マーラー : 交響曲第10番(デリック・クック版)

グスタフ・マーラー   アルマ・マーラー(1900年)


■ マーラー最後の4年間と交響曲第10番(デリック・クック版)の成立

1907年
  7月   心臓病と診断される。交響曲第8番完成
  7月   『大地の歌』 南オーストリアのアルト・シュルーダーバッハにて着手。
  10月    ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督を解雇される。
1908年
  1月    渡米し、メトロポリタン歌劇場デビュー
  7月   『大地の歌』 アルト・シュルーダーバッハにて完成。
  9月19日 交響曲第7番、プラハにて初演(完成は1905年、マイヤーニッヒ)
1909年
  7月   交響曲第9番 アルト・シュルーダーバッハにて着手。
1910年
  4月1日  交響曲第9番 ニューヨークにて完成。
  6〜7月  交響曲第10番 トプラッハにて着手
  7月    アルマが建築家グロピウスと恋仲になり、夫婦関係悪化
  8月25日 精神科医フロイトの診察を受ける
  9月12日 交響曲第8番 ミュンヘンにて初演。 10月25日 ニューヨークへ戻る。
  12月   ニューヨーク・フィルハーモニックと米国内演奏旅行。クリスマス頃咽喉炎をわずらう。
1911年
  1月17 & 20日 マーラー自作の交響曲第4番をニューヨーク・フィルハーモニックで指揮。
  2月20日 新たな発熱。
  2月21日 医師フレンクルの反対を押し切ってニューヨーク・フィルハーモニックを指揮
        (ブゾーニの『悲歌的子守歌』初演、メンデルスゾーンの交響曲第4番)。
  3月    連鎖球菌による心内膜炎の疑い。
        細菌学者シャントメスを訪ねてパリ郊外ヌイイーにある療養所へ移送。
  5月12日 回復の見込みが立たず、ウィーンへ移動。
  5月18日 感染症によりマーラー死去。

ニューヨークに向かう船にて(1910年)     ニューヨークからヨーロッパへ向かう船にて(1911年)


 11月20日 『大地の歌』 ミュンヘンにて初演(指揮:ブルーノ・ワルター)
1912年
  6月28日 交響曲第9番 ウィーンにて初演(指揮:ブルーノ・ワルター)
1920年
  5月6〜21日 アムステルダムでマーラー・フェスティヴァル
1922〜24年?  アルマ、作曲家エルンスト・クルシェネクに交響曲第10番の補筆完成を依頼。
1924年
 10月24日  フランツ・シャルク指揮ウィーン・フィルハーモニーで交響曲第10番(第1,3楽章)初演。
       ウィーンのPaul Zsolnay 社、交響曲第10番の手稿(一部欠落)のファクシミリを出版。
1959年   BBCがマーラー生誕100年を記念して音楽学者デリック・クックにこの曲完成を委嘱。
1960年
 12月19日  BBCでオンエア(ベルンハルト・ゴルトシュミット指揮フィルハーモニア管弦楽団)。
        アルマはこの曲の放送、補筆作業、楽譜の出版を許可しないと通告。
1963年
 5月8日   アルマに演奏のテープを聴かせ、クックの補筆版を承認。
       新たに提供された草稿を加えてクックは第2稿を完成。
1964年
 8月13日   クック第2稿を初演(ゴルトシュミット指揮ロンドン交響楽団)。
1972年
 10月15日  コリン&デイヴィット・マシューズ兄弟の協力によるクック第3稿を初演
           (ウィン・モリス指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)。


■ 最後のシンフォニーを巡る虚と実

  マーラーの交響曲第10番は第1楽章だけが演奏される機会が多く、CDでは交響曲第8番や9番などの余白に収録されていたりします。一方、イギリスの音楽学者デリック・クック(Deryck Cooke)による5楽章からなる交響曲第10番全曲は、他の1番から9番までのマーラーの交響曲や『大地の歌』に比べると演奏される機会は極端に減りますし、CD録音も限られた指揮者によるものしかありません。幾度かのマーラー・ブームを経て、マーラーの交響曲が取り上げられないオーケストラ・シーズンはもはや存在しないくらいの今日、作曲家の死によって未完成のまま残って補筆による演奏できるようになった作品でこの曲以上に創作部分が多いモーツァルトの『レクィエム』やプッチーニの歌劇『トーランドット』程の知名度に恵まれず。演奏される機会が少ないのはいったい何故なのでしょうか?

  それは、マーラーが生前にこの曲のスケッチを破棄するよう妻のアルマ(Alma Maria Mahler)に言った、とするアルマの証言に起因すると考えられます。さらに、遺作となった交響曲第9番や『大地の歌』を初演したマーラーの弟子であるブルーノ・ワルター(Bruno Walter)らがこの曲を作曲者の絶筆のまま封印すべきとしてクックによる補筆行為に反対し、さらにはアルマと共に訴訟を起こそうとしたことも、多くの指揮者たちに大きな影響を及ぼしました。作曲者以外の手の加わらないスコアを正統としている国際グスタフ・マーラー協会が第1楽章だけしか出版していないことも理由のひとつと言えます。

  しかしマーラーの死後、焼却を指示したマーラーの発言に疑問が投げかけられます。1925年、アルマの友人で音楽学者であり伝記作家であったリヒャルト・シュペヒト(Richard Specht)は、マーラー研究の著作の第17版でこの曲についてそれまでの自説を撤回して、死後焼却すべきとマーラーが言った相手は妻アルマではなく、ニューヨークの友人で医者のヨゼフ・フランクル(Josef Frankl)であったこと、死の床にあったマーラーは最後の1週間の間にアルマに対してこの曲を完成させてほしい、スケッチにはすべてが書いてある(から完成できるはず)と言った、と主張しました。そして、これらの事実を直接アルマに確認して合意されたとも書いているのです。また、シュペヒトだけでなく、H.F.レートリヒ(Hans Ferdinand Redlich)は、「マーラーは、皆燃やしてしまうか、それとも逆に皆残しておくかを交互に考えを変えながら思い悩んでいた。」と記し、ジャック・ディーサー(Jack Diether)は、「マーラーは、もし自分が曲を完成できなかったらこの曲を破棄してほしいと語ったが、その後考えを変えてアルマが最善と思うようにして欲しいと言った」と書いています。
 
