マルティヌー:交響曲第1番

マルティヌーが育った教会と鐘楼

生い立ち
 プラハから東へ約150Km離れたボヘミアとモラヴィアの境に位置する小さな町ポリチカに、1890年12月8日ボフスラフ・マルティヌーは生まれます。ボフスラフが生まれる前の年、靴屋を営んでいた両親は副業として火災の監視員と鐘撞きの仕事を引き受け、聖ヤコブ(ジェームズ)教会の鐘楼の193段の階段を上がったところにある部屋に移り住みます。ヒョロッとしたひ弱な少年マルティヌーは、最初の12年間この塔の中でほとんどの時間を過ごしたとされています。6歳のとき、両親は3/4のヴァイオリンを与え、なかなか学校に行きたがらないボフスラフに対して両親は町の音楽教師のところに通うことをなんとか説得します。ヴァイオリンの上達は速く、やがて町の学生弦楽四重奏団や弦楽オーケストラに参加するようになります。作曲家を目指すことを教えてくれたこの教師のことをマルティヌーは生涯忘れなかったそうです。

 やがて、援助を受けてプラハ音楽院で学ぶようになりますが、わずか2年で試験に落ちて学校を離れます。それでも作曲の勉強は続け、スコアを読み、コンサートに通いながら作曲を続けます。若いマルティヌーにとって幸運だったのは、当時のプラハは文化の十字路といった位置にあり、コンサートではR.シュトラウス、ブルックナー、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、バルトークといった作曲家の作品が取り上げられていました。この頃のマルティヌーはこうした作曲家の影響を強く受けた作品を書いています。

 第一次世界大戦中は故郷のポリチカに戻り学校で音楽を教える傍らピアノ曲を中心に作曲に続け、戦争が終わる頃にはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第2ヴァイオリンで臨時のプレーヤーとしての職を得ます。ここで、当時のチェコ音楽だけでなく、マーラーの交響曲や、チャイコフスキーやムソルグスキー、スクリャービンといったロシアの作品に触れ、また、アルトゥール・ニキッシュやフェリックス・ワインガルトナーといった大指揮たちの棒でリストやR.シュトラウスの交響詩、ブルックナーやシベリウスの交響曲を演奏する機会を得ました。こうして、マルティヌーは大編成の管弦楽作品の作曲法を身につけていきます。1919年1月、マルティヌー29歳の時に独唱と合唱と管弦楽の作品、『チェコ・ラプソディー』がスメタナ・ホールでチェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって初演され、ようやく作曲家として知られるようになります。


7歳のときのボスフラフ少年    1912年 教師マルティヌー
                       7歳のマルティヌーと22歳頃のマルティヌー

パリ時代
 1923年、マルティヌーはパリに出かけます。最初は数ヶ月のつもりでしたが、運良く奨学金を手にすることができ、ちゃんと作曲の指導を受けるべくルーセルのもとへ行きます。当時のパリでは、ドビュッシーの死後(1918年)もはや彼の作品が演奏されることはなく、ネオ・クラシックがもてはやされ、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーが主催するコンサートでは、ストラヴィンスキーを始め、バルトーク、ファリャ、ミヨー、オネゲル、ヒンデミット、プロコフィエフ、マリピエロ、コダーイ、プーランクといった国際色溢れる面々の作品が取り上げられ、大きな支持を得ていました。マルティヌーはとりわけストラヴィンスキーの『兵士の物語』や『結婚』に強い衝撃を受けます。この頃の作品『ハーフ・タイム』ではストラヴィンスキーの『ペトルーシカ』や『春の祭典』の痕跡も多く見られます。この間、マルティヌーの作品はプラハでも少しずつ演奏されるようになり、名声も高まっていきます。

 1920年代、一時期ジャズのイディオムを取り入れた曲をいくつか書きましたが、1930年代になるとバロック時代の作風を帯びるようになります。1926年秋にサーカスで知り合ったお針子のシャルロットと出会い、1931年の春に結婚します。1935-38年には母国のプラハ音楽院教授のポストを要請されるような話を受け、一時はその地位を望みましたが、結局進展はしませんでした。多作家のマルティヌーはオペラの作曲にも手を染め、このパリ時代に7曲ものオペラを作曲し、代表作『ジュリエッタ』も完成させています。なお、この頃の作品はすべてチェコ語で書かれ、チェコで初演されています。


