ハンス・ロットとベートーヴェン作曲賞
 

 
              Mahler-Natalie Bauer-Lechner
                    グスタフ・マーラー と ナターリエ・バウアー=レヒナー                  
 ハンス・ロットが当時ウィーンの作曲家たちにとって権威ある作曲賞であった「ベートーヴェン賞(1875年創設)」に応募したという事実はグルタフ・マーラーに関する資料の中に出てきます。マーラーの友人、ナターリエ・バウアー=レヒナーは1898年4月のこととして次のようにマーラーがベートーヴェン作曲賞のことを語ったと書いています。その時、指揮者のブルーノ・ワルターがその場にいてマーラーの『嘆きの歌』をピアノで弾いてすっかり魅了され、マーラーにその出版を勧めた会話の中のことでした。

 「もし、ブラームス、ゴルトマルク、ハンスリック、リヒターらからなる音楽院の審査委員会が、当時僕の『嘆きの歌』に600グルデンのベートーヴェン賞をあたえていたら、僕の全生涯は違った方向に進んでいただろう。(中略)しかし、ヘルツフェルト氏が作曲の1等賞をとり、ロットと僕は何ももらえなかった。ロットは絶望し、それからすぐに気が狂って死んだ。そして僕は、地獄のようなオペラの生活に運命づけられたのだ。」(『グスタフ・マーラーの思い出』1923年 ナターリエ・バウアー=レヒナー著、ヘルベルト・キリアーン編、商野茂訳 音楽之友社 1988年 p.254)

マーラーの勘違い
 しかし、このマーラーの「ロットと僕は何ももらえなかった」という言葉に対して、ドナルド・ミッチェルはその著書『マーラー さすらう若者の時代』(1958年刊行、北多尾道冬訳 音楽の友社1991年)の中で疑問を呈しています。まずマーラーは、自作の『嘆きの歌』を何年のコンクールに提出したのかという問題です。この曲が完成したのは1880年11月とされていて、ベートーヴェン作曲賞の締め切りは毎年9月30日だったので、仮に締め切りを過ぎて無理やり提出して受理されたとしてもそのわずかな期間で審査できたとは考えられないので、その年には『嘆きの歌』は間違いなく提出されなかったとして、ミッチェル氏はマーラーのベートーヴェン作曲賞応募は翌1881年だったとしています。

 しかし、マーラーがスロベニアのリュブリャナのライバッハ歌劇場で指揮の仕事に就いたのが1881年9月24日ですから、まだベートーヴェン作曲賞の締め切りもしていない時期となります。つまり作曲賞に作品を提出したもののその結果を待たずにオペラの仕事を始めたことになり、賞に落選したから仕事を始めたのではないことになります。ベートーヴェン作曲賞の優勝者が決まったのはその3ケ月後の12月15日の審査会議で、落選の結果が出た時にはマーラーは既にオペラを振っていたのでマーラーの発言に矛盾があり、これはマーラーの思い違いとミッチェル氏は指摘しています。さらに、マーラーとハンス・ロットが一緒にベートーヴェン作曲賞に応募したのが1881年とすると、ロットは1880年10月に列車内で発狂して精神病院に収容されていますから、1881年のベートーヴェン作曲賞に作品を提出できたとは考えにくいのでこれもマーラーの記憶違いとしています。マーラーは1880年11月1日の『嘆きの歌』の完成を告げる手紙の中で「友人のハンス・ロットが発狂した!」と書いているのです。つまり、ハンス・ロットは1880年のベートーヴェン賞に応募し、結果が出る前に発狂したことになり、マーラーのその翌年の1881年に『嘆きの歌』を応募したのが事実と考えられるのです。

 マーラーが語っている「(ロットは)この賞で落選したことが打撃となって療養所に入るはめになり、それからすぐ亡くなったと」いうことも、ロットが死亡したのが1884年で、落選したのが1880年ですから「すぐに亡くなった」のではないで正しくありません。しかし、ミッチェル氏が書いている「ロットは1881年に死んだという推測(p.84)」は現在わかっていることからすると誤りです。ミッチェル氏の著作は1958年に書かれたものであり、まだハンス・ロットについての資料が発見・整理されていなかったためで、当時はハンス・ロットの死亡年が1881年というのが定説とされていたのかもしれません。

