シベリウス:交響曲第6番ニ短調 op.105

ジャン・シベリウス(1865〜1957)    フィンランドとハーメリンナ(中央の黄色いエリア)
シベリウスの生涯

  ジャン・シベリウス(1865〜1957)は、フィンランドのハーメリンナで外科医の父親のものに生まれます。ハーメリンナはヘルシンキの北北西100キロにある森と湖に囲まれた古い交易の街で、スウェーデンからのキリスト文化の影響から当時はスウェーデン語圏にありました(フィンランドは当時ロシア支配下の大公国)。シベリウスは5歳でピアノを叔母から習い始め、学校に通う頃には作曲の才を示します。フィン語系の学校に上がった後、14歳でヴァイオリンを弾き始め、作曲も独学で始めます。この頃、姉のリンダ(ピアノ)、弟のクリスティアン(チェロ)との室内楽演奏に親しみます。

シベリウス5歳   姉リンダ(Pf)、弟クリスチャン(Vc)、ジャン・シベリウス(Vn)

 19歳でヘルシンキ大学の法科に学びますが、同時にヘルシンキの音楽院でヴァイオリンと作曲法を修めます。やがて法科はやめて音楽院だけにし、そこでは弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者としても活躍します。ここでイタリアからきたピアニスト&作曲家フルッチョ・ブゾーニと親交を結び、影響を受けます。なおシベリウスはこの頃から神経が細かく人前であがる性向があり、演奏家としてより作曲家としての道を進むようになります。


フルッチョ・ブゾーニ(1866〜1924)  妻アノイ  ベルリン時代のシベリウス


 1899年音楽院を卒業した後、ベルリンで作曲の指導を受け、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガ−』に夢中になったり、ビューロー(ピアノ)やヨアヒム(弦楽四重奏)の弾くベートーヴェンに感銘を受けたりします。しかし、シベリウスは父親譲りの浪費と放蕩癖を発揮し病気がちにもなり、ブゾーニの勧めでウィーンへ赴きます。ウィーンではゴールドマルクやフックスに師事し、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの伝統的音楽を吸収しますが、同時にブルックナーの交響曲第3番に感動して、その演奏会の晩にブラームス派と乱闘騒ぎも起こしています。

 また、ハンガリーやルーマニアから来た音楽家達に溢れる国際都市ウィーンに身を置くことで、シベリウスも祖国フィンランドへの関心を高め、フィンランド独自の音楽スタイルを見出しはじめるようになります。なお、シベリウスは1891年の初めに何を思ったのかウィーン・フィルのヴァイオリンのオーディションを受けます。1時間ほど弾いたシベリウスは気分が悪くなり、体も震えだし、ついには気を失いそうになり、あえなく落選となります。審査員は「演奏は悪くないが、作曲をするにはピアノを学んだ方がいい」と言ったとか。これに落胆したシベリウスは再び贅沢、賭け事、大酒、パーティ三昧に走ります。やがて金つき病気で入院までしたシベリウスは家族や周囲の協力を得て祖国に帰ります。

 帰国後、ウィーンで構想を得たフィンランドの伝説『カレワラ』に基づく「クレルヴォ交響曲」を作曲し大成功を博します。またアノイと結婚し、ヘルシンキ音楽院の教授にもなって安定した生活基盤を得ることになります。1898年シベリウスは交響曲第1番の構想を練り始め、当初はベルリオーズの幻想交響曲をイメージしますが、ヘルシンキで演奏されたチャイコフスキーの悲愴交響曲(初演6年後)の影響を色濃く反映した作品になりました。翌年、フィンランドとロシアの関係が悪化し国内では愛国運動が高まります。その時上演された歴史劇『歴史的情景』のための音楽をシベリウスが書き、その後交響詩としてまとめたのが名作『フィンランディア』です。1900年にはイタリアへ出かけ交響曲第2番に着手します。この頃、スーク、ドヴォルザーク、R.シュトラウスなどに会っています。


