伊福部 昭:オーケストラとマリムバのためのラウダ・コンチェルタータ

伊福部 昭


 ロシア音楽だけを演奏プログラムに挙げるアマチュア・オーケストラが何故「伊福部昭」という日本人の作曲家の作品を選んだのか、その理由を見つけようと、主に作曲家について調べてみましたのでご紹介します。

 伊福部昭 (1914-2006)は、北海道釧路町諏幣舞(スサマイ)の警察署の署長の4女3男の末っ子として生まれ、札幌でほぼ独学で作曲を学び、アカデミックな道を歩まず、楽壇とも交わらず、音楽的時流に乗らない異端児作曲家として活躍しました。弟子には芥川也寸志、黛敏郎、石井真木、松村禎三など錚々たる作曲家が名を連ねています。戦後、映画界に入って『ゴジラ』をはじめとする数多くの映画音楽を遺しました。『ラウダ・コンチェルタータ』は、伊福部が東京音楽大学の学長に就任した頃の1976年に書き上げられた作品で、久しぶりに映画音楽から離れて管弦楽曲の大作に取り組んだ喜びに溢れた曲になっています。

大国主命   宇部神社


  まず、「伊福部」の名前について。鳥取県東部の因幡国の名家で、古代、景行天皇から応仁・仁徳天皇までの5人の天皇に仕えた祭神であった宇倍神社の代々神主を務めていたのが伊福部家でした。今に伝わるその系図にはなんと初代が大国主命で、以下様々な伝説で活躍した神々の名を連ねています。この名の由来は、祈祷によって息を飄風に変える呪術者の「気吹部臣」の姓を下賜されたことによると言われ、「風を吹かせて雨の恵みをもたらす」、「銅や鉄の精錬」、「天皇家の炊飯」、「笛を吹く楽士」等の説があります。

 伊福部昭の「昭」とは、『老子』の「俗人昭昭」に因んだもので、「俗人は勉強ばかりして才走りすぎる」ことを戒める意味があり、伊福部は生涯この考えから影響を受けたとされます。


 1884(明治17)年、その鳥取県北部の500余名の人々が北海道へ移住して開墾に従事します。伊福部昭の父親はそれに先立って警察の仕事に従事し、国を離れて北海道各地を転々としていましたが、出身地が同じということで彼らが移住した十勝地方音更(おとふけ)村に署長として赴任します。既に小学4年生だった昭少年はここでアイヌ人たちと共に大いに遊んだとのことです。この頃ヴァイオリンを習い始めます。

北海道河東郡音更町  


 1932(昭和7)年、北海道帝国大学林学実科に入学、大学公認の文武会管弦楽団に入部し、それと同時にコンサートマスターに就任。札幌市内にある名曲喫茶「ネヴォ」(『蟹工船』で有名な小林多喜二も出入りしていた)に入り浸り、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』やサティ、ラヴェル、ファリャなどに夢中になります。なお、その前年17歳の時、友人宅でストラヴィンスキーの『春の祭典』のレコードを聴いて大いに感動したとのことです。『春祭』初演のわずか28年後のことでした。《ようやくここでロシア人の名前が出てきましたね・・・》

 下の写真をご覧ください。左はストラヴィンスキーの『春の祭典』が初演された時の衣装のデザインの復元です。左のアイヌの民俗衣装とどこか似ていますね。北海道にいた伊福部青年が当時、『春祭』初演時の舞台写真を見たとは思えないですが、この共通性を音楽だけから感じ取ってのちの作品に織り込んでいったという憶測はあながち間違いではないかもしれません。( 右の写真:Photo by (c)Tomo.Yun http://www.yunphoto.net ) 
『春の祭典』     アイヌ民族


   この頃から独学で作曲も始め、友人が文通していたアメリカのアーロン・コープランドに曲を送って誉めてもらったりしています。どうもドイツ音楽は好きではなかったようです。さて、ここでいよいよ、伊福部とロシアを結びつける人物をご紹介します。ロシアのピアニスト、作曲家、アレクサンドル・チェレプニンです。