  アルマはシュペヒトのこの発表の前に、作曲家のエルンスト・クルシェネク(Ernst Krenek)に対して補筆完成を依頼しています。アルマはこの補筆作業を正当化させるためにシュペヒトに都合のいいことを伝え、公表させたと考えられなくはありません。第一次世界大戦後の混乱が落ち着きつつあった1920年5月6〜21日、マーラーの信奉者であったオランダの指揮者ウィレム・メンゲルベルク(Willem Mengelberg)がアムステルダムで『マーラー・フェスティヴァル』を大々的に開催、これを契機にヨーロッパにおいてマーラーの作品への評価が高まり、各地でそれまで以上にマーラーの作品が取り上げられるようになります。このことはアルマにとって、マーラー再評価という名誉のためだけでなく経済的にも、マーラーの未刊の作品を世に送り出す絶好の機会がやってきたことを意味していました。

  交響曲第10番の手稿を焼却することをマーラーは望んでいたのか否かは、近年の研究では信憑性が疑われているアルマの証言に頼らざるを得ない今日にあってはこれ以上結論を求めることはできないでしょう。しかし、最初に流布した「焼却希望説」が、日本におけるこの曲に関する書物や解説のほとんどすべてに無造作に「事実として」書かれてしまっているのは、極めて残念であると言わざるを得ません。しかも、海外の最近の著作物では「マーラーの心変わり」のことにも言及されているのに、日本においてそれはほとんど無視されているのです。海外の研究の成果にきちんと耳を傾け、事の真偽を正しく伝えることを常に銘記しなければなりません。加えて、他のマーラーの作品同様、この曲の補筆完成版に対する関心が高まり、コンサートでの演奏や録音される機会が増えることを切に願うばかりです。


エルンスト・クルシェネク   アルマとクルシェネク  アルマとアンナ(1933年)


■ エルンスト・クルシェネクの功績

  正確な時期は不明ですが、1922から1924年の間にアルマは、オーストリアの作曲家エルンスト・クルシェネクに交響曲第10番を完成させるよう依頼します。当時20歳代前半だった駆け出しの作曲家クルシェネクは、偉大な作曲家マーラーの遺作に手を加えるという義理の母親からの重すぎる期待をかけられたのは間違いないと思われますが、指揮者のフランツ・シャルク(Franz Schalk)、作曲家のアレクサンダー・ツェムリンスキー(Alexander von Zemlinsky)及びアルバン・ベルク(Alban Berg)の助言を得ながら第1楽章と第3楽章の演奏会用フルスコアを完成させます(出版にあたって何故かアルバン・ベルクの助言は無視されたらしい)。この2つの楽章のうち、第1楽章は未完成ながらマーラーの自筆でフルスコアの段階まで書き残されていましたが、第3楽章は全170小節のうち30小節までしかフルスコア化されていませんが、スコアとは別に全楽章にわたってほぼ完成段階に近いパーティセル(4段の五線譜による略式草稿)が残っていました。金子建志は、第2楽章は、最後までスコア化されているものの構造的に複雑で「単なるオーケストレーション能力を超えた創造的な補充能力が必要」であり、パーティセルしか残されていない第4、第5楽章の補筆は無理な作業だったと述べていてます。しかし、シュペヒトは当時その著作で、残る3つの楽章は最初から最後までのスケッチはあり、カンター・テーマや内声部を加えオーケストレーションを施す必要はあるものの、マーラーに献身的な音楽家でそのスタイルに精通していれば、マーラーのこれまで完成された作品とスケッチの比較によってゴールへの正しい道を必ずみつけることができる、と主張していました。

  1924年10月14日、フランツ・シャルク指揮ウィーン・フィルハーモニーによってこのクルシェネク版のマーラーの交響曲第10番第1楽章及び第3楽章が初演され、直後にツェムリンスキーがプラハで指揮しています。また、マーラーの自筆楽譜をファクシミリ(写真)版として100部限定で出版されました。これによって多くの音楽学者、作曲家、マーラー愛好家の目に触れることになり、この曲の未来が開くことになったのです。

  さて、クルシェネクはこの曲の補筆作業を行なったその年の1924年の3月にアルマの娘アンナと結婚していますが、クルシェネクがアルマに出会ったのが1922年とされていますから、娘との結婚の前からこの曲の補筆を依頼されていたと考えるのが自然でしょう。仕事を引き受ければ結婚を認めてもいい、ということだったのかもしれませんが、この辺の経緯について言及している研究書はまだないようです。クルシェネクはその年のうちに第1楽章及び第3楽章は完成させ、10月には初演されたのは上述の通りですが、実は当時クルシェネクとアンナの結婚生活は早くも破たんをきたしていまして、翌年の1月の中ごろに離婚をします。義母からのプレッシャーに耐えられなかったか、残る楽章の作業に嫌気がさしたのか、その離婚の数日前に初演したクルシェネクのヴァイオリン協奏曲を弾いた女流ヴァイオリニスト、アルマ・ムーディ(Alma Moodie)とクルシェネクがよろしい関係にあったからか、これまた真相は闇の中です。その女性の名前がアルマというのも興味深いところなのですが・・・。


