ドヴォルザーク : 交響曲第9番ホ短調 作品95『新世界より』

アントン・ドヴォルザーク  ジャネット・サーバー夫人  初演の模様を伝える新聞
 我が国で出版されているドヴォルザークに関する文献は極めて少なく、わずか2、3点を数えるほどしかありません。ここでは、チェコの音楽学者ショウレック(Otakar Sourek 1883-1956年)の著書 The Orchestral Works of Antonin Dvorak(英語訳) の抄訳にその他の文献も交えながらこの交響曲について解説します。

 ドヴォルザークは50歳の声を聞くようになる直前の1890年にプラハ大学から名誉博士号を、翌年にはイギリスのケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られました。さらに、その年からプラハ音楽院の作曲家の教授として迎えられることで作曲家としての名声を国の内外で確立することになります。

 ところが、同じ1891年の春にニューヨークのジャネット・サーバーという女性からナショナル音楽院の院長に招きたいという電報を突然受けます。実業家の夫人である彼女は元々ピアノ教師だったのですが、アメリカの国民的な音楽様式を発展させてゆく若い音楽家を養成する必要性を感じ、当時としては珍しく人種差別のない音楽院を1885年に設立していました。その院長として、アメリカでもすでに高名な作曲家として知れ渡っていたドヴォルザークに白羽の矢が立てられたのでした。就任間もないプラハ音楽院を留守にすることになるため迷っていたドヴォルザークでしたが、彼女の再三にわたる熱心な懇願と3倍以上の給料などの好条件もあって、2年契約でアメリカ行きを決意します。ドヴォルザーク51歳の1891年10月のことでした。

 ドヴォルザークは翌1892年9月27日にニューヨークに到着し、カーネギーホール内にあるアメリカの国民音楽院の院長に就任します。新世界交響曲はこのアメリカ滞在期間中の1893年1月10日に着手され、5月24日に完成、同年12月16日にニューヨークのフィルハーモニー協会によって初演されました。その公演は交響曲史上稀に見る大成功をおさめ、翌夏にはヨーロッパでも演奏されてその後も各地で好評を博しました。

1893年12月16日 ニューヨーク ザイドル指揮
1894年06月    イギリス 指揮不明
1894年07月20日 カルロヴィ・ヴァレイ(ボヘミア) ラヴィツキ指揮
1894年10月13日 プラハ ドヴォルザーク指揮
1896年        ウィーン ハンス・リヒター指揮
1898年       アムステルダム メンゲルベルク指揮
1900年       イタリア トスカニーニ指揮

 この曲の特徴として大きく4つの点が挙げられます。まず第1は、ドヴォルザークは否定してはいますが、アメリカのインディアンやニグロ、アメリカの作曲家の作品から取り入れたメロディー、リズム、ハーモニックが曲を色づけしているということ、第2はドヴォルザークが感じたアメリカでの印象やムードが反映されていること、第3はアメリカの詩人H.W.ロングフェローによる『ハイアワサの歌』というインディアンの英雄叙事詩からの影響、第4はドヴォルザーク自身片時も忘れることがなかった祖国への思い、まさに故郷に対するホームシックというべきものです。

1. アメリカ音楽の影響 

 これは初演直後から論争になったほどで、ドヴォルザークは「私がインディアンやアメリカ・ニグロの主題を使ったというのは誤解です。私はただ、それらのアメリカの国民的な旋律の精神を取り入れた特徴的な旋律を書き、それを素材として近代的なリズム、和声、対位法、オーケストレーションを駆使して発展させたのです。」と初演4日後の新聞紙上で弁明しています。しかし、ペンタトニック(5音音階=長調では4番目と7番目を飛ばす・・c, d, e, g, a,c )とシンコペーションに特徴のあるアメリカ的な性格の色濃い黒人霊歌『流れよ、ヨルダンの川よ、流れよ』(第1楽章の第1主題)や同じく『モーゼス老人、バラ売りのモーゼス』(同第2主題)、『低くはずめ、やさしい馬車よ』(同提示部小結尾)との類似は否定できないとも言われています。このことは当時国民音楽院の生徒であったヘンリー・サッカー・バーレイ(*)という黒人のバリトン歌手の歌をドヴォルザークは好んで聴いたことが直接の契機であったと考えられます。この時ドヴォルザークの心には、一個の人間として、黒人の運命に対する同情の念と深い人間的な関心が呼び覚まされたと言えます。

