ムソルグスキー:展覧会の絵(ラヴェル編曲)

ムソルグスキー ≪イリヤ・レーピン画≫     キエフの大門
I.ムソルグスキーの生涯
 1839年 3月21日、ロシアのカレヴォに生まれたモデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーは幼くして母親からピアノの手ほどきを受け7歳にはリストの小品を弾いたとされています。10歳になるとペテルブルグの軍学校に入学すると同時に音楽教師のもとでピアノを学びます。しかし、ピアノ以外の音楽理論などの教育は施されませんでした。これ以降正規の音楽教育を受けたことは生涯なく、個別に助言や影響を受ける程度であったためムソルグスキーは絶えず自己の音楽上の訓練の欠落への不安に悩まされることになります。その後ムソルグスキーはペテルブルグの近衛士官学校に入学し、優れたピアノ奏者としても有名な生徒となります。卒業すると近衛旅団に配属され、そこでのちに『ロシア5人組』で共にするボロディン、バラキレフ、キュイなどに出会います。

アレクザンダー・ボロディン アレクセイヴィチ・バラキレフ ロシア5人組 アントノヴィチ・キュイ リムスキー=コルサコフ
              ロシア5人組(左から、ボロディン、バラキレフ、キュイ、R=コルサコフ)

 その後軍隊を離れ作曲に専念するようになりますが、その頃からムソルグスキーは神経を患うようになります。1860年21歳ころの手紙には「5月から8月のほとんど期間、私の頭は弱り、激しい興奮状態になる」と書き、神経の過労からくる抑鬱、倦怠などの症状に悩まされます。その後『ロシア5人組』での音楽活動は活発化し、一方生活のために役所に勤め始めます。しかし、26歳の時に母親を亡くしてからアルコールに強く依存するようになります。ムソルグスキーは代表作である交響詩『はげ山の一夜』(1867年)、歌劇『ボリス・ゴドノフ』(1872年)、『展覧会の絵』(1874年)などを作曲しますが、1877年頃から神経性の熱病や不眠症、鬱病などが悪化し、1881年2月に発作を起こして入院、 3月28日に肝臓病、心臓肥大、脊髄炎などを併発し入院した病院先で死去します。

 享年42歳。イリヤ・レーピンが描いた有名なムソルグスキーの肖像画はこの入院中に描かれたもので、創作意欲は漲っているものの肉体的にかなり疲弊している姿をよく捉えていると言われています。
 
 ムソルグスキーの死後、ロシアでは彼の名は忘れられ作品が演奏されるのは稀でした。しかし、1874年にサン=サーンスが歌劇『ボリス・ゴドノフ』のピアノ譜をフランスに持ち帰ったことがきっかけとなってフランスでムソルグスキーの名が知られるようになり、いくつかの作品が紹介されます。特に、ドビュッシーとラヴェルがムソルグスキーの音楽を高く評価し、その影響をドビュッシーは歌劇『ペレアスとメリザンド』、ラヴェルは歌劇『スペインの時』や歌劇『子供と魔法』などに反映させます。そして何よりラヴェルはムソルグスキーのピアノ曲『展覧会の絵』を見事にオーケスストラ編曲することになります。

ウラディミール・スタソフ   アレクサンドロヴィチ・ハルトマン   アレクサンドロヴィチ・ハルトマン
                スタソフ                     ハルトマン

Ⅱ.『展覧会の絵』作曲の経緯
 1870年31歳のムソルグスキーは、『ロシア5人組』の理論的な支えになっていた評論家ウラディミール・スタソフの紹介で画家・建築家であるヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・ハルトマン(又はガルトマン)と知り合い意気投合します。ハルトマンはペテルブルク美術アカデミーで学び、卒業後、ある図書館建築のデザインで金賞を獲得してポーランド、フランス、イタリアなどを4年間旅し、水彩画や鉛筆画を多数残しました。伝統的なロシアのモチーフを自作にとり入れた最初の美術家の一人とされていますが、当時は無名と言ってもいい存在でした。

