第2章 登場人物の素描と名歌手たち

主要登場人物が一同に会してポーズ(1943年4月3日メトロポリタン歌劇場) 
左から、ドン・オッターヴィオ(ジェームズ・メルトン)、ドンナ・アンナ(ジンカ・ミラノフ)、ツェルリーナ(ビドゥ・サヤン)
ドンナ・エルヴィーラ(ヤルミナ・ノヴォトナー)、ドン・ジョヴァンニ(エオツィオ・ピンツァ)、レポレッロ(サルヴァトーレ・バッカローニ)
(実際はオッターヴィオが勇敢にも剣を抜いてドン・ジョヴァンニに挑むことはありません!)


■ ドン・ジョヴァンニ (バリトン)
 スペインの伝説的な好色の若い貴族で、スペイン名ではドン・ファン・テノリオ。あくまで快楽を追及して生き、最後に石像の姿となった騎士長に改心を迫られますが、断固拒否したために地獄に落ちていきます。14世紀には実在したとされる人物で、16世紀後半から17世紀前半にかけて、スペイン文学の興隆期に格好の素材となり、様々な文学作品に取り上げられてきました。

 従者であるレポレッロのアリア「カタログの歌」によって、ドン・ジョヴァンニはヨーロッパをまたに掛けて多くの女性達をものにしてきたことが語られますが、このオペラでは何回か女性へアプローチするもののことごとく失敗してしまいます。まず、ドンナ・アンナの部屋に忍び込みますが、騒がれたために逃げ出し、彼女の父親に見つかって逆に殺害します。次に、道で出会った女性に声を掛けたら、なんとかつて妻だったエルヴィーラその人だったため、大慌てで逃げ出します。さらに、村の結婚式で見つけたツェルリーナを誘惑しますが、あと一息というところで、エルヴィーラに邪魔されます。その他、エルヴィーラの侍女、レポレッロの恋人と手を出しますが、前者は途中マゼットの邪魔が入り、後者の成否については何も語られません。

 モーツァルトがドン・ジョヴァンニにつけた音楽は、同一の人物とは思えないほど様々なスタイルの不均質さに特徴があります。どんな場面でも適切な状況にスムーズに自分を合わせ、しかも相手に応じて使い分ける柔軟さを持っています。また、彼が発する魅惑、緊張、恐怖の魔術的な雰囲気と結びついたスタイルとしてシンコペーションが挙げられ、ドン・ジョヴァンニの存在と密接な関係にあります。最終幕ではドン・ジョヴァンニが地獄に落ちてあたりが恐怖から開放されると、シンコペーションの音楽は消滅するところは、その典型的な例と言えます。下は歴代のドン・ジョヴァンニ歌いたち。
エツィオ・ピンツァ(1892〜1957)   チェーザレ・シエピ(1989〜1965)    ジョージ・ロンドン(1920〜1985) 

サミュエル・ラミー    トーマス・ハンプソン    ブリン・ターフェル


■ 騎士長(バス)
 ドンナ・アンアの父親で騎士長として、貴族の間では畏敬の集める存在であったとされています。名はドン・ペドロですが、ダ・ポンテの台本では名は出てきません。劇の冒頭で登場するなりドン・ジョヴァンニに殺されますが、終幕近くに現世を越えた霊的な存在として石像の姿を借りて現われ、ドン・ジョヴァンニに改悛を迫り、最後にはそれを拒むドン・ジョヴァンニの手を掴み地獄に引きずり込みます。

 映画『アマデウス』でモーツァルトの父親レオポルトが訪ねてくるシーンに騎士長の石像が登場するときのニ短調の強和音が使われていることをご記憶かと思います。モーツァルトはこのオペラの作曲中に父親を亡くしていて、息子アマデウスの放蕩さを嘆いていた父親の姿をこの騎士長にだぶらせていたという解釈に基づくものです。

