ベルリオーズ:劇的物語『ファウストの劫罰』から
ハンガリー行進曲(別名『ラコッツィー行進曲』)

ヘクトール・ベルリオーズ  ルイ14世  トカイ・エッセンシア1947  500フォリント紙幣のラーコーツィ・フェレンツ2世
 ワイン外交
 「帝王のワイン、ワインの帝王」とはフランス国王ルイ14世の名文句として知られています。しかし、国王は自国フランスのワインではなくハンガリー産のワイン、トカイ地方にある「ヘートセーレー」という畑で作られた貴腐ワイン「Tokaji Eszenciaトカイ・エッセンシア」を指して唸ったということはあまり知られていません。さらに、このワインを国王に贈った主が、ハンガリー独立戦争の英雄ラーコーツィ・フェレンツ2世であったことも・・・。では、なぜラーコーツィ・フェレンツ2世はルイ14世にワインを送ったのでしょうか?

 1703年、ハプスブルク家の統治に反発したハンガリー貴族が、ハンガリーの大貴族でセドミフラッツコの領主ラーコーツィ・フェレンツ2世を指導者として反乱を起こし、ハンガリーのほぼ全土を掌握しました。1705年、既にトランシルヴァニア公となっていたラーコーツィ・フェレンツ2世がハンガリー王に選出されます。しかし、当時の巨大なハプスブルク・オーストリア帝国とまともに戦うことはあまりに無謀であったため、ラーコーツィは外交策を練り、オーストリア帝国と敵対するフランスのルイ14世、ロシアのピョートル大帝、プロイセンのフリードリヒ1世と手を組むことを目論みました。その交渉の道具に使われたのが冗談みたいな話ですが、自らが所有している畑からとれた最上の貴腐ワインだったのでした。当時、これほどまでに甘美で芳醇なワインは存在せず、贈られた王侯たちは、心底驚嘆したと伝えられています。伝説の貴腐ワイン「トカイ・エッセンシア」の名前が、ルイ14世の名言と共に世界に轟いたのはまさにこの時だったのです。しかし、肝心のオーストリア帝国包囲網は思うようにはいかず、結局1711年ハンガリー国内のハプスブルク派の支援を得たハプスブルク軍が、ラーコーツィ・フェレンツ軍を撃ち破り、ハプスブルク家のカール6世がハンガリー王に即位します。ラーコーツィ・フェレンツ2世はフランスに亡命し、ルイ14世の死後はトルコに移りその地で没します。彼の畑を継承したのはハプスブルク家のカール6世であったのは言うまでもありません。

 ベルリオーズと『ラコッツィー行進曲』
 このラーコーツィ・フェレンツ2世はハンガリーではハンガリー独立の英雄として敬愛されていて、現在のハンガリーの貨幣であるフォリント紙幣にその肖像が飾られているほどです。その栄誉を讃えて作られたのが『ラコッツィー行進曲』です(歴史書では「ラーコーツィ」ですが、音楽の世界では「ラコッツィー」と称されます。)。この曲はベルリオーズの劇的物語『ファウストの劫罰』やリストのピアノ曲『ハンガリー・ラプソディ第15番』(1851)やその管弦楽編曲版『ラコッツィー行進曲』(1865)などで使用されて有名になりましたが、他国に支配されていた間、ハンガリーではその愛国的な雰囲気ゆえ演奏は禁止されていたそうです。

 ベルリオーズは1845-46年にオーストリア、ハンガリー、ボヘミア、シレジアなどを旅しますが、ウィーン滞在中に次の公演地であるペスト(当時は川を挟んで「ブダ」と「ペスト」に分かれていました)で演奏するために、ハンガリーに伝わる『ラコッツィー行進曲』をオーケストラに編曲し、これを『ハンガリー行進曲』として一夜で書き上げます。ベルリオーズの回想録によると、ウィーンの宿に名も知れぬ秘密の特使が自分を訪ねてきて、ペストでの演奏会に集まる聴衆にために何か作曲してほしいと依頼があったと記されています。その依頼人から革命的で反ハプスブルクの思想が込められているある音楽素材を手渡されたのですが、それが『ラコッツィー行進曲』であったのです。ベルリオーズがペストでの演奏会でこの出来上がったばかりの曲を指揮したところ、人々はその自由と独立の精神と愛国心に感動し、大喝采を博しました。これに気をよくしたベルリオーズは旅行中に書き進めていた劇的物語『ファウストの劫罰』に取り入れるよう思いついたとされています。

 話はそれますが、このベルリオーズの回想はモーツァルトが『レクィエム』の作曲を謎の人物から依頼されたという話とどこか通じるものがあり、ベルリーオーズの作り話しではないかと思ったりもします。


