終章 『ばらの騎士』雑記帳

   
1.シュトラウスとホフマンスタール
  作曲家リヒャルト・シュトラウスと劇作家フーゴー・フォン・ホフマンスタール(1874-1929)二人の共同作業は、最初の共同作品『エレクトラ』から『ばらの騎士』、『ナクソス島のアリアドネ』、『影のない女』、『エジプトのヘレナ』、最後の『アラベラ』まで全部で6つのオペラを数え、いづれの作品もシュトラウスを代表する傑作ばかりです。この作曲家と台本作家との関係はオペラ史上前例のないくらいの緊密なものとされています。しかし、両者の芸術性にはいくばくかの隔たりが終始存在して、その創作作業中に幾度となく対立と誤解を引き起こしていたという事実を指摘する研究家もいます。結局のところ、かの作曲家と詩人は互いに相容れぬ大立者どうしで、
「いわば、バイエルンの白ソーセージとハンガリーのトカイ・ワインとの組み合わせほどに相性の悪い関係であった」
とオーストリアの批評家ハンス・ヴァイゲルは述べています。

トカイワイン   ホフマンスタールとシュトラウス   ブァイスブルスト


  ミュンヘン名物といえば白ソーセージ(ブァイスブルスト)で、ボイルしてゼンフ(カラシだけど辛くない)をつけて食べます。これには何と言ってもビールでしょう。一方、トカイ・ワインはハンガリー北東部ツェンプレン山地の南斜面に位置する「トカイ高原」で栽培されるぶどうでつくられたワインで、1650年に世界で初めて貴腐ワインの生産に成功したことで有名です。その高級ワインは世界の王侯貴族らが競って飲んだそうです。もちろん高級品ばかりでなく、現地の人が毎日飲む安いトカイもあります。
 ちなみに、シュトラウスの母親ヨゼフィーネはミュンヘンの有名なビール醸造業者の娘でした(話は飛びますが、ベートーヴェンも母親マリア・マグダレーナ・ケーヴェリッヒの実家はワイン造りをしていて、現在でも子孫がベートーヴェンの名を冠したワインを造っています。)。ヴァイゲルはこのことを揶揄したものと思われます。

 銀行家を父親にもつウィーン出身のホーフマンスタールはウィーンで法律を学びつつ文壇活動を開始させ、若くして名声を確立します。36歳で詩作を放棄して劇作と政治活動に身を転じ、1903年マックス・ラインハルトを通じてシュトラウスとの知己を得ます。その3年後にシュトラウスとの最初のオペラ『エレクトラ』が完成されます。その後の両者の関係は前述した通りですが、ホフマンスタールはオペラを離れた劇作家としても活躍を続けています。『ばらの騎士』が完成した同じ1911年に自作『イエーダーマン』はラインハルトと共に自ら主催したザルツブルグ音楽祭で上演され、これは現在でも毎年上演される演目のひとつです。

 こうした、ホフマンスタールの作家としての先進的かつ意欲的な活動とその詩人としてのセンシティヴィティの高さが、シュトラウスの芸術性とは違う世界に位置するという指摘はいくつかあるようです。アドルノは「シュトラウスは大ブルジョワ的で生気に富んだ、人を楽しませるような音楽」を書きつつも「頑なにその(自己の才能)に留まりながら、自身のコピーしなければならない」とシュトラウス大衆性とその進化しないスタイルを批判する人もいます。

 ホフマンスタールはオペラのスコアとは別に『ばらの騎士』の台本を出版させていますが、オペラとの間にはわずかながらの差異がみられるそうです。このホフマンスタールが出版した『ばらの騎士』は1984年、ウィーンのユーブフシュタット劇場で音楽を用いない演劇作品として初演されました。