 生きている間の騎士長は、拒みさえするドン・ジョヴァンニに勝ち目のない戦いを強要して死んでしまいます。気の毒ではありますが、このおせっかいともいえる行動こそ、元々人を殺すほどの悪党ではないというドン・ジョヴァンニの人物像を擁護する見方の根拠となっています。なお、この騎士長の息が絶える時の3連音符を、のちにベートーヴェンが書きとめ、かの「月光ソナタ」に使用したという説があります。

 ドン・ファン伝説では「石の客」としてタイトルにも掲げられてきましたが、このオペラでは終幕のごくわずかな時間しか登場しません。しかし、音楽的にはきわめて効果のあるデーモニッシュな姿として表現されていて、のちのロマン派作曲家が描く悪魔の音楽に多大な影響を与えていると言えます(ウェーバーなど)。また、このオペラの序曲では石像のシーンが採用されています。
騎士長の石像とドン・ジョヴァンニ 


■ ドンナ・アンナ(ソプラノ)
  騎士長の娘ドンナ・アンナが自分の寝室に忍び込んだ後逃げるドン・ジョヴァンニに追いすがるところからこのオペラが始まります。幕開き直後に、その騒ぎに駆けつけた父親がドン・ジョヴァンニに殺されるという悲劇を背負い込み、その復讐を許婚者であるオッターヴィオと誓います。ベルターティの台本では父親の死後は全く登場しませんので、このオペラでの彼女の出番のほとんどはダ・ポンテの創作ということになります。舞台では父親の復讐相手をオッターヴィオと共に探しますが、彼女の役割は事実上第1幕の半ばで終わり、あとは父の死を嘆いているにすぎず、ドン・ジョヴァンニと直接言葉を交わすこともありません。

 決然たる気質を持ってはいますが、強い個性はなく、無力な弱々しい復讐を誓い、常にオッターヴィオと行動を共にします。しかし、オッターヴィオとは常に距離を置き、冷ややかな態度を取り続けます。アンナは強い家長のいる躾の厳しい家庭で育てられた、まだ18歳そこそこの傷つきやすい箱入り娘です。その彼女がドン・ジョヴァンニの餌食となり、女性としての本能に目覚めるというロマン主義的な解釈が長い間支配的でした。この考え方はE.T.A.ホフマンによって、許婚のオッターヴィオに対して終始冷淡であるのは、アンナが自分の純潔を奪ったドン・ジョヴァンニを愛してから、という説に端を発します。このオペラをドン・ジョヴァンニとアンナとの葛藤を描くロマン主義的大恋愛悲劇と捉える解釈は19世紀においてアンナの役をドラマティック・ソプラノのレパートリーに据えることになったのです。

 しかし、現在ではホフマンの仮説(アンナがドン・ジョヴァンニ純潔を奪われたこと)を支持する決定的な根拠はないという説も有力になっています。ヴァルター・フェルゼンシュタインは1966年の演出でドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニの関係をロマン主義的に浄化させるという従来の解釈を否定し、アンナは単に精神的に「ゆさぶり」をかけられただけという立場を示しています。

 モーツァルトは決して彼女の役割を軽く見ているわけではありませんが、彼女に与えた音楽には深い悲しみを示すために単調で定型的なものが多く、ユーモアある歌やセリフは皆無で常に深刻な音楽を伴います。また、どんな状況にあっても優雅な節回しで分をわきまえて感情を表現しています。ドン・ジョヴァンニが地獄に落ちた後、結婚を迫るオッターヴィオに1年待つように告げます。下は歴代のドンナ・アンナ歌いたち。
テレサ・サポリーティ(1763〜1869)プラハ初演時のアンナ役  ローザ・ポンセル(1897〜1981)  ジンカ・ミラノフ(1906〜1989) 

リューバ・ウェリッチ(1921〜)  セーナ・ユリナッチ(1926〜)  ジョー・サザーランド


■ドン・ オッターヴィオ(テノール)
 自らのプロフィールを持たず、ひたすらドンナ・アンナの婚約者、同伴者、慰め役という役割しか演じません。他の登場人物に話し掛けることも、何かを主張することもありません。しかし、それだけにドン・ジョヴァンニを引き立てる存在として重要であるとも言えます。大らかで、人付き合いがよく、天性のプレイボーイで、退廃的かつエロチックなドン・ジョヴァンニに対して、オッターヴィオは、人付き合いが下手で、軟弱、女性の扱いがぎこちなく、身なりや服装に気を配り、礼儀を重んじます。いくら許婚のアンナといえども、これでは好きにはなれないのは全く当然のことです。しかも、ドン・ジョヴァンニ邸に乗り込む時も弱腰で、まして独りでドン・ジョヴァンニに復讐を挑むなんてとてもできないのですから。