■ 全曲版実現に向けて

  クルシェネクの作業は第1楽章及び第3楽章だけで終わってしまいましたが、これでこの曲への関心が終わってしまったわけではありません。ニューヨークのマーラー協会会長を務めたマーラーの熱烈な愛好家ジャック・ディーサー(Jack Diether)は、ジェームズ・レヴァイン指揮の交響曲第10番(クック版)のCDのブックレットの中で、「シュペヒトはこの曲が5楽章の交響曲として演奏が可能である判断し、早い時期に補筆完成させるべきと主張し、その作業を行なう最適任者はシェーンベルクであると推薦していた。」と記しています。つまり、クレシェネクにアルマが依頼する前からシェーンベルクの名前が挙がっていたことになり、しかも、当初から5楽章全部を目指していたことになります。しかし、1924年の初演以降、この曲に関する話題は極端に少なくなります。ヨーロッパ大陸が第二次大戦に巻き込まれていく時期だったからだと思われます。ひとつ例外といえば、1935年にフリードリヒ・ブロック(Friedrich Block)が第2、4、5楽章を2台のピアノ版に編曲したことくらいです。

  1942年、アメリカで亡命生活を余儀なくされていたアルマは、ジャック・ディーサーを通じてマーラーを信奉していたショスタコーヴィチ(Dmitrievich Shostakovich)に補筆作業を依頼します。しかし、「私の作曲家(マーラー)への愛情にもかかわらず、この大きな仕事を受けることはできない。あまりに深く精神にその創造的・個人的スタイルに入り込むことを要求することであり、これは私には不可能であろう・・・」と断られます。次いで1949年にシェーンベルク(Arnold Schonberg)やブリテン(Benjamin Britten)にも打診しますが、すべて断られてしまいます。何故、アルマは最初、シュペヒトの助言通りにシェーンベルクに依頼しなかったのでしょうか?若造のクルシェネクに取られてシェーンベルクはプライドが傷つけられたはしなかったか、そのことを25年間恨み続けていたのでしょうか?


シェーンベルク    ショスタコーヴィチ(1942年)   ブリテン(1949年)


  その後、少なくとも3名の音楽学者がこの曲の補筆作業をそれぞれ別個に開始します。1946年のクリントン・カーペンター(Clinton Carpenter、シカゴ)、1953年のジョーゼフ・ホイーラー(Joseph Wheeler、ロンドン)、1954年のハンス・ウォルシュラーガー(Hans Wollschlager、バンベルク)の3名です。ウォルシュラーガーはその後1974年になってこの曲を演奏できる形にすることに反対の立場に立っていたエルヴィン・ラッツ(Erwin Ratz)の要請でこの作業から撤退を余儀なくされてしまいます。このオーストリアの音楽学者エルヴィン・ラッツこそ、後に国際マーラー協会の会長になる人物で、5楽章版のこの曲の存在を認めないグループの急先鋒となったのです。ラッツはマーラーの交響曲のクリティカルエディションの編集を行なうことになるのですから、反対するのは当然ではあったのでしょう。さらにラッツはこのように述べています。「シェーンベルク、ウェーベルン、ベルク、クレシェネクが作品を完成させるのは不可能だと断言している。というのも、残っているスケッチは作品の初期段階を示しているに過ぎず、最終的にどうしようとしていたものかは推して量るしかないからである。」

  なお非常に興味深いことには、上記3人の中にプロフェッションナルな音楽家はいなかったということです。カーペンターは保険会社に勤めていて毎晩帰宅してから五線譜に向き合っていたそうです。ホイーラーはトランペットを吹きましたが本職は公務員、ウォルシュラーガーは作家で翻訳家が本業で、作曲は習ったものの趣味の域を出なかったようです。
デリック・クック  デリック・クック


■ デリック・クック登場

  そしてもう一人、アルマの作曲者探しとは別のところで交響曲第10番に手を染める人物がイギリスに登場します。イギリスの放送局BBCは、1960年のマーラー生誕100年記念の企画の中に交響曲第10番の番組も用意し、未完成に終わったこの作品の補筆完成作業を音楽学者デリック・クック(Deryck Cooke)に依頼します。クックは、入手できる草稿をもとに補筆作業を進め、第1、3、5楽章を全曲、草稿が欠落している第2、4楽章は不完全な形(75分中5〜6分)のまま仕上げ、交響曲第10番の演奏用楽譜(Performing Edition)として完成させました(第1稿)。1960年12月19日、BBCの番組でこの曲が抱えている問題点についての解説の後、クックに助言を与えたベルンハルト・ゴルトシュミット(Berthold Goldschmidt)指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏が放送されました。この放送を聴いたマーラー愛好家たちは皆深い感動に浸ることになり、とりわけ最終楽章が、既に知られていた第1楽章と同様のインパクトを多くの愛好家に与えたとされています。しかし、第2、4楽章は中断を繰りかえして演奏されたためやや印象は薄かったようで、それに挟まれた第3楽章も謎めいた曲としか受け入れられなかったとされています。やはり曲全体を通して演奏しなければ、マーラーが意図したことを理解することはできないことを悟ったクックは、不完全な部分を埋めるべく今後も研究を続ける決意を新たにします。
アルマ・マーラー(1960年)


  一方BBCは、アルマにこの補筆作業を認めてもらって番組に箔をつけようと放送の許可を彼女に要請したところ、アルマは自分の知らない所で勝手に補筆作業や放送が行われたことに抗議し、今後放送することや補筆作業、楽譜の出版など一切許可しないと通告します。しかしクックによると、この彼女の反応は全くの誤解によるものか、又は、クックらの作業に反対する人々に説得されて拒絶したものであるとしています(真相は定かではありません)。クックは、草稿探しを続け、マーラーとアルマの娘で一時はクルシェネクの妻であったアンナからアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ(Henry Louis De La Grange)を通じて欠落していた44ページの草稿を入手し、補筆作業を進めます。