 しかし、ムソルグスキーと出会ったわずか3年後の1873年、ハルトマンは39歳の若さで世を去ります。動脈瘤による突然の死でした。ムソルグスキーは彼の死の少し前に、いっしょに音楽会に出かけその帰りに急にハルトマンが息苦しくなって壁にもたれかかったのを見ていただけに、その死の知らせはムソルグスキーを大いに打ちのめします。ハルトマンの支援者であったスタソフはその死を悼んで死の翌年に彼の水彩画や建築デザイン、衣装デザインなどの遺作約400点の展覧会を開催し、そこを訪れたムソルグスキーは何かに憑かれたかのようにわずか3週間でピアノ曲『展覧会の絵』を書き上げ、スタソフに献呈します。
 
 この曲はムソルグスキーの生前は演奏されることはなく、死後5年たった1886年ようやくリムスキー=コルサコフによって出版されますが、当時はあまり注目されることはありませんでした。
ムソルグスキー ≪1865年≫    モーリス・ラヴェル

Ⅲ. 『展覧会の絵』の編曲
 ピアニストにはほとんど無視ましたが、不思議なことに多くの作曲家がピアノ版をオーケストレーションすることに取り憑かれてきました。最初にそれを試みたのはリムスキー=コルサコフの弟子のトゥシュマロフ(1891年)。その後何人かの作曲家によって試みられますが、この曲の名前を決定的に知らしめコンサートの人気プログラムにさせたのがフランスのモーリス・ラヴェルです(1922年)。ラヴェルの後もオーケストレーションの試みは後を絶たず、ロシア的な要素と華麗なオーケストラの響きを追及したストコフスキー、日本の近衛秀麿、ラヴェルが省略したプロムナードを復活させ、しかもラヴェルが下敷きにしたピアノ譜の間違いを正したピアニスト件指揮者のアシュケナージ、その他ピアノ協奏曲版や室内楽版、各種独奏楽器版など様々なアレンジが登場しています。一方、出版以来ピアニストに見向きもされなかった原曲のピアノ曲ですが、戦後になってようやく見直されるようになり、ロシアのホロヴィッツやソビエトのリヒテルらが取り上げてセンセーショナルな演奏を聴かせると人気も高まり、今日のピアニストにとって極めて重要なレパートリーになっています。以下は代表的な管弦楽編曲版のリストです。

1886:ミヒャエル・トゥシュマロフ(7曲のみ)
1915:ヘンリー・ウッド(イギリス、プロムナードは最初の1曲だけ)
1922:モーリス・ラヴェル(フランスの作曲家)
1922:レオ・フンテク(スロヴェニア出身、フィンランドで活躍した作曲家)
1922:ジュゼッペ・ベッツェ(サロン・オーケストラ用、無声映画用の音楽の作曲家)
1924:レオニダス・レオナルディ(ロシア生まれのピアニストでラヴェルの弟子)
1937:ルシアン・カイエ(フィラデルフィア管弦楽団の団員)
1938:レオポルド・ストコフスキー(『オーケストラの少女』『ファンタジア』で有名な指揮者。)
1942:ワルター・ゴール(ドイツ生まれのイギリスの作曲家、シューンベルクの弟子)
1955:セルゲイ・ゴルチャコフ(モスクワ音楽院の教授)
1977:ローレンス・レオナード(ピアノ協奏曲版、イギリスの指揮者・作曲家)
1982:ウラディミール・アシュケナージ(ソヴィエト出身のピアニスト・指揮者)
1992:トーマス・ウィルブランド
Ⅳ. 『展覧会の絵』~ 曲とハルトマンの絵
 曲は、ハルトマンの絵のタイトルがついた10曲の小品とその間に挿入される5つの『プロムナード』(=散歩、逍遥という意味。旋律は合唱で歌われるロシア民謡から取られたと言われています。)という同一の主題を用いた間奏曲風の短い曲と、タイトルは『プロムナード』とはついていませんが内容的には同様の曲がひとつ、計16曲から構成されています。なお、番号がついているのはハルトマンの絵の10曲だけです。では、ムソルグスキーが観たハルトマンのはどんな絵だったのでしょうか。実は、そのうち5曲分6枚については確定されていますが、残りは確定されていません。スタソフが開催したハルトマンの遺作展のカタログに載っていない曲もあり、ムソルグスキーが異なるタイトルをつけたのか、別の機会に観た絵も含まれているのかもしれません。以下に、各曲の説明とその曲の元になったハルトマンの絵、及び推測されるハルトマンの絵を紹介します。
 
