T. 大旅行
1829年、20歳になったメンデルスゾーンはベルリンの家を発ってヨーロッパ各地をひとりで旅します。4月から11月までイギリス、一時帰国してから翌年の5月からオーストリア、イタリア、スイス、フランス、イギリスをまわり1832年6月に帰郷します。この旅行は大きく二つの目的があったとされています。
U. メアリ女王へのレクィエム
7月22日ロンドンを発って26日にエジンバラに着いたメンデルスゾーンはまず「アーサーの座」と呼ばれる市内を一望できる名所に登り「ここではすべてが荒涼とし、薄もやか煙か霧の中に半分包まれている」景色を堪能し、翌日にはバグパイプ競技を観戦します。その時、キルトで着飾ったハイランド人が「半分朽ち果てた灰色の宮殿の脇を通り過ぎた」ことを手紙に書いていますが(7月28日付け。正確には、半分朽ち果てていたのは宮殿の隣の大修道院)、まだ見物していないホリルード宮殿を「かつてここでメアリー・スチュアートは華麗に暮らし、またリッツィオが殺害されるのを目の当たりにした」と記述しています。つまり、メンデルスゾーンはこの宮殿とメアリー女王にまつわる史実を既に知っていたのであり、宮殿を見学することは最初から予定に入っていたと考えられます。
この悲劇の女王メアリの最期の日々を描いたのがドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラーです。1800年に刊行された悲劇『マリア・ストゥアルト』は当時大ヒットし、メンデルスゾーンはシラーの友人だったゲーテのところでこの作品について論じたであろうと推測する音楽学者がいます。また、スコットランドの詩人・小説家ウォルター・スコットは『湖上の美人』、『ヴェーヴァリー』、『ロブ・ロイ』、『アイヴァンホー』など自国の歴史を題材とし、それを取り巻く歴史的建造物や風景を鮮明に描き出すことで読み手にスコットランドへの関心を大いに煽ることにもなりました。スコットの作品『修道院長』ではホリルード宮殿におけるメアリ女王が、『ロッホリーヴェン城』ではメアリ女王の幽閉と脱出が描かれています。メンデルスゾーン家の蔵書目録には数多くのスコットの著作が含まれ、具体的にどの作品をメンデルスゾーンは読んだのかはわかりませんが、ゲーテから聴かされた話も含めればメンデルスゾーンは戦乱と陰謀に明け暮れたスコットランドの歴史やメアリ女王についてかなりの情報を持っていたと想像されます。この曲の悲しみを帯びた第3楽章はメアリ女王への追悼音楽=レクイエムであり、第4楽章はメアリを巻き込む戦争を意味しているという説もあります。第4楽章のAllegro guerriero und Finale maestoso(初版スコア)におけるguerrieroは「戦争のような」あるいは「戦士、勇士」という意味です。
V. ウォルター・スコット交響曲
ホリルード宮殿を見学した翌日の7月31日、メンデルスゾーンはアボッツフォードに住んでいた作家ウォルター・スコット(1771〜1832)を訪問します。そこで30分ほど会話をしたと同行した友人の記録に残っていますが、スコットは残念ながら外出を控えていて「取るに足らない会話」に終始したとされています。(写真右から2枚目)
W. 標題と民謡的要素
メンデルスゾーンは作曲を再開した1841年頃からこの交響曲が「スコットランド」に関わる曲であることを周囲に意識させるような言動は全く見せず、初演・出版時には標題を与えていませんでした。唯一、イギリスで初演後ヴィクトリア女王(写真右端)にこの曲を献呈する際、母親宛の手紙でこの「スコットランドの曲にイングランドの名を掲げるのは素敵でしょ?」と漏らしているだけです。なお、女王宛の手紙の下書きには「スコットランドを周遊したときに生まれた」と書いていますが、清書ではその部分を削除しています。つまり、本人は「スコットランド」と意識しながら隠し通していたことになります。作曲家の死後、書簡集が出版されてスコットランドでこの曲の着想を得たことや、その後しばらく手紙の中で「スコットランド交響曲」と自ら呼んでいたことが明らかになったために1880年代にようやく「スコットランド」という表題が定着しました。この曲の着想を得てから10年の間、メンデルスゾーンは交響曲と標題音楽を明確に分けるような意識が働き、交響曲作曲家として認めてもらうためには、絶対音楽としての交響曲が必要だと感じるようになったものと考えられます。しかし初演された当初、聴衆にとって難解な作品と受け止められていたのが、標題を得ることで徐々に人気を博すようになったのも事実です。