ベートーヴェン : 交響曲第7番イ長調 op.92

    
 この交響曲が完成したのは、1812年5月、ベートーヴェンが41歳のときのことです。ベートーヴェンは耳を病んだ絶望感から立ち直って第3番『英雄』を、外界への失意と闘争感を込めて第5番『運命』を書きました。そして第6番『田園』交響曲を仕上げて後、3年間も交響曲作曲は空白が続きます。この期間はベートーヴェンにとって苦難の連続でした。戦争による財政的困窮の中、健康状態も悪化し、婚約者テレ−ゼとの恋愛は破局を迎えます。しかしその後、保養地で友人に囲まれて安らいだ生活を取り戻したベートーヴェンはやがて、1806年には描いていたというこの曲のスケッチを再び手にします。ベートーヴェンの9つの交響曲は、初期の第1番を除いて奇数番号は雄大で、偶数番号は優美であると言われますが、このような背景で書かれた第7番は、ひときわ豪放堅固にして活気に溢れた曲想で知られています。実際にこの時期、ベートーヴェンは明るい長調の曲を多く作曲しており、戦争と失恋の痛手から悲壮感に陥ることなく復活したという自信と大らかさに満ちていたことが想像されます。

 この曲をワーグナーは「舞踏の聖化」、リストは「リズムの神化」と賞賛しましたが、その言葉どおり、全曲を通じて律動する揺るぎないリズムが、明るい中にも強い意志や変わることのない主張を表現し、聴く者の息を弾ませ、浮き立つような喜びを与えています。

【第1楽章】Poco sostenuto - Vivace イ長調
 力強いイ長調の和音で始まる序奏は、オーボエのたおやかな旋律と弦奏による上行音階
で構成されます。フルートとオーボエが刻むリズムに導かれて8分の6拍子の軽快なVivaceの扉が開き、木管楽器によって生き生きとした第1主題が呈示されます。金管楽器の咆哮で一層の躍動感が表現された後も基本動機である付点リズムは一貫して守られたままです。低弦の固執するかのような音型の繰り返しで蓄えられたエネルギーが、クライマックスのフォルテシモで一気に炸裂して音楽は比類のない高揚感を発散します。

【第2楽章】Allegretto イ短調
 ビオラと低弦が引きずるような、しかし統一したリズムで第1主題を奏でます。次第に厚みを増した主旋律が管楽器に渡されてからは、バイオリンによる対旋律が際立った響きを呈示します。中間部では一転して穏やかで明るいメロディーを木管楽器が歌い上げ、その後はこれらの基本旋律とリズムが複雑な反復を繰り返します。コーダでは葬送行進曲を連想させる終息感の中、冒頭と同じイ短調の和音で楽章を閉じます。

【第3楽章】Presto ヘ長調
 上昇するf(フォルテ)のパッセージと下降するp(ピアノ)のメロディーが繰り返す、自由で活気に溢れたスケルツオです。音の強弱やスタッカートが効果的に用いられて舞曲のような軽快さを表現しています。第9交響曲の第2楽章と同じ形式で2回挿入されるトリオでは、オーストリアの巡礼の歌から得たという独特の旋律が各楽器によって歌い継ぐように奏でられます。トランペットの高イ音ロングトーンに保持される緊張感が聴きどころです。

【第4楽章】Allegro con brio イ長調
 リズムのシンフォニーと言われるその本質がここに至って昇華する、そんな力と歓喜に満ちたフィナーレです。第2バイオリンとビオラの隠し切れない意欲を感じる刻みに乗って第1バイオリンが踊り狂うように第1主題を弾き上げます。短調に転じる第2主題とも弱拍部にアクセントが置かれて強烈な推進力が示されます。展開部でますます白熱した音楽は再現部に続く長大なコーダで一層、勢いを撓め、低弦のユニゾンが地響きのように迫り来る中、全ての感情を解き放つ圧倒的なクライマックスが築かれて曲を閉じます。

