レハール:喜歌劇『メリー・ウィドウ』
ワルツ『金と銀』

フランス語版『メリー・ウィドウ』のポスター  スロヴァキアの地図  レハール(左)と歌手のタウバー
 フランツ・レハール(1870-1948)は、ドイツ人両親のもと1870年4月30日現在のスロヴァキア共和国のコマーロンで生まれました。コマーロンはスロヴァキア南端の町で、南はハンガリーに接し、西へ行けば直ぐにオーストリアとなります。父親はオーストリア=ハンガリー帝国軍の軍楽隊長で、職業柄レハール一家は領土内を転々としていましたが、家庭はいつも音楽で溢れていて、レハールは読み書きができる前に既にヴァイオリンとピアノを習っていたそうです。15歳でプラハ音楽院に入学が許され、ヴァイオリンと作曲を学びます。そのとき音楽院の教授だったドヴォルザークから「坊や、もうフィドル(=ヴァイオリン)は止めて音楽を書きなさい!」と言われたとか。

 6年そこで学んだ後、レハールはエルバーフェルトの歌劇場のヴァイオリン奏者になりますが、まもなく父親が楽長をしていた軍楽隊に入って指揮や作曲をします。20歳でオーストリア=ハンガリー帝国軍最年少の軍楽隊長に就任し、帝国唯一の海軍の拠点ポーラ(アドリア海にある港、現在クロアチア領)に赴任します。幸運なことに、ここには彼が思い通りに使える110人からなる楽団があり、オーケストレーションの技術を磨くことができたのでした。この頃レハールは最初の歌劇作品『ククシュカ(=かっこう)』を作曲しています。この曲はライプツィッヒとブダペストで演奏されましたが、注目を集めることはなかったようです。

 1899年、レハールは歩兵第26連隊の軍楽隊指揮者としてウィーンにやってきます。世紀の転換期を迎えたウィーンではその年ヨハン・シュトラウスUが没し、アントン・ブルックナー(1996年没)、ヨハネス・ブラームス(1997年没)は既にこの世を去り、新時代の旗手としてグスタフ・マーラーがウィーン宮廷歌劇場芸術監督に君臨し、ツェムリンスキーが気鋭の若者を育て、シェーンベルクらが前衛的な作品を世に問うていました。オペラ作曲家として身を立てたいレハールはマーラーに手紙を書いて『ククシュカ』の上演依頼をしましたが、何の返事ももらえませんでした。しかし、見方を変えればそのお陰でオペレッタ作曲家レハールが誕生したと言えるかもしれません。

 レハール自身の回想によると、実はその頃レハールはマーラーと汽車の中で鉢合わせしたそうです。軍楽隊の制服に身を包んだレハールが車室に入るとそこにはひとりの紳士がいてレハールを見るなり不機嫌そうに新聞を脇に置いたのですが、なんとそれは宮廷歌劇場芸術監督マーラーその人で、鋭い眼差しでレハールをまじまじと見つめていたのでした。つい最近軍楽隊がワーグナーの主題に基づく行進曲を演奏したことがあり、それをマーラーが巨匠への冒涜だとして軍楽隊の指揮者は歌劇場に一歩たりとも中に入れないといきまいたという話などがレハールの頭に去来してドギマギしている中、自分のオペラの話を切り出そうかどうしようか迷っているうちに降りるべき駅に汽車が着いてしまい、挨拶だけして下車したのでした。

13歳のレハール   軍楽隊長時代24歳頃のレハール   ウィーン宮廷歌劇場芸術監督時代のマーラー

ワルツ『金と銀』
 1902年、そんな軍楽隊指揮者レハールのもとへ当時ウィーンの社交界の中心人物であったパウリーネ・メッテルニッヒからワルツの作曲依頼が舞い込みます。彼女は毎年、謝肉祭で開かれる舞踏会にテーマをつけていましたが、その年は『金と銀』で衣装から室内装飾まですべて金と銀づくめという趣向を凝らすものでした。

 パウリーネ・メッテルニヒ(シャンドール侯爵夫人、1836〜1921)は、ナポレオン戦争後の「会議は踊る」で有名なクレメンス・フォン・メッテルニヒ宰相の孫にあたり、オーストリア=ハンガリー帝国パリ駐在大使夫人としてナポレオン三世統治下のパリの社交界に出入りしていた頃は、有名な画家のドガやブーダンらによって肖像画を描いてもらってます。その当時、彼女は慈善事業としてパリに病院を建設するためにウィーンで活躍しているシュトラウス兄弟に新作を要請し、ヨハンはワルツ「ウィーンのボンボン」(1866)をヨーゼフはポルカ・マズルカ「パウリーネ」を夫人に献呈しました。ちなみにワーグナーもピアノ曲「アルバムの綴り」を別の機会ですが彼女に捧げています(1861)。

