メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調 『スコットランド』

ホリロード大修道院 荒廃したホリロード大修道院 交響曲第3番第1楽章冒頭のスケッチ フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809〜1847)
 「薄暮どきに私たちはホリルード宮殿に行きました。ここは女王メアリ・スチュアートが暮らし愛を営んだところ。小さな部屋には隠しドアにつながる階段戸棚があり、彼らはそこを上がって小部屋にいたリッツィオを見つけ、そこからリッツィオを引きずり出し、3つの部屋を通って暗い部屋の角で殺害したのです・・。脇のチャペルは屋根がなく草や蔦がはびこり、メアリーがスコトランドの女王として戴冠した祭壇は壊れていました。すべては荒廃し朽ち果てた中に明るい空から光が差し込んでいます。今日この古いチャペルで私はスコティッシュ・シンフォニーの冒頭を見出したと確信しました。」

 この手紙は1829年7月30日、4日前にスコットランドのエジンバラに着いたばかりのメンデルスゾーンが宮殿訪問から帰ったその晩に父親宛て書き綴ったもので、この交響曲についてほとんど手がかりを残さなかったメンデルスゾーン自身の言葉としてたいへん貴重です。しかも、その宮殿で書き留めたメンデルスゾーンの自身の音符のメモが残っていて、16小節のピアノ譜に楽器の指示が付されているのですが、この交響曲の冒頭とほとんど一致しているのです。ところがこの曲は直ぐには出来上がらず、およそ10年たった1842年1月20日に完成、3月3日にライプツィッヒ・ゲヴァントハウスで初演されました。しかし成功ではなかったようで、その後改訂して3月17日に再演しました。1843年にロンドンで演奏された時は大成功を博し、その3ケ月後にヴィクトリア女王に献呈されました。なお、彼の交響曲は5番まで数えますが、生前出版されたのは3番までです。4番「イタリア」、5番「宗教改革」は3番より前に作曲されながら作曲家自身満足せず改訂を予定したまま完成を見ずにこの世を去ったために、死後出版社などによってつけられた番号です。つまりこの交響曲第3番は、メンデルスゾーンが完成を認めた最後の交響曲といえます。

 では、上記の手紙の内容と背景探ることによって、この曲に込められたメンデルスゾーンの想いに迫ってみようと思います。なお、手紙の中の「薄暮どき」なのに「明るい空から光がさし込んで」とあるのは、樺太の最北端と同じ北緯約56度に位置するエジンバラでは夏の日没はかなり遅いからです。なおメンデルスゾーンは、ロンドンに滞在して仕事をしていたクリンゲマンという友人といっしょにスコットランドを旅しています。

T.大旅行
 1829年、20歳になったメンデルスゾーンはベルリンの家を発ってヨーロッパ各地をひとりで旅します。4月から11月までイギリス、一時帰国してから翌年の5月からオーストリア、イタリア、スイス、フランス、イギリスをまわり1832年6月に帰郷します。この旅行は大きく二つの目的があったとされています。

 当時のヨーロッパ市民階級にあっては外国を旅して教育の仕上げをするという考えが一般的で、高名な哲学者を祖父に、銀行事業に成功した父親を持つメンデルスーン家の長男としてこの旅行は当然のことでした。ちょうどその頃ヨーロッパではスコットランド・ブームが起きて文学、音楽などにスコットランドを題材とする作品が数多く生み出されました。そのブームに火をつけたのがスコットランドの古歌『オシアンの歌』で、イギリスで出版されるや直ちに各国語に訳されゲーテも名作『若きウェルテルの悩み』にその一部を取り入れています。また、ハイドンは200曲以上、ベートーヴェンは50曲近く、ウェーバーは10曲のスコットランド歌曲を編曲・作曲しています。こうした背景から教養旅行の行き先にスコットランドが人気のスポットとして急浮上していました。また、メンデルスゾーンは12歳の頃から当時72歳だったドイツの文豪ゲーテと個人的に親しくしていて、スコットランドを描いた様々な文学作品を紹介されたり、旅行の行き先を決める時に影響を受けたものと思われます。メンデルスゾーンはゲーテの音楽顧問をしていたツェルターに作曲を教わっていた関係でゲーテと知り合ったのです。余談ですが、『ラコッツィー行進曲』の作曲家ベルリオーズは『ファウストの8景』をゲーテに献呈しますが、保守的なツェルターが取るに足らない作品と判断したためにゲーテはその曲を聴くことはありませんでした。ちなみにメンデルスゾーンとベルリオーズはお互いの作品を理解し合う仲で、ベルりオーズがメンデルスゾーンの『最初のワルギスプルの夜』を指揮した2年後に同じゲーテの作品を台本として『フアストの劫罰』の作曲を開始します。