 なお、ここで重要なことはハルトマンは決して過去も現在も著名な画家・建築家ではなかったのであり、そのため彼の遺した作品がまともに収集・研究されたことがなく、この曲とハルトマンの絵画の相関関係を指摘したのが1939年の音楽学者アルフレート・フランケンシュタインが最初であったということです。すなはち、1922年にオーケストレーションを行なったラヴェルはハルトマンの絵を観ていないと推測されるのです。

 また、一般的に「展覧会の絵」ということから誰もがルーヴル美術館などにある立派な額縁に納まった天井にも届くような大きな油絵などを連想しがちですが、ハルトマンが残した絵の大半は小さいものばかりで、紙の切れ端にスケッチしたものもあり、またその多くは水彩画や鉛筆画だったそうです。このようなハルトマンの絵を観ていたらラヴェルはもっと違ったオーケストレーションを施したかもしれません。つまり、ムソルグスキーの原曲のピアノ版を聴くのにはハルトマンの絵は鑑賞の一助にはなるかもしれませんが、ラヴェルの編曲版を聴くには参考になることはあっても絶対に必要なことではないと言えると思います。


プロムナード (Promenade)
 『プロムナード』は誰もが知っているあまりに有名なテーマ(我が家の電話機の呼び出し音が何故かコレ)。冒頭の2小節間を単音だけのピアノに弾かせるという、よく言えば斬新で常識を覆すもの、悪く言えば無謀、無知、非常識などいうどの形容詞も当てはまることをムソルグスキーはやってのけています。音大の作曲科でこれを提出したら間違いなく突っ返されたことでしょう。なんせ片手どころか1本の指でも弾けるのですから。しかも、その2小節の後は和音の連続にオクターヴが挟まるという、およそ洗練とは程遠い楽節が続きます。ピアノ譜が出版されてからピアニストたちが弾こうとしなかった理由はここにあるのかもしれません。しかしその48年後、この譜面を見て最初の2小節間をトランペットに吹かせるということに着目をしたラヴェルの慧眼にはただ恐れ入るばかりです(ラヴェル以前のアレンジャーがここをどの楽器に奏させたかはわかりませんが・・・)。もしラヴェルがここにトランペットを採用しなければ、この『展覧会の絵』は今日これほどの人気を博したでしょうか。

1. グノーム (Gnomus)
 この曲に相当するハルトマンの絵画は現存していません。ハルトマンの遺作展のときに作成されたカタログに「グノーム、子供の玩具のデッサン。・・クリスマスパーティのツリーの飾り」という作品が記されているため確かに存在はしていたと思われますが、全く失われたか、題名のない絵のどれかに該当するかのどちらかと言えます。「グノーム」とはロシアの伝説に登場する「小人、土の精」とされ、スタノフは「胡桃割人形のようなもの」と手紙に書いています。掲載した絵は「グノーム」と推測されるものです。

 しかしこの可愛らしい姿を見ると、威嚇的でグロテスクなモティーフが繰り返されるこの曲のイメージからは少々遠いように思えます。変ト長調という珍しい調(F音以外にはすべて♭がつく)で書かれているこの曲は、まずグロテスクな動機で小人の奇妙な格好で歩く様を表現します。次いで重々しい足取りで跳躍する五度の和音が進行しますが、途中から下降する半音階が加わります。この下降する音階はモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』、ワーグナーの楽劇『ニーベルンクの指輪』、プッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』などでも出てきますがヨーロッパでは伝統的に「死」を意味する音型とされています。ムソルグスキーは西欧音楽に背を向けていた国民主義者とすると果たしてここで「死」(たぶんハルトマンの死)を意識したかどうかは俄かに断定はできませんが、ここの音楽からは悲痛な慟哭が聴こえてきてなりません。

グノーム      古城

プロムナード (Promenade)
 変イ長調で書かれていて、冒頭の力強さとはうって変わってスラーがかかった優しい表情の曲になっています。

2. 古城 (Il vecchio castello)
 この題名の絵は遺作展のカタログには載っていません。スタソフは「中世の城。その前では、吟遊詩人が唄っている」と書いていて、ムソルグスキーはこの曲だけイタリア語でタイトルを書いていることから、ハルトマンがイタリアを旅したときに書いた城の絵であろうと推測し、いくつかの絵が候補が挙がっています。嬰ト短調6/8、シチリアーノのリズムが延々続く中を甘美な旋律がわずかに変化しながら繰り返されます。ラヴェルはファゴットとアルト・サクッスを使って古びた響きに加えて哀愁を漂わせることに成功しています。