  1963年4月、BBCの番組に参加してクックの作業に理解があった指揮者でマーラーの信奉者ハロルド・バーンズ(Harold Byrns)が、当時ニューヨークに住んでいた当時83歳のアルマを友人として訪問し、BBCの録音テープを聴くよう彼女を説得します。遂に聴くことに同意したアルマはマーラーの草稿とクックがあらたに用意した全曲のフルスコアを手にしてテープを聴き、後にクックとBBC宛てに手紙を出します。「私はこの演奏に心を打たれました。直ぐに、もう一度聞かせてほしいとバーンズ氏にお願しました。かつてこの作品を演奏することを許さなかったことを考え直さなければならないようです。ここに、どの国においてもこの曲を演奏する許可を出します・・・。」

  この時点での版(第2稿)は、1964年8月13日、ゴルトシュミット指揮ロンドン交響楽団のよってBBCヘンリー・ウッド・プロムナード・コンサートで初演されました。翌11月15日、アルマの願いにより、ニューヨークのカーネギーホールでユージン・オーマンディ(Eugene Ormandy)指揮フィラデルフィア管弦楽団によって演奏され、次いでレコード録音されました。

  クックは、自らの作業に対して、マーラーの交響曲第10番を「完成」する、「再構築」するとは表現せず、さらにその作品を「補筆完成版」、「復元版」とも呼びませんでした。モーツァルトの『レクィエム』でジェスマイヤーが行なったような「自由な作曲で構成上のギャップを埋める」のではなく、クックの作成した版は、曲の開始から最後までなんらかの形で残っているスケッチをもとにして、マーラーが死んだその瞬間までのかたちで演奏できるように、 A Performing Version of the Draft for the Tenth Symphony(交響曲第10番のための草稿のひとつの演奏会用ヴァージョン) と自ら控えめに称していました。マーラーは最後まで作曲すると(或いは初演した後でも)、必ず多くの箇所に手を加え、修正・カット・追加を施してきました。この曲もきっとそうしたことでしょう。しかし、クックはその想定されたマーラーの作業については自分の範疇外とみなしたのでした。

  1972年、クックはさらにコリン・マシューズ、ディヴィッド・マシューズ兄弟(Colin and David Matthews)の協力を得て、クック自身が最終稿と呼んだ「第3稿」を完成させます。10月15日にウィン・モリス(Wyn Morris)指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団で初演され、1976年に出版されます(第3稿第1版)。クックはこの年に死去しますが、コリン・マシューズ、ディヴィッド・マシューズ兄弟はクックの作業過程を見直し、いくつかの修正を加えて1989年、第3稿第2版として出版されました。いずれも Faber 社からで、国際マーラー協会ではありません。クックの他に全楽章演奏できるかたちにした人々を以下に紹介します。

クリントン・カーペンター(Clinton Carpenter):1949年着手、1966年最終稿完成。1983年シカゴで初演
ジョーゼフ・ホイーラー(Joseph Wheeler):1965年着手1955年完成。1965年ニューヨークで初演
レモ・マゼッティ(Remo Mazzetti Jr):1983年着手、1986年オランダで初演。
             1997年第2稿完成。1999年バルセロナで初演。 
   *カーペンターの助力者であったが、修正の助言を断られたのが契機
ルドルフ・バルシャイ(Rudolf Barshai):2001年完成。2001年ベルリンで初演。
ニコラ・サマーレ&ジュゼッペ・マッツーカ(Nicola Samale and Giuseppe Mazzuca):2000年完成。
             2001年イタリアのペルージャで初演。
ロナルド・スティーヴンソン(Ronald Stevenson) とクリストファー・ホワイト(Christopher White) によるピアノ版(2008年)。


ヴァルター・グロピウス(若き頃)   ヴァルター・グロピウス(1919年)   アルマ・マーラー(1919年)


■ アルマの不倫騒動

  曲の内容について説明する前に触れておかなければならないのは、交響曲第10番の作曲中に同時進行していたアルマの不倫騒ぎです。

  1910年6月1日、マーラーは妻のアルマを神経症治療のためグラーツ近郊のトーベルバートに行かせます。マーラーはウィーンからトプラッハ(旧オーストリア領、現在の北イタリア、ドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)の別荘に移って交響曲第10番の作曲に取り掛かります。実はこの時アルマは、トーベルバートで若い建築家ヴァルター・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius)と出会い、不倫関係に落ちます。6月の後半、マーラーは交響曲第8番初演の準備のためトプラッハを一時離れますが、7月3日には戻って作曲を再開します(この日を着手の日とする説もあります。)。アルマは7月15日になってトーベルバートを離れてトブラッハのマーラーと合流します。この間、ふたりの間では頻繁に手紙のやりとりがあったとされていましたが、その内容の全貌は詳らかにされていません。その大半(自分の手紙すべてとマーラーからの手紙の一部)をアルマは破棄したと考えられているからです。

  その後、グロピウスはマーラー宛てに手紙を書き、アルマがいかにマーラーから不当に扱われ、愛情も注がれずにいるかを訴えます。一方、マーラーは1902年にアルマと結婚する時に「君には私を幸福にさせるという唯一つの仕事しかない」とアルマに要求しています。しかも結婚後8年たった1910年の初めに、「アルマは自分に対してそのことしか考えてこなかった」と確信している手紙を友人宛に送っています。まだ20歳代のアルマがこのことでどれだけ悩み、そのあげくマーラーから心が離れつつあったことを全く何もわかっていなかったのです。しかもグロピウスは手紙を送りつけるだけに止まらず、あろうことかトブラッハを訪れてマーラーとアルマに面会するに至ります。マーラーがこの青天の霹靂とも言える思い掛けない出来事に大きなショックを受けたことは想像に難くありません。その時は、マーラーはアルマに自分かグロピウスかどちらを選ぶよう迫り、結局アルマはマーラーを選び、最大の危機をしのいだということになっています。しかし、このストーリーはアルマの回想に基づいていて、どこまでが真実かはわかっていません。近年の研究では、グロピウス側の伝記などから話の展開は少し違っていたとか、この後マーラーの存命中にもかかわらずアルマとグロピウスは逢瀬を重ねていたなど、事実はだいぶ異なっていたという説が有力になっています。しかし、いずれにせよ、マーラーが大きな打撃を受けたのは間違いなく、8月には精神科医のジークムント・フロイトの診断を受けに行ったほどです。

