モーツァルト:レクイエム K.626 【レヴィン版】

モーツァルト      ロバート・レヴィン
 モーツァルトの最後の作品で未完成に終わった『レクイエム』の作曲は、1791年7月頃、灰色の服を着た長身でやせ細った見知らぬ人物の依頼が契機となります。歌劇『魔笛』と『皇帝ティトの慈悲』の作曲に追われていたモーツァルトは多忙にもかかわらず、その依頼を引き受けます。自分の死の近いことを予感していたために死の使いと思い込んだとも、金銭的に困窮していたことをはじめ、フリーメイソンによる処刑説、サリエリによる陰謀説等、さまざまな伝説がここに生まれます。

 実際のところその依頼主の名は、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵 Count Franz von Wallsegg 、その若くして亡くなった妻アンナのためにレクイエムを必要としたことが後年明らかになりました。実はこの伯爵には奇妙な趣味があり、プロの作曲家に曲を書かせた後、それを自分で写譜して自作と偽って演奏するというものでした。金持ちの道楽にしてはかなり手の込んだものですが、困った御仁とはいえモーツァルトに稀代の傑作を書かせたのですから責めてばかりでは気の毒かもしれません。伯爵がモーツァルトに白羽の矢を立てたのは、その年の6月頃にモーツァルトがウィーンのシュテファン大聖堂の副楽長に就任した(但し無給)ことを知ったからという説と、当時ウィーンの教会音楽の作曲家としてモーツァルトは全くの無名だったため伯爵の企みがばれないという判断があったという説などがあります(それまで書いたモーツァルトの教会音楽はすべてザルツブルク時代のものでした。)。

 音楽学者ロビンズ・ランドンによるとモーツァルトが『レクィエム』の作曲に従事したのは『魔笛』の上演が始まった10月の初めから病床に就く11月20日までと推測しています。しかし1791年12月5日、残念ながらモーツァルトは『レクイエム』の完成を待たず、いえ正確には作曲に着手してまもなく、つまり大半を五線譜に書き留めずに病のために息を引き取ります。このままでしたら未完成の『遺作』として目録の片隅に置かれたかもしれませんが、事態はそう簡単には済みませんでした。モーツァルトはその依頼主からすでに契約金100ドゥカーテン(日本円にして約250万円)の半額を前金として受け取っていました。未亡人コンスタンツェは残りの契約金を受け取るためになんとしても夫が生きていることにして曲を完成させなければなりませんでした。しかも、依頼主は自作として演奏することが前提ですから、仮に作曲家が死んだとしても未完成の作品を受け取り、そのまま演奏するなんてことはありえません。お互い隠し事をしながらも、両者の利害は一致していたことが今日に至る『レクイエム』補筆完成版の歴史を生み出すことになります。


病床からジュスマイヤーに指示をするモーツァルト。戸口にはレクイエムを催促する依頼主の使い=死者の使い   病床からレクイエムの指揮をするモーツァルト。この翌日息をひきとったとされる。


 モーツァルトがオーケストレーションを施したのは第1曲Introitus(イントロイトゥス)のみで、しかも、Sequentia(セクエンツァ)のLacrimosa(ラクリモーザ)の8小節で筆が完全に止まっていることが、時間との戦いを迫られているコンスタンツェにとって大きなプレッシャーになったはずです。4声部と通奏低音しか出来ていない第2曲 Kyrie(キリエ) のオーケストレーションは、まずモーツァルトの弟子フライシュテットラー Jacob Freystädtler に任されました。

 次いで、コンスタンツェは同じく弟子で後にサリエリの後任として宮廷楽長になった20歳半ばのアイブラー Joseph Eyblerに依頼を持ち込みました。しかし、アイブラーはモーツァルトが書いたところまでの補筆を施してこの仕事から降ります。

最後の力を振りしぼってレクイエムの作曲をするモーツァルト   ジョセフ・アイブラー


 ここで登場するのがジュスマイヤーFranz Süßmayrです。モーツァルトのスケッチが残っていたのはOffertorium(オッフェリトリウム)だけで、Sanctus(サンクトゥス)、Benedictus(ベネディクトゥス)、Agnus Dei(アニュス・デイ)、Communion(コミュニオン)に至っては全く手がつけられていませんでした。ジュスマイヤーは、このモーツァルトの頭の中に置かれたままの部分の作曲をすることになったのです。1792年3月初め頃にようやく完成された『レクイエム』は注文主ヴァルゼック伯爵に渡されることになります。しかし、したたかなコンスタンツェは伯爵に渡す前に2つの写譜を行ない、プロイセン国王とブライトコプフ・ウント・ヘルテル社に売却をしています。


コンスタンツェ


 初演は、1793年1月2日サリエリの指揮によって、依頼主ヴァルゼック伯爵の預かり知らぬところで行われました。次いで1793年12月14日と1794年2月14日に、「ヴァルゼック作曲」の『レクイエム』として自らの指揮によって演奏されます。その後、ジュスマイヤー補筆『レクイエムK.626』の総譜が1800年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から刊行されたために、依頼主ヴァルゼックの知るところになり、これにはさすがにひと悶着あったそうです。