 さて肝心のワルツですが、1902年1月27日に開催された舞踏会の出席者たちは踊りと金銀づくめの美男美女たちや会場の装飾に夢中だったのかレハールの音楽には関心を示さず、ウィーンではすぐには話題にはならなかったそうです。しかし、譜面が出版されるとその年のうちロンドン、ニューヨーク、パリ、ベルリン、モスクワとたちまち大ヒットを記録し、 レハールの名前は一躍ヨーロッパの音楽界に広まります。

 ワルツ『金と銀』は大きく3つのワルツからなり、それぞれのワルツは緩急を組み合わせた2部形式になっています。序奏に続いてヴァイオリンとチェロのオクターヴで「ソ・ドーレミソー」と始まる最初のワルツの旋律は、後に大ヒットするレハールのオペレッタ『メリー・ウィドウ』のワルツで「ソードレーミ・・」と変形されて世界中を席巻することになります。第2のワルツは序奏でも使用された旋律を木管とグロッケンが軽やかに奏します。3番目の後半のワルツは同じ1902年に書かれたカール・リンダウ作詞によるレハールの歌曲『お針子さん』の旋律がそのまま使用されています。部屋にこもって単調でつらい裁縫作業に明け暮れるお針子さんが、愛しい人と恋をして幸せになる夢を見たいと願う歌詞にレハールは切なくも情熱的なワルツの旋律をつけています。コーダに入るとハ短調の不安なトレモロに乗って第2のワルツが奏され、ワーグナーの楽劇『ニーベルンクの指輪』でのラインの黄金で作られた指輪のライトモティーフが中低音楽器によって挿入されます。『金と銀』に「ラインの黄金」を引っ掛けたこの意表をつくこのアイデアに気づた踊り手はいなかったと思いますが、直ちに第1のワルツと第2のワルツの再現によってかき消され、最後はプレストで華々しく曲を閉じます。

若き頃のパウリーネ・メッテルニッヒ   『金と銀』初演当時のパウリーネ・メッテルニッヒ   当時のアン・デア・ウィーン劇場

喜歌劇『メリー・ウィドウ』
 レハールはこの舞踏会の直後、歩兵第26連隊がウィーンを離れることになったのを機に、軍楽隊指揮者の仕事に見切りをつけてアン・デア・ウィーン劇場のカペル・マイスターの職を得て2月16日には最初の指揮をしています(この劇場はその前身であったアウフ・デア・ヴィーデン劇場時代にモーツァルトの歌劇『魔笛』が初演された関係でパパゲーノの像が飾られていて、その後ベートーヴェンの歌劇『フィデリオ』が初演されたウィーンでは最も古い劇場で、現在も室内オペラやミュージカル、演劇などが上演されています。)。当時のウィーンでは劇場が7つもあって激しい競争をしていて、レハールは即戦力として期待されました。同じ年の1902年の春から秋にかけてオペレッタ『ウィーンの女たち』に取り組みますが、同時にライバルであったカール劇場のために『針金細工師』も作曲し、後者の『針金細工師』は大ヒットします(初演の指揮はなんとアルノルト・シェーンベルクの師であるアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー)。

 『メリー・ウィドウ』はアンリ・メイヤックの戯曲『大使館員』を元にウィーンの台本作家レオンとシュタインがオペレッタ台本に仕立てたものです。メイヤックはビゼーの歌劇『カルメン』やヨハン・シュトラウスの喜歌劇『こうもり』などの台本を提供していることでも知られています。作曲は当初リヒャルト・ホイベルガーに委嘱されますが、レオンが最初の数曲を聞いて失望したため、アン・デア・ウィーン劇場の支配人たちはホイベルガーとの契約を破棄し、当時35歳だったレハールに作曲させることにしました。徹夜で台本を読んだレハールは、その翌日電話の受話器をピアノに脇に置いてレオンに一晩で書いた最初の曲を聴かせてこの曲の作曲を引き受けたとされています。