  マーラーはこの曲の第3楽章から終楽章までの草稿のあちこちに、音符に対する指示以外に多くの書き込みを残しています。このことからアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ(Henry Louis De La Grange)は、アルマの不倫とそれを誘引した自分への責め苦などによるマーラーの混乱と苦悩が始まったのが第3楽章を作曲している頃と推定しています。しかし、書き込みは無いにしても既に第1楽章に見られる音符でアルマへの絶叫を模写している箇所など見ると、マーラーはアルマとの夫婦関係に暗雲をもたらすなんらかの兆候ないし疑いをだいぶ前から察知していたとも考えられます。先に紹介した友人宛に手紙にアルマを「妻の鏡」と称賛しているのは、その友人からアルマの様子がおかしいことを告げられた反論であって、内心は不安と猜疑心が頭をもたげつつあったのかもしれません(その友人からのマーラー宛ての往信は現存していません。アルマが破棄したか?)。

  アルマとグロピウスは、アルマがトーベルバートで治療しているときにアルマの主治医からの紹介で出会ったことから関係が始まりました。しかし、満たされない若妻の周囲に男性との浮話があっても不思議ではなかったことでしょう。オーストリアの画家グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)が1908年に完成した絵画『ダナエ』は、当時誰もがモデルはアルマだと信じていたくらいです。こうしたゴシップ話が囁かれるような行動にアルマを走らせたのは、マーラーに強いられていた「作曲家を支える」結婚生活であったことは、ある程度真実だったと考えられます。結婚後のアルマの心身状態は次第に安定さを欠くようになり、アルコールへの過度な依存も取り沙汰されていました。とりわけマーラー夫妻がウィーンを離れニューヨークに渡った1907年秋以降、アルマの心身状態はさらに悪化することとなり、その延長としてトーベルバートでの治療へとつながっていったと考えられています。

  マーラーによる交響曲第10番の作曲活動は1910年9月2日をもって中断され、その後二度と再開されることはありませんでした。グロピウス事件が起きてアルマとの間に亀裂が生じたことがきっかけで放棄されたとか、その中断から8ケ月後にマーラーが亡くなることから、「9番ジンクス」による死の影に恐れために10番の作曲を放棄したという説が一般的に流布しているようです。これに対して前島良雄氏は、中断された翌日の9月3日からミュンヘン入りして交響曲第8番の初演の本格準備を始め、初演(空前の大成功)が終わるとニューヨークフィルハーモニーのシーズンが始まるなど多忙を極めていたのであり、マーラーは自分が死ぬことは夢にも思わず、いつもの習慣で第10番の作曲を来年の夏にまで持越した、と指摘しています。さらに、マーラーの死因が持病の心臓疾患ではなく、「緩慢に死の影が覆ってきたのではない。感染症による、まったく突然の思いがけない死だったのである。」と述べています。この曲が未完に終わったことを「夫婦関係の崩壊」と「死への恐怖」にばかり結びつけるのは根拠のないことと言わざるを得ません。
   


トプラッハでのマーラー夫妻    『ダナエ』グスタフ・クリムト


■ 曲について

第1楽章:  「対照となる3つの主題を中心にそれぞれ5回、21回、14回も形を変えて登場する・・・他に類を見ない・・・拡張されたソナタ形式」と、この楽章を分析したコンスタンティン・フローロス(Constantin Floros)は、演奏すると25分前後を要する長大な楽章でありながら聴き手の耳を捉えて離さないこの楽章の素晴らしさの理由を、その巧みな構成にあると指摘しています。冒頭のヴィオラによる荒涼とした旋律は、マーラーの完成された最後の交響曲である第9番の終楽章と極めて親密な関係を感じさせます。「死」を見つめながら作曲したとされる第9番が実際にオーケストラによって演奏されるのを待たずに、マーラーが交響曲第10番に取り掛かったのは、奥の深い「死」の多面性に気づき、第9番で描ききれなかった別の「死」の有り様やそれに直面する自分の姿を描こうとしたからなのかもしれません。しかしこの楽章を支配するのは「死」だけでなく、様々な人間的な側面、或いは、マーラー自身の多面性を、主題を少しずつ変えながら繰り返すことで描こうとしたのではないでしょうか。ヴィオラに続く弦楽器による旋律での8度(AからA)や10度(CisからA)の跳躍(譜例参照)は音楽に緊張感を与え、アダージョでありながらアクセント、突然のピアノやフォルテ、ポルタメントなどを随所に書き込むことで、月並みな感傷に陥ることから音楽を救っています。


 第1楽章 1st Violin


  ややテンポを上げて奏される下降する音型による主題(譜例参照)は、第3楽章と第5楽章に発展的に繰り返し現れ、特に第5楽章の最後で極めて意味ありげなマーラーの書き込みがなされることになります。かつて交響曲第6番で「アルマのテーマ」を織り込んだようにこの楽章でも妻アルマを想起させる大きなクライマックスが後半に用意されています。但し、これまでのように若く魅力的な愛すべきアルマの姿ではなく、強烈で破壊的な不協和音の洪水の中からトランペットによってA音(Almaの 「A」)を絶叫させることで、マーラーのアルマに対する内なる絶望的な叫びを聴き手にぶつけているのです。大自然や抽象的、観念的なものでかつ巨大でとうてい勝ち目のないものに直面したり立ち向かったりしてきたこれまでの作品とは一線を画する、より私小説的な側面がこの絶叫から浮き彫りになっています。


