ブルックナー : 交響曲第6番

  聖フローリアン教会  
版について
 ブルックナーの交響曲を演奏するにあたって、原典版で演奏するのが主流になっている現在、ハースとノヴァークによる校訂(いづれも原典版と称されます)のどちらを選ぶか或いはノヴァークの何年の版で演奏するかということが常に問題となります。しかし、交響曲第6番においては、作曲家自身による改訂版が存在しないのと、ハース(1935)とノヴァーク(1951)による校訂にほとんど差が無く複数の年代における版も存在しないため、版を選ぶのに通常は悩む必要はありません。

 しかし、この曲にはシリル・ヒュナイスというブルックナーの弟子による改訂版(1899)が存在し、その版によるCDが1種類だけ販売されています(アドラー指揮ウィーンフィル)。ノヴァークなどの原典版との違いで一番大きい個所は、ヒュナイス版の第3楽章のトリオの後半に繰り返し記号が書かれていて(1括弧に入って繰り返し、2括弧に入って楽章の冒頭にダカーポする)とあり、原典版にない2括弧の1小節が追加されているということです。ノヴァークもハースもこの1小節がブルックナーではなく、ヒュナイスによって書かれたものと判断してリピートと2括弧を削除しています。他の違いとしては、全曲に渡ってダイナミクスが変更されていること(及びそれに伴うアッチェランド)と、弦楽器におけるスラーの大幅な変更、それほど多くは無いですが数箇所における音の違いが挙げられます。解説書などで指摘されているオーケストレーションの変更(音に厚みを増すための管楽器パートの追加など)はないようです。

 まず、ダイナミクスの違いには明らかな法則性を見て取ることができます。原典版がブルックナーのオリジナルの意図として他の交響曲でも実施していることですが、クレッシェンドやディミニュエンドをしないでいきなりフォルテッシモやピアニッシモにする「スビト効果」(静かな音楽から突然大音響で音楽が一変したり、逆に大音量で鳴っていたオーケストラが突然小さい音になったりする。)のところで、ヒュナイス版は必ずクレッシェンドやディミニュエンドの指示を書き加え、スムーズな音量の変化を与えています。ドイツ古典派及びロマン派において綿々と受け継がれたクライマックスを築く手法や、音楽を静かにおさめていく典型的な手法にのっとったもので、ロマン派の後期までの作品には馴染みがある当時の聴衆にとってはある意味で生理的に受け容れやすかったと言えます。ノヴァークとハースは、そうした慣習に敢えて背を向け斬新な手法を生み出したブルックナーの意図を尊重したものと考えられます。

 また、ヒュナイス版にはアクセントに追加がいくつか見られますが、実際に演奏してみるとそこにアクセントがつくことによって音楽の性格が変わるというのではなく、他の楽器によって聞き取れなくなる音を際立たせたり、例えば4拍子における最初の拍を強拍として明確にさせたりといった「実践的な演奏上のアドヴァイスとしての書き込み」と言えるものもあります。

 今回の演奏会ではノヴァーク版で採用しますが、入手できた譜面はこのヒュナイス版で出版された譜面ですので、それがノヴァークの校訂になるように手書きで修正することになります。この修正作業をしながら、作曲・初演当時の音楽界における嗜好、ブルックナーの意図、聴衆に受け容れてもらいたいがために施した弟子たちの改訂、ブルックナーの妥協、ノヴァークらの原典に戻す際の傾向など、ブルックナーの譜面をめぐる様々な問題点に思いをめぐらすことができます。
  
アンスフェルデンにあるブルックナーの生家 聖フローリアン教会内にあるブルックナー愛用のベーゼンドルファー 聖フローリアン教会のオルガンの下にあるブルックナーの墓標 ブルックナーの棺

生い立ちと作品の成立
 アントン・ブルックナー(1824~1896年)は、小学校教員でオルガン奏者を父としてオーストリアのアンスフェルデンで生まれます。父親から音楽教育を受け、4歳にして上手にヴァイオリン、ピアノ、オルガンを弾いていましたが、若き日のブルックナーの天才ぶりを証明する記述は存在しないようです。13歳で父親を亡くしたブルックナーは、リンツにある聖フローリアン教会のアウグスチノ男声合唱協会で歌いつつオルガン演奏を学びます。ブルックナーはこの聖フローリアン教会と一生を通じて結びつきを失わず、晩年はここに住んで作曲を行ない、その棺もこの教会のオルガンの下に安置してあります。