 なお、マーラーの1881年のベートーヴェン作曲賞応募は2回目で、1回目は音楽院を卒業した1878年に『アルゴ船の船員たち』への序曲(現存せず)で応募したとされています(『グスタフ・マーラーの思い出』ナターリエ・バウアー=レヒナー著の註 p.112)。しかし、マーラーのこの挑戦は2回とも落選という結果で終わったのでした。

ロットはどの作曲賞に応募したのか? 
 マーラーとベートーヴェン作曲賞についてはこれで明確になりましたが、ハンス・ロットの場合はどうなっていたのでしょうか。ミッチェル氏の後、ハンス・ロットの研究は進みます。ハンス・ロット(及びマーラー)の友人で考古学者になったフリードリヒ・レーアは保管していたロットの遺品を管理し、その娘のマヤ・レーアがロットの草稿や手紙などを整理してロットの評伝にまとめます(1949年)。その後ハンス・ロット関連の資料はオーストリア国立図書館に寄託され、ブルックナーの校訂者で知られるレオポルト・ノーヴァクによって作品目録が編纂され(1975年)、それ以外の手紙やメモ類は1999年と2000年になって複数の研究者によって出版されています。こうした研究によってハンス・ロットのウィーン音楽院時代から亡くなる1884年までの詳細が明らかになります(『ハンス・ロットの生涯と交響曲第1番』イェンス・マルコフスキー著 「セバスティアン・ヴァイグレ指揮ハンス・ロット:交響曲第1番」CDのブックレット)。

 ハンス・ロットは、1878年5月にウィーン音楽院の卒業試験に『管弦楽のための組曲』を提出し、同年7月にウィーン音楽院作曲科の卒業生を対象としたコンクールに交響曲第1番の第1楽章を提出しています。この時、マーラーはピアノ五重奏曲のスケルツォ楽章を提出して1等を受賞しますが、ロットだけが何も賞を取れなかったとされています。ロットの曲が演奏されたとき、それは審査員から失笑を買っただけでしたが、ブルックナーは「諸君、笑うのはよしたまえ、君たちは今後この人物が創り出す素晴らしい音楽を聴くことになるのだから」と言ったことが知られています。決して完成度が低い作品ではないと思いますが、作風がワーグナー調に聴こえたことで、当時音楽院の教授陣の大半は反ワーグナーだったと考えられますのでそれは当然の結果だったのでしょう。ロットは1876年にバイロイトに詣でていたこともあり、日頃からロットをワーグナーの悪しき洗礼を受けた問題児と目していたことで、曲を聴く前からけしからん作品と決め付けていたのかもしれません。この時に抗議したブルックナーの逸話は、カール・フルバイという人が書いたブルックナーの伝記が出典とされています(Meine Erinnerungen an Antonby Carl Hruby, Schalk, 1901. なお、この書物の原文はドイツ語でしかも旧字体で出版されているので筆者はまだ内容を読んでいません。どなたか翻訳していただけると助かるのですが・・・。)。しかしこの逸話を裏付ける資料は他にはないようなので、どこまで本当の話なのかは今のところは不明なままです。

 マーラーの発言のことに話しを戻しましょう。マーラーが2回目の応募をした1881年にロットが応募できる状況になかったとして、ロットはいつ、どの曲でベートーヴェン作曲賞に応募したのでしょうか。上記CDのブックレットには、二人の著者、イェンス・マルコフスキーとベアト・ハーゲルスがやや異なることを書いています。

 イェンス・マルコフスキー(井内重太郎訳)によると、1880年にロットは、「ベートーヴェン作曲賞に応募するべく弦楽六重奏曲を作曲する一方で、オーストリアの国家奨学金受給の申請を考えていていた。そして奨学金受給への口添えを得るべく、批評家のエドゥアルト・ハンスリックや作曲家のカール・ゴルトマルクとともに奨学金の評議会メンバーであったブラームスのもとを訪れ、交響曲第1番のスコアを見せ、演奏を聴かせた」と述べています。つまり、ベートーヴェン作曲賞には弦楽六重奏曲、オーストリアの国家奨学金には交響曲第1番だったことになります。