プロムナード (Promenade)
 今度は威厳たっぷりに、肩をいからした感じの音楽になっています。最後は次の曲につながるように次第に萎縮させます。ラヴェルは再びトランペットを使用し、低弦のマルカートと共に絶妙な響きを作り上げます。

3. テュイルリー、遊びの後の子供たちの口げんか (Tuileries, Dispute d'enfants après jeux)
 パリの中心部ルーヴル宮の前にあるテュイルリー公園で遊ぶ子供たちの口げんかを描写しています。この絵も確定されていませんが、ハルトマンがパリでデッサンした子供の絵を参考に掲載します。曲は忙しく活発に動き回る部分と優しく甘美な中間部(子供たちの口論するさまとそれを優しくたしなめる母親といった情景でしょうか。)からなり、ムソルグスキーの非常に洗練された作曲の腕を垣間見ることができます。フランス語を得意にていたムソルグスキーは外国に出かけたことはないので、パリのことはきっとハルトマンから聞いたことでしょう。この手の曲の処理はラヴェルにとっては朝飯前、ピアノ曲の洒脱さそのままに木管とヴァイオリンを上手に使って粋な曲に仕上げています。
テュイルリー     テュイルリー

4. ビドロ(牛) (Bydlo)
 ビドロはポーランド語で牛車のこと。ムソルグスキーのオリジナル譜では最初からフォルテですが、R=コルサコフが最初にピアノ譜を出版した際に牛車が遠くからやってきて最後は遠ざかるという解釈を行ない、ピアノで開始してクレッシェンドさせた後ディミニエンドしてピアニッシモで終わらすようにしました。ムソルグスキーのオリジナル譜を知らないラヴェルはR=コルサコフに従っています。アシュケナージはオリジナル通りにフォルテで開始する版を作っています。ビドロには他に「家畜のように虐げられた人々」という意味もポーランド語にはあるそうで、当時恐怖政治に苛まされていたポーランドの人々の憂鬱が秘められていると解釈する向きもあります。この絵もカタログに存在しませんが、ハルトマンの「ポーランドの反乱」という絵を関連付ける説があります。この曲の伴奏部はショパンの『葬送行進曲』に類似し、ラヴェルは避けることのできない宿命的なものを連想させる旋律をテューバによって重々しく描いています。

プロムナード (Promenade)
 トランクイロで演奏される優しい表情の曲です。この曲も最後で次の曲への経過句を付加しています。

5. 卵の殻をつけた雛の踊り (Ballet des poussins dans leurs coques)
 この絵はペテルブルグのマリンスキー劇場で上演されたバレエ『トリルビ』のための衣装デザインとして描かれたものです。チャイコフスキーの『眠りの森の美女』で有名なマリウス・プティパが振付けたフランスの小噺『トリルビまたはアジーユの妖精』にもとづくものです。装飾音やトリルがふんだんに用いて、ひなどりの鳴き声と小刻みな動きを克明に描写した音楽になっています。

6. サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ (Samuel Goldenburg und Schmuyle)
 この絵も特定されていて1曲に独立する2枚の絵が組み合わされています。ハルトマンがポーランドのサンドミールでスケッチした二人のユダヤ人を描いた絵で、彼らの会話を音楽にしています。まず、金持ちで傲慢なサムエル・ゴールデンベルクが話し始め、次いで貧しく卑屈なシュムイレが甲高い声で小言やら嘆き節を繰り返します。ムソルグスキーはユダヤ人ではなかったのですが、当時ロシアで虐げられていたユダヤ人に対して同情していたようで(彼の墓にはダビデの星が描かれている)、ヘブライの旋律にも詳しかったとされています。ラヴェルは前者には弦楽器の力強いユニゾン、後者にはミュートをつけたトランペットを起用しています。
卵の殻をつけた雛の踊り  サムエル・ゴールデンベルク  シュムイレ

