第9章 初演当時の評判

   
 1911年1月26日『バラの騎士』の初演は大成功で、その後各地で上演が繰り返されました。しかし、一方で音楽評論家や知識人の間からはさまざまな批判を浴びています。『サロメ』、『エレクトラ』と次代の音楽が進む道を示したかに見えたシュトラウスが突如として放った懐古趣味的な喜劇は音楽界に衝撃をもたらしたのは事実です。

『サロメ』の成功で建てたガルミッシュの別荘    初演当日のシュトラウスとホフマンスタール

 当時の音楽評論家ユリウス・カップは「モーツァルト、ワーグナー、ヨハン・シュトラウスが『バラの騎士』の三人の神だ」と評し、同じくパウル・ベッカーも「非常に刺激的で、常に才気に満ち溢れているものの、ほとほと嫌気がさしてくるほどに饒舌な上流の社交パーティーを後にする時のような、ほっとしたありがたい気持ちとともに、この作品に別れを告げるのである。」と辛辣な批評を残しています。さらに、ドレスデン初演と同じ年のフランクフルト初演の際に新聞に掲載された匿名記事には、「花婿男爵の登場とともに音楽はそれまでの繊細な態度をどんどん失い始める。後の(第2幕の)ばらの騎士と花嫁の非常に重要な場面も、もはや音楽的な興味を喚起することはできず、老ファニナルの怒りの爆発もまた、音楽が安っぽいビアホール・ワルツへと沈んでいくのをとめることはできない。(第3幕での)元帥夫人の再登場とともに、ようやくよき精神が戻ってくるが、残念ながらもうほとんど手遅れである。」これまた、手厳しい評を下しています。しかし、初演時のキャストには多少の問題があり(これについては別項でご紹介します)、シュトラウスの期待通りの演奏ができなかったことも一因と言えます。

 音楽関係者以外ではどうだったでしょうか。作家のトーマス・マンも厳しい意見を呈しています。「どこにウィーンが、十八世紀のウィーンがあるというのでしょう?まさかワルツの中に、というわけではありますまい。これらのワルツは全くの時代錯誤であり、作品全体にオペレッタのレッテルを貼ってしまっています。しかし、この作品は同時に巨大なサイズの楽劇でもあるのです。」(以上、『バラの騎士の夢』岡田暁生著 春秋社より)

トーマス・マン (1875-1955)

 残念なことに地元の大作家にけなされてしまったシュトラウスですが、敵国であったフランスの代表的な文人ロマン・ロランはシュトラウスを擁護しています。ロマン・ロランは1927年5月20日付の日記に、ジュネーヴで初めて『バラの騎士』を観たと記しています。メータ・ザイネマイヤー(マルシャリン)、エリーザ・シュトゥエンツィナー(オクタヴィアン)、マルガレーテ・ニキッシュ(ゾフィー)、ルートヴィッヒ・エルモント(男爵)というスター歌手が1人もいないが見事なアンサンブルのドレスデン国立歌劇場の引越し公演であり、「シュトラウスの全作品の中で不朽の名を残すのは『バラの騎士』と家庭交響曲で」あり、「ウェーバーとモーツァルトの古典的至宝と肩を並べる資格を持」つと絶賛しています。さらにホーフマンスタールの詩にまで言及し、「音楽抜きでも、これは賞味すべき醍醐味だ。なんという文体の洗練、なんという優雅さ、なんといういたずら! これはあまりに豊かで、あまりに微妙な陰影を持っているので、音楽劇では十分に表わすことは不可能だと言ってもよいくらいだ。耳で聞くだけでは人はそれの半分以上を見逃すことになる。十分にそれを味わうには読まねばならない。」と。もちろん多少の欠陥として、冗長さ、趣味上の欠陥、歌いながら語る悪趣味、など指摘もしています。

 ロランは『ジャン・クリストフ』などの作品で知られていますが、『ベートーヴェンの生涯』なども書いていて、音楽に関する著作もかなりあります。また、日記には演奏会やオペラに行ったことがかなり多く書かれていて、様々な作曲家との親交も多く、当時の音楽評論家以上の存在であったと言えます。


ロマン・ロラン(1866−1944)    メータ・ザイネマイヤー(1895-1929)

   
 ロマン・ロランがシュトラウスに好意的なのは、1899年5月にベルリンで知り合い、その年の5月14日から1926年2月25日まで二人は手紙のやり取りをする仲で、ロランはシュトラウスの管弦楽作品を高く評価していたからです。しかも、シュトラウスは、パリで自作の歌劇『サロメ』を初演するにあたってそのフランス語版を作成する際、フランス語のチェックをロランに依頼していたのです。原作であるオスカー・ワイルドの作品は元々はフランス語で書かれたものですから元に戻しただけなのですが、それに音楽を付け直す作業をシュトラウスは1905年に行なっていまして、その年の7月5日付の手紙でロランにお願いし、9月13日に完成させます。初演は1907年5月5日パリ・シャトレ座で行なわれました。

 なお、この手紙のやりとりの間、シュトラウスはフランス語のオペラというものを知るためにドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』を勉強します(ピアノスコアで)。「本物のフランス・オペラになるはずです。ドイツ語からの翻訳はひとつもないのです!」とシュトラウスは自信たっぷりにロラン宛て手紙を書いていますが、シュトラウスはこのドビュッシーの名作を好きにはならなかったようです。『サロメ』のパリ初演後、シュトラウスはロランと『ペレアスとメリザンド』を5月22日に観に行きますが、ロランはその日記に次のように記しています。「第1幕第3場のあとで、シュトラウスは声をひそめて『いつもこんな風ですか?』・・『そうです』・・『これだけ?何もない、音楽がない、脈絡がない、ばらばらだ、・・楽句がない、展開がない、・・・』と言った。また、オペラハウスを出てから、『音楽が作品の中にある以上は、音楽が主であって欲しい。他のものに従属してほしくないのです。・・・詩が音楽に劣るとは言いません。真の詩劇、シラー、ゲーテ、シュークスピアはそれ自身で自足していて、音楽を必要としません。』と言い、『ドビュッシーの曲には音楽が不十分で、随所にワーグナーの《パルジファル》の模倣が見られる』と指摘もしていた。」

マリー・ガーデン扮するメリザンド   クロード・ドビュッシー(1862-1918)

 
このシュトラウスの発言は彼の音楽に対する考えを端的に表わしている興味深いものです。ちなみにシュトラウスを賞賛していたドビュッシーはシュトラウスを評して「彼は音響病にかかっています。」と言ったそうです。これまた、シュトラウス音楽の特徴を見事に言い当てたものと言えます。なお、『ペレアスとペリザンド』を観た後に行ったレストランでは作曲家ラヴェルも同席したそうですが、シュトラウスはテーブルの端に座り、ロランとだけ話していたそうです。
 
しかし、シュトラウスがドビュッシーを好まなかったにせよ、作曲中であった『エレクトラ』や続く『ばらの騎士』などにドビュッシーの音楽が何らかの影響を及ぼしたかもしれません。

以上、『ロマン・ロラン全集40 書簡VIII 「R・シュトラウスとロマン・ロラン」』片山昇、片山寿昭訳 みすず書房。


 




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