レスピーギ:交響詩『ローマの噴水』&『ローマの松』

オットリーノ・レスピーギ


 イタリアのボローニャ生まれのレスピーギ(1879〜1936年)は、13歳でリセオ音楽院に入学し、ピアノ、ヴァイオリン、作曲を学びます。この時の主な教授には後にイタリア器楽曲復興の立役者となった作曲家ジュゼッペ・マルトゥッチがいます。21歳の時ロシアへ旅立ち、サンクト・ペテルブルグ歌劇場のヴィオラ奏者となります。その後ボリショイ劇場でも演奏します。この時5ケ月間と短いながらも、交響組曲『シェヘラザード』などで有名なリムスキー=コルサコフから作曲のレッスンを受け、華麗で色彩豊かなオーケストレーション技法を習得します。その間、ベルリンに行ってブルッフにヴァイオリンと作曲を学んだり、イタリアに戻ってフリーランスのヴァイオリン&ヴィオラ奏者として活躍したり、16〜18世紀のイタリアのルネサンスやバロック音楽の編集や編曲も行なったりします。29歳で再びベルリンへ赴き、作曲家のフェルッチョ・ブゾーニ、ヴァイオリン奏者のフリッツ・クライスラー、歌手のエンリコ・カルーソー、ピアニストのイグナツ・ヤン・パデレフスキ、指揮者のブルーノ・ワルターらの知己を得ます。ベルリンの指揮者のアルトゥール・ニキシュがレスピーギの編曲によるモンテヴェルディの『アリアンナの嘆き』をフィルハーモニーのプログラムに加えたのもこの頃です。

 ベルリンで観たR.シュトラウスの楽劇『サロメ』に深く感動し、ボローニャに戻ってから、古代バビロンを舞台にした歌劇『セミラマ』を作曲します。その抜粋曲などで認められてサンタ・チェチーリア音楽院作曲科教授に任命され、ローマに引っ越します(1913年)。ここでの仕事は作曲に十分な時間を取ることができ、彼の代表作といわれる一連の交響詩が生み出されることになります。

 レスピーギはこの時、作曲科の生徒だったエルザと結婚します。彼女はまた声楽家としてグレゴリオ聖歌の学位を取っていたこともあり、レスピーギはいくつかの作品にグレゴリオ聖歌を取り入れています。レスピーギは作曲すると彼女の意見を聞いたとされています。なお、エルザはレスピーギの死後60年も生きて101歳で亡くなります。

 その後45歳でサンタ・チェチーリア音楽院の院長に就任しますが、自由な時間を求めて2年でその職を辞し作曲活動を再開します。さらにヨーロッパ各地、南北アメリカへと演奏旅行を繰り返し、自作を指揮したり、ピアニストとして声楽家であるエルザ夫人の伴奏を務めたりしました。しかし、こうした過酷な長旅を繰り返したことで肺の疾患を悪化させ、1936年心臓発作を起こし、56歳で他界します。作曲家グスタフ・マーラーと同じ肺の病気との説もあります。
   


 交響詩『ローマの噴水』( Fontane di Roma )
ボローニャからローマに引っ越してその風物に心を動かされたレスピーギは、1916年にこの『ローマの噴水』の作曲に取り掛かります。同年秋に完成し、翌3月にローマのアウグステオ音楽堂で初演されましたが、結果は惨憺たるもので、落胆したレスピーギは総譜を引き出しにしまいこんでしまいます。
 翌年、指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニがレスピーギにミラノで演奏する作品を求めてきた時にこの作品を思い出して総譜を送ったところ、その演奏は大きな成功を収め、レスピーギの名は一躍注目されるようになります。妻のエルザによると、トスカニーニはボローニャの歌劇場でヴィオラを弾いていたレスピーギの才能を評価していて、それがあって声を掛けたとか。4つの噴水はそれぞれ、「夜明け」、「朝」、「真昼」、「黄昏」の特定の時間帯での姿が描かれています。なお、4つの部分は休みなく演奏されます。【以下、斜体の部分は曲についてのレスピーギ自身の文章です】

