ディーリアス : 『夏の庭園にて』

1893年パリ時代のディーリアス   『春のグレの橋』フランシス・ブルックス・シャドウィク(1887 米国)   1911年妻イェルカが描くディーリアス
 1886年1月29日イギリスのヨークシャー州ブラッドフォードでドイツ人の両親の長男としてフリッツ・テオドール・アルバート・ディーリアスは生まれます。イギリスの作曲家として知られているディーリアスは実は生粋のドイツ人なのです。マーラーが1860年、R.シュトラウスが1864年生まれですから、彼らの少し後輩ながら全く同時代の作曲家であったと言えます。

  父親はヴィクトリア王朝におけるイギリス繊維産業で成功したビジネスマンでした(フランスの実業界で成功していた父親を持つプーランクと同じような境遇と言えます)。少年時代からヴァイオリンやピアノを習うなど音楽的な環境に育ったフリッツでしたが、ロンドンの大学で2年を過ごすと直ぐに父親の見習いを始めます。しかし、父親との仕事に不満を感じたフリッツは1884年(22歳)、父親が所有するフロリダのオレンジ栽培プランテーションに出かけます。ここで彼はピアノの腕前を上げ、当地の音楽を吸収すると同時にオルガン奏者トーマス・ワードから音楽教育を受けます。

 2年後に帰国したフリッツはグリーグの助けを借りて父親に音楽家になることを認めさせ、ライプツィッヒ音楽院に入ります。この時代の作品の『フロリダ組曲』にはアメリカで聴いたニグロの音楽が取り込まれています。なお、同時期に作曲されながらスコアが散逸している音詩『ハイアワサ』は、先にドヴォルザークの『新世界より』の解説でも触れましたが、ドヴォルザークも題材とした同じアメリカ・インディアン伝説を音楽にしたものとされています。また、ライプツィッヒではグリーグやシンディングらと交友から北欧音楽の影響を受けています。

 1888年にはフランスはパリへ赴き、作曲活動を開始します。ここでディーリアスはボヘミアンのような生活をしますが、フォーレ、ラヴェルといった音楽家を始め、ゴーギャン、ムンク、ミュシャ、ストリンドベルグといった芸術家たちと交流を持ちます(一番上右のイェルカの絵の背景に掛かっている裸婦の絵画はパリ時代に買ったゴーギャンの『Nevermore(1897)』)。1899年にロンドンで催されたオール・ディーリアス・コンサートは評価が二分したとされますが、1900年代になるとまずドイツで人気を博します。ドイツ人として生まれ英国から米国に渡り、正規の音楽教育をドイツで受けてフランスで活動する作曲家。それでいてイギリスの作曲家と言われることにはどうしても違和感がつきまといます。1896年、フリッツはパリでドイツ人の画家、ヘレン・イェルカ・ローゼンと知り合い、翌年彼女を連れてパリ郊外の田舎町グレ・シュル・ロアンに居を構えます。1903年に彼女と結婚し、名前をフレデリックと改めます。
ライプツィッヒ時代のディーリアス(右から2番目) 左から2人目はグリーグ 学生時代のイェルカ ディーリアスと妻イェルカ(中央はグレインジャー) ディーリアスの死亡記事 

  このグレで作曲されたのが、『夏の庭園にて』(1908年)です。最初「管弦楽のための幻想曲」という副題を与えますが、初演後、細部に手を加えて副題を外し、1913年に決定稿を完成させます。既に健康を害していたディーリアスはそのスコアに「私の妻イェルカ・ローゼンに捧ぐ」としたためています。イェルカは夫の看病のため絵筆を折ったのでした。さらにスコアには、ロゼッティのソネットからの詩句「すべてが花盛り。春と夏が歌っている間に、愛の甘い花盛りのすべてをそなたに与えよう。」とも記されています。初版は1909年12月11日、自身の指揮ロンドン・フィルハーモニック協会で初演され、決定稿は 1913年エミール・ムリナルスキ指揮エディンバラ・スコティッシュ・オーケストラによって初演されました。