『ラコッツィー行進曲』の起源
 では、ベルリオーズがこの曲を仕上げる際の原曲はどの曲だったのでしょうか。また誰が最初に『ラコッツィー行進曲』を書いたのでしょう。音楽の友社の標準音楽辞典によるとヤーノッシュ・ビハリ(1764-1827)とあり、一方、海外盤CDの解説などにはミヒャエル・バルナとも記載されてます。そこで、再びヴァイオリンの柴垣さんにお願いして、前回の定演でバルトークにおける奏法について教えていただいた国際コダーイ協会副会長のミハーイ・イッツェシュさんに質問していただきました。以下はその抄訳です。

 『ラコッツィー行進曲』は『ラコッツィーの歌』と共に、ハンガリーの国家精神、独立戦争における重要な音楽的シンボルと言えます。ラーコーツィ・フェレンツ2世がハンガリー独立戦争(1703-1711)の指導者であった頃、無数の歌が生まれ、とりわけ「ラコッツィー」の名が付いた歌が有名になりました。そのオリジナルは複数あり、この時期に徐々に発展し、民族的展開も見せるようになりました。とりわけ行進曲の形をなすものは長い間、たぶん100年以上にわたって発展し続けました。軍隊の徴兵の時に演奏される「Verbunkosヴェルブンコシュ」というスタイルから自由なアレンジが施されたものを、ハンガリーのジプシー楽団が行進曲や踊りとして演奏することもありました(筆者註:昨年のバルトーク作曲『ハンガリーの風景』の解説でハンガリーの踊りは3つに分類され、その2番目にこのヴェルブンコシュという徴兵の踊りがある、と触れています。)。

 現在の形の『ラコッツィー行進曲』は、1820年前後ペストの軍楽隊長だったミクローシュ・ショールがいくつかの素材をかき集めてまとめたもので、当時最も有名になり、様々な作曲家によってアレンジされました。ベルリオーズ、リストをはじめ、コダーイ(歌劇『ツィンカ・パンナ』)、エルケル(*下註)などが知られています。問い合わせのヤーノッシュ・ビハリ、ミヒャエル・バルナは共に18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍したジプシー・ヴァイオリン奏者で、『ラコッツィー行進曲』や『ラコッツィーの歌』から独自にアレンジしてレパートリーに入れて演奏していたのであって、作曲家ではありません。(中略)
ベルリオーズの作品は数あるアレンジの中で最も有名で、ハンガリーのオーケストラが海外公演をする際、アンコール曲としてよく取り上げています。あなた方の演奏会の成功を心よりお祈りいたします。 Mihaly Ittzes ミハーイ・イッツェシュ

註)フェレンツ・エルケル(1810-1893)は、ハンガリー国民学派の祖と言われる作曲家・指揮者・ピアニスト。1825年、15歳の時にブラチスラヴァでヤーノシュ・ビハリが弾くハンガリーのポピュラー音楽を聴いたという記録があります。彼の作品で『ラコッツィー行進曲』を引用した作品は、ピアノ曲『リストの思い出』(リストが演奏する自作の『ラコッツィー行進曲』を聴いて全く同じスタイルで書かれた曲です。)、ヴァイオリン曲『ハンガリーのメロディーによる幻想曲形式のデュオ・ブリランテ』(ヴュータンとの共作)、歌劇『フニャディ・ラスロ』序曲などがあります。なお、エルケルはハンガリーにあるオペラハウス(エルケル劇場)にその名を残し、ハンガリー国歌の作曲者でもあります。
ヘクトール・ベルリオーズ  フェレンツ・エルケル  ベルリオーズのカリカチャ  ベルリオーズのカリカチャ   『ファウストの劫罰』ポスター

ベルリオーズの劇的物語『ファウストの劫罰』
 ドイツの文豪ゲーテが名作『ファウスト』第一部を出版したのは1808年、中世の錬金術師ファウスト博士が悪魔と契約を交わして地上での快楽の限りを尽くしたあげく、その魂を悪魔によって奪われて地獄に落ちるという民間伝承に基づく作品であることは皆さんよくご存知かと思います。ベルリオーズがそのフランス語訳(1827年出版)を読んだのは、彼が音楽家への希望を抱きつつ医学生としてパリにやってきた18−19歳の頃でした。この頃、英国劇団のパリ公演でシェイクスピアの作品を知り、さらにその劇団の女優ハリエット・スミッソンへの激しい恋愛を経験し(のちの幻想交響曲創作の契機となった)、また1828年3月に始まったベートーヴェン交響曲連続演奏会に感銘を受けるなど、多感な若者ベルリオーズにとって劇的な体験が目白押しだったと言えます。

 1828年の7月に、作曲コンクールで有名なローマ大賞において2等賞を得て、故郷の父親からようやく作曲家への志望を認められるや、片時も手放さず持ち歩いていた『ファウスト』を題材とした音楽を作曲します。8つの場面を選んだ歌付の管弦楽作品でパリのオペラ座でバレエの音楽として上演されることを考えていたとされています。翌年この作品番号1『ファウストの8景』をベルリオーズは自費出版し、その一部を献呈の辞と共に原作者ゲーテのもとに送ります。受け取ったゲーテはそれを喜び、作品の演奏に興味を示したようでしたが、彼の音楽顧問ツェルターはこの作品には関心を示さずベルリオーズへの返事はなされませんでした。結局ゲーテはその曲を聴くことなく3年後に亡くなります。