1900年頃のシベリウス   諸外国に知れ渡り始めた頃のシベリウス


 1903年の代表作ヴァイオリン協奏曲を最後に、作風が民族的・ロマン的なものから簡潔な古典的性格を帯びるように変化し始めます。田園地帯ヤルヴェンパーに山荘風の居を構えたシベリウス(直ぐ酒場に入り浸るシベリウスを都会から遠ざけるために妻アノイが発案)は1907年春に交響曲第3番で独自のスタイルを世に問います。この秋にはマーラーと会いますが、両者はその自尊心の高さからすれ違いに終わったとされています。


ヤルヴェンパーのシベリウス宅「アイノラ」   シベリウスと「アイノラ」


 翌年には咽喉腫瘍が発見されベルリンで手術を受けます。死の恐怖に接し、病気の再発や転移におびえ、酒も煙草も禁じられたシベリウスの作風は暗く沈鬱な方向へと変化していきます。この頃の交響曲第4番は心理的内向性を帯びた作品となりますが、批評家や聴衆は一様に当惑するようになります。1911年にはドビュッシーに会い、1914年には米国にも渡り自作を指揮して喝采を浴びます。しかし第一次世界大戦の勃発で大好きな英国や米国への旅行ができなくなり、ドイツの出版社から金が入らなくなったため、フィンランドの出版社向けの小品を多く書きます。またこの間、交響曲第5、6、7番の構想が同時に始まったとされています。戦争という暗い時代ではありましたが、国家行事として計画された1915年の生誕50年祝賀会のために準備された交響曲第5番あたりから、取り戻した健康・生命力・栄誉・自然への志向といった明るい要素が作品に反映されるようになります。


1914年、渡米してイェール大学から博士号を授与  1915年、交響曲第5番を指揮するシベリウス  シベリウス(1920年)


交響曲第6番の成立
 交響曲第6番のスケッチは1914年の12月頃に始まり、しばらくの中断(ロシア革命の勃発とシベリウス家への赤衛軍による捜索、ヘルシンキへの引越し)の後、1918年に作曲を再開します。当初シベリウスはこの曲を「荒々しく、情熱的な性格、田園的なコントラストもあり、・・・終結部はうねりの中で強まって、メインテーマは消されるであろう」と記していましたが、荒々しさとは反対の清楚・透明な楽想が曲を支配するように変えられていきます。和声も古典的な長短調に立脚せず、教会旋法(とりわけドリア調)への傾斜、対位法の多用など、ルネッサンス時代の宗教音楽への接近を見せています。この時期に、とりわけパレストリーナに魅了されたと言われていますが、交響曲第2番の頃に出かけたイタリア旅行以来シベリウスはこの作曲家を研究していたようです。

 また、同時期にヴァイオリン協奏曲を作曲する計画を立てたこともあり、これは後に放棄されますが、ヴァイオリンのヴィルトォーゾ的な性格もこの交響曲に色濃く反映されています。さらにこの時期、シベリウスの長年のパトロンであったカルペラン男爵や終生シベリウスを医師として且つ財政的に支援してきた弟クリスチャンの死に接することで、宗教的ないし信仰的告白がこの曲に織り込まれているとも指摘されています。初演は1923年2月19日、シベリウスの指揮で行なわれ、曲はスウェーデンの作曲家ピアニストのステンハンメルに献呈されました。次いで演奏旅行に出かけてストックホルム、ローマ、ロンドンなどで演奏します。しかし、外国での評判はパッとしなかったようです。1926年ストコフスキーがアメリカ初演を行なっています。なお、この曲の編成的な特徴は、ハープが入っていることとティンパニが随所で活躍することです。


シベリウス(1927年)   指揮者フルトヴェングラーと(交響曲は第7番しか指揮していない)


 3曲の交響曲を書いた後の30年間、シベリウスは際立った作品を作曲せず、1957年9月20日に永眠します。さんざん放蕩の限りをつくして91歳の長寿をまっとうしたシベリウスですが、その晩年には「私に酒と葉巻を禁じた医者はみな死んでしまった。だが、私だけ生きている。」と言ったとか。まさに、Drunken & smoky composer を貫いたわけです。


曲について
 偉大な作曲家の交響曲作品について、それぞれにスタイルを与えるのは比較的容易です。ベートーヴェンは古典的、ラフマニノフはロマンティック、ドビュッシーは印象派、等など。しかし、シベリウスはどの楽派でしょう?ロマン派?ネオ・ロマン派?国民楽派?印象派?

