クーセヴィツキーとの出会いはマルティヌーがパリにいた1926年に遡ります。マルティヌーはあるカフェで見かけた指揮者のクーセヴィツキーに思い切って自己紹介するとともに自作の管弦楽作品『ラ・バガーレ(喧騒)』のコピー譜を渡します。シャイなマルティヌーにとっては大胆きわまる行為でしたが、クーセヴィツキーは1927年11月18日ボストンで初演をして成功をおさめます。ボストン・ヘラルド紙は「無名の作曲家による誰も知らない作品がシンフォニーホールでこうまで熱狂的に迎えられるということはめったにないこと」と評しています。翌1928年12月14日、再びクーセヴィツキーはマルティヌーの作品『
La Symphonie 』を取り上げます。この作品はのちに改作されて『ラプソディー』となります。次いで1932年、弦楽六重奏曲で『エリザベス・スプラング・クーリッジ賞』を受賞した際の審査員の中にもクーセヴィツキーがいました。同年、ボストン交響楽団はマルティヌーの『弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲』を演奏し、さらにマルティヌーが渡米した後、 1941年11月14日、クーセヴィツキーはボストンで『コンチェルト・グロッソ』をマルティヌーの面前で初演しています。この曲はパリ時代に書かれ、1940年4月にシャルル・ミュンシュによってパリで初演される予定でしたが、ナチスのパリ侵攻によりキャンセルされてしまい、混乱の最中にスコアが失われてしまいます。しかし、スコアのコピーが指揮者のジョージ・セルによってプラハで発見され、オーストラリア経由で米国に運ばれます。セルはこの曲の演奏をボストン交響楽団のクーセヴィツキーに託したのでした。当時の米国を挙げて盛んになりつつあった反ナチス・キャンペーンにとって格好のストーリーということもあって新聞各紙に取り上げられ、初演はまたもや熱狂的な大成功をおさめます。こうしてマルティヌーはアメリカで作曲家として確固たる名声を確立することになります。しかも1942年には、クーセヴィツキーによってタングルウッドにあるバークシャー・ミュージックセンターのレジデンス・ゲスト・コンポーザーとして迎えられ、作曲の夏期講習の講師として安定した職を得ることができたのでした。