 (*)ヘンリー・サッカー・バーレイ(1866-1949)はエリー州に住む黒人の自営業者の家に生まれました。その類稀な声(バリトン)によってナショナル音楽院の奨学金を得て、ゴールドマークに和声、ハーバートらに作曲を習います。在学中に院長として就任してきたドヴォルザークからも作曲の授業を受けますが、同時に数々の黒人の歌をドヴォルザークに聴かせることになります。そのことが音楽史上に名曲を1曲加えることになったのです。彼はその後、口承でしか伝えられ得なかった黒人霊歌を収集して編曲し、音符に記録しました。その数は200曲とも300曲とも言われ、そればかりか、黒人歌手の草分け的存在としても活躍しました。かの偉大なる黒人歌手マリアン・アンダーソンらを勇気づけたことでも、彼自身音楽史上に重要な仕事をしたことになります。
ヘンリー・サッカー・バーレイ  当時のニューヨークの港(遠くに自由の女神)  ニューヨーク駅
2. アメリカの印象 

 ニューヨークに滞在していたドヴォルザークは毎日港へでかけ、地球上の遠く離れた土地から来る汽船やあるいはそこへ向けて出港する汽船を飽きることなく見ていたそうです。ドヴォルザークは蒸気機関車が大好きだったことは有名で、プラハのフランツ・ヨーゼフ駅では何時間も鉄道を眺め、どんな複雑なシリ−ズ番号も憶えていたばかりか、駅員や乗務員の名前まで暗記していたそうです。また、プラハの音楽院で教えていた頃、ドヴォルザークは授業があって新しい汽車を見に行けないときに、よく生徒を代わりに見に行かせ、汽車の番号を調べさせたそうです。ある時、その役を仰せつかった弟子のヨゼフ・スークは、実はドヴォルザークの娘と婚約中だったのですが、彼は汽車のことをよく知らないので間違って炭水車の番号をメモして帰ってきました。ドヴォルザークは自分の娘に「おまえは、ろくに汽車のことを知らないあんな男と結婚するのか!」と怒ったそうです(後に二人は無事に結婚できました。)。

 こんな鉄道マニアのドヴォルザークにとって残念なことに、ニューヨークの駅員はチェコからきた田舎者には親切でなかったようで、彼はしかなたく港に足を向けますが、程なく汽船の虜になってしまいます。しかも見るだけでなく、船に中に入って隅々まで探索し、船長と話し、あっという間にすべての船の名ばかりか、船長から船員までの名前と顔を覚えてしまったとか。これは、チェコにいた頃に蒸気機関車に対して彼がやってきたことと全く同じでした。なお、新世界交響曲の随所に汽車や汽船を連想させる効果音を聴くことができます。

 ショウレックは第1楽章の序奏の冒頭についてこう書いています。「ドヴォルザークを乗せた汽船がアメリカの波止場に錨を下ろす直前、彼は船のデッキに立って、自分を迎える新しい土地に見入り、自分に待ち構えている未来に思いをめぐらしている、作曲家はその時のことを(曲の冒頭で)追体験しているようだ。」

 当時のニューヨークにはすでに多くのビルが立ち並び、自由の女神像や行き来する数多くの船がドヴォルザークに強烈な印象を与えたことは想像に難くありません。しかし、ここで注意しないといけないのは、この曲の第3楽章を書き終えるまでドヴォルザークが実際に体験したアメリカはニューヨークも極めて限られた場所、すなわち、ドヴォルザークが住んでいたアパートとそこから歩いて数分のところにあったナショナル音楽院、それと毎日通った波止場だけだったということです。