 しかし同じブックレットでベアト・ハーゲルス(井内重太郎訳)は、「(ロットが書いた)作曲リストを見てみると、彼は交響曲を2つの目的のために、つまり、総譜の形で国家奨学金の応募のために、また総譜とパート譜の形でベートーヴェン・コンクールのために提出しようとしていたことがわかる。」としています。つまり交響曲第1番は、ベートーヴェン作曲賞と国家奨学金の両方に提出しようとしていたというのです。しかし、「提出した」とまでは書いていないので、実際は提出するには至らなかったのかもしれません。なお、ロットの遺産を管理していた「マヤ・レーアによると、ロットは1880年8月に、田園前奏曲の他に交響曲第1番の総譜も(国家奨学金に)提出している。」とも書いています。この『田園前奏曲』の完成されたスコアは残っていて、録音もされていますのでCDで聴くことができます。

 二人の研究者の間でも認識が分かれていながらも、ベートーヴェン作曲賞に明確に提出したとは書いていないことから、ロットが1880年にベートーヴェン作曲賞に応募したのか、仮に応募したとして弦楽六重奏曲だったのか、それとも交響曲第1番だったのか、いずれも確証は取れていないということになります。仮にベートーヴェン作曲賞に予定されていたのが弦楽六重奏曲だったとし、その曲が完成したことを示す資料がないのとその譜面の断片すら現存していないことを考えると、もしかしたら完成が間に合わずに応募できなかったのかもしれません。仮に応募されていたとしても締め切りの翌月の10月22日にロットは発狂しますので、審査はされずに返却されたとも考えられ、もし療養所に届けられたとして、ロットが破棄した多くの楽譜の中に入ったとも考えられます。この弦楽六重奏曲については今後の研究を待ちたいと思います。

 これまでハンス・ロットとベートーヴェン作曲賞との関わりについて述べてきました。マーラーが語った言葉の以外にロットが明確に応募したという証拠はありませんが、1880年に交響曲第1番や現存しない弦楽六重奏曲で応募した可能性が若干残っているというのが現在における結論ということになるのではないでしょうか。さらに、1878年に交響曲第1番の第1楽章で応募したのがベートーヴェン作曲賞ではなく、ウィーン音楽院作曲科の卒業生を対象としたコンクールであったのですが、マーラーはこの辺りの記憶を混同して勘違いをしたのかもしれません。

 マーラーの他の勘違いについてもここで述べておきましょう。ミッチェル氏によると、1881年のベートーヴェン賞の優勝者はマーラーが言う「ヘルツフェルト」ではなく、ローベルト・フックスでした。フックスは当時ウィーン音楽院の楽理科の教授で、マーラー、シベリウス、コルンゴルトなど多くの作曲家の師として知られている人物です。一方のヴィクトル・R・フォン・ヘルツフェルトはその年は優勝候補(或いは次点?)とされていたのにすぎなかったそうで、実際にヘルツフェルトが優勝したのは3年後の1884年のことでした。マーラーは間違って記憶していたことは明らかです。

 ついでながら、ベートーヴェン賞の審査員についてのマーラーの発言にある「ブラームス、ゴルトマルク、ハンスリック、リヒター」の中のハンスリックは実際のメンバーには入っていなかったとミッチェル氏は推論しています。これはワーグナーを敵対視していたハンスリックに対するマーラーの「隠れた願望」とドナルド・ミッチェルは書いていて、「指揮者の道に入ったことを弁解する逃げ道を何としても見つけたかった」からではないかとしています。なお、4人目の「リヒター」とはハンス・リヒターのことで、ワーグナーの助手を務め、楽劇『ニーベルングの指環』の初演の棒を振ったことで知られる指揮者でしたが、のちにウィーン宮廷歌劇場からマーラーを追い出した人物のひとりとしても知られています。ナターリエ・バウアー=レヒナーは、「(1897年5月8日に)マーラーは私を連れてハンス・リヒター指揮による『マイスタージンガー』の演奏を聴きに桟敷席に行った。あとでマーラーは私に言った“僕が好きな第1幕で、彼はマイスター(名人)のように指揮したけど、第2幕ではシュールマイスター(学校の先生)、第3幕ではシュースターマイスター(=ヘボ職人)みたいだったね。”(p.189)」と書いています。マーラーもなかなか洒落たことを言っていますね。