 1905年の春から『メリー・ウィドウ』に専念していたレハールですが、必ずしも順調ではなく作曲途中の譜面を見た支配人からは冷ややかな反応しか得られず、ピアノによる通し演奏を聴いた後も「これはオペレッタの音楽じゃない!ヴォードヴィルだ」とまで言われました(ヴォードヴィル=歌や踊りやコメディからなるショー)。総譜が出来上がったのはその年のクリスマスの頃、公演までわずか1週間しかありませんでしたが、主役を歌うミッツィ・ギュンターとルイス・トロイマンの協力でなんとか12月30日の初演までこぎつけます。
左からレオン、レハール、シュタイン  初演時の主役二人とレハール  アメリカ初演後、大流行したメリー・ウィドウ・ハット

 初演は大きな成功を得られなかったものの、回を追う毎に評判を高めていきアン・デア・ウィーン劇場だけで1907年4月までには400回の上演を数えます。1906年3月にはハンブルク、5月にはベルリン、9月にはケルンとドイツ国内に広がり、11月にはブダペスト、1907年にはチューリッヒ(指揮はデビュー直後ヴィルヘルム・フルトヴェングラー)、ミラノ、フィレンツェと国外進攻を始め、6月にはロンドン、さらに海を渡って早くも10月にはアメリカに上陸し、ニューヨーク、シカゴを皮切りに約1年間で全米5,000回の上演を記録します。南米ではブエノスアイレスで同時に5ケ国語での上演も行なわれ、ついには1909年にはパリと、あっという間に世界中を席巻することになります。初演後2年と2ケ月たった1907年2月末までに3,970回も上演され、1910年だけで 10ケ国語で約18,000回、 1965年頃までの約60年間に約 500,000回にのぼるといわれています。また、1907年の最初のレコード全曲録音(ブルーノ・ザードラー=ヴィンクラーの指揮、32面)をはじめとしてその数は数え切れず、さらに映画やTV、バレエ、アイス・ショーなど様々なかたちでフューチャーされています。なお、今年2005年は『メリー・ウィドウ』初演100年にあたります。

 原題は『Die lustige Witwe(ルスティゲ・ヴィットヴィー)』、日本では邦訳名『陽気な未亡人』よりは英語名『メリー・ウィドウ』が一般的です。イタリアでは『La vedova allegra』、フランスでは『La veuve joyeuse』となります。この『Die lustige Witwe』という題名ですが、レハールたちが題名を考えているときに、判事の未亡人が劇場の招待券を欲しがっていると言いに来たチケット売り場係に事務所の者が「判事未亡人にあげる招待券なんかないよ。今度来たら外へ放り出せ、厄介な未亡人め!(lastige Witwe !)」と返事したのを、レハールが聞き間違って「それだ!『陽気な未亡人(Lustige Witwe)』素晴らしい!それこそ我々の題名だ!」と叫んだことからつけられたのだそうです。

 余談ですが、アドルフ・ヒトラーがお好みだったオペラがワーグナーの『ニュルンべルクのマイスタージンガー』とこの『メリー・ウィドウ』だったため、戦時中に書かれたショスタコヴィッチの交響曲第7番ではスケルツォに『メリー・ウィドウ』でダニロが歌う「マキシム」の旋律をパロディとして取り込んでいます。この部分は反ナチの宣伝のためにアメリカでは毎日のようにラジオで放送され大ヒットします。一方、ナチスに追われてアメリカで貧困生活をしていたバルトークは、何故自分の作品は認められないのにこんな曲が受けるのだと、その放送にはだいぶ苛立っていたそうです。バルトークはその後、その悔しい思いをぶつけるべくその同じ旋律を『管弦楽のための協奏曲』第4楽章「中断された間奏曲」で対位法まで駆使して使用しています。
ジャネット・マクドナルド&モーリス・シュバリエ主演、ルビッチ監督による映画(1934年)   ジャネット・マクドナルド&モーリス・シュバリエ主演、ルビッチ監督による映画(1934年)   ラナ・ターナー主演、バーンハルト監督による映画(1952年)