 1856年にはリンツ大聖堂のオルガン奏者となり、1863年には歌劇『タンホイザー』を聴いてワーグナーの洗礼を受けます。大きな衝撃を受けたとされますが、その頃書かれたミサ曲などの作品にはワーグナーの影響は見られず保守的なスタイルによっています。また、ブルックナーはワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のフィナーレを合唱指揮者としてリンツで演奏したことから、1865年にワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の初演に招待されてミュンヘンに出かけ、ワーグナーにも会っています。しかし、この頃作曲を始めていた交響曲第1番にもワーグナーに会った際の感動を見出すことはできません。なお、この曲のスコアを見た大指揮者ハンス・フォン・ビューローは大いに興味を示したと言われています。1868年にウィーン音楽院で音楽理論教師およびウィーンの皇室礼拝堂のオルガニストに就任、翌年フランスのナンシーの教会にできた新しいオルガンの落成式に招かれて即興演奏を行ない聴衆に大きな感銘を与えます。その時はパリのノートルダム寺院にも招かれ、サン=サーンス、トマ、フランク、グノーらから称賛を受けます。また、帰国後にはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールとクリスタル宮殿にできた新しいオルガンの演奏会に招かれて絶賛を浴び、オルガニストとしての高い名声を得ます。しかしブルックナーは、オルガン演奏だけにとどまらず音楽理論、和声法、対位法などの勉強を続けていました。

 当時のウィーンはヨハン・シュトラウスらのウィンナ・ワルツ全盛期で、晩年のブラームスが音楽界の中心に鎮座し、旧体制の破壊者・新しい音楽の旗手としてのワーグナーと対立していました。オルガン奏者、音楽教育者としてウィーンにやってきたブルックナーは交響曲を書くことに情熱を傾けます。しかしなかなか十分な評価を受けることはできず、それどころかウィーンフィルから交響曲第3番演奏不可能とされたばかりか、その曲を崇拝するワーグナーに捧げたことからワーグナー派とみなされ、ブラームス派の批評家エドゥアルト・ハンスリックなどから激しく批判されるようになります。なお、若きマーラーはブルックナー支持派としてこの3番の初演に立会い、さらにこの曲を2台のピアノ用に編曲しています。のちにウィーンフィルの常任指揮者になったマーラーはブルックナーの交響曲第6番を初めて全楽章演奏することになります。

 ブルックナーは交響曲第6番を1879年8~9月(55歳)に着手し、途中交響曲第4番の新しいフィナーレ、『テ・デウム』第1稿や弦楽五重奏曲のインテルメッツォの作曲のために中断しますが、1881年9月3日に完成させます。初演されたのは1883年2月11日でしたが演奏されたのは第2と第3楽章だけでした。全曲の初演はブルックナー死後2年後の1899年2月26日、マーラーによる演奏を待たねばなりませんでした。しかし、マーラーの演奏も完全な全曲ではなく、途中かなりのカットを施したとされています。当時長い曲に対してカットをするのはごく普通のことであり(オペラでは現在もその伝統は残っています)、マーラーの行為を批判的に記述する解説書がありますが、そのような評価は当時の習慣からすると適切なことではないと言えます。なお、その時のプログラムは下記の通りです(曲順に疑問は残ります。)。

ブルックナー:交響曲第6番
ベートーヴェン:『エグモント』序曲
ベートーヴェン:クレールヘンの歌
シューベルト:『魔法の竪琴』序曲

 交響曲第6番は何故か影の薄い作品です。初期の交響曲を除く3番以降の作品の中で演奏される機会が最も少なく、発売されているCDの種類も少ない曲です。その理由を「総休止がないなどブルックナー的でない」とか「第1楽章にリズム上の問題がある」とする解説書がありますが、どこを取ってもブルックナー以外の何ものでもない曲であるし、ブルックナー愛好家が「総休止」を最大の楽しみにしているとは思えません。「リズムの問題」とは2拍子と3拍子が同時進行する第2主題のことですが、この手法はブルックナーに限らず様々な作曲家があたりまえのように取り入れているものです。ブルックナーの音符を扱う手際が今ひとつこなれていないという指摘もあるかもしれませんが、スコアを見ない聴き手はそんなこと気にしているとはとても思えません。ヴェルナー・ヴォルフはその著書『Bruckner – Rustic Genius』の中で「芸術作品の中には、人気のある作品に十分匹敵する価値を持ちながら、一般の人気をえることができなかった例がある。しかし、その理由を捜し出すことは、人気の秘密を見出すことよりもはるかに難しい。・・・ブルックナーの交響曲第6番についても同じことが言える。」と書いています。

