グリエール : コロラトゥーラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲

グリエールと双子のリアとニーナ  グリエールと師のタネーエフ  グリエール
■グリエールってどんな人?
 表情豊かな少女ふたりを膝に乗せて写真に納まっている人物が、帝国ロシアとソビエト連邦の2つの時代を生き延びた作曲家ラインホルト・グリエール(1875-1956)です。なんと2組の双子を含む2男3女の子宝に恵まれたグリエールは、作曲家にありがちな波乱の人生や孤独、病気、夭折などとは無縁の栄光に満ちた人生を送り、その81年の生涯でオペラ6、バレエ7、交響曲3、協奏曲5、管弦楽曲15、歌曲123、ピアノ175曲もの膨大な作品を残しています。しかし数曲を除いてそのほとんどは本国でも演奏される機会は少なく、我が国でも作曲家の名前すらあまり知られていないのが実情です。

 グリエールは、ドイツ人の父とポーランド人を母の次男としてウクライナのキエフに生まれます。生後まもなくプロテスタントの教会で洗礼を受け Reinhold Ernst Glier とされますが、25歳頃にスペルと発音を変え Gliere とします(このアクセン・テギュ:4番目のeの上に ` )の存在などが、後の解説書などに「ベルギー系ユダヤ人」という誤った記述を生み出すことになります。)。
 
 父エルンスト・モーリッツは楽器職人(主に管楽器)で、自分の師匠の娘ジョゼフィーネ・コルシャークを妻とします。そのためいつも家庭には音楽が溢れていて、ここで育ったグリエールは幼くしてホルン、トランペット、フルート、クラリネットなどを操り、ヴァイオリンのレッスンも受けます。両親は息子に医者やエンジニアになることを望みましたが、階級や民族的制約によりそれはかないませんでした。ヴァイオリンの演奏で神童と目されるほどの腕前を上げたグリエールはハイスクールと音楽学校の両方に通い、音楽理論や作曲をR=コルサコフの弟子E. A. Rybに師事し、15歳にして最初の作曲を行ないます。19歳でモスクワ音楽院に入学、ヴァイオリンをフリマリー、和声をアレンスキー、対位法をタネーエフに、作曲をイッポリトフ=イワノフに師事します(今でもヴァイオリン弾きにとってフリマリーの音階教則本は避けて通れない教材です。また、グリエールが入学した12年前にはこのフリマリーのヴァイオリン、タネーエフのピアノ、フィッツハーゲンのチェロによって、チャイコフスキーのピアノ・トリオ『偉大なる芸術家の思い出』が初演されています。)。1900年には、作曲で金賞を受賞し卒業します。この頃までには、すでにオペラ、弦楽四重奏曲、八重奏曲、交響曲第1番などを作曲しています。

 卒業後、モスクワ・グネーシン音楽学校で教師の職を得ますが、その頃21歳のミャスコフスキーと11歳のプロコフィエフを教えたことがグリエールの名を歴史に留めた最初の出来事となります。1905年にはベルリンに赴き作曲を学ぶと同時に、マーラーの指揮者として名を馳せたオスカー・フリードに指揮を学びます。このときの同門であったクーセヴィツキー(のちにボストン交響楽団の常任指揮者、バルトークをはじめ多くの作曲家を擁護・援助し、バーンスタインを育てた。名コントラバス奏者でもあった。)と親交を結び交響曲第2番を献呈、さらにはコントラバスの小品も書いています。

カバレフスキーとプロコフィエフにはさまれて    作曲家マーラーと指揮者フリード


 1908年帰国したグリエールはキエフの音楽院で教鞭を取ると同時に作曲と指揮の活動を本格化させます。この間、ロシア革命(1917年)が勃発しますが、政治的には無関心の立場を貫きます。1920年にはモスクワ音楽院の作曲の教授として迎えられ、1941年までそのポストにとどまります。1923年から6年間アゼルバイジャンのバクーに滞在し、ソビエト音楽政策の普及および自らの作風に東方音楽の吸収など活発な音楽活動に従事します。

 モスクワ音楽院に戻ると教育と作曲活動を再開し、1927年グリエールの代表作とされるバレエ『赤いけしの花』を作曲し大成功を博します(1927年)。1937年には赤旗労働英雄勲章を授与され、同年ソビエト作曲家組合のモスクワ支部長に就任、翌年にはその全国組織の議長に就任します(1948年まで)。さらには、ソビエト連邦共和国人民芸術家の称号を貰い、その後もレーニン勲章を3回、スターリン賞を3回授与されます。大戦中は『革命20周年祝典序曲』、『人民友好序曲』、『戦争序曲』、『勝利序曲』など社会主義リアリズムの模範的な作品を書きます。ソビエト時代に吹き荒れた数多の芸術家に対する批判、粛清などにさらされることなく、公職を離れた後も作曲のペンを置くことなく、未完のヴァイオリン協奏曲を遺して1956年、81歳の生涯を閉じました。最初の生徒であったミャスコフスキーとプロコフィエフはすでに世を去った後でした。