 筆者が、 2005年6月26日で演奏したときの曲目です(演奏会形式。下記の番号は抜粋して順番に番号をふったのにすぎません。)。なお、2016年7月23-24日には全曲舞台上演で演奏しています。
  第1曲 第1幕序奏
  第2曲 「さぁ、おいでなさい、ここなら誰もおりません」 (第1幕 ヴァランシエンヌ、カミーユ)
  第3曲 「おお祖国よ、お前は昼間も・・マキシムへ」   (第2幕 ダニロ)
  第4曲 ワルツ『金と銀』
  第5曲 「ヴィリアの歌」                    (第2幕 ハンナ)
  第6曲 「女性をどう扱ったらいいか」            (第2幕 カミーユ、ダニロ)
  第7曲 「わたしたちがキャバレーのグリゼットよ」    (第3幕 ヴァランシエンヌ、ハンナ)
  第8曲 「唇は黙っていてもヴァイオリンは囁く」     (第3幕 ハンナ、ダニロ)
  第9曲 「そう、女を研究するのはむずかしい」      (第4幕 全員)

配役
ポンテヴェドロの大富豪の未亡人、結婚後8日で夫と死別・・・ハンナ・グラヴァリ(ソプラノ)
ポンテヴェドロ公使館書記官、ハンナのかつての恋人・・・・・・ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵(バリトン)
ポンテヴェドロ公使・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ツェータ男爵(バリトン)
ツェータ男爵の妻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヴァランシェンヌ(ソプラノ)
パリ社交界の伊達男、ヴァランシェンヌの浮気相手・・・・・・・・カミーユ・ド・ロション(テノール)
ポンテヴェドロ公使館員・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ニェグシュ(テノール)他
マキシムの踊り子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ロロ,ドド,ジュジュ,クロクロ,フルフル,マルゴ

あらすじ
第1幕
 短い序奏(第1曲)で幕が上がるとそこはパリにあるポンテヴェドロ公使館の広間、今夜はポンテヴェドロ君主の生誕祝賀の夜会ということでパリの社交界の人々が大勢招かれています。しかし、ホスト役のポンテヴェドロ公使のツェータ男爵の顔色は今ひとつさえません。というのも、ポンテヴェドロの億万長者だったグラヴァリ氏の美貌の未亡人ハンナがパリに遊びに来ているのですが、その莫大な遺産目当てに彼女と結婚しようとパリの男たちが連日群がっているからです。万一グラヴァリ氏の遺産二千万フランが国外に流出すると、すでに財政が火の車のポンテヴェドロ公国は破産まちがいなし。ツェータ男爵は本国からハンナを守るよう厳命されているのでした。

 そんな男爵の心配をよそに、その妻ヴァランシエンヌはダンディなパリジャン、カミーユと火遊びの真っ最中。ひと目を忍んぶ二人の逢引き「さぁ、おいでなさい、ここなら誰もおりません(第2曲)」で彼女は、口では「私は貞淑な人妻」と言いつつカミーユから熱い言葉で口説かれて陥落寸前。一方の男爵は、この国家の一大事に美男で独身の書記官ダニロ伯爵がいないのに憤慨しています。というのも、男爵は彼にハンナを外国人から守らせ、さらには結婚させて国家財算を守る切り札に考えていたのでした。早速、大使館員ニェグシュにダニロを探しに行かせます。

実は、ハンナとダニロ、かつて恋人どうしだったのですが、身分の違いから結婚を反対されて、ハンナは大富豪と結婚したという過去があったのでした。傷心のダニロはフランス公使館へ赴任し、パリの踊り子と酒びたりの毎日、一方のハンナは夫にわずか8日で死に別れ、かつての恋人ダニロを慕って(かどうかは?ですが)パリに来ていたのでした。そこへ大勢の男たちに囲まれて未亡人ハンナが登場。数多のお世辞に辟易気味のハンナがポンテヴェドロのお祭りを開催して人々を招きたいと申し出ると一同大いに喜びます。

 皆が退場すると、マキシム・ド・パリ(下注参照)ですっかりできあがっているところをニェグシュに発見されたダニロ伯爵が連れてこられます。タキシードに身を包みかなりの酩酊気分で、事務所には午後一時に出勤し、報告は自分でせず、面会時間は守らず、書類は山積みにする、でも仕事にはいつも巻き込まれる、だから夜の気晴らしが必要、マキシムの踊り子たちの名前を挙げて彼女たちは祖国を忘れさせる、とご機嫌に歌い「おお祖国よ、お前は昼間も・・マキシムへ(第3曲)」、ニェグシュに事務机を見ればすぐ寝れると言いつつソファに寝込みます。

 そこへハンナが登場してダニロと鉢合わせます。「私、もしかして結婚するかも」と様子を伺うハンナに内心穏やかでないダニロ、「皆が数百万の富を目当てに言い寄ってくる」というハンナにダニロは意地を張って「絶対に君を愛すると言わない」と2人は火花をちらします。ハンナが去ってからツェータ男爵がやってきて、ダニロにお国の危機を救うために彼女と結婚することを命じます。それはできないと断るダニロは、彼女に近づく男どもを追っ払うことは引き受けます。