第1楽章 1st Violin 


第2楽章:  2つあるスケルツォの最初の楽章です。マーラーは自筆譜にこの楽章のタイトルとして「スケルツォ − フィナーレ」と書いていますが、「スケルツォ」と「フィナーレ」の筆跡を見ると続けて書いてはいないことから、デリック・クックは第3楽章に取り掛かる前は、この交響曲第10番を2楽章からなる交響曲にするつもりであったと推理しています。構成的にはマーラーの典型的なスケルツォ楽章と言えます。活力に溢れた主題で開始されますが、のちのバルトークやストラヴィンスキーを予見するようなめまぐるしく変化する拍子に乗って進行しているため、どこか野暮ったくかつ粗野な音楽が繰り広げられます。極端なところでは1小節毎に拍子を変えていて、マーラーが自分の指揮テクニックを誇示するためにわざと書いたという説もありますが、もしマーラーが1911年の夏も存命していればある程度書き直しただろうと推測できなくはありません。曲想のつなぎ目などにある種のぎこちなさや洗練さに欠けるところが散見されるからです。

  中間部は、マーラーが多くの交響曲で好んで採用したレントラーです。ウィーンを懐かしむような美しく、喜びに満ちた旋律は、マーラーにしては肩の力が程よく抜け洒落た雰囲気をこの楽章に与えています。再現部では再び陽気さと活力を存分にふりまき、コーダに入ると大きな盛り上がりのうちに曲を閉じます。この楽章には、マーラーが交響曲第9番で織り込んだ「死」とか「アイロニー」といったネガティヴな要素はありません。クックは、この楽章を「荒々しいが正気」に満ちていて、「死」ではなく、「生」を語っていると指摘しています。


第3楽章: マーラーはこの楽章のタイトルに、当初「プルガトリオ又は煉獄」と書いて、後になって「煉獄」という文字を消しています。この「プルガトリオ」の由来には2つの説があり、ダンテの『神曲』からの引用とする説と、オーストリアの思想家・作家でマーラーの親友であったジークフリード・リピナー(Siegfried Lipiner)の詩集『歓びの書(Buch der Freude)』の中に Il Purgatorio という19編からなる連作があり、そこからの引用という説があります。この楽章の自筆譜の表紙の下半分はアルマが切り取って破棄したとされているのですが、その破棄された部分にはリピナーの詩が引用されていたのではないかと推測するのが後者の説です。マーラーはリピナーを「最も親愛なるジークフリート」と呼んでいたのですが、アルマはそのことを不快に思っていて、リピナーという人物のみならずその作品も激しく嫌悪していたために、リピナーの詩が譜面に書かれていたのでその部分を躊躇なく破り捨てたと推測しているのです。なお、リピナーはマーラーを追うように同じ1911年の12月に死去しています。

  曲は3部からなり、その両端部では、執拗に繰り返され急き立てるような16分音符の動きに支配されています。シュペヒトは、マーラーの歌曲集『子供の不思議な角笛』の「この世の生」という曲(歌詞は、パンを欲しがるわが子に母親は「明日になればあげる」と言い続けるが、結局子供を餓死させてしまう。)の構成に似ていると指摘していて、苛立たしく回り続ける粉ひき車のような人生、魂を持たない騒々しさを描写しているとされています。しかし、歌詞の内容をこの楽章の解釈にあてはめるのには少々無理があると思われます。一方、金子建志氏はこの16分音符に乗って現れる3つの音によるリズム・モティーフ(譜例参照)に着目し、それをリヒャルト・シュトラウスの楽劇『サロメ』からの引用であると指摘して、この自筆譜へのマーラーの書き込みがこの楽章から始まることから、アルマとグロピウスの情事を知ったマーラーが「アルマの中にあるサロメ的な魔性の側面をリアルに表わすと同時に、奸婦として告発する叫び」を上げていると推測しています。


第3楽章 Oboes サロメの動機 R.シュトラウス:楽劇『サロメ』の引用


  中間部では、第1楽章で提示されていた下降する音型がより激しく出現しますが、付点のリズムによる「ため息」のような音型(これも下降する音型の変形とも聞える)(譜例参照)に4回も音楽の動きが中断しそうになり、4回目でさらに再現部に移行します。第5楽章でも似たような音型が繰り返し現われるのですが、ここで注目すべきは、この「ため息」の2回目からマーラーは五線の余白に書き込みをしているのです。


第3楽章 1st Violin「ため息」 

1回目:なし
2回目:「死よ!零落よ!」
3回目:「憐れみたまえ!神よ!神よ!あなたは何故私をお見捨てになるのですか?」
4回目:「御心の行なわれんことを!」  (以上、前島良雄、前島真理 訳)

  3回目の箇所の書き込みは、あきらかに『マタイ』の有名な一節であり、ここでマーラーは、十字架にかけられたイエスの心境に想いをはせ、苦痛に満ちた自らの姿を描こうとしたのかもしれません。なお、この「ため息」のような音型は、偶然かもしれませんが、バッハの『マタイ受難曲』でイエスがその言葉を発する前後で歌われるコラールの旋律に少し似たところがあります。