 グリエールが最も影響を受けたのはチャイコフスキーおよびグラズノフ、ボロディンなどの国民楽派の作曲家たちで、若い頃はベルリン修行時代に接したワーグナー、R.シュトラウスなどのドイツ・ロマン派音楽、その後はアゼルバイジャン、ウズベクなどの東方の民俗音楽を取り入れています。ソビエト楽壇で要職につくようになると、当局に好まれる保守的な傾向が強まっていきます。ショスタコーヴィチやプロコフィエフなどの尖った前衛音楽とは無縁であることから、教育者としての功績は語り継がれるものの作品は次第に忘れ去られつつあります。代表的な作品は、ロシアの英雄伝説に基づく交響曲第3番『イリヤー・ムーロミェツ』(1911年グラズノフに献呈。ストコフスキーが米国で盛んに指揮)、 「ロシア水兵の踊り」で有名なバレエ音楽『赤いけしの花』(1927年。「けしの花」が革命のシンボルではなく阿片の原料だと後に知ったグリエールは改訂時に『赤い花』と改名)、ハープ協奏曲(1939年)などがあります。



Deborah Yakovlevna Pantofel-Nechetckaya    ナジェジダ・カザンツェワ


■コロラトゥーラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲
 グリエールはモスクワ音楽院を退職した翌年の1942年からテキストのない管弦楽伴奏の歌曲の作曲に取り組みます。1943年に完成されたこの曲の作曲された経緯は不明で、献呈されたのが当時38歳の伝説の名ソプラノ歌手(のちにモスクワ音楽院の教授になる)Deborah Yakovlevna Pantofel-Nechetckaya であったのにもかかわらず初演は何故か別の歌手でした。ナジェジダ・カザンツェワのソプラノ、オールロウの指揮によってモスクワで初演され、大好評を博しました。この曲によって後にスターリン賞を授与されます。カザンツェワは1946年にこの曲をレコードに録音しています。

 このテキストのない歌曲の前例としては、グリエールの2歳年上のラフマニノフが作曲した『ヴォカリーズ』が有名で、元はピアノ伴奏の曲を自身で管弦楽版に編曲し、自らの指揮で1929年にこの曲をアメリカでレコーディングしています。このレコードをグリエールが聴いたかどうかは不明ですが、オーケストラを従えたしかも協奏曲というソリストのテクニックを存分に発揮できる曲としては史上初の試みとなりました。歌手に対して極めて高度な技術を必要とする曲ですが、ベルカント・オペラの『狂乱の場』さながらの自己陶酔をめざしてはいないところが、少々お堅いソビエトらしさを感じさせると同時にグリエールの処世訓ともいえる中庸穏健なスタイルをよく表しています。

 曲はふたつの楽章、Andante へ短調、Allegro へ長調という非常にわかりやすい構成になっています。チャイコフスキーの歌劇『エフゲニー・オネーギン』の名場面「手紙のシーン」を連想させるオーケストラの導入は、作曲当時の「大祖国戦争=第二次大戦=独ソ戦」に苦しむ人々の陰鬱な雰囲気を暗示しているようです。やがて希望の光を幽かに灯すように、ソプラノが木管楽器とハープを従えて美しいメロディーを物憂げに紡ぎはじめます。ヴァイオリンに旋律を譲ってソプラノとクラリネットがオブリガードで優しく絡み合うところは全曲中の白眉で、協奏曲というジャンルを越えてこの曲を偉大なロシア音楽作品のひとつとして数えることを可能にしています。

 第2楽章は一転して弾けるばかりの喜びに満ちた開始から、三拍子のワルツを主体とした音楽が展開されます。ここでも、チャイコフスキーのバレエやオペラの舞踏会のシーンを思わせる瞬間があり、トランペットなどの金管がない分スケール感や豪華さはありませんが、バレリーナが軽やかなステップを披露するように、ソプラノの可憐な声が天空を駆け巡ります。舞踏会のヒロインは常にオーケストラにエスコートされ、ときにはその技巧を凝らして眩いばかりに輝き、ときには叙情的に乙女らしさを聴かせます。戦時中の不自由な日々にあって幸せだった過去を思い出し、つかの間の安らぎを見出しているといった作品ではありますが、戦争、ソビエト連邦、冷戦、共産主義の崩壊など数多の激動を経た現在にあっても、この曲の魅力は色あせることはありません。

 余談ですが、チーズフォンデュに欠かせないグリエールチーズは、スイスのグリュイエール(Gruyeres)で作られるチーズのことで、作曲家グリエールとは関係ありません!しかし、現在アメリカのシンシナチ州で活躍するソプラノ歌手ジェニファー・グリエールは正真正銘の作曲家グリエールの遠い親戚にあたります。グリエール家は遠く14世紀にまで遡ることができ、少なからぬ人々が音楽関係の仕事に従事してきたそうです。


参考文献:
“Soviet Composers and the Development of Soviet Music” by Stanley D. Krebs, published by George Allen and Unwin LTD, London, in 1970.
“Composers Gallery - Biographical sketches of contemporary composers” by Donald Brook, published by Rockliff, Salisbury Square, London, in 1946.


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