3. 『ハイアワサの歌』 

 上記の都会以外のアメリカ、静かな詩的で田園風のアメリカがドヴォルザークに与えた影響も無視できません。しかしこれは、ドヴォルザークが直接体験したものではなく書物から得たものです。この書物とは、アメリカの詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー(1807-1882)によるインディアンの英雄叙事詩『ハイアワサの歌』のことで、ドヴォルザークはそのチェコ語訳を渡米以前に読んでその魅力に取り憑かれていました。この作品は、北米五大湖の最西端に位置するスペリオル湖の大自然を舞台にしたインディアン(オジブワ族)の英雄ハイアワサの伝説を序章と22の詩にまとめたものです。そのストーリーと彼らが活躍した森、湖と川、そこに棲む鳥と動物などの描写(この時代のインディアンはまだ砂漠には進出していません。)が観念的なアメリカ像としてドヴォルザークの脳裏に形成されたことはまちがいありません。ドヴォルザークは、新世界交響曲の第2,3楽章はこの『ハイアワサの歌』からインスピレーションを得て書いたと自ら語っているのです。

 『ハイアワサの歌』は1885年に出版されてアメリカだけで5万部売れたという当時としてはたいへんなベストセラー作品で、ヨーロッパにも渡ってかなり読まれました(現在でもアメリカの子供は学校のテキストなどからその名を知っているとか。)。この時代は南北戦争(1861年)の少し後で、アメリカの文壇ではエドガー・アラン・ポウが活躍していました。フランスではボードレールがこの作品を基にした「ハイアワサ」の詩を2編発表し、さらにミュージカル用に散文詩を書いています。1860年にドイツの作曲家ロベルト・ステペルがこれに音楽をつけてボストンで上演しますが失敗に終わっています。また、ディーリアスは1888年に交響詩『ハイアワサの歌』を作曲しましたが、現在スコアは散逸しているようです。さらに、イギリスの作曲家コールリッジ=テイラーは1898年頃、カンタータ三部作『ハイアワサの歌』(ハイアワサの婚礼の宴、ミネハハの死、ハイアワサの出発)を作曲しています。この時代、いかにロングフェローの作品が多くの芸術家に注目されていたかがわかります。

 1892年9月に渡米したドヴォルザークがこの詩を携えてきたのは言うまでもありません。ショウレックによるとドヴォルザークは早くもその年の12月20日、『ハイアワサの歌』の「森の中の葬儀」に基づくカンタータもしくは音楽劇のスケッチを残したとされます。なお、ショウレックの著作にあるこの「森の中の葬儀」ですが、『ハイアワサの歌』の原文にはその名前の章は存在せず、第20の歌「飢饉」という章がそれに該当します。英語で書かれたタイトルをチェコ語に訳す時に意訳したものと思われます(日本の研究者はこれを訳す時には元に戻してほしいものです。)。内容は、ハイアワサのもとに「飢饉の神」と「熱病の神」というふたりの客人が訪れ、その後彼の妻であるミネハハが病に倒れて亡くなり、ハイアワサの大いなる悲しみのうちにミネハハの亡骸が森に葬られる、というものです。ドヴォルザークはそのスケッチを完成させることはありませんでしたが、それを新世界交響曲の第2楽章に転用しました。この楽章では深い森、豊かな川といったアメリカの奥深い自然の描写と共に7日7晩ミネハハの亡骸に付き添ったハイアワサの深い悲しみに満たされています。はるか遠い森のなか、彼方の山から突然聞こえてくるミネハハの「ハイアワサ、ハイアワサ」という苦闘の叫び、その後小編成の弦楽器が奏するミネハハの静かな死は3回にも及ぶ全休符が厳かさを添え(練習番号5番)、楽章最後におけるヴァイオリンの上向分散和音によるカデンツァはミネハハの魂の昇天を、と物語を克明に描写しているのがわかります。

 なお、コールアングレによるこの楽章の主旋律は『家路』という題名の合唱曲で親しまれていますが、『家路』という題名や歌詞はこの楽章の成立とは全く関係はありません。この『家路』はドヴォルザークのニューヨークにおける同僚であったW.A.フィッシャーが「Goin'Home」という題で歌詞をつけて1922年に発表、日本では堀内敬三が1946年に『家路』と翻訳し、こちらの方が交響曲の原曲と誤解される程広く親しまれています。余談ですが、かの宮沢賢治が同じくこの第2楽章の主題に自分で詩をつけて「種山が原」として歌っていたのは1924年頃とされています。賢治はフィッシャーの作品の存在についてはたぶん知らなかったと思われ、偶然にも地球の反対側で二人の人物が同じ曲に歌詞をつけたことになります。なお、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中には、トウモロコシ畑からこの旋律が流れてきて女の子が「新世界交響楽だわ」とつぶやき、ジョヴァンニが「さうさう、ここはコロラドの高原ぢゃなかったらうか」と思うくだりがあります。賢治もドヴォルザーク同様汽車が好きだったのですね。