第4楽章: 第2スケルツォ。マーラーはこの楽章の自筆譜の最初の部分に次のように記しています。

  悪魔が踊りに私を引きずり込む
  狂気が私をつかみ、呪われし者よ!
  私を滅ぼせ!自分が生きていることを忘れさせよ。
  私が生きることをやめさせ、私が・・・

  クックは「激しく感情を顕わにした哀歌と足を引きずるワルツからなる」とし、フローロスは「デーモニッシュなスケルツォと明るいワルツの混合」などと説明する一方、金子建志氏は、「この自虐的な言葉は、アルマの不倫を知ったマーラーの苦悩をそのまま表わしているのはなかろうか」と述べています。もしこれが映画であったら、この音楽に乗ってマーラーがアルマやグロピウスを相手に、貴族の館や真っ暗な地獄の入り口、トプラッハなどで、憑かれたように踊りまくるといったシーンになるかもしれません。しかし、このことだけに解釈を限定する程この楽章は単純ではなく、自作の引用が少なくとも2か所あることにも留意すべでしょう。最初にワルツの部分に入るとトロンボーンが交響曲第5番の第3楽章のモチーフのひとつをさりげなく吹き(譜例参照)、スケルツォが再現される部分では2年前に完成された『大地の歌』の第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」の一節(譜例参照)が耳に飛び込んできます。堂々と引用するのではなく余程注意していないと聞き落すようなやり方でこうした過去を明滅させる意図はどこにあるのかは不明で、単なる偶然ということも含めて今後の研究を待ちたいと思います。


第4楽章 Posaune「交響曲第5番第3楽章」 交響曲第5番第3楽章の引用


第4楽章 1st Violin「大地の歌 第1楽章」 『大地の歌』第1楽章の引用



  この楽章は、『完全に消音された大太鼓』のよって叩かれる一撃で閉じられます。その自筆譜の近くの余白にはマーラーは次のような謎めいた書き込みをしています。

  この意味をお前だけが知っている。あぁ!あぁ!あぁ!
  さらば、私の竪琴よ!さらば!さらば!さらば!−あぁ!さらば!あぁ!あぁ!

  「マーラーはニューヨークで遭遇した消防士の葬儀で打ち鳴らされた太鼓から発想を得たとマルマが語っている」というラ・グランジュの記述はこの曲のあらゆる解説書に疑うことなくそのまま転載されています。しかし、この説明が「アルマが語ったこと」であるが故に疑わしいと金子建志氏は疑問を投げかけています。アルマによるエピソードの紹介によって誰もが「この意味」の「この」を「太鼓」を考えてしまうのですが、見も知らない消防士の死を悼むために「あぁ!」という嘆息を何回も書き連られたと説明することにはかなり無理があると指摘し、むしろこの太鼓は「アルマの不倫が発覚したことによって、マーラーが受けた衝撃」と解釈し、

  この太鼓の意味する死に等しい打撃を、私に与えたのが誰なのかを知っているのは、アルマ、お前だけだ!

と当てはめるとマーラーの書き込みの意味が非常によくわかる、と金子氏は主張しています。ニューヨークでの悲しみや共感を伴うそのエピソードは事実だったと考えられますが、この書き込みをアルマは単なる大太鼓の由来の説明にとどめようと意図してこの説明をしたのでしょう。しかし、それだけのことをわざわざマーラーは音符ではなく文字で説明するでしょうか?もし、マーラーがそういった書き込みをこれまでしていたら、彼の自筆譜の余白は書き込みだらけになっていたことでしょう。



第5楽章: 前の楽章からアタッカでつながり、「葬送」を象徴する消音された大太鼓は間欠的に叩き続けられます。その間、チューバは第3楽章の音階調の主題をスローテンポで痛々しく繰り返し、さらに「サロメ」を想起させる動機も顔を出します。低音楽器による葬送音楽が終わると長いフルートのソロが続きます。荒涼とした雰囲気の中で1本のフルートがか細いながらも透明感のある響きを聴かせるこの場面は心打たれるものがあります。またそのフルートの旋律の中で、第3楽章でマーラーが「憐れみたまえ!神よ!神よ!あなたは何故私をお見捨てになるのですか?」と傍らに書き込んだ「ため息」の動機が3回も繰り返されるということも注目に値します。フルートの旋律はヴァイオリンに受け継がれ、静寂の中をこの世のものとも思えない美しい世界を作り上げます。音楽は次第に熱を帯び始め、7度(F#からE)の跳躍を繰り返しながら頂点を築き上げ、最後には再び「葬送」の大太鼓の一撃とチューバによる第3楽章の主題のスローテンポでの強奏のダメ押しを持って序奏部を閉じます。

  テンポの速い主部では、第1楽章で使われた下降する音型が再び現れます。ジャック・ディーサーは交響曲第9番の虚無的なロンド・ブルレスケとの類似性を否定できないと指摘していますが、そこまでの荒々しさや計算尽くされた熱狂と陶酔さはこの楽章には無いように感じられ、どこか行き当たりばったり的な展開を見せつつ進行します。第1楽章と同様に、不協和音で大きなクライマックスを築き、それに続くトランペットによるA音の持続も第1楽章と同ように奏されます。この絶叫の間、「サロメ」の動機が稲妻のように割って入り、さらにホルンが第1楽章冒頭のヴィオラの旋律を吹き鳴らします。

  続くコーダにおける木管による息の長いフレーズは極めて平穏で満ち足りた印象を聴き手に与えます(この場面にくるといつもR.シュトラウスの『アルペン交響曲』の「終末」を想起してしまうのですが、『アルペン交響曲』を1915年に完成したシュトラウスはマーラーの10番はもちろん聴いていませんので偶然似たようなシチュエーションに似たような音楽を書いたことになります。)。次いで、序奏のフルートの旋律がハープの伴奏を伴ってヴァイオリンの高音で再び現われ、一層の静謐さを持って音楽を紡いでいきます。一貫して遅いテンポで進行するのに伴い音楽は次第にその密度を高め、フォルティッシモまで登りつめます。これまでの「死」や「プルガトリオ」、「煉獄」、「悪魔」、「葬列」、「不倫」、「叫び」といった物騒な世界はいっぺんで吹き飛んでしまったように思えます。大きな高揚感も徐々におさまり、平和な終結を迎えようとしたその時、突如弦楽器が13度(B#からG#)という途方もなく距離のある上方への跳躍をポルタメント付で奏し、続けて、第3楽章以降、繰り返し耳にしていきた「ため息」の動機をゆっくり奏して曲を閉じます(譜例参照)。この突然の終曲における心の乱れ(或いは決然とした意思表示?)は、マーラーの自筆譜の書き込みにその謎が隠されています。この最後のページにマーラーは、

  お前のために生き! お前のために死ぬ!