パリ時代のマルティヌー   妻のシャルロットと
         パリ時代のマルティヌー               妻シャルロットと(1931年)


 1940年2月初旬、ポール・ザッハー指揮による『2群の弦楽とピアノとティンパニのための二重協奏曲』の初演をスイスのバーゼルまで聴きに行きます。曲は好評をもって迎えられ、マルティヌーの国際的なキャリアにとって重要な演奏会のひとつとなります。しかしちょうどその頃、ナチスによる支配が進行しつつある祖国チェコではマルティヌーの作品の演奏禁止令が出され、国際著作権料の支払いもストップされてしまいます。マルティヌーはナチスのブラックリストに載るに至り、身の危険を感じるようになり、7月14日に予定されていた自作の演奏会を最後にパリを離れる計画を立てます。しかし、1940年6月10日、親友のピアニスト、ルドルフ・フィルクスニーはパリ陥落が間近であることを察知し、マルティヌー夫妻にパリ脱出を促します。無一文のふたりはスーツケースひとつ提げて南フランスへ向かい出国を模索します。しかし、マルティヌーは作曲家同盟の友人のお陰でアメリカの入国ビザは取得するものの、チェコ人ということでフランスのヴィシー政権から出国許可を得ることはなかなかできませんでした。

 この逃避行の間でもマルティヌーは作曲の手を休めず、スイスにいたポール・ザッハー、ジュネーヴのエルネスト・アンセルメらの援助を受けながら、フィルクスニーのためにピアノ曲『幻想曲とトッカータ』を作曲し、さらに『ピアノと管弦楽のためのシンフォニエッタ・ジョコーザ』を長年住み親しんだフランスへの惜別として歌い上げます。10月になってようやく出国の許可がおり、スペインのトランジット・ビザも取得し、翌年1941年1月にリズボン港にたどり着きます。最初の船の乗れなかったマルティヌー夫妻は更に2ケ月待った後、ポール・ザッハーの計らいで入手できた寝台券を手にアメリカ行きの英国海軍の巡洋艦Exeter号に乗り込みます。パリを離れて9ケ月間ホームレスを強いられた無一文のふたりは、40床以上のベッドと駅のプラットホームを転々としながら寒いヨーロッパの冬の夜を耐え抜いたのでした。1941年3月25日、マルティヌーはフランスで過ごした17年間の作曲活動に終止符を打ったのでした。



                       マルティヌー夫妻が乗船した Exeter 号 
        (Exeter号はこの1年後、ジャワ海海戦で日本海軍の攻撃を受けて沈没の憂き目に遭います。)


アメリカへ

「ニューヨークの果てしないアヴェニューとストリートは、インスピレーションの源には全くなりえない・・・」

 1941年3月31日、ニューヨークに到着したマルティヌーの最初の印象がこれでした。49年前、同じチェコ出身の作曲家ドヴォルザークがニューヨークの地に立ちましたが、おそらくこの二人の見た光景やおかれた環境はまるで違ったものだったと思われます。作曲家としてのマルティヌーはニューヨークでは無名に近く、言葉もわからず仕事もなく、しかも長かったヨーロッパ脱出に身も心も疲れきっていました。57thスリートにあったホテルは息苦しく、セントラルパークで過ごす時が多かったようです。しかし、ついにニューヨークでの生活に耐えきれず、マサチューセッツ州のエドガータウンを経て、知り合いのチェコ人が住むロングアイランドのジャマイカに落ち着きます。

 このジャマイカでマルティヌーは英語の勉強に励みつつ作曲活動を再開させますが、ヨーロッパではオペラや室内楽が中心であったのに対して編成規模の大きい作品、交響曲と協奏曲へと作風をシフトさせます。まず、ヨーロッパの最後の頃に中断していた『シンフォニエッタ・ジョコーザ』の完成をめざし、さらにヴァイオリンとピアノのための作品だった『コンチェルタンテ組曲』の管弦楽伴奏への改編を始めます。そして、アメリカでこの後6曲も完成させた交響曲の最初の第1番への取り組みがいよいよ始まります。