 初演は1813年4月にルドルフ大公邸で非公開に行われ、続いて12月にウイーン大学講堂でベートーヴェン指揮により公開で演奏され、共に大成功を収めました。2度とも、沸き立つ聴衆の求めで第2楽章がアンコールで演奏されたと言われています。また、その後3ヶ月の間に3回も再演されていることからも、如何にこの曲が世の中に広く受け入れられたかがわかり、当時の人々の熱狂ぶりが伝わって来ます。
                                                                 (Fl. Sachiko)


ベーレンライター版「ベートーヴェン交響曲全集」について

■ ベートーヴェンの楽譜校訂の難しさ
 今回使用する楽譜は、イギリスの新進気鋭(とはいえもう51歳)の音楽学者ジョナサン・デル・マーが校訂した「ベーレンライター版」(1996〜2000年出版)です。ベートーヴェンの交響曲の楽譜といえば、19世紀半ばに編纂されブライトコプフ・ウント・ヘルテル社によるものが一般的でしたが、この旧全集版には多くの間違いがあることが以前から指摘されてきました。

 当時としては画期的な"学究的労作"と評価され、長年にわたりベートーヴェン演奏の礎としての役割を果たし続けてきたブライトコプフ版が修正を余儀なくされた理由は、まずベートーヴェン自身の自筆譜に必ずしも最終的な意図が記されていないことや、自筆譜自体が一部散逸してしまっていること、また、写譜のたびにミスが重なったり、当時の習慣としてパート譜のみが(ベートーヴェンの校正を経ることなく)出版され、スコアが存在しない状況が長く続き、そのうちミスの多い海賊版のスコアが流布してしまったりと、多くの混乱の原因が絡み合っているためです。

 実は、ベートーヴェンの交響曲の楽譜校訂については、以前からさまざまな試みが繰り返されており、1977年のベートーヴェン没後150年を記念して取り組まれたライプツィヒ・ペータース社版や、ベートーヴェンの生地ボンにある研究機関「ベートーヴェン・アルヒーフ」での長年の研究をもとにしたヘンレ社版などがあり、前者はクルト・マズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団によるレコーディングがすでに完成し、後者については現在も校訂譜を刊行中とのこと。さらに、大指揮者イーゴリ・マルケヴィッチが心血を注いで取り組んだマルケヴィッチ版なるものもあります。その一方で、旧全集の版元ブライトコプフ社も新全集の刊行を予定しています。


■ なぜベーレンライター版なのか?
 ベーレンライター版がこれらの試みと一線を画すのは、可能なかぎり参照に値する資料を収集しつくすということに加え、それらを絶対視せず資料間の関連性を検証し、有効と見なされる部分のみを校訂に反映させるというスタンスをとっていることです。また、演奏家 ― 特にピリオド楽器の専門家との共同作業にも重きを置き、その成果はグッドマン/ハノーヴァーバンド、ガーディナー/オルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティークらによるCD制作に結実しています。

 ベーレンライター版新全集での校訂のポイントは、主にアーティキュレーションとダイナミクスです。従来レガートに演奏されてきた多くの箇所でスラーが削除され、ヴァイオリンやホルンなどではタイが取り除かれています。また、フォルテ、ピアノの記号もあちこちで修正され、従来アクセントと思われていたものがディミヌエンドに変更されたりしています。その他、さまざまな箇所での音符、音価の変更、木管パートのユニゾンからオクターブへの修正、コントラファゴットのオリジナルパート復元、弦楽器パートのピチカートへの変更などさまざまな修正が加えられています。