 シベリウスはそのどれにも当てはまるし、同時にどれにも当てはまらないと言えます。シベリウスの感動的な主題やその革新的な音色を聴けば、そこには「シベリウス」しか聴けないのです。

 ベルリンで学んでいた頃はワーグナーの影響を受けてオペラを書き始めますが途中で放棄します。また、交響曲第1番はチャイコフスキーとボロディンの痕跡を見ることができます。しかし、次第にシベリウスはそれらの影響を排除して自らのインスピレーションに従う方法を身に付けていきます。・・以下略   ( by Robert L. Jones 1998-1999)


第1楽章 アレグロ・モルト・モデラート
 序奏における弦楽器によるコラールはドリア旋法(ピアノでいう白鍵だけでDから始まる音階)を採用することで宗教的な雰囲気を作り上げています。次いでハープによる軽やかなリズムに乗って主題部に入ります。フルートによる憧憬に満ちた第1主題は明らかに同時期に構想していたヴァイオリン協奏曲からの転用と考えられます。木管による第2主題は田園風の気分に満ちていて、これは序奏の下降音型をその一部に含んでいます。軽快な音楽運びに終始するうちに爽やかなクライマックスを迎えます。その後は総休止を挟んでやや厳粛な雰囲気の中を、後ろを振り返るようにこれまでの旋律の断片を煌かせながら曲を閉じます。

第2楽章 アレグレット・モデラート
 フルートとファゴットによる溜息のような楽句で開始されますが、これは前楽章の第1主題の上昇音型を受けています。この後、ヴァイオリンがメインとなる主題を奏し、次いでこの主題の末尾から派生した動機をフルートなどが展開させます。弦楽器による細かい音符の連続は神秘的な森の木々のさざめきに、木管は小鳥たちの呼び交わしを表現しているのかもしれません。

第3楽章 ポコ・ヴィヴァーチェ
 馬のギャロップを連想させるリズムは作品55の交響詩『夜の騎行と日の出』に類似します。木管・ヴァイオリンによる一陣の風が吹き抜けるような旋律とフルート、オーボエによる鳥の語りかけのような第2の旋律からなり、荒々しい金管の威嚇するようなアクセントを交えた楽章です。

第4楽章 アレグロ・モルト
 再びドリア旋法による宗教的な雰囲気から開始されます。やがて弦楽器によるリズミックな短いモチーフを重ねながら、8分音符と16分音符をスラーでつないだ対話風のモチーフへと発展させ頂点を築いていきます。しかしその後は静かになり、冒頭の主題から派生した結尾主題が弦楽器によって奏されて全曲を閉じます。



指揮者オーマンディの回想から
 ハンガリー生まれのオーマンディは、1932年、スカンジナヴィア以外で最初にシベリウスの交響曲をレコーディングした指揮者で、シベリウスと4〜5回会っています。1955年、オーマンディはフィラデルフィア管弦楽団とフィンランドへ演奏旅行に行った際、団員を連れてシベリウス宅まで行っています。前任者のストコフスキー以来、フィンランド国外で最もシベリウスを演奏してきたオーケストラをどうしても見せたかったようです。オーマンディはシベリウスの曲はドイツでは何故か人気がなく、ある時ベルリンのRIAS放送交響楽団で2番の交響曲を振った際、団員は譜面を見たことがなかったそうです。また、オーマンディはシベリウスの3番と6番の交響曲は正直言って理解できないとも書いています。

シベリウスと指揮者オーマンディ  シベリウスと指揮者オーマンディ(1955年)


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