ちょうどこの頃、モスクワ音楽院で教鞭をとっていたチャイコフスキーは教え子アントニーナ・イヴァノブナ・ミリューコヴァから一方的な手紙による求愛を受けます。彼女は音楽院にはごく短い期間しか在籍していなかったので(通信教育という記録もあります。)チャイコフスキーは手紙の主が誰であるかわかりませんでした。4月末に最初の手紙を受け取り、5月23日に初めて彼女に会って程なく婚約、7月6日に結婚式を挙げるというスピード交際には誰しも驚かされました。彼女に初めて会ったわずか5日前に作曲に着手したプーシキン原作のオペラ『オネーギン』の作曲に没頭していたチャイコフスキーは現実と小説の区別がつかない錯乱状態にあり、作品の中で若い娘タチアーナを冷たく拒絶する主人公オネーギンのように自分は振舞えなかったとも、自分の父親を安心させたかったとも言われていますが、イギリスの監督ケン・ラッセルの映画『The
Music Lovers(恋人たちの曲・悲愴 1970年)』で衝撃的に描かれたチャイコフスキーの同性愛を隠すためという説も囁やかれています。
以上、チャイコフスキーの書簡集を英訳したものからの和訳です。
'TO MY BEST FRIEND' CORRESPONDENCE BETWEEN TCHAIKOVSKY AND NADEZHDA VON MECK 1876-1878. Translated by Galina von Meck. Edited by Edward Garden and Nigel Gotteri (1993). By permission of Oxford University Press.
[註1 ダモクレスの剣]
「ダモクレスの剣」とはギリシャの哲人キケロが伝える故事に基づきます。紀元前4世紀前半(c. 397 BC - 343 BC)、シチリア王のディオニシウスⅡ世の廷臣ダモクレスが、王の富と羨んでその幸福を称えたところ、王は彼を金のソファに座らせ、豪華な食事を並べ美少年をはべらせます。ダモクレスは幸福のように見えました。しかし彼の頭上には天井から馬のたてがみの毛一本でつるした鋭く磨かれた剣が下がっていて、幸福そうな男の首を伺っているのでした。ダモクレスは美しいウエイターを見ることもテーブルに手を伸ばすこともできず、そのうちにすべては片付けられてしまいました。ダモクレスは王に許しを請い、二度と幸福を羨むことをしないことを誓うことで解放されたのでした。
シェイクスピアが『ヘンリー四世』で民が寝ている間も王は眠りを拒まれているとこの言葉を引用していて、高い地位についている者は常に不安に悩まされているものであるという意味から転じて、幸せは常に危険にさらされている喩えとして使用されています。
[註2 ハイネ]
チャイコフスキーはこの言葉を他の手紙でも引用していまして、かなりお気に入りだったようです。また、彼に限らず他の人もこれをハインリッヒ・ハイネ
(1797-1856)の言葉として引用しています。しかし、実際にハイネの作品や評伝を探しても音楽に言及したものは少なく、この言葉を発した痕跡は見つかりませんでした。さらに、ハイネではなく、ドビュッシーの言葉、ハイドンの言葉として引用している文献もあります。
上智大学独文科の佐藤朋之教授によると、正しくは、 E.T. A. ホフマンの言葉として一般には伝えられていて、いかにもホフマンらしいが「出所不明」とも言われているそうです。原文では
Wo die Sprache aufhört, fängt die Musik an. となりますが、これと完全に一致するホフマンの著作は見当たらないそうです。似たような言葉は、ホフマンの『ベートーヴェン第五交響曲批評』の最初の辺りにありますが、上記の文そのままではないとのことです。