 『ファウストの8景』の3曲目だけがベートーヴェンの第5ピアノ協奏曲『皇帝』のフランス初演の前プロとして演奏されますがほとんど注目されませんでした。ベルリオーズもこの曲への納得がいかなかったようで出版したことを後悔して楽譜を撤回し、作品1の栄誉を他の曲に譲ってしまいます。音楽そのものはいいとしてもその作品規模が、『ファウスト』という稀有壮大な物語への音楽としては小さすぎたのでした。その後のベルリオーズは、幻想交響曲の作曲をはじめとする大規模な管弦楽作品の作曲や演奏に邁進し、『ファウストの8景』は棚に上げられたのでした。

 それから10数年後、1845年から1846年にかけてベルリオーズはオーストリア、ハンガリー、ボヘミア、シレジアなどに演奏旅行を行ない、各地で大成功を博します。そのときの彼の鞄の中には、『ファウストの8景』の楽譜とガンドニエールという無名の作家による詩が入っていました。ベルリオーズは各地を移動しながら「演奏会形式による4幕もののオペラ」として、『ファウストの8景』の場面をすべて取り入れつつガンドニエールの詩に自らの歌詞を書き足しながら『ファウストの劫罰』を作曲しました。

 先に触れたとおり、ハンガリーで大成功した『ハンガリー行進曲』を作曲中の『ファウストの劫罰』に組み入れることを考えたベルリオーズは、主人公ファウストをハンガリーの平原に立たせるという原作にない場面を無理やり用意したのでした。また、ファウストが恋に落ちるマルグリートの兄ヴァランタンは登場せず、最後でファウストが地獄に落ちるというもゲーテの原作にはありません(ゲーテではその第二部でファウストは救済されます。)。グノーをはじめ『ファウスト』音楽の傑作を残した作曲家たちが力を注いだ教会の場面や監獄の場面もカットしています。このあたりは批評家による批判の対象になりましたが、そもそもゲーテの作品は民間伝承の『ファウスト伝説』に基づくものであり、ゲーテも伝承にない場面を挿入しているなどベルリオーズは楽譜の序文に言い訳を書き込んでいます。

 1846年12月6日、『ファウストの劫罰』はベルリオーズ自らの指揮によってパリのサル・ファバールで初演されました。しかし結果は予期せぬ大失敗で、ベルリオーズの一生を大きく左右する忘れえぬ一日だったとされています。また、ロマン主義音楽の歴史においても重要な一日ともなったのでした。ベルリオーズは「私の芸術家としての生涯の中でこのときの聴衆の、思いもよらぬ冷たい反応ほど、深く私を傷つけたことはなかった」と回想していますが、それまで何年間も彼の企画するコンサートはパリの冬のシーズンに華を添える重要なイヴェントでしたが、これを契機にパリでは評論活動に徹し音楽活動はもっぱら国外にその場を移すようになりました。

 今日ではロマン主義の傑作のひとつとされているこの作品がなぜ失敗したか?最も先進的なパリの聴衆にとって、この大規模な作品はすでに時代遅れだったのです。これまでベルリオーズが世に示してきた大曲、『幻想交響曲』や『イタリアのハロルド』、『レクィエム』、『ロメオとジュリエット』などにナポレオン失脚後の王制復古時代のパリの聴衆は熱狂してきました。しかし、1840年代後半になると王制もかげりを見せはじめ、聴衆も一歩間違えれば誇大妄想とも言える大袈裟な作品に対していささか食傷気味だったのでした。もうひとつの理由は、この作品は委嘱演奏会ではなく、ベルリオーズの自費演奏会だったことです。規模の大きな作品では莫大な費用がかかるため、優れた歌手を集めたりオーケストラや合唱団を十分に鍛えることができなかったのでした。作品そのものに様々な欠陥があったとされる当時の批評の中で、ゴーティエという評論家は「ゲーテの『ファウスト』の精神がこれほど明確に理解されたためしはなかった」と書き残しています。

 今回の定期演奏会ではドヴォルザークの『スターバト・マーテル』の前プロとして『ハンガリー行進曲』を演奏するのですが、ゲーテの原作では第一部『市壁の内側にそった小道』のト書きに「石壁に作られたがんの中に受苦聖母像があり、花を活けた花瓶が供えてある(高橋義孝訳)。」とあり、グレートヒェンが新しい花を花瓶に挿しつつ『スタ-バト・マーテル』の一節を唱えるシーンがあります。かなり強引ですが・・・。
ゲーテ      ファウスト、マルグリット、メフィストフェレス 
    

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