ショーソン:交響曲変ロ長調 op.20

ショソン・オ・ポンム ショーソン ショーソンと妻エスキュディエ ショーソン(1890) ショソン・オ・ポンム
 フランス語の Chaussonには「スリッパ、婦人用半長靴、オーバーシューズ、バレエのトゥシューズ」と、「(フルーツ)パイ」の2つの意味があります。 Chausson aux pommes(ショソン・オ・ポンム)といえばパイ生地を餃子のように半分に折ったアップル・パイのことで、その形がスリッパの先に見えることから命名されました。ちなみに、書き損じの官製はがきを郵便局に持っていくと「書損(ショソン)」扱いで処理されますね・・。フランスの作曲家エルネスト・ショーソン、日本ではかつて「ショソン」とも発音されていましたが、セザール・フランクの弟子にしてドビュッシーを世に送り出した人物で、目立たないけれどフランス音楽の興隆に重要な役割を果たしたひとりに数えられています。

 1855年1月20日、ナポレオン三世時代パリの建築事業で成功した裕福な家庭にエルネスト・ショーソンは生まれます。既に子供を二人も失っていた両親は息子を大事に育て、学校には行かせずに家庭教師レオン・ブルトゥス=ラファルグにその教育を委ねました。この人物は極めて幅広い教養の持ち主でショーソンから文学、絵画、音楽それぞれの方面での優れた才能を引き出し、ド・レイサック夫人のサロンに連れ出したりもしました。ショーソンはこのサロンに足繁く通うようになり、様々な芸術家や知識人と接することで自らの才能を開花させていきます。ショーソンは親の意向に従って法学を学び22歳のときには弁護士の資格も得ます。しかし、その数ある才能の中から作曲を選ぶことにし、当時パリ音楽院の作曲家教授に就任したばかりの作曲家ジュール・マスネに個人的に師事します。マスネがショーソンの家のすぐ近くに住んでいたからなのか、レイサック夫人の口添えがあったからなのかは不明です。このときショーソンは既に23 歳、本格的に作曲の勉強を始めるにはやや遅い年齢と言えます。

 翌1879年ショーソンはミュンヘンに出かけてワーグナー音楽の洗礼を受けます。文学や絵画でなく作曲の道を進む決定的な後押しをしたのがワーグナーの音楽であり、自らの作曲における経験や作曲技法の欠如を思い知らされたのもワーグナーの音楽でした。帰国後、ショーソンはパリ音楽院の自由聴講生としてマスネの管弦楽法のクラスに、同時にフランクのクラスにも入ることとなります。翌年もドイツを訪れワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を聴き感銘を受けています。

 1880年の終わりには音楽性が根本的に異なるマスネとフランクの両方から学ぶことに問題を感じてフランクのみに師事します。1883年6月20日、従兄弟のアンリ・リロール Henry Lerolleの友人であった彫刻家アルフレッド・ルノワール Alfred Lenoir(有名な印象派の画家ルノワール Pierre-Auguste Renoirと混同している解説がありますが、ファースト・ネームも頭文字も異なりますのでもちろん別人です。)の計らいで知り合ったピアニスト、ジャンヌ・エスキュディエ Jeanne Escudier と結婚します(写真中央)。新婚旅行ではワーグナーの聖地バイロイトを訪れ、そこで『パルジファル』を観ていますのでいかにショーソンがワーグナーに熱中していたかがわかります。彼女は作曲家の妻としては異例の良妻として知られ、5人の子供をもうけながらひっきりなしに訪れる夫の仲間たちの応対をエレガントにこなしただけでなく、作曲における豊かなインスピレーションを夫に与え続けたのでした。なおこのショーソン家の常連には、師であるフランクやフォーレをはじめとしてショブリエ、デュパルク、ダンディ、サティ、ケックラン、ドビュッシーといった作曲家、ヴァイオリニストのイザイやティボー、ピアニストのコルトーらが名を連ねていました。