 もうひとつの目的はメンデルスゾーンの就職活動です。幼少の頃から音楽の才能を発揮していた息子を父親は音楽家にするか自分の跡を継がせて実業家にするかその時点では決めかねていて、旅先で音楽活動をさせることでその可能性を探る目的もありました。ロンドンに着いたメンデルスゾーンは早速演奏会を開きますが、その紹介文には音楽家としてではなく「哲学者の孫、銀行家の息子」とあり、しかもアマチュアだったためにギャラはなかったそうです。それでも、自作の交響曲ハ短調を指揮した上にウェーバーのピアノ協奏曲を暗譜で弾いたり、別の演奏会では『真夏の夜の夢』序曲を指揮してベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』のロンドン初演を弾くなどロンドンの聴衆の度肝を抜いたとされています。地元関係者による妨害などもあり、作品の依嘱を得たり就職先を見出すまでには至らなかったようですが、プロの音楽家として活動していくことは決定づけられたと言えます。

U.メアリ女王へのレクィエム
 7月22日ロンドンを発って26日にエジンバラに着いたメンデルスゾーンはまず「アーサーの座」と呼ばれる市内を一望できる名所に登り「ここではすべてが荒涼とし、薄もやか煙か霧の中に半分包まれている」景色を堪能し、翌日にはバグパイプ競技を観戦します。その時、キルトで着飾ったハイランド人が「半分朽ち果てた灰色の宮殿の脇を通り過ぎた」ことを手紙に書いていますが(7月28日付け。正確には、半分朽ち果てていたのは宮殿の隣の大修道院)、まだ見物していないホリルード宮殿を「かつてここでメアリー・スチュアートは華麗に暮らし、またリッツィオが殺害されるのを目の当たりにした」と記述しています。つまり、メンデルスゾーンはこの宮殿とメアリー女王にまつわる史実を既に知っていたのであり、宮殿を見学することは最初から予定に入っていたと考えられます。

 エジンバラ城から「ロイヤルマイル」と称される道でつながっているホリルード宮殿は元々、12世紀に建立されたホリルード大修道院Holyrood(=聖なる十字架)Abbeyのゲストハウスでした。1498年スコットランド王ジェームズ 4 世がエジンバラを首都にした際に王宮に変えられましたが、その居住者の中で最も有名なのが女王メアリー・スチュアート(1542〜1587)です。

 大修道院の方は16世紀中頃から度々破壊を受け、メンデルスゾーンの手紙の通りアーチ形天井は18世紀には崩落して、現在に至るまでその廃墟のままで残っています。既に「The Abbey ruin」という名称で有名だったらしく、メンデルスゾーンがその後に旅したパリではディオラマの人気演目になっていました。風景や歴史的建造物の絵を操作してひとつの対象を別の角度から観察できるようにした活動写真の前身であるディオラマは1832年にメンデルスゾーンも観ていて、スコットランドでの感動を新たにしたものと考えられます。

 現在、ホリルード宮殿はエリザベス女王及び王室の人々がエディンバラを訪問する際の公式の滞在場所となっていますが、それ以外の日は一般に開放されていて観光ガイドが「悲劇の女王メアリとリッツィオ」について解説をしながらリッツィオ殺害現場とその床に残された血痕を見せてくれます(回覧ビデオを是非ご覧下さい)。おそらくメンデルスゾーンが興奮した筆致で父親に報告した「リッツィオ殺害」の語り口は当時の管理人かガイドによって聞かされたのでしょう。
 なお、メンデルスゾーンの記憶違いか案内に誤りがあったのか、メアリ女王が戴冠したのはこの宮殿の隣(大修道院跡)にある祭壇ではなく別の城の礼拝堂で、この修道院は彼女がダーンリー卿と結婚式を挙げた場所として歴史にその名をとどめています。

