーケストレーションを始めたところで中断していた交響曲第4番の草稿を出先まで送らせたところその郵便が行方不明になるトラブルもありましたが、11月には無事受け取って作曲を再開させます。12月26日、イタリアのサン・レモで全曲のオーケストレーションが完成します。総譜はモスクワに郵送され、翌年の2月10日、ニコライ・ルーヴィンシュタインの指揮で初演されました。総譜には「親愛なる友へ」と献辞が書かれていますが、それがフォン・メック夫人であることは間違いありません。なお、平行して作曲していたオペラ『オネーギン』は1878年1月20日に完成されました。

 チャイコフスキーは妻のミリューコヴァとはその後二度と会うことはありませんでした。彼女からは度重なる調停の試みがなされましたが、チャイコフスキーは経済的援助はしたものの調停は拒み続け、法律的には婚姻は解消されないまま1893年に死んでしまいます。彼女は離別後自殺を図り、1896年には精神病院に入って20年後にそこで死去します。

セルゲイ・イヴァノヴィッチ・タネーエフ(1856~1915)

 チャイコフスキーの弟子であり同僚の作曲家タネーエフはこの曲を「筋立てのある標題音楽」と批判したところ、チャイコフスキーは「なぜ、それが欠点になるのか私にはわかりません。逆に、もし私のペンから流れ出る音楽が和声やリズムや転調が進行していくことだけで成り立つ何の意味がないものとするとそれは残念なことです。」と反論しています。また、「実際、この曲はベートヴェンの交響曲第5番に倣って書かれています。もちろん、その内容ではなく、基本的なアイデアにおいてです。」とも書いていて、この曲によって人を暗闇からメランコリーへ導き、人生を肯定するエネルギーを次第に回復させようとしているかのようです。闇から光という、まさにベートーヴェンが試みた「苦悩から歓喜」というアイデアを踏襲しているということになります。チャイコフスキーはこの曲の初演直後にメック夫人への手紙(1878年2月17日)で譜例を添えて曲の解説を書いています。一個人宛てに書かれたものではありますが作曲者自身による解説であることは間違いありませんので、ここに引用して曲の解説に代えさせていただきます。


1878年2月17日
 今日あなたからの手紙が届いてどんなに嬉しかったことか。私のかけがえのないナデジダ・フィラレートヴナ! 私はどんなに運がいいか。なぜなら、あなたがこの交響曲を好きになってくれて、これを聴いて私がこの曲を書いている時に満たされた感情と同じものを経験し、私が書いた音楽に深く感動されたのですから。
あなたはこの交響曲に明確な標題があるのか尋ねましたね。通常、私の交響的作品についてこの質問をされると、「全くありません」と答えます。実際この手の質問に答えるのはとても難しいことなのです。明確な主題のない器楽作品が書かれている時に抱く曖昧な感情を列記することができるでしょうか。これは純粋に詩的なプロセスなのです。~中略~

 「私たちの交響曲」には標題があります。なんとか言葉で説明しようとすればできるのです。あなただけに、私は曲全体と各楽章の意味を説明しようと思います。もちろん、おおまかなものですが。

序奏は、交響曲全体の「種子」であり、疑いなく主要な楽想で、

曲の冒頭、管楽器によって激しく奏される「運命の動機」

 これは「運命」です。「運命」は幸福の達成をめざそうとする我々の衝動に立ち塞がる破滅的な力で、快適なくらしと安らぎとが一点の曇りなく成就することが決してないように嫉妬深く見張り、ダモクレスの剣のように我々の頭上にぶら下がり、絶え間なく魂に毒を盛り続けているのです。この力は揺るぎないもので誰も打ち勝つことができないのです。我々ができることはそれに身を任せ空しく嘆くだけなのです。 [註1 ダモクレスの剣]


第1主題「ワルツの動きで」弦楽器が奏します

 荒れすさみ希望を失った感情はますます強まり心を蝕んでいきます。現実から目をそらし空想に浸ってみるのがいいでしょう。

第2主題、クラリネット独奏

 なんという喜び!なにはともあれ、甘くほのぼのとした空想の世界が広がります。優しく晴れやかな人々が集いどこかへ手招きします。

ヴァイオリンによって優しく奏されます

 いいぞ!強迫観念のような最初のアレグロの主題はずっと遠くで鳴っています。空想は徐々に魂を掌中におさめていきます。憂鬱で喜びのないものは忘れ去られます。そうです、ここに幸せがあるのです。

いや、それは空想だったのです。運命は私たちを空想から呼び覚まします。

再び「運命の動機」が切り裂くように鳴り渡る

 このように我々の人生は、厳しい現実とつかの間の夢や幸福の幻影の絶え間ない交錯から成り立っていて、そこには逃げ場はありません。人は皆この大海に浮かんでいて、最後は飲み込まれ、引き込まれてしまうのです。


 第2楽章は憂愁の別の側面を表わしています。この憂うつな気持ちは、一日の仕事に疲れた夜、ひとり部屋の中で腰掛けているときに襲われるものです。本を読もうとして手に取ったら思わず手から滑り落ちてしまった折などにふと思い出がたくさん湧き上がってくることがあります。なにもかもがやって来ては過ぎ去っていくのは悲しいことですが、でも若い頃を思い出すのは楽しいものです。この楽章は過ぎ去ったよき日々への郷愁に満ちています。しかし、再び生きていこうと再出発することは望みません。人生に疲れきっているのです。休息したり人生を振り返ったりするのは心地よく、若い血がたぎって生活に満足していた楽しい時もあったのです。しかしつらい時もあり、取り返しのつかない多くのことを失ってきました。これらは今やすべてがどこか遠くに行ってしまったのです。過去に没頭するのは悲しくもあり、幾分心地よいものでもあるのです。