 しかし、このようにオッターヴィオが筋の上でさえない存在であるのは、彼にはどうすることもできない状況に置かれているのと彼のパートナーの特異な性格によるものという見方もあります。第1幕が開いてから、最初は勇気と大胆さに満ちあふれ闘志に燃えて登場するのですが、時すでに遅く、彼の善意に満ちた親切心は観客には何か余計なものに映ってしまいます。紳士であるがゆえに他の男性と違って悪態をつくことはなく、口を開いても自分の感情を直接表現できない、それが理性的で速断性に欠ける悠長な態度に見られるという、なんとも気の毒な役とも言えます。

 プラハ版とウィーン版では多少の扱いに差があります。ウィーン版では、この役を歌った歌手の技術的問題で第2幕のアリア「今こそ、私のいとしい人」を削って第1幕に新たなアリア「私の心の安らぎは」を追加しています(現在ではこの両方を歌うのが通例です。)。この新しい曲での音楽は、オッターヴィオの内面における感情の葛藤を重苦いほど蜜に多様にしかも繊細に描いているのです。プラハ版のやや外面的な音楽とここが異なります。

 ドン・ジョヴァンニが地獄に落ちて結果的復讐が成就されるのですが、アンナとの結婚は1年お預けになってしまいます。最初から最後まで男を上げることができないばかりか、結婚もできず、愛されずに生きていかなければならない悲劇的とも言える存在です。下は歴代のドン・オッターヴィオ歌いたち。
ティト・スキーパ  シモノウ(1916〜)  ニコライ・ゲッタ(1925〜)  ジェリー・ハドレー


■ ドンナ・エルヴィーラ(ソプラノ)
 ドンナ・エルヴィーラは、ブルゴス地方から逃げた夫ドン・ジョヴァンニを追って来たことになっています。モリエールの演劇ではブルゴスの尼僧院から逃げてきたより具体的に書かれています。旅行用のドレスという粗末な身なりで舞台に登場するのはそれが理由です。不実な男に対する憎しみと、そうは言ってもまだ愛しているという激しい感情を混合したアリアを歌い、その直後ドン・ジョヴァンニに出くわします。しかし、その従者レポレロの有名な『カタログ歌』の相手をしている間に彼を逃がしてしまいます。なお、この歌で彼女は自分のドン・ジョヴァンニへの愛を痛ましいほど嘲笑されてしまいます。しかも、その後ドン・ジョヴンニからも「気がふれた人」と呼ばれたり、ドン・ジョヴァンニに変装したレポレッロのあっさりだまされたりと、劇中ではずいぶん酷い目に遭ってしまいます。

 エルヴィーラは、E.T.A.ホフマンによって「盛りの過ぎ、容色の衰えた婦人」とされて長らく「ヒステリックなおばさん」に格下げされていた役でもあります。しかし、本来は20歳くらいの美しく誇り高い女性であり、捨てられはしたものの、ドン・ジョヴァンニが唯一結婚した女性なのです。彼女には、ひ弱さ、打ちひしがれた思い、狭量さ、気難しさといったものは一切なく、誰にも負けない気品と強烈な意思力があります。常にドン・オッターヴィオといっしょでしか自己表現ができないドンナ・アンナと較べて、エルヴィーラは何度もドン・ジョヴァンニと対決し、直接渡り合います。女性に手を出すドン・ジョヴァンニの目論見をことごとく妨害することで劇中重要な働きを演じるのです。