 では、その宮殿の主人であるメアリ女王と「リッツィオ殺人事件」について解説します。メアリは、1542年父親のジェームズ5世の急死によって生後わずか6日目にしてスコットランド女王となります。5歳のとき、フランス王子フランソワの婚約者としてフランスに渡り後に結婚、夫がフランス国王に即位したとき彼女は17 歳でした。しかし病弱だった夫フランソワは間もなく病死、メアリは女王としてスコットランドに帰国します。当時のイングランド国王エリザベスとメアリとは、エリザベスの父ヘンリ8世とメアリの祖母が兄妹という間柄であったため、メアリはスコットランドの女王にしてイングランドの王位継承権も持っていることになり、そのことがメアリの帰国によって自らを悲劇へと導いてしまうのです。

 帰郷後、彼女は3歳下のヘンリー・ダーンリ卿とホリルード大修道院で結婚式を挙げます。当時の女性としては長身だった彼女に肩を並べられるのは彼しかいなかったからという説がありますが、この結婚は明らかな失敗で彼はたいへんな浪費家で外見以外にいいところがなく、知識や経験もないのに政治に口を出すなど次第にメアリは夫を避け始めます。彼女はイタリアのピエモント(ロッシーニがピエモント産のトリュフを重宝していたことで有名)から来た音楽家のディヴィッド・リッツィオ(リュート奏者でバス歌手)を外国語の秘書官として重用していました。愛人だったかどうかの証拠はありませんが(彼女をダーンリに引き合わせたのがこのリッツィオでした。)、嫉妬した夫ダーンリは不満を抱く貴族たちと組んで妻のメリアに対して反乱を企てます。これが有名な「リッツィオ殺害事件」で、1566年3月9日ダーンリ以下6-7名の貴族達が宮殿に押し入り、既にダーンリの子を身籠っていた(6ケ月)彼女の目前で大乱闘の末リッツィオを56箇所もの刺し傷を負わせて殺害し窓下に投げ捨てたのでした(写真中央。左からリッツィオ、メアリ女王)。メアリは流産も卒倒もしませんでしたが(胎児の殺害が目的との説もある)、彼女は幽閉されます。

 しかし、その後脱出したメアリは夫だけでなく反乱に加わった諸侯たちも許し国内の秩序の回復をはかりますが、ダンリーが何者かによって爆殺されます。その直後にメアリは30歳の貴族ボスウェルと3回目の結婚をします。人々の疑いは当然メアリとボスウェルに集中し、貴族たちはこれを利用して反乱を起こしメアリを退位させ、ボスウェルを国外に追放します。国王はメアリの子ジェイムズ6世が継ぎ、彼女はロッホリーヴェン城に監禁されます。メアリはその後脱出して反乱を起こしますが、失敗してイングランドに亡命しエリザベス女王の保護を求めます。しかし、イングランド王位継承権を持つメアリを目の敵にするエリザベスによって18年間幽閉され、1587年女王殺害の陰謀に連座した疑いで斬首刑に処されます。
リッツィオ メアリ・スチュアート リッツィオ殺害事件 ウォルター・スコット ヴィクトリア女王の前で演奏するメンデルスゾーン

 この悲劇の女王メアリの最期の日々を描いたのがドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラーです。1800年に刊行された悲劇『マリア・ストゥアルト』は当時大ヒットし、メンデルスゾーンはシラーの友人だったゲーテのところでこの作品について論じたであろうと推測する音楽学者がいます。また、スコットランドの詩人・小説家ウォルター・スコットは『湖上の美人』、『ヴェーヴァリー』、『ロブ・ロイ』、『アイヴァンホー』など自国の歴史を題材とし、それを取り巻く歴史的建造物や風景を鮮明に描き出すことで読み手にスコットランドへの関心を大いに煽ることにもなりました。スコットの作品『修道院長』ではホリルード宮殿におけるメアリ女王が、『ロッホリーヴェン城』ではメアリ女王の幽閉と脱出が描かれています。メンデルスゾーン家の蔵書目録には数多くのスコットの著作が含まれ、具体的にどの作品をメンデルスゾーンは読んだのかはわかりませんが、ゲーテから聴かされた話も含めればメンデルスゾーンは戦乱と陰謀に明け暮れたスコットランドの歴史やメアリ女王についてかなりの情報を持っていたと想像されます。この曲の悲しみを帯びた第3楽章はメアリ女王への追悼音楽=レクイエムであり、第4楽章はメアリを巻き込む戦争を意味しているという説もあります。第4楽章のAllegro guerriero und Finale maestoso(初版スコア)におけるguerrieroは「戦争のような」あるいは「戦士、勇士」という意味です。

