エルガー : チェロ協奏曲

エルガー エルガー生誕の地ウースター 中央にエルガーの銅像 ウースター州 エルガー
エルガーの生涯と作品

 英国が最も誇りにする作曲家エドワード・エルガーは1857年6月2日、ロンドン西方のウースター州に生まれます。モールヴァン地方の美しい自然に囲まれて育ったエルガーは、楽器商を営む父親(ウースター大聖堂のオルガン奏者でもあった)のもとでピアノ、オルガン、ヴァイオリンなど様々な楽器に親しみます。作曲も含めて楽器演奏のほとんど独学で身につけたエルガーは、1878年(21歳)には合唱音楽祭オーケストラのセカンド・ヴァイオリンを弾いています。さらに1885年父親を継いでウースター大聖堂(セント・ジョージ・ローマ・カトリック教会)のオルガニストになります。この頃のエルガーは、ローカルな音楽関係団体向けに作曲や指揮をしたり、さらにはピアノやヴァイオリンを教えたりしていました。また、オーケストラの中のファースト・ヴァイオリン奏者として、ドヴォルザークの指揮でその『スターバト・マーテル』と交響曲第4番を演奏した記録が残っています。

 1889年、生徒のひとりキャロリン・アリス・ロバーツとの結婚を機に、エルガーはその作曲のインスピレーションを大きく羽ばたかせます。この頃の作品は、バイロイトやミュンヘンで接したワーグナーの影響も見られますが早くもエルガー独特の響きをもたせています。1899年、ドイツの指揮者ハンス・リヒターによって初演された「エニグマ変奏曲」は中央ヨーロッパにエルガーの名を知らしめることになり、翌年のオラトリオ『ゲロンティアスの夢』はR.シュトラウスの賞賛を受けるに至ります。1903、1906年にバーミンガム音楽祭で初演されたオラトリオ『使徒たち』と『神の国』はワグネリアンによって委嘱されたとされていますが、大きな成功を得ることはありませんでした。しかし、英国王室のために作曲された曲は広く認められることになり、数々の勲章や「サー」の称号などを得ることになります。この頃の作品には有名な「愛の挨拶」、「威風堂々」などがあります。

 成功を勝ち得なかった声楽曲への意欲を失ったエルガーは、管弦作品を集中的に生み出していきます。1908年には交響曲第1番を世に問い、大成功を博します。この曲は初演からわずか1年間でヨーロッパはもとより、ロシア、米国、オーストラリアなどで通算100回も演奏され、ベルリン・フィルの常任指揮者として知られるアルトゥール・ニキシュによって「ブラームスの第5交響曲」と称されるほどでした。『ゲロンティアスの夢』に感銘した大ヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーの依頼で1910年にはヴァイオリン協奏曲を作曲し大成功を収めます。

 しかし、続く1911年の交響曲第2番では聴衆の理解を得られず、1913年の自信作『ファルスタッフ』の初演も惨憺たるものでした。折から第一次世界大戦が始まり、困難な生活を送る傍ら愛国的な実用曲ばかり書いていましたが、戦争の終わりが近づいた1918-19年、ヴァイオリン・ソナタホ短調、弦楽四重奏曲ホ短調、ピアノ五重奏曲イ短調、そしてチェロ協奏曲ホ短調といった大作を立て続けに作曲します。エルガーはこれまでの堂々とした自信たっぷりのスタイルを捨て、繊細で、時には考え込み、或いは一歩引いて佇む音楽を作り出すことで、新しい境地を切り開きます。

1932年 メニューインとVn協奏曲を録音するエルガー 自転車とエルガー 1919年 この曲を書いた頃のエルガー

 ところが翌1920年、エルガーを長年支えてきた妻アリスを亡くすと、エルガーのインスピレーションはすっかり萎えてしまいます。愛する生まれ故郷に帰り、ウースターの「田舎の紳士」として犬と散歩する日々に、時折ロンドンに出向いて指揮をしたりレコーディングをしたりして余生を過ごします。1933年、若き天才ヴァイオリニスト、イェフディ・メニューインの独奏で自作のヴァイオリン協奏曲を演奏するためにフランスに出かけたエルガーはパリ郊外のグレ・スル・ロワンに居するディーリアスを訪ねています。しかし、帰国後健康を害し、翌1934年2月23日に没します。

 かつて作曲家の黛敏郎が、エルガーと夏目漱石は似ている、エルガー人気は英国圏の国に限られ、漱石も日本でこそ有名人であるが一歩海外に出るとその名はほとんど知られていない、と言ったそうです。現在はどうでしょうか?

ブリンクウェルズ エルガーとハリソン エルガーとハリソンの録音風景

曲の誕生と演奏の歴史

 第一次世界大戦最中の1918年3月、エルガーはロンドンの病院に扁桃腺除去のために入院します。60歳を過ぎた老人にとってこの手術は危険を伴いましたが、医師は手術を決行します。エルガーの娘キャリスは「当時は鎮静剤がないため父は数日間たいへんな痛みに苦しみました。しかしそれにもかかわらず、ある朝父は起き上がりペンと紙を求め、チェロ協奏曲の冒頭のテーマを書きとめました。」と後に記しています。しかし、戦争による悲惨な現実と大いなる幻滅に打ちのめされていたエルガーはその9/8のメロディーに手を加えることはありませんでした。