アレクサンドル・チェレプニン


 1934(昭和9)年6月、ペテルブルク生まれの作曲家兼ピアニストのアレクサンドル・チェレプニンが演奏旅行の途上、来日します。彼の父親ニコライは、ディアギレフが率いるロシア・バレエ団の指揮者・作曲家で、のちにグルジアに家族と移住して、ティフリス音楽院の院長となった人です。ロシア革命後、家族でパリに亡命し、アレクサンドルはピアニストとしてロンドンでデビューします。アレクサンドル・チェレプニンは日本の土を踏み、若手作曲家と交流を持ちます。この時、チェレプニンは「日本人は音楽修行に洋行の必要はなく、それより箱根で民謡を聴いていた方がいい」、「ヨーロッパの音楽は行き詰っている。中国や日本などの東洋の音楽の力を借りて再生しなければならない」と言っています。チェレプニンはその後中国に渡り、中国人作曲家を対象としてピアノ曲コンクールを開催します。翌年の1935年再び日本を訪れ、今度は日本人作曲家のために管弦楽の作曲コンクールを企画、審査はパリで行なうとし、「チェレプニン賞作曲コンクール」と称して作品の募集を行ないました。

 その頃、21歳の伊福部は大学を卒業して北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務します。スイス出身のアメリカの作曲家エルネスト・ブロッホの協奏曲のレコードを聴いて感動した伊福部と友人はその演奏しているボストン交響楽団のフェビアン・セヴィツキーに手紙を書いたところ、作曲をしているなら曲を送れと返事を貰い、『日本狂詩曲』という管弦楽曲を送ります。ちょうどその頃チェレプニン賞のことを知り、同じ作品で応募します。それがなんと一等賞を獲得してしまします。当時の『北海タイムス』には、「無名の若き作曲家、一躍世界檜舞台へ、チレプニン賞一等の誉、わがサッポロ楽壇の歓呼」と見出しを飾ったそうです。チェレプニンの知り合いでもあったセヴィツキーは、この曲をボストンで1936年に初演しています。わが国では44年もたってようやく山田一雄指揮新星日本交響楽団で演奏されました。

 このチェレプニン賞の審査員には、当初ラヴェルが主任となる予定でしたが病気のために辞退され、代わりにアルベール・ルーセルが中心となり、パリで活躍していた新進気鋭の作曲家たち(アレクサンドル・タンスマン、アンリ・ジル=マルシェ、アンリ・プリュニエール、ジャック・イベール、ティボール・ハルシャニー、ピエール・オクターヴ・フェルー)が参加しています。《ロシア人の名前が冠にあっても中身はフランス音楽・・・》

 1936年7月、チェレプニンが再来日して横浜に滞在しているときに伊福部は北海道から上京して会いに行きます。そこでしばらく作曲について教えを受けます。酒の強かった伊福部はその点でもチェレプニンに気に入られたとか。その後チェレプニンが演奏旅行で札幌に出向き、伊福部と再会しています。その際、チェレプニンは伊福部にリムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』のスコアを渡し、勉強のために全部写すようにと言います。《この辺で伊福部昭の音楽とロシアが繋がっているのかもしれませんね・・・》
 それにしても、ご両人のヒゲは見事です・・・。

 アルベール・ルーセル  リムスキー=コルサコフ


  終戦後の1946年(昭和21年)、32歳の伊福部は職を失います。途方に暮れていたところ、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任します。終戦でドイツ一辺倒の音楽教育の意味がなくなり、伊福部の特異な音楽に注目したのでした。その翌年、映画音楽の仕事も始め、のちに『ゴジラ』で一躍有名になります。その後、『シンフォニア・タプカーラ』などアイヌや北海道にまつわる曲や古代・中世日本から題材を採った数々の作品を生み出しました。

 1976年(昭和51年)、62歳、東京音楽大学作曲科教授に就任した年に、『オーケストラとマリムバのためのラウダ・コンチェルタータ』を作曲します。『ラウダ・コンチェルタータ』とは、イタリア語で「協奏風の讃歌、或いは頌歌」を意味し、伊福部自身の言葉によると、「祈りと蛮性との共存を通じて、始原的な人間性の喚起を試みたもの」とのことです。緩慢なテンポの序奏と、急緩急の3部構成の主部から成る単一楽章の作品です。 1993年、ベルリンで石井真木指揮新交響楽団(マリンバ:安倍圭子)がこの曲を演奏した際、伊福部を評して「富士の裾野のストラヴィンスキー」という評が新聞に掲載されたそうです。

 さて、いかがでしたでしょうか?伊福部昭という作曲家とこの曲がいかにして『ロシア』と関わってきたか、何らかのイメージを掴めたでしょうか?では、譜面を見て演奏するとしましょう!



参考文献:『伊福部昭 音楽家の誕生』木部与巴仁著 新潮社

                                                         (2011年8月21日)


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