 また、ブルックナー自身の言葉によると「大胆な作品」とされています。しかし、何が「大胆」なのかきちんと説明している文献はありません。他の交響曲が持つ独創性と同じ程度の独創性はありますが、他の作品より難解さもなく、飛びぬけて長大でもなく、表現法において探求したり苦闘したりすることもなく、メロディーも彩りも秘密めいたところもありません。ペシミティックなところはなく、肯定的で確固とした前向きな姿勢を貫いた作品ともいえます。第2と第3楽章だけの初演が行なわれた演奏会の当日、興奮して待ちきれないブルックナーは朝9時には会場に来てそわそわしていたそうです。何故か左右不揃いの靴を履いていて片方はエナメルだったとか。ヴィルヘルム・ヤーン指揮のウィーンフィルによる演奏という音楽界も注目の場での記念すべき初演ではありましたが、ブルックナーへ好意を持たないウィーンフィルの気のない演奏のせいで演奏会は十分な成功とは言えず、反対派の新聞はこぞって攻撃の論陣を張ったとされています。「大胆な」というブルックナーの言葉は初演の失敗を「曲が大胆だった」ためと自分をなぐさめるつもりで発したのかもしれません。ブルックナーはこの曲の全曲演奏を聴くことなく世を去りますが、交響曲第6番の完成後すぐさまとりかかった交響曲第7番ではついに大成功を収めることになります。

 なお、この交響曲第6番に着手した直後、ブルックナーをめぐって誰もが驚くひとつの事件が起きます。1879年11月17日になんとブルックナーの弦楽五重奏曲ヘ長調が初演され、反対派の新聞も称賛するほどの成功を収めたのでした(55歳にして初めて世に認められたということも驚きです)。それまで交響曲と声楽曲しか書かなかったブルックナーが室内楽を作曲したということだけでなく、この弦楽五重奏というジャンルにおけるシューベルト以来の、より正確にはヴィオラ2本の編成ではモーツァルト以来の優れた作品の出現に音楽界が騒然となったのでした。これに慌てた(?)のか、かのブラームスが同じく弦楽五重奏曲第1番をその2年後の1882年に発表します。ブルックナーと同じヘ長調です。これをブラームスの意地かライバル意識と見るか、あるいは偶然と見るかはどこにもそれを傍証する文献がないのでなんとも言えませんが、実はもうひとつ偶然があります。ブルックナーの交響曲第6番はイ長調ですが、初演で演奏された第2と第3楽章のうち第2楽章の調はヘ長調です。その翌年ブラームスは交響曲第3番を発表します。これもなんとヘ長調でした。

 ブルックナーはこの交響曲第6番の作曲中にめずらしくスイスへ休暇旅行へでかけます。モンブランなどのアルプスの山々の絶景を見ているはずなのですが、彼の日記にはその感動体験は全く記されていません。その代わり、旅行中に出会った若い娘の名前が驚くほどたくさん書かれていて、そのうちのひとりには求婚までしています。結婚までには至らなかったのはもちろんですが・・・。この時ブルックナーは55歳でした。アルプスの山々もスイスの娘たちもこの曲の中には反映されていないようです。
  
ブルックナー     ヴィルヘルム・ヤーン     グスタフ・マーラー

第1楽章:マエストーソ
 3つの主題を持つソナタ形式で書かれています。ヴァイオリンによる輪郭の鋭い付点のリズムに乗って、低弦がブルックナー特有の3連符を伴った第1主題を弱音ながらマエストーソで(威厳を持って)明示します。再度管楽器とヴァイオリンによって力強く繰り返されると、この主題は軽快なリズムを伴う展開(37小節)を見せます。音楽が静まるとヴァイオリンが柔和な第2主題を奏します。フレーズの後半にある9度の上方跳躍(オクターヴにプラス1音Fis-Gis)が極めて特徴的で、抒情的な旋律ではなだらかな進行が多いブルックナーにしては珍しい作風ですが、これによって陶酔的な効果を挙げています。第3主題では他のブルックナーの作品と同様リズミカルで荒々しい旋律がユニゾンで奏されます。偉大な作曲家のうちでただひとり変奏曲を書いたことがなかったブルックナーだけに、展開部では主要主題を模倣するにとどまり、クライマックスを迎えると同時に再現部に突入します。「展開部のクライマックスと再現の冒頭が重なるのは交響曲のジャンルでは初めて」と指摘する学者もいますが、その展開部の終結から再現部への移行における転調による色彩の変化はブルックナーの書いた最も優れた音楽のひとつに数えられます。コーダは主要主題の3連符音型を繰り返し、華やかに曲を閉じます。