 作曲者はこの交響詩の中で、ローマの4つの噴水から得た感情と目に映った姿を表現しようとし、そのために、それらの噴水の特徴が周囲の風物と最も調和する、或いは、それらの美しさが眺める人にとって最も印象的に感じられる時間帯に注目したのです。


明け方の牛の群れ  


第1部 夜明けのジュリア荘の噴水 ( La fontana di Valle Giulia all'alba )
 この交響詩の最初の曲はジュリア荘の噴水から霊感を受けたもので、ローマの夜明け方の中を家畜の一群が通り過ぎ、そして消えていく、のどかな田園風景を描いている。
 ジュリア荘は、ローマ市内にあるボルゲーゼ公園(後述の『ローマの松』参照)の北西にある、教皇ユリウス(Julius)3世の別荘として1550年頃に建てられたもので、現在はヴィラ・ジュリア国立博物館になっています。

第2部 朝のトリトンの噴水 ( La fontana del Tritone al mattino )
 突然のホルンによる咆哮と全オーケストラの大音響で第2部が開始される。それはまるで、水の噴射の間で熱狂するダンスの中で駆け回り、追い駆けっこをしてごちゃごちゃになっているナーイアス(泉・せせらぎなどのニンフ)とトリトン(半人半魚)の群れを呼び集める、歓びに溢れた掛け声のよう。
 名建築家ベルニーニが1643年に完成させた噴水。海神ネプチューンの息子トリトンがホラ貝を上向けて水を噴き上げています。
トリトンの噴水   トレヴィの噴水


第3部 真昼のトレヴィの噴水 ( La fontana di Trevi al meriggio )
 オーケストラのうねりに伴って厳粛な主題が現れる。これが真昼のトレヴィの噴水。厳粛な主題は木管から金管へ移り、勝利のファンファーレを装う。トランペットが鳴り響き、海神に曳かれたネプチューンの馬車は、列をなしているセイレーン(半人半鳥の海の妖精)とトリトン達を従えて、キラキラ輝く水面を渡っていく。その後、行列は遠くから再び響くトランペットの微かな音の中を消えて見えなくなる。
 映画『ローマの休日』でオードリー・ヘップバーン扮するアン王女がこの「トレヴィの噴水(泉)」を見つめてから美容院で髪を切る・・・言わずと知れた観光の名所です。中央に海神ネプチューン、左右に豊饒の女神ケレース、右に健康の女神サルースが配置され、足元には頭の海馬とそれを操るトリトンの彫刻があります。


メディチ荘の噴水 ザロモン・コーロディ画


第4部 黄昏のメディチ荘の噴水 ( La fontana di Villa Medici al tramonto )
 この曲は悲しい主題で開始され、その主題は声を押し殺したような小鳥の囀りの上を漂う。郷愁に満ちた夕暮れのひと時。繰り返しゆったりと鳴る鐘の音、小鳥の囀り、木々のざわめきがあたりに立ち込め、すべては夜の静けさの中に穏やかに消えていく。
 1576年に権勢を誇るメディチ家が建設途中にあった土地と建物を購入して完成させた別荘。ボルゲーゼ公園に隣接しています。


アルトゥーロ・トスカニーニ  ジェラルディン・ファーラー


【余談1】イタリアの名指揮者トスカニーニは1915年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場の音楽監督の職を辞してイタリアのミラノに戻ります。その前年、第一次世界大戦が勃発していて、愛国心に駆られたトスカニーニは母国に貢献しようとチャリティーコンサートをイタリア各地で開きました。自分が得意としたドイツ・オーストリアの作品は敵国であるために演奏できず、新しい自国の作品が必要とされたためレスピーギの『ローマの噴水』の再演という機会が生まれたのです。しかし、かのグスタフ・マーラーを追い出したかたちで手に入れた当時最高のポストであったメトを辞めた本当の理由は何か。前述の愛国心説とニューヨークの富豪達の後援を土台とするメトの運営に不満だったという説がありますが、最も有力な説が不倫破局説です。数年前からトスカニーニはソプラノ歌手ジェラルディン・ファーラーと不倫関係にありました。独身であったファーラーはその頃「自分結婚と結婚するか妻と子供と別れるか」とトスカニーニに詰め寄ったとされ、窮地に追い込まれたトスカニーニはニューヨークを逃げ出したのでした。まさに、『ローマの噴水』はトスカニーニの不倫のお蔭で日の目を見ることができたのです。さらに言えば、『ローマの噴水』はレスピーギの出世作であったのですから、音楽史にレスピーギの名前が残ったのはその不倫のお蔭だったとも言えます。