 ドン・ジョヴァンニに変装したレポレッロをかつての恋人と思い込み、これまでの酷い仕打ちを非難しつつ愛を語らう場面は実に滑稽ですが、そこでのモーツァルトの音楽はドン・ジョヴァンニをはっきりと赦しているところにこの役の面白さがあります。ドン・ジョヴァンニを捕らえた(実は変装したレポレルロだったが)と皆が信じて殺そうとした時にエルヴィーラはひとり彼のために慈悲を乞い、地獄に落ちるドン・ジョヴァンニをその入口まで追って行ったのも彼女だけという具合に彼を深く激しく愛する女性なのです。

 彼女に与えられたモーツァルトの音楽は、神経質なリズムと突飛な旋律線、突然の休止、大仰なアクセントなどと、ヒステリックで滑稽な印象を与えますが、ドンナ・アンアに対しては常に優位に立っていると指摘されています(ただ、第2幕の六重唱ではアンナが主役という説もあります)。また、エルヴィーラの音楽には古風でバロック風の決然とした「セリア」的要素も多いことが特徴です。オペラの最後にドン・ジョヴァンニが地獄に落ちると彼女は修道院に行くと宣言します。

 エルンスト・レルトが1918年の著書で「オペラのこれまでの伝統がどうあれ、出演者の中で最も演技のできる役者に演じさせるべきだ」と述べています。この役を得意とした歌手として、ノヴォトナ、シュヴァルツコップ、ユリナッチ、デラ・カーザ、テ・カナワなどが挙げられます。なお、ノヴォトナ、ユリナッチ、デラ・カーザらは『ばらの騎士』のオクタヴィアンを得意とし、さらにノヴォトナ除く全員がマルシャリンを得意としていたことは興味深いところです。また、ユリナッチ、デラ・カーザ、ヴァラディは共にドンア・アンナも歌いました。なお、「1970年代に、ユリア・ヴァラディ、キリ・テ・カナワの二人の歌手がこの役の若々しさ、気品、真面目さと、激しいエキセントリックな振る舞いを模範的に演じ、エルヴィーラの名誉を回復させた。」とヨアヒム・カイザーは指摘しています。下は歴代のドンナ・エルヴィーラ歌いたち。
ヤルミラ・ノヴォトナ(1907-1994)  エレオノーラ・ステバー  リザ・デラ・カーザ(1919〜)  セーナ・ユリナッチ(1921〜)

ヴィクトリア・デ・ロス=アンンヘレス  ユリア・ヴァラディ  ロバータ・アレクサンダー

リザ・デラ・カーザ(1919〜)    キリ・テ・カナワ


■ レポレッロ(バリトン)
 ドン・ジョヴァンニの従者として常に行動を共にします。この役はダ・ポンテによって創作され、モーツァルトの音楽によって見事なまでにその喜劇的な性格づけを与えられた特異な存在です。主人が地獄に落ちるという運命であるが故に、喜劇的性格を身につけられないだけに、それを補完しているレポレッロがきわめて重要な存在としてクローズアップされています。また、主人のドン・ジョヴァンニの奔放な行動に呆れ、お暇しようとしつつも、お金には無抵抗に応じるがゆえに離れることができず、さらに主人と同じ感情を共有しているところもユニークで、有名なアリア「カタログの歌」では主人になりかわってエルヴィーラを嘲笑します。主人が地獄に落ちることで道化者らしく「宿屋に行ってもう少しましな主人を探そうと」とそのショックを隠そうと努めるものの、放心状態であることは隠すことはできずにいます。

 このオペラの初演以来、道徳的見地からドン・ジョヴァンニが放蕩者の極悪人と見なされるにつれて、このレポレッロ役ほど時代の流れと共に「小心者」「腰抜け」といった評価で中傷されてきた役はありません。しかし、1979年に製作されたロージーの映画におけるレポレッロ(ジョセ・ファン・ダム)は、その知的さとモーツァルトが与えた音楽による性格づけを見事に表現することで、作曲家の意図を明らかにしてくれています。時には主人と対等に話し、常に気楽で陽気な道化的人物として活き活きと舞台で活躍する役としてようやくその地位を復活させたと言えます。