第2楽章:アダージョ (きわめて荘重に)
 ブルックナーは「アダージョの作曲家」と呼ばれブルックナー自身もそう言われることを誇りにしていました。弦楽器による簡素な旋律線で始まる第1主題はオーボエによる悲歌がため息を添えます。次いでヴァイオリンが明るく流麗な第2主題を奏しますが、Gis-Aisという7度の下方跳躍は第1楽章第2主題の9度の跳躍を連想させます。テンポがラルゴに落ちていくと極めて厳粛な第3主題をヴァイオリンが奏し、さらにトロンボーン、テューバ、ティンパニが加わると一層荘重さが増して葬送行進曲風の様相を呈します。ここはマーラーの音楽を先取りしていると指摘する学者もいます。主題提示の後は展開部、再現部と続きますが、これほど巨大な規模でソナタ形式を使いこなした例は他にはなく、ブルックナーの記念碑的作品と称賛する声もあります。なお、コーダにおける第1ヴァイオリンの下降するヘ長調の音階は極めて印象深いものがあり、そこから終結までの間もたっぷり時間をかけて丁寧に音楽を紡いでいく様は深い感動を呼びます。

第3楽章:スケルツォ (速くなく)
 このスケルツォは、他のブルックナーの交響曲におけるスケルツォとは一線を画しています。主要主題も推進力のあるリズムの躍動も欠いているからです。主題の代わりに3つの比較的穏やかな動機の組み合わせで曲が進行し、軽快さと明るさをもったスケルツォになっています。トリオは弦楽器のピチカートと森に木霊すホルンの響きに彩られた独特な雰囲気を持っています。何の前触れもなく木管楽器がブルックナー自身の交響曲第5番の主題を引用するなど、極めて短い動機が見え隠れすることと相俟って茶目っ気あるブルックナーの一面を垣間見ることができます。トリオは総休止を経て楽章の冒頭に戻ります。

第4楽章:フィナーレ (動いて、しかし、速すぎないように)
 この楽章も3つの主題を持つソナタ形式で書かれています。ヴァイオリンによって奏される序奏は、落ち着きがなく調もはっきりと明示されません。その後主要主題を暗示しつつ緊張感と音量を増大させていき、ついにホルンによって第1主題がイ短調で力強く提示されます。次いでトランペットやトロンボーンが足を踏み鳴らしながら割り込んでくるあたりは、いかにもブルックナーらしい田舎の荒々しさと頑固さを印象づけます。第2主題ではセカンド・ヴァイオリンが主役になって幸福感溢れる歌謡風旋律を奏します。ここでは、第1楽章の軽快なリズムを伴う主要主題との関連性を聴き取ることができます。また、この第2主題の途中でわずか2小節間(81~82小節)ですが、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」のモティーフの断片が顔を出すところがあり、故意か偶然かは意見の分かれるところです。第3主題は管楽器群によるゆったりしたコラール風の部分とオーボエとクラリネットによるリズミカルな動機からなります。展開部ではまず第3主題のリズミカルな動機を対位法的に処理し、次いで第2主題に移り、さらにそこに第1主題をかぶせるという手の込んだ方法で進路を明確にしていきます。展開部と再現部が分断されがちなソナタ形式の弱点を克服しようと苦心するブルックナーの姿をここに見ることができます。再現部では提示部より金管が輝かしく響き、ヴァイオリンの細かい動きが躍動感を与えています。コーダでは推進力あるリズムに乗って金管が第1主題を高らかに歌うのに続いて、トロンボーンが思いがけず第1楽章の第1主題を回想してそれを頂点として曲を閉じます。ブルックナーはベートーヴェンの第9交響曲を至高の作品として敬愛していましたが、その第4楽章で先立つ楽章の主題を回想するというベートーヴェンの画期的なアイデアを、ブルックナーは自分自身のやり方でここで取り入れようとしたのかもしれません。



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