 間もなく舞踏会は終盤を迎え、婦人たちがダンスの相手を選ぶ番となります。男たちは皆、是非自分をとハンナに言い寄ります。結局ハンナの選んだ相手はダニロ。踊りたくないダニロは、彼女と踊る権利を1万フランで他の男に譲ろうとしますが、皆高すぎると去っていきます。二人きりになると、嫌がるハンナを相手にダニロは有名な「メリー・ウィドウ・ワルツ」の曲に乗って踊ります。口では逆らってもからだはダニロのエスコートを受け容れるハンナ、静かに幕は閉じます。
    
注:日本でもフランス料理店、高級菓子メーカーとして知られているマキシムは、1893年マキシム・ガイヤールがパリ・ロワイヤル通リにレストランを開店。彼の名を冠にしてMAXIM'Sと名づけられたそのレストランは、その後一大社交場として名を馳せたそうです。

第2幕
 パリのハンナ・グラヴァリ未亡人邸。民族衣装で身に包んだ人々が民族音楽に乗って踊りと合唱を披露し、これに続いてハンナが「ヴィリアの歌」を歌います(第5曲)。歌の内容は、ヴィリアという森の妖精が狩人の若者を誘惑して消え去るというもので、一見劇の進行とは無関係そうですが恋の病に取り憑かれた狩人をダニロに見立てていることは明らかです。

 そのうち、男たちが女性を扱うにはどうしたらいいかと議論を始め、愉快な七重唱「女性をどう扱ったらいいか」がダニロ、ツェータ男爵らによって歌われます(第6曲)。ひとり残ったダニロにハンナが近づき気を惹かせようとしますが、こだわるダニロは乗ってきません。一方、ツェータ男爵の妻ヴァランシェンヌはカミーユと別れようと扇に「私は貞淑な妻です」と書いて渡すものの、最後の別れと庭のあずまやにふたりで入っていきます。

 そこへツェータ男爵が登場、人の気配にあずまやの鍵穴を覗き込み、そこに妻がいるのにビックリ。しかし、ニェグシュの通報で機転をきかしたハンナがヴァランシェンヌを間一髪裏口から逃がして交代し、カミーユといっしょにあづまやから出てきます。驚く人々の前で、ハンナは行きがかり上、カミーユとの婚約を発表、思わぬ展開にショックを受けたダニロは居たたまれずに強がりの弁を吐いて馴染みのマキシムへと向かいます。これを見たハンナは、ダニロは自分だけを愛していると確信して喜びを爆発させ、歌い出します。

民俗衣装で歌う「ヴィリアの歌」

第3幕
 再びハンナの屋敷。ハンナは、ダニロをおびき寄せるために邸宅をマキシム風にしつらえ、マキシムの楽団や踊り子(グリゼット)達を招いてパーティを開きます。ヴァランシェンヌをはじめ女性陣が踊りと歌を披露します。「わたしたちがキャバレーのグリゼットよ」(第7曲)。踊り子のいない空っぽのマキシムから仕方なくやってきたダニロは、ハンナからあずまやのことはある女性の名誉を守ったためと聞かされ胸を撫で下ろします。ダニロはもう意地を張るのをやめ、ハンナの手を取ってワルツを踊り、「唇は黙っていてもヴァイオリンは囁く」(第8曲)とこのオペレッタの主題ともいえる「メリー・ウィドウ・ワルツ」に乗って愛のニ重唱を歌い上げます。

 一同が集まるとツェータ男爵が、妻の扇子が先のあずまやにあったことから妻の浮気を確信して離婚を宣言、続いてお国の危機を守るためにハンナに求婚をします。しかし、亡夫の遺言によると再婚すれば自分は財産を失うとハンナに言われて男爵はすごすごと引き下がります。それを聞いて飛び上がって喜んだのはダニロ、早速ハンナに求婚し彼女もその申し出を受けますが、ハンナは再婚すれば財産は自分の夫のものになる、と説明を続けます。一方、ツェータ男爵の妻ヴァランシエンヌは扇子に自分で書いた「私は貞淑な妻です」という文字を夫に見せて疑いを晴らします。すべてはめでたしめでたし、全員で歌う「そう、女を研究するのはむずかしい」(第9曲)で全曲を閉じます。

    

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