 また、第2幕の終わりの方でオクタヴィアンとゾフィーが「Liebster − Liebste」と呼び合うところを、シュトラウスが「Geliebter − Geliebte」と勝手に書き換えて作曲してしまい、ホフマンスタールが抗議したというエピソードありますが、ホフマンスタールが慎重にウィーン風のセリフを選び、かつワーグナーが使う言葉を避けていることにはシュトラウスは無関心だったようです。さらに、ずっと後の1927年、シュトラウスがワーグナーの『ニュルンベクのマイスタージンガー』の続編の作曲を提案しますが、ホフマンスタールは断っています。『ばらの騎士』と『マイスタージンガー』との関連性についてあまり意識していないシュトラウスにホフマンスタールは苛立ちを覚えたかもしれません。


『ばらの騎士』 『ニュルンベクのマイスタージンガー』 共通点
オクタヴィアンに対するマルシャリン エヴァに対するザックス 年長で身を引く者
ゾフィーに対するファニナル エヴァに対するポーグナー 自慢のパパ
オクタヴィアンとゾフィー  ヴァルターとエヴァ 若い恋人たち
ゾフィーに対するオックス男爵 エヴァに対するベックメッサー グロテスな求婚者
マルシャリン(オクタヴィアン)とオックス ザックスとベックメッサー 類型と歪んだ鏡に映る芸術と気品
以上の分類と類似点の指摘は、Roland Teschert による


2.『ばらの騎士』初演の歌手たち
 ホフマンスタールが最初に『ばらの騎士』となる喜劇の構想をシュトラウスに伝えたのは1909年2月11日のワイマールからの手紙でした。友人ハリー・ケスラー伯爵の家に滞在していたホーフマンスタールは新しいオペラのシナリオを二人で考えていたのでした。その手紙の中には、「重要な役はふたりで、ひとりはバリトン、もうひとりはファラーとかメアリー・ガーデン風の男装の上品な少女。時代はマリア・テレジア施政下のウィーンです。」とあり、オックス男爵とオクタヴィアンの構想が書かれています。

 ファラーとは、アメリカのマサチューセッツ州出身のソプラノ歌手ジェラディン・ファラー(1882-1967)のことで、声はもちろんですが、その美貌で歌以上に有名でした。1901年ベルリンで『ファウスト』のマルガレーテ(写真下 右端)でセンセーショナルなデビューを飾り、1906年にはメトロポリタン歌劇場でジュリエットを歌い大成功を博します。1922年まで、蝶々夫人、マルガレーテ、ミミ、カルメン、トスカなどを得意としました。また、無声映画のスターとしてもその名を留めています


ジェラルディン・ファラー  メアリー・ガーデン


 一方、メアリー・ガーデン(1874-1967)はスコットランド出身でアメリカで育ったソプラノ歌手で、1902年ドビュッシーによって『ペレアスとペリザンド』の初演でメリザンド(写真下 左端)に抜擢されます。その後コヴェントガーデンでマスネのマノンを歌って大成功を収め、これをきっかけににマスネは『ケルビーノ』を彼女のために作曲したとされています。1907年メトロポリタン歌劇場でサロメを歌ってデビューし、センセーションを巻き起こします。

 ホーフマンスタールがその手紙を書いたときふたりの歌手はそれぞれ27歳と35歳でした。残念ながらふたりとも、そのレパートリーにオクタヴィアンをはじめどの『ばらの騎士』の役も入らなかったようです。

 『ばらの騎士』が完成してリハーサルに入っている頃、1910年12月30日のケスラーのホーフマンスタールへの手紙の中で、「僕は『ばらの騎士』がもうじきドレスデンやベルリンその他の歌劇場で上演されるときの恐怖を思って、ますます気が滅入ってくる。そこでは、太ったご婦人や、10人か14人もの子供たちを母乳で育て上げた幸せな母親が、パンパンに張った膝ズボン(たいていは赤い生地のもの)に大きな胸飾りのついたシャツという格好で、もっとずっときゃしゃでほっそりしたマルシャリンに言い寄る、というわけなんだ。」