プロムナード (Promenade)
 この曲の冒頭と同じテンポで演奏されます。ラヴェルはこの曲を省略しています。

7. リモージュの市場 (Limoges, Le marche)
 この絵は特定されていません。フランス中部の都市リモージュで書かれたハルトマンのスケッチが14枚残っていて、あるはこれらが該当するのかもしれません。ムソルグスキーは楽譜の中に「女たちが喧嘩をしている。激しく激昂してつかみかからんばかりに」と書いています。小刻みな16分音符が絶え間なく奏され女たちのおしゃべりの様子が描かれています。切れ目なく次の曲につながります。

8. カタコンブ、ローマ時代の墓 (Catacombae, Sepulchrum Romanum)
 パリにある地下墓地、夥しい数の頭蓋骨が描かれています。ハルトマンはヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』のカタコンブの描写に基づいてこの絵を描いていて、カンテラを持っているのはハルトマン自身とされています。ほとんど和音だけで作れられている曲で、ラヴェルは金管を中心にして和音を作り、それに木管とコントラバスを添えています。


死者とともに死者の言葉で (Cum mortuis in lingua mortua)
 高音域での弦のトレモロをバックにプロムナードの主題の変奏を行ないます。墓場の後に「プロムナード=散歩」という軽い言い方は気が引けたのでしょうか。それと『カタコンブ』でハルトマンの死を直視したムソルグスキーは言葉にならない自分の気持ちをここで伝えようとしたのかもしれません。
リモージュの市場  カタコンブ   バーバ・ヤーガ

9. 鶏の足の上に建つバーバ・ヤーガの小屋 (La cabane sur des pattes de poule - Baba-Yaga)
 これは鉛筆で描かれた時計のデザインです。ロシアの伝説に登場する魔女バーバ・ヤーガは深い森の奥の人骨の柵に囲まれた空き地にある、鶏の足の上に立つ小屋に住み、臼に乗って杵でこぎ、ほうきで跡を消しながら現れます。ハルトマンはそのバーバ・ヤーガの小屋を時計にしてデザインしています。音楽はその小屋の形をした時計というよりはバーバ・ヤーガそのものを描写しています。激しく叩きつけるような動機で開始され、何物かが動き始めてやがて巨大に膨れ上がり猛スピードで駆け巡るさまを描いています。

10. キエフの大門 (La grande porte de Kiev)
 ウクライナ共和国のキエフにはかつて壮麗な「黄金の門」がありましたが、ハルトマンの時代には破壊されままになっていました。1869年、キエフ市が募集した門の再建コンテストに応募し、好評を博します。しかし何故か門の再建計画は中断されてしまいます。現在は1982年に復元された門を見ることができますが、もちろんハルトマンのデザインではありません。 ハルトマンの絵は、細密画のようにかつ設計図のように極めて細かい筆致で描かれ、スラヴ風のアーチ状の屋根を持ち、門には鐘楼と教会がついています。音楽はコラールが繰り返され、鐘と聖歌隊の歌がこだますように絢爛たる情景を描いています。
キエフの大門     現在のキエフの「黄金の門」

 ここで10曲のハルトマンの絵に関わる場所を順番に見ると、グノーム=ロシアの伝説、イタリアの古城、パリのテュルリー公園、ポーランドの牛車、ペテルブルグのバレエ(題材はフランス)、ポーランドのサンドミールのユダヤ人たち、フランスのリモージュの女たち、パリの地下墓地、ロシアの森、キエフの大門ということになり、ムソルグスキーのいるロシアは2つありますが、どちらも伝説上の生き物になっています。その他はイタリア、フランス、ポーランドとハルトマンがコンクール優勝のご褒美で旅した国で描いた絵です。最後のキエフがムソルグスキーにとっては異国という認識だった(後年ウクライナの題材を用いたオペラの作曲を計画しますが、ロシア人であるムソルグスキーはウクライナ風の歌唱、言葉の微妙なニュアンスや特色を会得できないとしてその計画を断念します。)とすれば、4カ国の情景を描いた絵が400点以上もあったハルトマンの遺作から選ばれていることになります。絵を選ぶとき、ムソルグスキーに何か意図するものがあったのでしょうか。今後の研究に期待したいと思います。


参考文献:
『ムソルグスキー その作品と生涯』アビゾワ著 伊集院俊隆訳 新読書社
『追跡 ムソルグスキー「展覧会の絵」』団伊玖麿著 日本放送出版協会


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