 オットリーノ・レスピーギ   ジャニコロの丘から望む黄金のローマ市 サミュエル・パーマー画(1805-1881)


交響詩『ローマの松』(Pini di Roma)
 1924年にレスピーギが取り組んだこの曲は色彩的なオーケストレーション技法と古い音楽への憧憬が見事に融合された作品となっています。同年ローマで初演され、途中ブーイングが起こったものの、終曲での輝かしい金管の咆哮によって聴衆から大喝采を浴びました。トスカニーニは出版社に対してこの曲のアメリカでの5年間の独占演奏権を要求し、1926年、ニューヨークのカーネギーホールでアメリカ初演を行ないました。このコンサートにはレスピーギ夫妻をはじめ多くの有名人や芸術家たちが集まり、イタリアとアメリカの国旗と花々に埋め尽くされたステージでの演奏が終わると聴衆は熱狂し、トスカニーニとレスピーギは鳴りやまぬ大喝采に何度もステージに呼び戻されました。クラシック音楽で書かれたばかりの新作がこれ程まで輝かしい成功を収めた例は極めて稀なことと言えます。

 レスピーギはフィラデルフィア管弦楽団でこの曲を演奏する際、このように書いています。
 「『ローマの噴水』では自然に接した印象を音によって再現しようと試みましたが、『ローマの松』では記憶や過去の情景を思い出すための出発点として自然を用いました。ローマの風景を極めて特徴的に支配している樹齢何百年もの松の木は、歴史上ローマで起こった様々な出来事の証人なのです。」


ヴィラ・ボルゲーゼ ロバート・ヘンリー・チェニー画(1796-1864)  ヴィラ・ボルゲーゼ ロバート・ヘンリー・チェニー画(1796-1864)


第1部 ボルゲーゼ荘の松( I pini di Villa Borghese )
 ボルゲーゼ荘の松の木立の間で子供たちが遊んでいる。彼らは輪になって踊ったり、兵隊ごっこで行進したり争ったりしていて、夕刻のツバメのように自分たちの叫び声にひどく興奮し、群れをなして行ったり来たりしている。すると突然、場面は変わって・・・
 枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼなる人物が1605年にボルゲーゼ荘と庭園をつくったのがボルゲーゼ公園の始まり。ローマで2番目に広い公園でジュリア荘などいくつかのヴィラを含みます。のちに自然な景観を生かしたイギリス式庭園に作りかえられましたが、長い間非公開の庭園でした。一般に公開されたのは1903年にローマの自治体が買い取ってから。レスピーギがこの曲を作曲するわずか20年前のことでした。なお、この曲の冒頭の旋律は、彼の妻エルザが子供の頃ボルゲーゼ荘で歌っていたいくつかの民謡のうちのひとつを借用したものだったそうです。


第2部 カタコンブ付近の松( Pini presso una catacomba )
 カタコンブへの入り口をかたどっている松がつくる暗がりが目の前に入る。その奥底から悲しげな聖歌の歌声が聞こえてくる。荘厳な讃美歌のように大気を彷徨って次第に神秘的に消えていく。
 カタコンブはローマ時代に作られた地下墓地。最初ホルンでグレゴリオ聖歌の断片が静かに奏され、次いで讃美歌風の旋律がトランペットのソロで奏されます。やがて狭い音域を行き来する祈り声を暗示する音形が執拗に繰り返され次第に音楽は高潮していきます。