  第3楽章の主題は『ハイアワサの歌』の第11の歌「ハイアワサの婚礼の宴」から得たインスピレーションに基づいています。しかし、ドヴォルザークは実際にインディアンの踊りを見たことはなく、頭の中だけで創作したものと思われます。この歌は「ストーム・フール(嵐バカ?)」と呼ばれたパウ・プク・キーウィスというインディアンの神秘的な踊りについて歌われていますが、その一部を紹介します。

 「最初は荘厳に、ゆっくりしたステップで・・・松の木々の間を豹のようにしなやかに通り抜け・・・回転しながら輪を描き・・・その回転は速度を増し・・・木の葉が彼といっしょに回り始める・・・・」

 なお、ドヴォルザークが着目したこの2つの歌は、そのわずか5年後にイギリスの作曲家コールリッジ=テイラーがカンタータで選んだ3箇所(ハイアワサの婚礼の宴、ミネハハの死、ハイアワサの出発)のうち2曲と一致するのも興味深いところです。
ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー 『ハイアワサの歌』 コールリッジ=テイラー 宮沢賢治 釜石線を走るSL銀河ドリーム号(D51)

4.ホームシック

 この曲にアメリカの要素がふんだんに盛り込まれているのは事実としても、祖国を想うドヴォルザーク自身の姿がこの曲に見当たらないということは全くありません。むしろ、遠く離れれば離れるほど、祖国への想いは募る一方で、ドヴォルザーク自身祖国ボヘミアを片時も忘れることはなかったとされています。このいわばホームシックと言うべきものもこの曲の重要な要素であり、その姿は時として突如現れることもあります。黒人からノスタルジックでメランコリックな話を聞いているうちに急に祖国のことを思い出すといった状況をドヴォルザークは何度も経験したのかもしれません。こうしたアメリカ的な要素と祖国ボヘミア的要素が複雑に絡み合った二面性を持つ曲としてこの曲を位置付けることができます。

 第1楽章の練習番号3番(第2主題*)におけるアメリカ音楽はその旋律だけで、その後の展開はチェコ時代のドヴォルザークその人のやり方に従っています。練習番号4番の5小節目からのチェロ・バス、それに続くフルート、クラリネットのカンタービレ風の経過句(**)によって第1主題提示部にピリオドを打ちますが、ここではウズラ笛(ウズラを誘い出す笛)の陽気なリズムという祖国ボヘミアの音楽が突然顔を出しています。

 第2楽章は前述の通り『ハイアワサ』の歌から得たインスピレーションに基づいていますが、この楽章における感情や性格には文学的なものからだけでなく、ドヴォルザークの心に湧き上がる南ボヘミアの広い田園地帯やヴィソカーの別荘(イギリスでの成功で得た資金でドヴォルザークが南ボヘミアで購入)の庭や深い松の森などの思い出からも形つくられています。 (*)この主題を経過句、(**)を第2主題とする場合もあります。

 第3楽章も『ハイアワサ』のインディアンの婚礼と踊りから作曲されていますが、トリオではドヴォルザークは突如としてインディアンの婚礼や荒々しい踊りのことを忘れてしまいます。ここの旋律は明らかにチェコの民俗舞踊曲からヒントを得たものであり、シューベルトの香りをも感じさせます。ドヴォルザークの心は遠く海を渡って南ボヘミアの平和な牧草地をさまよい、ヴァイオリンや木管が奏でるデリケートなトリルによって彼がヴィソカーで耳にしたハトの鳴き声を描写したのかもしれません。