 1888年頃、従兄弟のリロールの勧めで交響曲の作曲を開始します。これまで歌曲を中心とした小規模の作品しか書かなかったショーソンにとって、世に受け容れられる作曲家として立つ試金石ともいうべき重要な作業となったのでした。第1楽章は比較的スムーズに筆が進みましたが、第2楽章は困難を極めます。当初は中間部にスケルツォを置くことで作曲を進めたものの途中で断念し、苦しみぬいてなんとか完成させます。第3楽章も楽には仕上がらず、得意な歌曲の作曲技法が交響曲では邪魔をしていると感じながらしばしば筆が止まりました。そんな時は「モーツァルトの『魔笛』全曲をピアノで演奏することが楽しみだ」とリロールへの手紙に書いています。1890年の終わり頃には完成され、曲は従兄弟のリロールに捧げられました。

 1891 年4月18日、フランス国民音楽協会の演奏会で作曲家自身の指揮により初演されました。会場はフランキストと呼ばれるフランクの弟子たちやショーソンの友人たちが大勢つめかけていたこともあって共感と同情に溢れていて、演奏は大喝采を博しました。しかし、批評家たちの反応は冷ややかで、「小品ばかり書いていた作曲家が大作で自分の考えをストレートに表出した(フィガロ紙)」という好意的なものもありましたが、多くは「何も理解できず困惑している・・第2楽章の不協和音はいただけない・・」といった非難ばかりで、またフランキストというだけの批判や、「ショーソン自身は礼儀正しかったが、多くの友人たちの拍手が喧しく、お行儀が悪い」など偏見に満ちた評もありました。パリで初演されたとはいえ国民音楽協会の私的な演奏会であり、総じて批評家の関心を引くことはなかったようです。この音楽界での芳しくない反応にショーソンは落胆しますが、翌1892年に再度同じ場所で、1895年にはブリュッセル、1896年にはバルセロナでこの曲を指揮しています。1年前にフランクが他界したこともあり、パリの保守的なオーケストラはフランキストを軽蔑し、国民音楽協会をローカルで偏狂的な存在と見なしていて、ショーソンの交響曲を無視したり演奏が難しすぎるとして取り上げませんでした。公式にパリで演奏したのはなんとドイツのアルトゥール・ニキシュ率いるベルリン・フィルでした(1897年)。この時の演奏を聴いた批評家の M.Torchet はショーソンを「難解な創造者、音楽のマラルメ」と評しています。

 この交響曲は、その初演された僅か2年前に発表されたショーソンの師であるフランクの交響曲ニ短調とよく比較されます。ショーソン自身フランキストであったこと、3楽章形式、コラール風の主題から曲が始まること、第1楽章の終結部に冒頭と同じ旋律を配置していること、第2楽章で終楽章の主題を暗示していること、コール・アングレを似たような箇所で使用していること、終楽章で先立つ楽章の主題が回帰する循環形式の踏襲、半音階の多用、度重なる転調、などが類似点として挙げられます。確かにショーソンは作曲の技術をほとんどフランクひとりから短期間に一気に吸収したのですから、フランクの代表的な交響的作品から影響を受けるのは当然のことでしょう。しかし、この曲の作曲の過程でショーソンが悩んだのは尊敬するフランクの影と自らの感覚のギャップであったのも事実です。当初第2楽章でスケルツォを中間部に据えようとしたのはフランクの交響曲の第2楽章に倣ったと考えられますが、どうしても納得がいかず結局はスケルツォ部分を破棄しています。循環形式もフランクほど明確なものではなく、むしろその形式を自分の音楽に合うように形を変えて利用したと言うべきでしょう。オーケストレーションもフランクより厚みがあり(フランクの2管に対してショーソンは3管)、ソロによる演奏をより増やすことで変化を与え豊かな彩りを持たせることに成功しています。

 余談ですがこの曲の初演の直後、ショーソンはフィレンツェでワーグナーの未亡人コジマと息子のジークフリートとで食事を共したと手紙に書いています。ワーグナーに心酔していたショーソンですが、手紙ではコミック・オペラを作曲中のジークフリートを「面白くないヤツ」と書く以外ワーグナーやコジマについて何も言及されていません。この曲を作曲している間にショーソンがワーグナーをどれだけ意識していたかは定かではありません。

参考文献:Ernest Chausson The Composer’s Life and Works  by Jean-Pierre Barrucelli, Leo Winstein : Greenwood Press
Ernest Chausson The Man and his Music  by Ralph Scott Grover : Bucknell University Press
『ショーソン』ジャン・ガロワ著 西村六郎訳 音楽之友社 1974


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