 5月、エルガーは家族でウエスト・サセックス州の田舎の丘に建つブリンクウェルズと称するコテージに移ります。その夏、スタインウェイのアップライト・ピアノを手に入れたエルガーはヴァイオリン・ソナタを作曲します。妻のアリスはすぐさまそれはこれまでの作品と全く異なるものであることに気づき「ウッド・マジック・・とても繊細で捉えどころがない・・」と記しています。この「ウッド・マジック(森の魔法)」は、エルガーが「木々が私の曲を歌っている。それとも私が彼らの曲を歌うのか。」という言葉から名づけたとされています。ウースターの田舎で育ったエルガーにとって、このブリンクウェルズの木々に囲まれた美しい自然は新たなインスピレーションを得るきっかけとなったのです。続けてエルガーは弦楽四重奏曲と、ピアノ五重奏曲を書き上げ、1919年5月にこれら3曲を初演します。そしてこの頃までには9/8のメロディーを使ってチェロ協奏曲に仕上げていくアイデアを膨らませつつあったのでした。

 その後エルガーはここ数年なかった集中力で作曲に励み、朝の4時から5時には起きて作業したとされています。8月8日、妻のアリスは郵便局に出向き、ロンドンへスコアを送ります。初演は10月27日、フェリックス・サルモンドのチェロ、作曲者自身の指揮するロンドン交響楽団によって、ロンドンのクィーンズ・ホールで行なわれました。しかし、当日は後半のプログラムが別の指揮者であったため十分なリハーサル時間が与えられず、満足な演奏ができず聴衆の受けもよくなかったとされています(サルモンドは優れた奏者で、その後カーチス音楽院で教えます。)。

 1928年、当時天才少女の名をほしいままにしていたイギリスの女流チェリスト、ベアトリス・ハリソン(1892〜1965)に独奏を依頼してエルガーはこの協奏曲を録音し、さらにクィーンズ・ホールでも演奏します。彼女はその後熱心にこの曲を取り上げ、イギリス国内で少しずつ認知されるようになります。さらに彼女はアメリカでもこの曲を最初に演奏しますが、1934年母親の急死によって突然演奏活動を止めてしまいます。なお、彼女はディーリアスからもいくつかの曲を献呈されていて、ディーリアスのチェロ協奏曲の普及にも努めました。

ピアテゴルスキー ピアテゴルスキーとデュ・プレ、当時夫だったバレンボイム 1965年 エルガーのVc協奏曲を録音するデュ・プレとバルビローリ ジャックリーヌ・デュ・プレ

 その同じく1934年シカゴ交響楽団でこの曲を演奏したのがロシア生まれのグレゴール・ピアテゴルスキー(ハイフェッツ、ルーヴィンシュタインとトリオを組んだことでも有名)です。彼はその後イギリスとヨーロッパで度々この曲を演奏しています。1936年にはウィリアム・ヘンリー・スクワイヤ(フォーレがかの有名な『シチリアーノ』を献呈したチェリスト)がこの協奏曲の録音をします。徐々にではありますが、この曲が演奏される機会は増えてきました。

 しかし、なんといってもこの協奏曲の人気を決定づけたのはイギリスが生んだ夭折の天才チェリスト、ジャックリーヌ・デュ・プレ(1945〜1987)を置いて他にはありません。その伝説と言われた演奏の数々に加えて残された録音と映像は、この曲の素晴らしさを世界中にあまねく強烈に印象づけたのでした。5歳でチェロを始めた彼女は13歳でこの協奏曲の譜面を師であるウィリアム・プリースから渡され、僅か4日で暗譜し、ほとんど完璧に演奏してしまったとされています。17歳でこの曲は彼女の Signature piece(名刺がわりの曲)となり、他のどの協奏曲よりも頻繁に演奏しました。彼女はこの曲がドヴォルザークやシューマンのチェロ協奏曲と並ぶ傑作であることを証明し、その再評価に大きく貢献したことになります。

 彼女が遺したこの曲の録音はいくつかありますが、そのうちのひとつを指揮しているサー・ジョン・バルビローリはかつてロンドン交響楽団のチェリストとしてエルガー指揮によるこの曲の初演に立ち会ってい、また、ソリストとしても1921年にこの曲をサルモンド、ハリソンに次ぐ史上3人目の演奏者となったことの栄誉を受けています。1965年、デュ・プレは匿名のファンから贈られたストラディヴァリウス「ダヴィドフ」を使ってバルビローリの指揮ハレ管弦楽団でこの曲を演奏し、その後渡米してカーネギー・ホールで同曲を演奏します(10分ものスタンディング・オヴェーションを浴びたとか。)。帰国後の8月19日にロンドン交響楽団でこの曲を録音します。彼女にとって初めての録音セッションでしたが、その時の様子を数々のソリストと共演してきたロンドン交響楽団のコンサートマスター、ヒュー・マグワイアはこう語っています。「彼女の演奏をほんの数フィート離れたところで見た私は本当に、見事にノックアウトされました。それはあまりに美しく、霊感に富み、魔法みたいで私は彼女に話し掛けることすらできませんでした。もちろん誰も口を開く者はいませんでした。」この録音は直ぐに発売され、EMI史上に残るベスト・セラーになったのです。なお、この楽器「ダヴィドフ」はデュ・プレの病没後、ヨー・ヨー・マの手に渡っています。

 余談ですがエルガー生誕の地ウースターはその発案した伯爵の名前からとったソースの名前で知られていますが、英国王室御用達の老舗の陶磁器工房ロイヤル・ウースターがある街でも有名です。


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