ラフマニノフの病気

 ニコライ・ダール博士   ラフマニノフ
ニコライ・ダール博士の治療
 
 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番といえば、CDの解説を初め必ず言及されるのが交響曲第1番の酷評とラフマニノフの神経衰弱、それとニコライ・ダール博士の催眠(暗示)療法です。

 ダール博士の治療内容については、ラフマニノフ本人の言葉と周囲の人たちの証言で、ダール博士自身の言葉はありません。医師としての倫理的義務として口をつぐんでいると思われます。ということは、治療内容は実際のところは正確にはわかっていないということになります。ラフマニノフの伝記のすべてにおいてもそういった証言だけで、医学的な見解については一切記述されていません。事実としてはっきりしているのは、ラフマニノフがある期間ダール博士のもとに訪れ、ピアノ協奏曲第2番を献呈したということだけです。ここで、ダール博士の治療に関する考察を行なったエルガー・ニールスの Nikolai Dahl's cure - good luck or good practising? Reconstructing Rachmaninoff's case の抄訳を紹介します。

 フロイトによる治療法が世に現れるまで、19世紀の終わり頃までは、催眠療法というのは比較的効果的な治療法とされていました。フロイトはマーラーの治療において必ずしも成功したわけではないのですが、この催眠療法について誤った考えを示したために、その後催眠療法は精神医学の分野では疎んじられているようです(しかも、フロイトはマーラーの治療内容を公表するという倫理的問題を起こしています。)。催眠療法は、アントン・メスマー(1734−1815)以来、ウィーンやフランスの宮廷でもてはやされました。その後、催眠療法の学校もできるようになり、多くの被験者から得られた経験から「暗示(suggestion)」による催眠療法というものがベルンハイム(1837-1919)によって確立されます。

 ラフマニノフの親戚の友人であるグラウマン博士は、モスクワ大学時代の同僚であったダール博士を神経衰弱に苦しむラフマニノフに紹介します。当時ダール博士はフランスで盛んであった催眠療法に関心を抱いていたのでした。ラフマニノフは周囲の薦めに素直に応じて、ダール博士のもとに毎日通います。そこはラフマニノフの従兄弟サーティンの家から数軒先だったようです。当時のラフマニノフはお金に困っていたために治療はほとんど無償だったとされています。ダール博士の治療は、ラフマニノフを心地よいフカフカの肘掛け椅子に座らせ、深い眠りにつけるように静かにしたり、明るい気分にさせたり、作曲したいという気持ちにさせることでした。催眠療法では会話も非常に重要でしたが、ダール博士は極めて教養が高く、しかも音楽についての造形の持ち合わせていたのでした。なんとアマチュアながらヴィオラを弾き、オーケストラでも演奏する人だったのです。

 ラフマニノフの作曲のプロセスはかなり独特で、他の作曲家のように曲想を音符にする作業で苦労することはなかったようです。モーツァルトの作曲方法に近かったとも言えます。しかし、交響曲第1番での失敗以来、彼は自分の直感に疑いを持つようになります。自分の判断に自信が持てなくなり、他に人に意見を求めたり、作曲後に曲のカットを認めたりします。この行為は後の彼の作曲人生全般に見られることです。

 ここでいくつかの疑問点が生じます。ラフマニノフ自身や周囲の人の話しから推察されるダール博士の治療法は「催眠以前の暗示療法」と考えられます。しかし、この方法は軽い病に適応されますので、ラフマニノフは当時手に負えない問題を抱えていたのであれば、とうてい治すことはできなかったはずです。また、催眠療法では、「できないことをできるようにする」ことはできないのです。さらに、ダール博士の治療は集中的に行なわれましたが、その期間は3ケ月と短いものでした。

 ラフマニノフは大作は完成できなかったのですが、例の失敗に続く年においては精力的に活動しています。指揮者としてのキャリアを成功させますし、イギリスへの演奏旅行もうまくいっています。彼の精神状態が悪くなって作曲活動に支障が生じるのは、通常の活動が休止する夏の数ヶ月ということになります。また、ダール博士の治療後、大作がその前より多く作曲されるという事実があります。

 このことから、ラフマニノフは作曲できなかったのではなく、思うように紙に曲想を書き留めることができなかったと推察されます。そのため、ダール博士はラフマニノフが作曲するときに抱くネガティヴな考えを解きほぐすことに力を注いだのです。まさに、「催眠以前の暗示療法」が最適なものと言えます。この推察は、ラフマニノフの作風を見ると明らかです。失敗した交響曲第1番の作品は13、復活したピアノ協奏曲第2番作品18ですが、それに続くいくつかの作品はラフマニノフの初期に特徴的なフレーズに溢れています。つまり、ラフマニノフ自身が自己暗示をかけていると思われるのです。