 1920年代になって視力と手足の自由を失ったディーリアスは、1928年、ヨークシャーからやってきたエリック・フェンビーという若者の助けを借りて作曲を続けますが、1934年7月10日妻に看取られながら死去します。その1年後にイェルカも彼の後を追します(R・シュトラウスの妻パウリーネと同じ・・・。)。

 イギリスの名指揮者トーマス・ビーチャムがディーリアス音楽の使徒として度々イギリスやアメリカでの演奏会で取り上げたことは有名なことです。また、非常に興味深いことですが、『A列車で行こう』」などの名曲で知られるジャズの巨人デューク・エリントン(1899-1974)が自分の音楽スタイルはディーリアスから強い影響を受けたと語っていることです。彼はディーリアスの『夏の庭園にて』から名を取って In a Blue Summer Garden という曲を書いています。

 最後にディーリアスの言葉・・・「音楽に何か別のものを模倣させようとするのは、音楽に"おはよう"とか"良いお天気ですね"と言わせるのと同じ位くだらないことである。他の方法では表現し得ないものを表現できてこそ、音楽に値するものである。」

☆ グレ・シュル・ロワン(Grez-sur-Loing)
 このグレ・シュル・ロワンは、パリ市街から南東に約60km、フォンテンブローの南西約12kmに位置します。セーヌ川の支流ロワン川沿いにあり、いまも当時のままの風景が残されています。この村には1860年代から画家が訪れるようになります。日本近代洋画の父、黒田清輝(1866〜1924)も、フランス留学中の1888(明治21)年5月に、日本人画家としてはじめてこの地を訪れました。その頃既に、アメリカ、イギリス、北欧の画家たちが滞在していましたが、はやくから芸術家たちのコロニーとして知られていたバルビゾンやフォンテンブローにはない魅力として、この村に流れるロワン川が挙げられます。黒田の滞在以後、浅井忠、和田英作、岡田三郎助、白瀧幾之助、児島虎次郎、都鳥英喜、安井曾太郎などの画家たちが、この地を訪れています。2001年10月、現在の同市によって、黒田が滞在したことにちなんで、市内にrue de KURODA Seiki(黒田清輝通り)が命名されました。なお、黒田は1893年に帰国していますので、1897年にこの地に来たディーリアスとはすれ違いということになります。


 ☆ ソラノ・グローブ(Solano Grove),フロリダ
 1884年3月、22歳のディーリアスがフロリダに行ったのは、表向きはオレンジ経営に従事するためでしたが、実際のところは父親といっしょに繊維ビジネスをやることのプレッシャーから逃れるためでした。当時フロリダの中心地であったジャクソンヴィルの近くにあったソラノ・グローブに着いたディーリアスは早速、地元音楽コミュニティーに参加し、演奏、教育、作曲を行ないます。ここでディーリアスは初めて黒人の霊歌、讃美歌、フォークソングを耳にします。

 ディーリアスの姉が語ったことによると、フリッツ少年はショパンの音楽とバイロンの『チャイルド=ハロルドの遍歴』がお好みで、図書館で一日中、地図と旅行書に埋もれていたそうです。父親の仕事を手伝っていた頃、仕事でノルウェーに行った彼は、山に登って酒を飲んだり、フォークソングを聴いて感傷に耽ったりしていたそうです。ブラッドフォードを離れてフロリダに行ったのもこうした放浪への憧れもあったのかもしれません。1885年の夏に、ディーリアスはフロリダを後にしてヴァージニアのダンヴィルへ赴き、それから本格的な音楽教育を受けるためにヨーロッパに戻ります。 1961年以降毎年3月に、フロリダ・ディーリアス協会が『ディーリアス・フェスティヴァル』をジャクソンヴィルで開催しています。
    

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