と書き、さらにこの「ため息」の動機の真下に「アルムシ!」と書き込んでいるのです(「アルムシ」は妻アルマの愛称)。この叫びはアルマへの絶望的な憤りの糾弾とも、告別の辞とも見ることもできますが、先立つ書き込みである「おまえのために生き!・・・」をアルマとグロピウスの不倫の事実を受け止め、悔い改めることを通じて自分なりに「解」を見出したマーラーのアルマへの「愛の断言とその生涯愛し続けるという決意」と読み取る方が自然ではないでしょうか。しかし、こうしたマーラーの気持ちを知ってか知らずにか、アルマはグロピウスとの関係を続けたのであり、綺麗ごとの陰に隠された人間模様を解明することは一筋縄ではいきません。まさに、イギリスの詩人バイロンが語った通り、「事実は小説よりも奇なり」であり、虚と実の絶妙なバランスの上にこそ芸術がその真価を発揮する実例をここに見ることができます。


第5楽章 1st Violin「アルムシ!」 



 なおクックは、「交響曲第10番は、マーラーが死に取りつかれ、死への執着に埋没するのではなく、より活き活きとした創作活動へ突き進んでいくことを明らかに示している」と述べています。多くの音楽学者や評論家がこの曲を、生からの別離を歌った交響曲第9番や『大地の歌』と一括りに扱っていますが、クックはそうした定説に異論を提起し、交響曲第10番を何か極めて新しく、ユニークな作品と見なしうることを示唆しているのです。


参考文献:

The History of Mahler’s Tenth Symphony Deryck Cooke
『マーラー』 マルク・ヴィニヤル( Marc Vignal, 1966)  海老沢敏 訳 白水社
『グスタフ・マーラー 〜 生涯と作品』 
   エルンスト・クルシェネク&H.F.レートリヒ(Ernst Krenek 1941 & Hans Ferdinand Redlich 1955/1963)
   和田旦 訳 :みすず書房
『マーラーの交響曲 〜 こだわり派のための名曲徹底分析』 金子建志著 音楽之友社
『グスタフ・マーラー 〜 失われた無限を求めて』 アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ(Henry Louis De La Grange 1993)
   船山隆、 井上さつき 訳 草思社
『マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来』 前島良雄著(2011年) アルファベータ
『マーラー 交響曲のすべて』 コンスタンティン・フローロス(Constantin Floros 1993) 
   前島良雄、前島真理 訳 藤原書店
『アルマ・マーラー 華麗な生涯』 ベルント・W・ヴェスリング(Berndt Wilhelm Wessling 1983)
   石田一志、松尾直美 訳  音楽之友社
レヴァイン指揮、交響曲第10番CDのブックレット ジャック・ディーサー(Jack Diether)
ジンマン指揮、交響曲第10番CDのブックレット トーマス・マイヤー(Thomas Meyer) 木幡一誠 訳
オールソン指揮、交響曲第10番CDのブックレット ジェリー・ブルック(Jerry Bruck)
スラトキン指揮、交響曲第10番CDのブックレット リチャード・フリード(Richard Frede) 長木誠司 訳


                                                          (2011年8月5日)



■ マーラー:交響曲第10番 代表的なCD録音


■クック版 第1稿(欠落あり)
ベルトルト・ゴルトシュミット指揮フィルハーモニア管弦楽団


■クック版 第2稿
ベルトルト・ゴルトシュミット指揮ロンドン交響楽団

TESTAMENT SBT3 1457
1960


1964
■クック版 第2稿
ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団

SONY
1965
■クック版 第3稿第1版
ウィン・モリス指揮/ニュー・フィルハーモニア管

Scribendum SC010
1972
■クック版 第3稿第1版
ジェイムズ・レヴァイン指揮フィラデルフィア管

RCA RCD2-4553
1978-80
■クック版 第3稿第1版
クルト・ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団

Berlin Classics 94422
1979
■クック版 第3稿第1版
サイモン・ラトル指揮ボーンマス交響楽団

EMI
1980
■クック版 第3稿第1版
リッカルド・シャイー指揮ベルリン放送交響楽団

Decca
1986
■クック版 第3稿第1版
エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団

DENON COCO-70479
1992
■レモ・マゼッティ・ジュニア版 第1稿
レナード・スラトキン指揮セントルイス交響楽団

RCA
1994
■クック版 第3稿第1版
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニア管弦楽団

EMI
1999
■ホイーラー版 第4稿改訂版
オルソン指揮ポーランド国立放送交響楽団

NAXOS 8.554811
2000
■レモ・マゼッティ・ジュニア版 第2稿
ヘスス・ロペス=コボス指揮シンシナティ交響楽団

TELARC CD-80565
2000
■クリントン・A・カーペンター版
アンドリュー・リットン指揮ダラス交響楽団

Delos Records
2001
■バルシャイ版
ルドルフ・バルシャイ指揮ユンゲ・ドイチェ・フィルハーモニア管弦楽

Brilliant Classics
2001
■クック版 第3稿第2版
ハーディング指揮ウィーン・フィルハーモニア管弦楽団

DEUTSCHE GRAMMOPHON 4777347
2007
■ニコラ・サマーレ&ジュゼッペ・マッツーカ版
マルティン・ジークハルト指揮アーネム・フィルハーモニー管弦楽団

EXTON EXCL-00013
2007
■クック版に基づくピアノ編曲版(R. スティーヴンソン、C.W. ホワイト編)
クリストファー・ホワイト(Pf)

divine art dda25079
2007
■クリントン・A・カーペンター版
デイヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団

RCA 88697 76896 2
2010




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