 しかしミッチェル氏が指摘したように、マーラーが挙げたすべての審査委員がマーラーを嫌っていたわけではなかったようです。音楽批評家エドゥアルト・ハンスリックは、このマーラーの発言と同じ年の1898年11月にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者としてデビューしたマーラーの演奏を絶賛する記事を書いています。反ワーグナーの旗手だったハンスリックはマーラーに対しては好意的だったことがわかります(『グスタフ・マーラーの思い出』ナターリエ・バウアー=レヒナー p.275)。

マーラーとブラームス
 最後にブラームスについて触れておきます。この発言の中で目の敵にしていたブラームスに対するマーラーの態度はその後変わっていて、ブラームスに褒められたことに気を良くしている手紙が残っています。1890年12月23日付のリヒャルト・ホイベルガー宛には、ブラームスが1890年12月16日にマーラーがブダペストで指揮したモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を聴いて感心した旨の発言を行なったことに対してこう書いています。

 「ブラームスがかくも好意的であるとは、小生には嬉しいかぎりです。これこそ目下与えられうる一番の成功と考えます。」

 さらに、1891年1月28日付 フリードリヒ・レーア宛の手紙には、

 「ブラームスが当地で僕の指揮した『ドン・ジョヴァンニ』を聴いて、それ以来というもの熱烈な友となり贔屓となってくれた。彼にとっては前代未聞のやり方で僕のことを褒めてくれて、じつに打ち解けた付き合いへの道をつけてくれたのだ。」

とあり、また1896年にマーラーの交響曲第2番『復活』の自筆譜を見たブラームスは「マーラーこそ革命家の王だ」と言ったとされています。ベートーヴェン賞の後、ブラームスはマーラーの指揮も作品も高く評価していたことは間違いないようです。

エピローグ
 ハンス・ロットに話しを戻しましょう。1881年3月15日、何故か文部省からロットへ奨学金の授与が決定したことを伝える手紙が送られました。しかし、前年の10月23日にはロットはすでにウィーン総合病院の精神科に収容され、翌2月16日には低地オーストリアの精神病院に移送されていたのでした。その時の国家奨学金の審査員とされているブラームス、ハンスリック、ゴルトマルクらがロットの発狂の原因が自分たちのせいと噂されるのを恐れたから、とするのは少々穿ち過ぎだと思いますが、ベアト・ハーゲルスは「ブラームスの反対があったにもかかわらず、ロットに文部省から奨学金が授与された」と書いているので、ブラームスはあくまで授与には反対だったことになります。昔のお役所は人情味があったということなのでしょうか。

 なお、中川右介著『指揮者マーラー』 によると、ベートーヴェン賞の賞金は500グルデンで、当時、指揮者として劇場などでおよそ2年働いたときの報酬に相当するとされています。一方、前述のイェンス・マルコフスキーによるとロットに支給された国家奨学金の金額は300フローリンとされています。貨幣単位としてグルデン=フローリンという説明(Wikipedia)からするとベートーヴェン賞の方が額が多いことになりますが、当時の貨幣単位についてはもう少し調べる必要があります。余談ですが、ドヴォルザークは国家奨学金を授与する審査会にいたブラームスのお陰でオーストリア政府から国家奨学金400グルデンを5年連続して獲得したとされています。それまでのドヴォルザークの年収は126グルデンだったそうです。ドヴォルザークは生活費を稼ぐための仕事を何もしなくてもそれまでの3倍以上もの収入が得られたのですから、思う存分作曲に集中できたことでしょう。作曲家にとって奨学金を貰うことが当時どれだけ重要なことだったかということがわかります。

 ロットが友人ハインリヒ・クルシシャノフスキーに宛てた手紙の中で「この交響曲で助成金を勝ち取ろうと必死になると力が湧いてくるのだ。だって、それは喉から手が出るほど欲しい500フローリンだよ。(1878 年 5 月 6 日付)」と書いているところを見ると、助成金の方が500フローリンとなります。どちらが正しいのでしょうか。




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