ニューヨーク時代のマルティヌー


交響曲第1番
 この曲は1942年、クーセヴィツキー財団からの委嘱作品として作曲されました。当時ボストン交響楽団の音楽監督の座にあった指揮者のクーセヴィツキーの亡くなった夫人ナターリアの追悼のために企画されたもので、他にもストラヴィンスキーが『頌歌』、バルトークが『管弦楽のための協奏曲』といった作品で応えています。この時代を代表するそうそうたる面々に中に、マルティヌーが入っていることと今日のマルティヌーの知名度の低さに大きなギャップを覚えるところです。

 第二次大戦が勃発した頃、指揮者のシャルル・ミュンシュがマルティヌーに交響曲かスラヴ舞曲のような曲を書くように勧めたことがありましたが、当時の状況ではそうした大編成の曲を書くことは困難が伴いました。しかし、まさにこの委嘱によってマルティヌーは堰を切ったかのように交響曲を次々と生み出すことになります。


恩人クーセヴィツキーと   ボストンで



 クーセヴィツキーとの出会いはマルティヌーがパリにいた1926年に遡ります。マルティヌーはあるカフェで見かけた指揮者のクーセヴィツキーに思い切って自己紹介するとともに自作の管弦楽作品『ラ・バガーレ(喧騒)』のコピー譜を渡します。シャイなマルティヌーにとっては大胆きわまる行為でしたが、クーセヴィツキーは1927年11月18日ボストンで初演をして成功をおさめます。ボストン・ヘラルド紙は「無名の作曲家による誰も知らない作品がシンフォニーホールでこうまで熱狂的に迎えられるということはめったにないこと」と評しています。翌1928年12月14日、再びクーセヴィツキーはマルティヌーの作品『 La Symphonie 』を取り上げます。この作品はのちに改作されて『ラプソディー』となります。次いで1932年、弦楽六重奏曲で『エリザベス・スプラング・クーリッジ賞』を受賞した際の審査員の中にもクーセヴィツキーがいました。同年、ボストン交響楽団はマルティヌーの『弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲』を演奏し、さらにマルティヌーが渡米した後、   1941年11月14日、クーセヴィツキーはボストンで『コンチェルト・グロッソ』をマルティヌーの面前で初演しています。この曲はパリ時代に書かれ、1940年4月にシャルル・ミュンシュによってパリで初演される予定でしたが、ナチスのパリ侵攻によりキャンセルされてしまい、混乱の最中にスコアが失われてしまいます。しかし、スコアのコピーが指揮者のジョージ・セルによってプラハで発見され、オーストラリア経由で米国に運ばれます。セルはこの曲の演奏をボストン交響楽団のクーセヴィツキーに託したのでした。当時の米国を挙げて盛んになりつつあった反ナチス・キャンペーンにとって格好のストーリーということもあって新聞各紙に取り上げられ、初演はまたもや熱狂的な大成功をおさめます。こうしてマルティヌーはアメリカで作曲家として確固たる名声を確立することになります。しかも1942年には、クーセヴィツキーによってタングルウッドにあるバークシャー・ミュージックセンターのレジデンス・ゲスト・コンポーザーとして迎えられ、作曲の夏期講習の講師として安定した職を得ることができたのでした。

 交響曲第1番は1942年5月21日に着手して、速筆家のマルティヌーらしく早くも8月の末には完成されます。多くの大作曲家が取り組んできた交響曲というジャンルに対して臆することも気負いもなく、マルティヌー独自の世界を繰り広げています。指揮者のアンセルメはマルティヌーを「この世代の交響楽作品書きの中で最も偉大な作曲家のひとり」と賞賛しています。1942年11月13日、クーセヴィツキーの指揮するボストン交響楽団で初演され、亡きナターリエ夫人に献呈されました。ヨーロッパでは1946年の第1回「プラハの春音楽祭」で、シャルル・ミュンシュの指揮、チェコ・フィルによって演奏されました。