 1911年1月26日の初演を目前にしてドレスデンに滞在していたホーフマンスタールは、ケスラーに次のように返信しました。「こちらでは舞台稽古が行なわれています。丸ぽちゃのカンカン{エーファ・フォン・デア・オステン}が肥満したマルシャリン{マルガレーテ・ジームス}にどうにかこうにか絡みついています。歌手たちは皆太っています。肝心のオックス{カール・ペロン}だけがそうではないのです!でも音楽には魅了されます。」

3.シュトラウスの人物評
■ ウィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)
 フルトヴェングラーはシュトラウスの後任としてベルリン国立歌劇場の指揮者になっていて、シュトラウスの後輩(22歳下)といった感がありますが、二人の接触は少なく、シュトラウスの作品を多く取り上げたわけではありません。交響詩『ドン・ファン』、『ティルオイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』、『死と変容』は数多く指揮し、優れた録音も残していますが、他には家庭交響曲と『4つの最後の歌』(フルトヴェングラーが初演)他数曲の歌曲伴奏の録音があるだけという、同時代のドイツの指揮者としては極めて少ないと言えます。また、シュトラウスのオペラをほとんど振っていないというのも不思議な話です。本当は作曲家として成功したかったフルトヴェングラーの同時代の作曲家への悔しい思いがあったのかもしれません。


「構造と自己投入に関してR.シュトラウスは最大の作曲家たちに匹敵する。このテンで我々は彼に対してバッハ、モーツァルトに対してと同じく何ひとつ異論を唱えることはない。しかし、異論が必要であるとすれば、それは彼が語るところについて、つまり彼の人格の本質と内容についてである。ここでは、彼は大作曲家たちと同列に並ぶことはできない。(1944年)」 『フルトヴェングラーの手記』 芦津丈夫・石井不二夫訳 白水社

「シュトラウスにおける凡庸さについて、・・・音楽有能者が狡猾に効果を狙って用いる手段になっている。」 同上

「シュトラウスには肉体はあるが精神に乏しく、ブルックナーは精神があるが肉体にあまりに貧弱である。両者を保持していた最後の人がブラームスであった。」 同上

「シュトラウスの中にある遊び心は、どこまでも大真面目な子供の遊び心ではなく、責任感のない人、中身のない人、冗長な人の意識的なものである。シュトラウスが偽りなく、心を込めて、真剣に語っていないから、彼の音楽を偽りなく、心を込めて真剣に聴いたり、感じたりすることはできない。彼は最大のことができるのに、実際は最大でしかない人間なのだ。」 『フルトヴェングラー・グレート・レコーディングズ』 ジョン・アードイン著 藤井留美訳 音楽の友社

ウィルヘルム・フルトヴェングラー   ウィルヘルム・フルトヴェングラー
  
ロッテ・レーマン(1888〜1976)
 史上最高の『ばらの騎士』のマルシャリン歌いとして有名なロッテ・レーマンは、シュトラウスから直接指導を受け、個人的に接した数少ない人物です。

「奇妙なことに、私は指揮者としてのシュトラウスに本当に近づいたことがあるとはいえない。動じない表情、外見上隙のない冷静さ。それは防壁のように、この偉大なシュトラウスへの接近を妨げた。」 『歌のなかばに』みずほ書房 ロッテ・レーマン著 野水瑞穂訳

「家族以外に、彼に真実接近しえた人間があるとは思えない。不思議なことだが、他人というものが彼の心を本当に動かすことはまるでなかったようである。彼の自己中心主義は極端で、他人に対する無関心は往々にして冷淡と紙一重にまで達した。」 同上

ロッテ・レーマン   オットー・クレンペラー
   
  
オットー・クレンペラー(1885-1973)
 シュトラウスより21歳下の指揮者クレンペラーは、シュトラウスを作曲家としても指揮者としても高く評価しています。しかし、人間としては疑問を持っていたようです。

「彼はとても感じがよく、礼儀正しく、機知に富んでいた。だが、うまく説明できないが、何かが欠けていた。彼は実利主義者で日和見的なところがあった。彼は冷酷無情で、平気でナチスを受け容れた」




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