 第3楽章、ここでは特定の感情は表現していません。気まぐれなアラベスクや、少々酒を飲んだときにほろ酔い加減で頭の中をひらひらと通り過ぎるぼんやりしたイメージから出来上がっています。陽気な気分でも悲しい気分でもありません。何も考えず、自分の想像を自由に羽ばたかせます。すると何かの拍子で奇妙な絵を描くことに取り組みます。その中には酒盛りをして騒ぐ農民や辻歌の情景もあります。やがてどこか遠くを軍隊が隊列を作って通り過ぎます。これらは寝ている時に脳裏を駆け巡る全く取るに足らない映像で、現実との共通点がなく奇妙で支離滅裂なものです。

 第4楽章。もし自分自身の中に喜ぶ理由を見出せないのなら他の人を見なさい。普通の人々の中に入っていき、その人たちが喜びの感情のなすがままに任せるひと時を見なさい。この楽章は民衆がお祭りを楽しんでいるシーンです。あなたはどうにかこうにか自分を忘れようとして幸福そうな彼らにつられてはしゃいでいると、無慈悲な運命がまたしても顔を出してその存在をあなたに誇示します。人々はあなたのことを忘れ、あなたがひとりぼっちで悲しんでいても振り向くことも目を留めることもしません。なんと彼らは愉快な時を過ごしているのでしょう!なんと彼らの感情は皆幸運にも無邪気で率直なんでしょう!自分を責めなさい、そしてこの世のすべてが悲しいと言ってはなりません。単純で力強い喜びはあるのです。人々の幸福を祝福しなさい。そう、それでこそ生きることができるのです。

 親愛なる友よ、以上がこの曲の説明としてあなたに言えるすべてです。もちろんこれではまだ明確ではなく完全でもありませんが、詳細な分析を寄せ付けない器楽作品にはありがちなことなのです。「言葉が終わるところで音楽が始まる」とハイネが言っています。~中略~   [註2 ハイネ]

PS:この手紙を封筒に入れる直前に読み返したのですが、私は恐ろしくなりました。私があなたに送ろうとしている内容が曖昧で不適切だからです。音楽的な思想やイメージを言葉や文章に置き換えなければならなかったのは、生まれて初めてです。上手く言うことがどうもできないのですが、この交響曲を書いていた昨年の冬、私は落ち込んでいました。この曲はその時私が直面していたことの忠実なエコーなのです。しかし、その「エコー」とは何か。明確で厳密な言葉のひと続きに翻訳するなんてどうやってできるのでしょうか?私にはできませんし、どうしたらできるのかわかりません。私が忘れてしまったこともたくさんあります。私の頭に残っているのは私が経験した情熱や恐怖といった自然の感情をかき集めたものです。私はとても、とても心配なのです。私のモスクワにいる友人たちが何と言うか・・・。

以上、チャイコフスキーの書簡集を英訳したものからの和訳です。
'TO MY BEST FRIEND' CORRESPONDENCE BETWEEN TCHAIKOVSKY AND NADEZHDA VON MECK 1876-1878. Translated by Galina von Meck. Edited by Edward Garden and Nigel Gotteri (1993). By permission of Oxford University Press.


「ダモクレスの剣」画面左上に剣が中空にぶら下がっている  ハインリッヒ・ハイネ(1797~1856)  エルンスト・テオドール・アマデウス(E.T.A.)・ホフマン(1776~1822)


[註1 ダモクレスの剣]
 「ダモクレスの剣」とはギリシャの哲人キケロが伝える故事に基づきます。紀元前4世紀前半(c. 397 BC - 343 BC)、シチリア王のディオニシウスⅡ世の廷臣ダモクレスが、王の富と羨んでその幸福を称えたところ、王は彼を金のソファに座らせ、豪華な食事を並べ美少年をはべらせます。ダモクレスは幸福のように見えました。しかし彼の頭上には天井から馬のたてがみの毛一本でつるした鋭く磨かれた剣が下がっていて、幸福そうな男の首を伺っているのでした。ダモクレスは美しいウエイターを見ることもテーブルに手を伸ばすこともできず、そのうちにすべては片付けられてしまいました。ダモクレスは王に許しを請い、二度と幸福を羨むことをしないことを誓うことで解放されたのでした。
 シェイクスピアが『ヘンリー四世』で民が寝ている間も王は眠りを拒まれているとこの言葉を引用していて、高い地位についている者は常に不安に悩まされているものであるという意味から転じて、幸せは常に危険にさらされている喩えとして使用されています。

[註2 ハイネ]
 チャイコフスキーはこの言葉を他の手紙でも引用していまして、かなりお気に入りだったようです。また、彼に限らず他の人もこれをハインリッヒ・ハイネ (1797-1856)の言葉として引用しています。しかし、実際にハイネの作品や評伝を探しても音楽に言及したものは少なく、この言葉を発した痕跡は見つかりませんでした。さらに、ハイネではなく、ドビュッシーの言葉、ハイドンの言葉として引用している文献もあります。
 上智大学独文科の佐藤朋之教授によると、正しくは、 E.T. A. ホフマンの言葉として一般には伝えられていて、いかにもホフマンらしいが「出所不明」とも言われているそうです。原文では Wo die Sprache aufhört, fängt die Musik an. となりますが、これと完全に一致するホフマンの著作は見当たらないそうです。似たような言葉は、ホフマンの『ベートーヴェン第五交響曲批評』の最初の辺りにありますが、上記の文そのままではないとのことです。


参考文献:
Keeping Score MTT on Music, San Francisico Symphony http://www.pbs.org/wnet/gperf/shows/tchaikovsky4/index.html
© Elizabeth Schwarm Glesner


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