第1楽章:モデラート  冒頭でヴァイオリンが奏するシンコペーションで下降する主題が奏されますが、これは12世紀ボヘミアの聖歌「聖ヴァーツラフ」の引用と言われています。この聖歌はボヘミア地方の聖歌の中で最もよく歌われるもので、とりわけ最後の祈願文「神聖なる聖ヴァーツラフよ、我々を滅ぼさないでください」は、フス戦争から1938年のナチス侵攻までのチェコへの圧政に対してチェコの人々が使ってきたものでした。マルティヌーにとってもこの聖歌は特別なものだったとされ、他の作品でも度々引用しています。マルティヌーがこの交響曲を書き始めてしばらくたった1942年6月、マルティヌーの祖国チェコスロバキアの小さな村リディツェが、ナチスにより完全に破壊され、500名近い村人のうち男性は全員射殺、女性や子供も強制収容所へ送還されたというニュースが世界を駆け巡りました。マルティヌーは翌年アメリカの作曲家連盟から戦争中の大事件についての曲を依頼されて『リディツェ追悼』を作曲します(この曲でも「聖ヴァーツラフ」の旋律を使用しています)が、タイミング的にこの交響曲第1番を書いている最中にその悲劇を知ったと思われますので、曲のどこかにその悲しみを織り込んだのに違いありません。

 半音階進行とシンコペーションや分厚い弦楽器の持続音、打楽器的なピアノなどが多用されていることに加えて、モティーフの中の音と音の間の距離が極めて短い(跳躍が少ない)ことに、パターンを繰り返すオスティナート技法が組み合わさって、のちの1960年代にブレイクするミニマル・ミュージックを予見するような音楽に仕上がっています。このオスティナート技法は、かつてマルティヌーがパリ時代に感銘したストラヴィンスキーのバレエ音楽『結婚』で執拗に使われたもので、さらに『結婚』では終始ピアノが打楽器的に使用されている点など共通点が多く、興味深いところです。

第2楽章:アレグロ  ニューヨークで体験した喧騒を表わしたと評されることもあるエネギッシュな三部形式のスケルツォ楽章。ブルックナーを思わせるがっしりした曲つくりですが、より色彩感を感じさせます。中間部では弦楽器抜きでピアノとハープと管楽器によって室内楽風に仕上げられています。パリ時代に、三重奏から九重奏、様々な楽器の組み合わせの室内楽を30曲以上作曲していただけに、ツボをおさえたマルティヌーの自在な技法が堪能できます。第3部は第1部をそっくりリピートします。

第3楽章:ラールゴ  低弦によって悲劇的でかつ厳粛に開始されると程なくピアノが低音で弔いの鐘を模します。弦楽器の分厚い響きはここでも曲を支配し、深い悲しみを静かに歌います。やはり戦争で失われた人々、とりわけリディツェの悲劇のことを考えざるを得ません。後半はまたもや半音階上降音型を執拗に繰り返していきます。魂が昇華する様を先輩のドヴォルザークは、『新世界交響曲』第2楽章や『スターバト・マーテル』で上降音型として描いていますが、マルティヌーは同じことを意識していたのでしょうか?

第4楽章:アレグロ・ノン・トロッポ  ロンド形式。冒頭はメンデルスゾーン風の勢いのある中で端整なスタイルで開始されます。リズミカルな主題もすぐにシンコペーションに変容していってより動きが加わります。この下降音階を含む旋律は、スメタナの喜歌劇『秘密』第1幕で歌われるスクリヴァネクのアリアの引用との指摘があります。村で反目し合う2つの家の間に割って入ったバラッド歌いのスクリヴァネクは両家の当主をなだめるどころか火に油をそそいでしまうという滑稽なシーンの音楽です。マルティヌーはこの部分にどんな意味を込めたのかは彼だけの「秘密」ということなのでしょうか。

 やがて、第1楽章でも聴かれた半音階による上降音型や反復音型を織り交ぜながら、節度ある賑やかさを維持しつつ軽快に進んでいきます。次いで歌われる木管による長閑なシンコペーションの主題ではピアノやハープの乾いた響きを効果的に活かされています。最初の主題に戻ってからは拍子をめまぐるしく変化させ、各種打楽器も加わりその頂点ではホルンによる勇壮なフレーズが挿入されます。大きな空間を意識させるJ.ウィリアムズ風の映画音楽が顔を出します。中間部では木管を主体にりラックスした雰囲気に音楽を落ち着かせます。マルティヌーが得意とする室内楽の世界です。フルート独奏による経過句を経て再び最初の主題に戻ります。コーダではこの楽章の主要主題をより民謡風に変形させ、唐突なテンポアップによって賑やかに曲をしめくくります。



参考文献:
1.MATINU Brian Large Holmes & Meier Publishers New York 1976
2.Bohuslav Martinu NEWSLETTER 2006 The Bohuslav Martinu Foundation


     
   


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