ブラームス : ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品83

  
 ブラームスは1878年の初めてのイタリア旅行でこのピアノ協奏曲の着想を得たとされています。しかし、帰国後はヴァイオリン協奏曲の作曲に集中してしまったためこの曲には取り組むことはできませんでした。1881年3月に2回目のイタリア旅行を行ない、この曲の構想をよみがえらせ、帰国後一気に筆をすすめました(前プロで演奏するガーシュインが2回のパリ旅行の末に「パリのアメリカ人」を生み出したのと奇妙に一致します。)。1時間近い大曲にしては短期間で仕上がったということになります。一般的にブラームスの曲は重くて暗いというイメージがありますが(ブラームスのファンはそうは言いませんが)、この曲はイタリアから受けた印象を音楽にしようとしたのか全体に明るい基調で書かれています。

 ブラームスはイタリアが好きで、死ぬまでに8回も訪れています。ルネサンスの建築を好み、遺跡や博物館、美術館巡りをしたそうです。

 1881年11月9日ブタペストでエルケルの指揮、ブラームス自身のピアノ独奏で初演されましたが、これに先立ってブラームスはマイニンゲンの宮廷楽団で試演を行ない、補筆や改訂を加えたとされています。実に理想的な形で最後の仕上げを行なった曲と言えます。ブラームスはその後各地で独奏者としてこの曲の演奏を続け、翌年からハンス・フォン・ビューロー率いるこのマイニンゲンの宮廷楽団と演奏旅行に出かけました。その年の2月、ウィーンでブラームスはリストと歓談する機会があり、その時リストからこの協奏曲の譜面を所望され、2台のピアノ版の譜面を送ったとされています(その時総譜はまだ出版されていなかった)。この曲が当代随一のピアノの巨匠の心をどのように揺すぶったかは定かではありませんが、想像するだけでもワクワクする話しです。時にリスト71歳、ブラームス49歳のことでした。

 あの有名な音楽評論家ハンスリックをして「ピアノの序奏を伴う交響曲」と言わしめた程の曲で、一般の協奏曲と一線を画するだけの多くの特徴を備えています。すなわち、ピアノを輝かしく活躍させるより管弦楽と融合させ、ピアノを前面に立たせるより管弦楽と対等に扱い、長大なカデンツァをなくし、それでいてピアノだけの(技巧を凝らすのでない)パッセージを多く用意しています。管弦楽も単に独奏を引き立たせる効果音を出すのでなく、交響曲並みの音楽の推進力と緊張の持続が要求されていて、何より当時としてはめずらしい4楽章構成になっています。


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