 ショウレックの研究によると第3楽章までのスケッチがまとまってから第4楽章に取りかかるまでに少なくとも3ケ月のブランクがあったとされます。その間、ドヴォルザークがアイオワ州にあるスピルヴィル(***)というチェコ人の入植地を訪れることを決め、さらに家族を呼び寄せる電報を打ちました。初めてアメリカの田舎を体験できるという好奇心だけでなく、同郷の人達に会い、祖国の生活臭や文化に触れることでき、そして何より家族といっしょになれるという喜びがドヴォルザークに安心感を与えることでホームシックから一時的に開放させたと言えます。このことが、第4楽章への祖国からの音楽的要素の侵入を少なくさせ、現れてもこれまでのような特別なメランコリーを帯びさせないことに繋がったものと思われます。第1楽章に満ちていた未知の世界に対する期待感がこの楽章でも強く感じられ、それが陽気で激しい興奮へとより一層強められることによって、アメリカ滞在によって生じたドヴォルザークの不安や様々な感情を打ち消しているのです。

 練習番号3番(第2主題)ではしばしアメリカから離れてボヘミア的なものを自分自身に見出し、これまでのチェコ人としてのドヴォルザークの確固としたスタイルを打ち出しています。さらに続く練習番号4番(経過句)でも純粋なチェコのフォークソングをそのムードとトーンから聴き取ることができます。しかし、この楽章の基調である陽気なサウンドはドヴォルザークを故郷からの歌にいつまでも浸らせはしません。ここから先はアメリカでの印象が支配的で明るい、喜びに満ちた音楽が展開されます。ヴァイオリンによって奏される第2主題の再現ではこの楽章ではめずらしく祖国への想いが強く感じられ、その後でフルートとオーボエによる新しい旋律(259小節)ではこれまでの陽気さからは遠い、物思いに沈んだドヴォルザークの姿が見られます。また、そこでは悲しげなチェロ・バスの持続低音が鳴っていますが、中音域ではファゴットがモゴモゴ言うよな動きを見せていて、まるでチェコ人の国民性を思わせるところです。

 (***)スピルヴィルは、1849年ヨセフ・シュピールマンというバイエルン地方からの移民がアイオワ州北西部にあるリトル・ターキー・リバーの辺に定着して製粉所を作ったのが最初で、後にスピルヴィルと呼ばれます。アイオワ州と言えば先年映画で話題になったロバート・ウォーラーの小説『マディソン郡の橋』の舞台となった州で、その北西に位置するのがスピルヴィルのあるウィネシエク郡です。映画のシーン同様、共にとんでもない田舎で、スピルヴィルの人口は1870年代の336人から現在も変わらずわずか387人(1990年)しかありません。この地に1854年頃、20家族のチェコ人が集まってコミュニティーを形成します。

 1893年5月24日に新世界交響曲を書き上げたドヴォルザークは、6月3日に一家と共にスピルヴィルに向かいます。ニューヨークから汽車で36時間の旅でした。この時、トマス・ビリーというチェコ人がドヴォルザークに家を提供しましたが、この建物は現在もその子孫が管理していて、時計博物館およびドヴォルザーク記念館として、スピルヴィル唯一の観光スポットになっています。ここでのドヴォルザークは、毎朝4時に起きてリトル・ターキー・リバーに沿って散歩し、5時に帰宅、7時には聖ウェンセスラス教会(アメリカにある最古のチェコ教会)のオルガンを弾き、午後には古くからの入植者の苦労話を聞いたとされます。ニューヨークでは接することができなかった自然に触れ、懐かしいチェコ語を話すことで、極めて幸福な時を過ごしたようです。ここでの3ケ月間にドヴォルザークは、有名なヘ長調の弦楽四重奏曲『アメリカ』作品96と変ホ長調の弦楽五重奏曲作品97を書き、ニューヨークの戻ってからチェロ協奏曲を完成させます。
1895年当時のスピルヴィル ビリー時計博物館(2Fはドヴォルザーク記念館) リトル・ターキー・リバー

 2年半アメリカに滞在したドヴォルザークは1895年の春に帰国の途につきます。帰国後プラハ音楽院に復職したドヴォルザークは、もはや絶対音楽としての交響曲を書く意思を持たず、2曲の弦楽四重奏曲を帰国直後に書き上げた後は室内楽も器楽曲も書かず、文学に関わる音楽であるオペラ、歌曲、交響詩の作曲に専念します(亡くなるまでの8年半)。