 伝記などに記されているダール博士の治療中のラフマニノフへの言葉「あなたは協奏曲を書き始めるでしょう、・・・大きな規模の作品を書くでしょう・・・その協奏曲は素晴らしい作品になるでしょう・・・。」は必ずしも正確なものとは言えません(ロシア語の訳の問題なども考えられます。)。この言葉は、「暗示」というより「命令」的と言えるからです。たぶんこんな感じだったと想像されます。「ひとたび、あなたが協奏曲を書き始めたならば、曲想は次から次へと苦もなく湧いてくるでしょう。ペンを執ってごらんなさい。大きな規模の作品になるでしょう。その協奏曲は素晴らしい作品になるでしょう・・・」

 ダール博士はラフマニノフのいわば「書き留めるときの障壁」を取り除くこと、その「障壁」における症候を和らげることに成功します。しかしながら、彼の人格構造そのものにおける症候を取り除くことはしていません。そのために、ラフマニノフは生涯これについて悩まされていて、ようやくそれを克服するのは彼が死ぬ前の最後の10年くらいです。

 ラフマニノフの抱える問題は、むしろ過大評価されていると言えます。それは、「作曲の障壁」ではなく、「書き留めるときの障壁」です。これは、彼の作曲方法と、交響曲第1番の失敗によって負わされたトラウマ、彼の性格の特異性との間に生じた混乱から生まれたと言えます。ダール博士の干渉は「書き留めるときの障壁」を一時的に克服する際に極めて重要ではありましたが、症候を和らげることはできても問題そのものを解決はしていなかったのです。   以上(M.M訳)


 しかしながら上記の結論は、まだいくつかの疑問を晴らしてはいません。なぜラフマニノフは1900年になってダール博士を訪問したのか、なぜそれ以前ではなかったか(交響曲第1番の失敗は1897年)?ダール博士自身のラフマニノフに関する記録がないこと、ピアノ協奏曲を献呈されてもそのコメントがないこと・・。ラフマニノフの孫のアレクサンドルの証言によるとダール博士の娘にラフマニノフは関心があったとか・・・・。人間の心に関わる問題であり、現代でもまだまだ解明されないことがたくさんあります。ラフマニノフの心の問題もほとんど何もわかっていないのかもしれません。

 余談ですが、ニコライ・ダール博士はロシアの革命後、ベイルートへ逃れます。彼は1928年、レバノンにあるベイルート・アメリカン大学のオーケストラでヴィオラを弾く機会があり、あるコンサートでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が演奏された際、この曲の献呈者として聴衆に紹介されたと記録に残っています。そういえば、この曲ではヴァイラがかなり活躍することに気付きませんか?


ヴィオラパートのダール博士   ダール博士が参加したオーケストラ


マルファン症候群
 
  D.A.B.ヤングの論文『ラフマニノフとマルフィン症候群』(1968.12)によると、ラフマニノフはこの病気によって常に陰鬱な表情をし、周囲に近寄りがたい印象を与えていたとしています。

 このマルフィン症候群は、結合組織が冒される遺伝病で、骨格・眼・心臓血管のうちどれかが異常をきたすものです。特に骨格では骨の長軸方向への過度な成長が見られ、手足とも指が長くなります。頭部は狭くなり(ウマ面)、皮下脂肪は極端に少なく骨ばってきます。アブラハム・リンカーンもこの病気に悩まされたそうです。

 ラフマニノフは30歳代半ばからひどい眼精疲労や頭痛、背骨の激痛、両手の硬直、関節炎に悩まされ、特に、眼精疲労によると思われる右のこめかみを襲った激痛は治療にもかかわらず長年彼を苦しめました。ロシアを去る1917年頃以降5年間作曲できなかったとされています。

参考文献 : 『ピアノニストという蛮族がいる』中村紘子著 文藝春秋



付録
□ 6.5フィートのしかめ面 (byストラヴィンスキー)
□ 常に演奏中に見せる冷たい振る舞い
□ ラフマニノフ − 決して笑わない男
□ 処刑を宣告された者のようにステージに現れ、嫌そうに目の前のピアノを見る。やがてその忌まわしいものに手を下ろす。
□ ラフマニノフはヴァイオリニストのフリッツ・クライスラーと度々デュオ・コンサートを開きましたが、あるコンサートでのこと、クライスラーが演奏中自分がどこを弾いているのかわからなくなりました(いわゆる、「落ちた」というわけです。)。そこで、クライスラーはそっとピアノの方ににじり寄り、小声でラフマニノフに「今どこだ?」と訊きました。ラフマニノフはニコリともせずに、「カーネギーホールさ。」と答えたそうです。
□ ラフマニノフはボート漕ぎは終生大好きだったとか

 このように、ラフマニノフのことを伝える小噺はすべて彼の無愛想で冷淡、人付き合いの悪いものばかりです。しかし、家族たちの証言はその逆で、ラフマニノフはジョークを好きで、ちょっとしたことでも笑いころげ、涙を流しながら笑うこともよくあったそうです。そういえば、ラフマニノフのご先祖様はとても愛想がよく、客好きだったことから「ラフマニン」=「愛想のよい客好きな人」というあだ名がつけられ、それがラフマニノフの名前の語源だったのです。彼にもその素地はあったと言えます。しかし、少年期での悲惨な経験や交響曲第1番の失敗などからくる精神的な苦痛や持病などが外に向けては本心を表わさないスタイルを取るようになったのではないかと思われます



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