V.ウォルター・スコット交響曲
 ホリルード宮殿を見学した翌日の7月31日、メンデルスゾーンはアボッツフォードに住んでいた作家ウォルター・スコット(1771〜1832)を訪問します。そこで30分ほど会話をしたと同行した友人の記録に残っていますが、スコットは残念ながら外出を控えていて「取るに足らない会話」に終始したとされています。(写真右から2枚目)


 さらに8月11日にはスコットの代表作『湖上の美人』の舞台であるロッホ・ローモンドを訪ねています(有名なスコットランド民謡の題名にもなっています。)。この『湖上の美人』の中の詩「アヴェ・マリア」にメンデルスゾーンは約10年前に作曲しています(同じ詩にシューベルトも作曲)。このメンデルスゾーンとスコットとの邂逅は極めて興味深い出来事ですが、メンデルスゾーン自身の口からはその時のことについて何も語られていませんし、スコット側にもメンデルスゾーンの名は記録されていません。スコットはメンデルスゾーンの友人である作曲家モシュレスと親交があり、メンデルスゾーンとの出会いに無関心ではなかったと思われますが、ちょうどその頃病気治療中で長年書き続けていた日記が中断していた時期にあたります。

 しかし、メアリ女王の舞台であるホリルード宮殿の翌日にメアリ女王の作品を書いているスコットを訪問したという事実は、メンデルスゾーンがメアリ女王に関する何かを期待していたことを想像させます。彼は既に7作のオペラを書いていましたが、天才メンデルスゾーンもオペラだけは神から見放されていたようでどれも成功していませんでした。オペラでの成功を望んでいたメンデルスゾーンはスコットにその題材を求めていたと想像できるかもしれません。しかし、十分な時間もなく具体的な収穫は得られませんでした。イギリス旅行から帰郷したメンデルスゾーンは1830年5月に作曲家マーシュナーが書いたスコット原作のオペラ『アイヴァンホー』のスコアに夢中になっていたという記録があります。その後オペラ作曲の機会は何回かありましたが、結局1作のオペラも完成させずにこの世を去っています。なお、ロッシーニは1819年にスコットの『湖上の美人』をオペラ化し、イタリアの作曲家ドニゼッティは1835年にスコットの小説『ランマムーアの花嫁』を原作として名作『ランメルモールのルチア』を作曲し、メンデルスゾーンが愛読していたシラーの『マリア・ストゥアルト』もドニゼッティによって1834年にオペラ化されていて、メンデルスゾーンの出る幕はなかったのかもしれません。なお、ベルリオーズはスコットの小説から序曲を2曲、『ヴェーヴァリー』(1828年)、『ロブロイ』(1832年)を作曲しています。

 1979年音楽学者ルードイッヒ・フィンシャーはこの曲を「ウォルター・スコット交響曲」と名づけ、メアリ女王のイングランドへの逃避行を描いたスコットの『修道院長』などの作品からの影響を指摘しています。オペラにはできなかったメンデルスゾーンはそのスコットの作品群に描かれたスコットランドの歴史と風景を自らの体験を重ねつつ交響曲の中に織り込んだとも言えるかもしれません。