 ロバート・レヴィンはアメリカのピアニスト・指揮者であると同時に、音楽論・古典音楽史を中心とした音楽学者として活躍しています。ピアニストとしては第一線で演奏活動を行ない、モーツァルトおよびベートーヴェンのピアノ協奏曲の全曲録音も完成させています。作曲された時代に相応しいピリオド楽器を使い分け、さらに時代様式を反映した自作のカデンツァを弾いていることでも知られています。また、モーツァルトの遺したスケッチの断片をもとにして曲を完成させたり、「木管と管弦楽のための協奏交響曲」の再構築をしたりする傍ら、器楽や室内楽のオリジナル作品の作曲も行なっています。筆者が初めてレヴィンの業績に触れたのはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲のカデンツァで、ギドン・クレーメルがアーノンクール指揮ウィーンフィルで収録した全曲録音で採用されていました。「モーツァルトの自作のカデンツァがあったの?」と思うくらい様式上の同一性を感じさせる作品でした。

 このモーツァルトの『レクィエム』の補筆版である「レヴィン版」は、1991年のモーツァルト没後200周年を記念して完成されました。以下にレヴィン自身による解説を紹介します。


モーツァルト自筆のラクリモーザ。ここで筆が途絶えるが、筆に乱れはない。   モーツァルト自署とされていたが、後年、ジュスマイヤーがまねてサインしたものと判明。「1792年」は既にモーツァルトは他界していたが、依頼主に生きていると思わせるために書いた。


 ジュスマイヤー版に対する最大の疑問は、モーツァルトの手によらない部分の『レクィエム』はジュスマイヤー自らのアイデアだったのかどうかということです。ジュスマイヤーは自分ひとりで作曲したと主張していますが、その部分はモーツァルトの主題構成と密接な関係にあり、いくつかの主題は楽章間で繰り返されています(ジュスマイヤー自身の作品ではそのような内部で関連し合うようなことはありません。)。たぶん、コンスタンツェがモーツァルトの自筆譜といっしょにジュスマイヤーに渡したと記憶いていた「いくつかのスケッチの断片」には、モーツァルトの下書きには書かれていない音楽素材が含まれていたと考えられます。モーツァルトはおそらくジュスマイヤーにある程度の構想をピアノで説明をしていたのでしょう。

 ジュスマイヤーが作曲した部分は、文法的・構造的な流れが所謂モーツァルトらしさから大きくかけ離れていて、モーツァルトにおける典型的な傾向との間には疑う余地のない矛盾が見られました。このことから、初演後まもなくジュスマイヤーに対する評価には陰りがさしてきます。最初の攻撃は早くも1825年に現われ、「サンクトゥス」のオーケストラ伴奏部での声部進行に誤りがあることや、「ホザンナ・フーガ」が切り詰められているなどが指摘されました。さらに、ジュスマイヤーはこのフーガをオリジナルのニ長調ではなく変ロ長調で「ベネディクトス」の後に持ってきていますが、これは当時の教会音楽の慣習に矛盾すると言われています。

 この新しい版では、ジュスマイヤー版『レクィエム』の200年に及ぶ歴史に敬意を表しつつ、その版におけるオーケストレーションや文法的・構造上の問題点に辿り着く糸口を見出そうとこころみています。また、モーツァルトの自筆譜に書かれているもの以外で、元々誤りと見なされるべき音符はきっぱりと不採用にしました。この補筆改訂の目的は変更をできるだけ少なくし、モーツァルト音楽の性格、テキスト、声部進行、通奏低音、構造をじっくり見直すことにありました。さらに、オーケストレーションをより透明にしましたが、これはモーツァルトの他の教会音楽からヒントを得て再構築しました。「ラクリモーザ」は少々手を加え、転調せずに「アーメン・フーガ」に入ります(このフーガの他の完成版では、大々的な転調がなされています)。ジュスマイヤー版では、「サンクトゥス」後半の調性が奇妙な矛盾を抱えたまま解決していますが、この改訂では「ホザンナ・フーガ」においてモーツァルト作曲の『ハ短調ミサK427/417a』をモデルにしつつ、モーツァルト的な教会フーガのプロポーションを実現しています。また、「ベネディクトス」の後半では、少し改訂を施し新しい経過句を経て、オリジナルの調性であるニ長調で「ホザンナ・フーガ」の短い繰り返しへと続けることにしました。「アニュス・デイ」の構造はそのままですが、ジュスマイヤー版の不備は第2、第3節でリカバーしています。最後のCum sanctis tuis のフーガではテキストの割付が当時の規範に一致するように変更しました。

 この新しい版では、モーツァルトの精神を讃えると同時に、その歴史的伝統の音の枠組みの中で、聴き手がモーツァルトの偉大な『レクィエム』のトルソ(不完全な作品)を体験することができればと願ってやみません。《1995年 マッケラス指揮CDのライナーノートから》


 ジュスマイヤーが味気ないわずか2つの和音にしかなかった「アーメン」について補足します。1960年、音楽学者ウォルフガング・プラースはそれまで知られていなかった『レクィエム』のスケッチを、ベルリン国立図書館に所蔵されているモーツァルトの手稿コレクションの中から見つけました。これは明らかに、ジュスマイヤーがコンスタンツェから貰った「紙の束」にあったものであり、モーツァルトの死後、『レクィエム』を依頼主に急いで納品するためにたぶん意図的に無視したものとされています。その中の最も重要なスケッチは、モーツァルトが「アーメン」のテキストを用い、フーガのかたちで「ラクリモーザ」を閉じることを意図していたことを示していたのです。これを契機にいくつかの新しい補筆完成版でこの「アーメン」が復活されることになり、このレヴィン版もそのうちのひとつになります。

 余談ですが、モーツァルト『レクイエム』の譜面の歴史において、かのブラームスも関与していました。ブラームスはジュスマイヤーの誤りを特定することを避け、そのまま新しい版の出版を行なったそうです。 2006, Sep.21
    
    

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