ヤニクロの丘の聖オットリーノ修道院からの日没 ディヴィッド・ロバーツ画(1796-1864)


第3部 ジャニコロの松( I pini del Gianicolo )
 そよ風が大気を揺する。ジャニコロの松が満月の明るい光を浴びてその輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、ナイチンゲール(夜鳴き鶯)が啼く。
 ジャニコロは海抜82メートルのローマの丘。ローマ全体を一望の元に見渡せることで古くから詩人や画家たちが訪れました。イタリア王国統一に貢献したジュゼッペ=ガリバルディの騎馬像と統一運動で命を落とした兵士たちの記念碑があります。古代ローマ神話の神ヤーヌス(Janus)の神殿があったことからその名が付けられたとされています(英語表記:Janiculum)。ヤーヌスは双面(前後2つの顔を持つ)で出入り口と扉の神として知られ、英語の1月をいうJanuaryの語源でもあります。
 ここで昭和60年代にフジテレビで放映されたドラマ『ヤヌスの鏡』のオープニングナレーション「古代ローマの神、ヤヌスは物事の内と外を同時に見る事ができたという…。」を思い出される方はいらっしゃいますか?椎名恵さんが主題歌「今夜はANGEL」を歌っていました・・・。
 なお、曲の最後にはナイチンゲールの鳴き声を録音したレコードをかける指示があります。現在はテープを使用したり、実際に鳥笛などで吹いたりします。


アッピア街道の松


第4部 アッピア街道の松( I pini della Via Appia )
 霧のかかった夜明けのアッピア街道。一本松が不思議な光景を見守っている。音を殺した絶え間ないリズムのいつ終わるとも知れない足音。詩人は過去の栄光の幻を見る。トランペットが鳴り響き、新たに昇る太陽の輝きの中を執政官の軍隊がウィア・サクラ(聖なる道)に向かって行進し、意気揚々とカンピドリオの丘に向かって登っていく。
 アッピア街道は紀元前312年に建設が始まった最初のローマ街道。建設責任者だったアッピウス・クラウディウスの名に因んでいます。紀元前73年に起きた奴隷スパルタクスの乱で、反乱軍に加わった約6,000人の奴隷が捕虜となり、このアッピア街道沿いに生きながら十字架に磔にされたことで知られています。カンピドリオはローマの七丘のひとつで、ローマ神の最高神であったユピテル(ジュピター)などの神殿があり、現在もローマ市庁舎があります。


カンピドリオの丘



【余談2】
 指揮者トスカニーニのお蔭で『ローマの噴水』、『ローマの松』が世界的有名になったのは前述の通りですが、その後レスピーギはトスカニーニに恩返しをしています。
 当時トスカニーニはムッソリーニを嫌悪していて、ファシストの党歌「ジョヴィネッツア」の演奏を断り続けていました。1931年、ボローニャで作曲家・指揮者のジュゼッペ・マルトゥチの生誕75周年を記念する行事がトスカニーニの指揮で開催された際、劇場に到着したトスカニーニの家族がファシストの若者に包囲され、党歌を演奏するかという記者の質問に「しない」と即座に応えたトスカニーニは暴徒らに顔面と首筋を殴られます。トスカニーニが襲撃されたという噂はあっという間に広まり、劇場内の観客はどっと外へ流れ出し、ボローニャ市内は革命が起きたような騒ぎになりました。トスカニーニの家族はかろうじて車でホテルに逃げ帰りましたが、ファシスト党員200名に囲まれてしまいます。その日レスピーギ夫妻が劇場にたまたま居合わせ、ホテルに急行してファシストとの交渉をレスピーギが買って出て事なきを得ます。その未明、夫妻の計らいでトスカニーニの家族はボローニャを脱出でき、ミラノに夜明け前に帰ることができたのでした。


参考文献:
Program Notes of Florida Orchestra by Dr. Richard E. Rodda
『トスカニーニの時代』ハーヴェイ・サックス著 高久暁訳 音楽之友社


                                                         (2012年2月19日)


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