W.標題と民謡的要素
 メンデルスゾーンは作曲を再開した1841年頃からこの交響曲が「スコットランド」に関わる曲であることを周囲に意識させるような言動は全く見せず、初演・出版時には標題を与えていませんでした。唯一、イギリスで初演後ヴィクトリア女王(写真右端)にこの曲を献呈する際、母親宛の手紙でこの「スコットランドの曲にイングランドの名を掲げるのは素敵でしょ?」と漏らしているだけです。なお、女王宛の手紙の下書きには「スコットランドを周遊したときに生まれた」と書いていますが、清書ではその部分を削除しています。つまり、本人は「スコットランド」と意識しながら隠し通していたことになります。作曲家の死後、書簡集が出版されてスコットランドでこの曲の着想を得たことや、その後しばらく手紙の中で「スコットランド交響曲」と自ら呼んでいたことが明らかになったために1880年代にようやく「スコットランド」という表題が定着しました。この曲の着想を得てから10年の間、メンデルスゾーンは交響曲と標題音楽を明確に分けるような意識が働き、交響曲作曲家として認めてもらうためには、絶対音楽としての交響曲が必要だと感じるようになったものと考えられます。しかし初演された当初、聴衆にとって難解な作品と受け止められていたのが、標題を得ることで徐々に人気を博すようになったのも事実です。

 この曲を仕上げていた頃、「スコットランド」の民謡的要素を敢えて口にしなかったメンデルスゾーンですが、最初は明らかに民謡的なるものを意識していました。「大旅行」に出かける前にイギリスにいる友人への手紙で「8月にはスコットランドに行き、心地よい田舎で耳に美しいフォークソングをかき集めるつもりだ。膝をむき出しにした地元の人の心に触れたいのだ。」と書き、ロンドン滞在中の5月末には父親宛に「陸地にあっては私は海をとても愛し、それをスコットランドのバグパイプ付きの交響曲に利用したい」と書くなど、これから旅行するスコットランドで民謡や風景に触れることで新しい曲のアイデアが得られることを期待していました。事実、エジンバラではバグパイプ競技を観戦し、また同じ宿にバグパイプ奏者が宿泊していると知るとその部屋を訪ねて吹き方など詳しく聞きだしています。

  ところが、スコットランドを離れてしばらくすると、メンデルスゾーンの考えは変わっていきます。「一万の悪魔よ、すべての民謡を持ち去れ!今私はウェールズにいますが、どの宿屋のロビーにも必ずハープ弾きが座っていていわゆる民謡を繰り返し演奏しているのです!恐ろしく俗悪で見せかけだけの代物!しかも手回しオルガンがいっしょにプープー鳴っているのです。気が狂いますよ。もう歯が痛くなりそう!」と父親に書き送っています。期待した程いい民謡にめぐり合えなかったのか、エジンバラを旅立ってから悪天候に見舞われ続けたせいか、あるいは後に名作『フィンガルの洞窟』序曲を生み出したヘブリディーズ諸島の見学でひどい船酔いに苦しんだことなどで嫌な思い出と結びついてしまったのか、帰郷後ツェルターから生来のスコットランド音楽を研究するよう勧められましたが、メンデルスゾーンは断っています。

 1842年の初演以来、シューマンをはじめ多くの音楽関係者はこの曲から明らかな民謡的性格を見出し、イギリスではこの曲の持つ「北方的荒々しさ」を認め、特に第2楽章は間違いなくスコットランド起源であると早くから指摘されていました。冒頭のクラリネットの旋律はスコットランド特有の五音音階でバグパイプを模したものであり、エジンバラで見学したバグパイプ・コンテスト(現在ではハイランド・ゲームと呼び、丸太投げ・綱引き・ダンス・バグパイプの種目があります)で耳にした旋律とも言われていますが、はっきりした証拠はありません。また、第1楽章冒頭の旋律は、同時期に作曲していた『最初のワルギスプルの夜』や無言歌集(ピアノ独奏曲)第4巻第5曲「民謡」作品53-5(1841年)でも使用されていて、スコットランドの民謡の似ているとされています。しかもこの旋律はブラームスの作品1のピアノソナタ第1番でも使用されていてブラームス自身スコットランドの詩人ロバート・バーンズ(『蛍の光』の作者として有名)の『我が心はハイランドにあり』の旋律を借用したことを述べています。しかし、この曲において明確にどの民謡を引用しているということを指摘することは出来ません。


参考文献
『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』星野宏美 音楽の友社
『Mendelssohn:a life in music』 R. Larry Todd Oxford University Press
『ウォルター・スコット伝』 J.G.ロックハート  彩流社



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