エーリヒ・クンツ   ジョセ・ファン・ダム   カタログをエルヴィーラに見せるレポレッロ 


■ マゼット(バス)
 ツェルリーナの花婿がマゼットです。オッターヴィオ同様、個性ある自立的な役柄として描かれることはなく、ツェルリーナの許婚者としてのみ派生的に存在します。W.アドルノは「すべての間抜け者、武骨者の代名詞」とまで言われる気の毒な役です。比較的舞台に多く登場するわりには、第1幕の「分かりましたよ、お殿様、分かりましたよ。」と花嫁ツェルリーナがドン・ジョヴァンニに連れて行かれる時にふてくされて歌うアリア1曲が与えられているのみです。第2幕はドン・ジョヴァンニにさんざん痛めつけられてしまいます。また、非常に興味深いことですが、ツェルリーナの花婿でありながら、舞台では一度たりとも「愛している」という歌詞も台詞もありません。

 とりたてた音楽表現を与えられることもなく、そのほとんどは奇妙にのろのろして間抜けたぎこちないものや堅苦しいものばかります。移り気なツェルリーナの気性から自分がこれからひどく悩まされことになる夫婦生活の重荷を内心恐れているかのように、どこか重苦しいものがその音楽から聴き取れるのです。下はマゼットとツェルリーナ。

マゼットとツェルリーナ  マゼットとツェルリーナ  マゼットとツェルリーナ


■ ツェルリーナ(ソプラノ)
 第1幕第7場は村の結婚式。ここで結婚することになっている花嫁がツェルリーナ、花婿がマゼットです。たまたま通りかかったドン・ジョヴァンニの目にとまり誘惑されます。物事を心得始めた人懐っこい農民娘で、ドン・ジョヴァンニがこのオペラの舞台上で誘惑する唯一の女性です。そのときに歌われる二重唱「手を取り合って」に対してモーツァルトが書いた優しく美しい音楽を聴くと、作曲者はドン・ジョヴァンニを単なる極悪非道の女たらしと扱っていないことがよくわかります。なお、この音楽におけるシンコペーションは前述のドン・ジョヴァンニの魔術を窺わせますが、既に首ったけのツェルリーナがドン・ジョヴァンニを急かしているという見方もあります。

 ツェリーナは最初こそドン・ジョヴァンニにうつつを抜かしていますが、浮気な女性でありながら彼との将来を予見することができ、彼に迫られると突然純潔な乙女を演じ、助けを求めて悲鳴を上げます。そこには、どこか計算高さを感じさせますし、結婚式の当日に花婿マゼットをやすやすとだます頭のよさ、エルヴィラの警告をしっかり心に刻む賢さが感じられます。

 この役を最も得意としたイルムガート・ゼーフリートは「私はいつも、ドン・ジョヴァンニがどうやってお得意の誘惑をするか、それも本心から誘惑をするか見せたい、・・・きっとモーツァルトはドン・ジョヴァンニにとめどもない大きな愛情と、百パーセントの確信を抱かせていた・・・こんな目安で、私は共演するドン・ジョヴァンニを測ってきました。・・」と言い、エルヴィーラ役を歌ってほしいという依頼を断り続けました。彼女との最高のパートナーはジョージ・ロンドンで、その共演はCDで聴くことができます。終幕で二人はご飯を食べに家に帰って行きますが、果たしてマゼットがこの賢く翔んでいる女性をつなぎとめておけるか大いに疑問なところです。下は歴代のツェリーナ歌いたち。

ビドゥ・サヤン(1902〜1999)   ヒルデ・ギューデン(1917〜1988)   イルムガート・ゼーフリート(1919〜1988)   

参考文献:
『モーツァルト ドン・ジョヴァンニ』 アッティラ・チャンパイ編 竹内ふみ子訳 音楽の友社
『MOZART オペラの解説』 フリッツ・ノスケ著 細川周平訳 冬樹社
『モーツァルトのオペラ』 エドワード・J・デント著 石井宏訳 草思社
『モーツァルト オペラ人物事典』 ヨアヒム・カイザー著 柏書房     
    

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