シューマン:交響曲第4番 ニ短調 作品120

ロベルト・シューマン(1810〜1856)  シューマン夫妻  クララ・シューマン(1819〜1896) 


 シューマンは1841年の9月に2番目の交響曲としてこの曲(交響曲第4番)を完成しました。書き始めたのは1番の交響曲を初演した同年3月の直後で、シューマンは「私の次の交響曲は『クララ』と呼ばれ、フルート、オーボエ、ハープで彼女の肖像を描くだろう」と日記に記しています。実際この曲は彼女の誕生日のプレゼントとして捧げられ、冒頭の主題はクララの作品からの引用とされています。しかし、同じ年の12月6日、ライプツィヒのゲヴァントハウスで初演されましたが、評判は芳しくなく、シューマンの努力にもかかわらず出版すらも適いませんでした。

 何故失敗だったのかいくつかの説があります。シューマンの1番の交響曲ではメンデルスゾーンが指揮して成功をおさめたのですが、この曲の初演時にメンデルスゾーンが不在だった(指揮をしたのは当オーケストラのコンサートマスター)。同じ演奏会で妻であるクララ・シューマンと、かのフランツ・リスト(いわば当時のニ大スターの共演でした。)が連弾を披露して聴衆の人気をさらった。作品自体に問題があった(後にシューマンはこの曲を改訂するわけですが、この最初の譜面にたいしてシューマンは「スケッチ」と呼んだとされています)。等々。    

 ところが、その10年後の1851年12月12日に「昔の2番目の交響曲の再オーケストレーションを始めた」とシューマンは書き記しています。ここでの「再オーケストレーション」という書き方が誤解を招いていまして現在でも解説書や音楽辞典にそのままの表現で記されています。しかし、オーケストレーションの大幅な変更はもちろんですが、実際には構成上にもかなりの改訂が及んでいるのです(特に両端楽章)。なお、改訂の作業はその年の末には終わったとされています。確かにシューマンは機会ある毎に「新しいオーケストレーション」という表現を使っていて、「以前より良くなっていて、効果的だ」とまで書き記しています。最初の版ではメロディーをひとつの楽器で演奏させていたのを、改訂版では複数の楽器で重ねるよう変更している個所が数多くあり、より重厚な印象を受けます。それとリンクするようにテンポも改定により多少遅目の指定になっています(表記がイタリア語からドイツ語に変わっています。)。また、両端楽章での序奏ではかなりの変更を施していて、よりドラマチックな演奏効果をあげています。

 この改訂された「昔の2番目の交響曲」は、1853年にデュッセルドルフにおいて作曲家自身の指揮で初演が行なわれ、シューマンの生涯で最も輝かしい成功を収めました。こうして、この曲は第4交響曲、作品120として晴れて出版されたのです(副題は「大オーケストラのための1楽章による序奏、アレグロ、ロマンツェ、スケルツォとフィナーレ」)。今日、一般的に演奏されるのはこの1853年の改定稿(または最終稿)でして、初演以来シューマンの名曲として不動の評価を受けつづけてきたことは、シューマン:交響曲第4番CDリストに掲げた60種類を越える録音の数からもわかると思います。なお、我が立川管弦楽団もこの最終稿で演奏を行ないます。 

ブラームス(1833〜1897)   フランツ・ヴュルナー(1832〜1902)


 ところが、シューマン:交響曲第4番CDリストの備考欄を見ると1841年版の演奏が幾つか存在することがわかります。この1841年に初演で失敗した「昔の2番目の交響曲」をめぐり、ブラームスを仕掛人として興味深いことが起きたのです。

 この「昔の2番目の交響曲」の自筆譜(以下、第一稿と呼びます)は、シューマンの死後、未亡人であるクララ・シューマンからブラームスの手に渡り保管されていました。ブラームスはシューマンによる最終稿よりこの第一稿のほうが明快で構築力があると考え、重要視していたとされています。ブラームスはまず音楽学者のマンディツェフスキーにこの第一稿を写させて、1886年にこれを友人のヘルツォーゲンベルクに送り、ベルリンでヨアヒムが演奏するよう勧めました(この時既にブラームスは自分の最後の交響曲第4番は完成されています。)。彼らは上演の計画を立てましたが実行はされませんでした。しかしブラームスはこれで諦めずに機会を探し続け、ようやく1889年10月22日にケルンでヴュルナーの指揮で演奏されました。余談ですが、後にヴュルナーはR.シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの悪戯』を初演で指揮をしています。

 ブラームスはこれにとどまらず、バッハ旧全集の校訂者であるヴュルナーにこの第一稿の校訂を依頼しました。ヴュルナーは自筆に従った校訂を、ブラームスはシューマンによる最終稿の要素を取り入れた校訂を主張し、最終的にはオーケストレーションだけ部分的に最終稿を採用する形で作業が行なわれました。こうして、1891年になって第一稿(正確にはヴュルナー版)はシューマン全集の付録として初めて出版されたのです。

 こうしたブラームスの執念が実って、シューマンの「昔の2番目の交響曲」は晴れて出版されることになったのですが、今日でいう作曲家の書いた最初のかつ正しい形に戻す「校訂」という概念からは程遠い作業であったことは否定できません。クララ・シューマンはこの校訂作業には否定的だったようですが、シューマン亡き後クララを陰にひなたに支援していたブラームスがどういう意図を持って第一稿にこだわったのかはわかっていません。

 第一稿とこのヴュルナー版とではデュナーミクやフレージングに顕著な違いがあり、小節数も異なるとされています。つまり、1841年版には第一稿とヴュルナー版の2種類があるということになります。ところが、問題をもっとややこしくしていることは、ヴュルナー版は出版されていますが第一稿は出版されていないシューマンの手書きの譜面であり、幾つかの作曲の過程が記されていて、曖昧な部分がたくさんあるということです。第1楽章の序奏部のテンポの指定が後で書きなおされていたり、第2楽章にギターのための段が用意されていたり(実際は音符は書きこまれていない/冒頭でオーボエの伴奏をする弦のピチカートは当初ギターで演奏させることとして着想されたと考えてよさそうです。)、第3楽章の冒頭にファンファーレが最初書かれていて後で放棄されていたりと、厳密な資料研究を待たないと結論が出ない個所があります。実際、シュメーエという指揮者のCDでは第2楽章でギターがかき鳴らされ、第3楽章はファンファーレで華々しく始まります。他の1841年版と称する演奏も、多かれ少なかれ演奏者の判断に依存する個所がありうるということです。

 第一稿(自筆譜とヴュルナー版)と最終稿の違いにつきましては上記のことを踏まえて是非実際の演奏を聴いてみてください。譜面の詳細な違いについてはAlan Walker 編集による Robert Schumann The Man & Music の中の Brian Schlotel 著 The Orchestral Music と、マズア/ロンドンフィルのCDの解説に一部譜面付で説明されていますのでご参照ください。なお、Schlotelの著には面白いことが書かれていますので以下に引用します。

  …1851年の版(最終稿)はひたすら厚いオーケストラーションになっているため、その唯一の利点として、ダメな指揮者やヘタなオーケストラにとってより演奏しやすくなっています。少なからず(half-a-dozen)音を外すアマチュアのオーケストラにおいては、この改編された第4交響曲から大きな恩恵が得られるでしょう(a great boon!)。…なんとも耳の痛いお言葉です…。


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