■ 交響曲第7番について
 ベーレンライター版楽譜は、第9を皮切りに96年12月より順次刊行されてきましたが、2000年3月、最後に出版されたのが第7番でした。
 交響曲第7番については(第8番も同様)、実は旧全集と比べ、それほど大きな修正は加えられていません。もともと、初版はパート譜のみという出版形態だったのが、第7、第8からは、スコアも同時に出版されることとなり、さらに、ベートーヴェン自身が初めて楽譜の校正刷りを見る機会を得たことで、他の曲に比べて初版から正確な楽譜の出版が可能になり、今回の校訂でも変更点は非常に少ない結果となったのです。

 ベーレンライター版は、現時点で"ベートーヴェンが意図した"演奏のありようを最も正確に再現している全集として一躍注目を集め、プロだけでなくアマチュアのオーケストラでも頻繁に利用されるようになってきています。しかし、どんなに客観的な研究態度を標榜するにしても、校訂者自身の価値観から完全に自由な校訂はあり得ないはずです。ブライトコプフ版が19世紀的な、いわば"重厚長大"な音楽観をベースにしているとすれば、ベーレンライター版はここ20?30年の"オリジナル楽器演奏"重視の風潮を反映していることはいうまでもありません。演奏者も、ベーレンライター版に全幅の信頼を寄せているものばかりでなく、ブライトコプフ版との折衷的な解釈をとるものや、さらに独自の校訂を付け加えているものなどさまざまです。一見、猫も杓子もベーレンライターという風潮に見えますが、"ベートーヴェン演奏のスタンダード"との評価を確立するにはまだ少々時間がかかるように思えます。


■ CD案内
ベーレンライター版使用による交響曲全曲CD録音としては、以下のものがあげられます。

ロイ・グッドマン、モニカ・ハジェット指揮
ハノーヴァー・バンド
Nimbus(86〜88年録音)
*ベーレンライター版使用との触れ込みだが、録音は出版から10年もさかのぼる。発売元の英Nimbusは先ごろ倒産が伝えられたが、営業を再開したとの情報もあり、現在も輸入盤の入手は可能。

ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
オルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク
Archiv(91〜94年録音)
*ベーレンライター版使用を初めて前面に押し出した全集。ジンマン盤のような過度なデフォルメのない、いわば"オーソドックスな"ベーレンライター版ベートーヴェン。デル・マー自身の詳細な解説が付いている。

チャールズ・マッケラス指揮
ロイヤル・ルヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団
EMI (91〜97年録音)
*ベーレンライター版と明記された演奏ではないが、ジョナサン・デル・マーが解説を担当しており、ベーレンライター版を先取りした内容となっている。

デイヴィッド・ジンマン指揮
チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
ARTE NOVA(97〜98年録音)
*モダン楽器によるベーレンライター版初の全集として注目を浴びたが、演奏はジンマン独自の解釈が前面に出た内容で、第7番でも第1楽章再現部でオーボエ・ソロにカデンツァを付すなど、度肝を抜かれる場面が多い。ピリオド奏法を取り入れた演奏はすばらしいが、ベーレンライター版の何たるかを知りたい向きにはお勧めしにくい。

クラウディオ・アバド指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
GRAMMOPHONE(99〜2000年録音)
*アバドにはウィーン・フィルとの全集録音もある。オーソドックスな前回の全集に比べると、ピリオド奏法の影響を受けた、きわめて現代的な演奏に仕上がっている。

飯守泰次郎
東京シティ・ フィルハーモニー管弦楽団
フォンテック(2000〜2001年録音)
*日本人指揮者+団体による初の全集。


 なお、現在進行中のベーレンライター版全集としては、ジョス・ファン・インマゼール指揮/アニマ・エテルナ、トマス・ダウスゴー指揮/スウェーデン室内管などによるものがあり、ベルリン・フィル音楽監督に就任したばかりのサイモン・ラトルも全集制作に取りかかるとのこと。また、フランス・ブリュッヘン指揮/18世紀オーケストラがこの11月に来日し、ベーレンライター版を使用してベートーヴェン交響曲全曲演奏会を開く予定。
                                                         2002年6月現在   (by K.S)

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