 前述の通り『ハイアワサの歌』のオペラ化を放棄したこと、2年半のアメリカ滞在中、目と鼻の先にあるメトロポリタン歌劇場に行ったのはたったの2回だったことから、ドヴォルザークはオペラには全く興味がなかったとする解説がありますが、渡米以前に7曲ものオペラを作曲していることや、メトロポリタン歌劇場の歴史を調べるとドヴォルザークがアメリカに着いた前日である9月26日、歌劇場は焼失したという事実を見ると、オペラに関心がなかったという説は考えにくいことです。むしろ若い頃からワーグナーの崇拝者であったドヴォルザークにとってオペラを作曲することは常に念頭にあったはずで、いい台本にめぐり合えなかったために、その方面での名声を得ることができなかったと見るべきです。『ハイアワサの歌』のときも、版権を管理するところとの契約がうまくいかなったという記録もあります。

 帰国後、スメタナが歌劇『売られた花嫁』で成功を博し、若い作曲家たちが次々とプラハ国民劇場でオペラを発表するに及び、自分も遅れまじとオペラに取り組んだと考える方が自然です。ドヴォルザークは帰国してから亡くなるまで、『ディミトリー』(改作)、『ジョコバン党員』(改作)、『悪魔とカーチャ』、『ルサルカ』、『アルミダ』の5曲を完成させています。

 一方交響詩については、1896年からわずか2年間で5曲も立て続けに作曲しています。いずれも民話を元にしたバラードを題材としていますが、すでに新世界交響曲で『ハイアワサの歌』の内容を音楽で描写していたこと、ドヴォルザークはR.シュトラウスの初期の交響詩『ドン・ファン』、『ティルオイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』、『死と変容』を綿密に研究していたこと、帰国後にフランツ・リストの作品を集中的に勉強していたことなどから、かなり計画的に標題音楽へと傾斜していったことがわかります。ドヴォルザークが作曲した交響詩は、『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野鳩』、『英雄の歌』です。このうち、『英雄の歌』はスケッチ段階では『英雄の生涯』と題されていて、R.シュトラウスの有名な交響詩『英雄の生涯』と名前も同じ、1899年の初演も同じと奇妙な一致を見せています。

 チェコ語という問題があるオペラは別として、ドヴォルザークの交響詩を耳にする機会は決して多くありませんが、ショウレックは最後の交響詩『英雄の歌』が傑作であるにもかかわらず不当に評価されていると指摘しています。かのグスタフ・マーラーはこの作品をウィーンで取り上げ、ドヴォルザークに対して称賛の手紙を送っていることも注目に値します(但し、マーラーはドヴォルザークの交響曲は1回もコンサートで取り上げませんでした。)。

 ドヴォルザークは1904年3月、最後のオペラ『アルミダ』の初演直後体調を崩し、1904年5月1日、脳卒中で没します(NHKの『名曲アルバム』で、ドヴォルザークは汽車を見に行った後風邪をこじらせ、それが元で亡くなったと説明しています。鉄道ファンとしては願ってもない最期ですが・・・)。63歳でした。 

 当時ヨーロッパからきた音楽指導者にとって黒人音楽は「奴隷の音楽」として禁句であったのですが、ドヴォルザークは公の場で「ニグロ音楽は偉大で貴重な教材であり・・・作曲のためのあらゆる要素を備えている・・・」という主張を繰り返しました。ナショナル音楽院でのドヴォルザークの教え子には、前述のバーレイの他に後にデューク・エリントンの指導者になった者やガーシュインとコープランドの先生となった者がいます。アイオワ大学の教授ピーター・アレクサンダーは「シャイなボヘミアの作曲家のアメリカ訪問が、後のアメリカ音楽の方向に決定的な影響を及ぼした」と述べています。また、ドヴォルザークにとってもアメリカ訪問を契機に、強烈なチェコのアイデンティティーを作品に投入するようになり、帰国後の交響詩やオペラがチェコの民話や伝説、歴史に基づいていることを指摘しています。確かに、渡米以前はブラームスを意識した絶対音楽に近い作品が多いように思えます。 (完)
1892年9月26日 燃えるメトロポリタン歌劇場  1904年 棺の中のドヴォルザーク

    

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