プッチーニ:『蝶々夫人』

第9章 『蝶々さん』歌姫列伝-7
三浦環

 
                                   Tamaki

三浦環
(『シカゴ・オペラ界の第一人者たち』 The Chicago Tribune Pictorial Weeklyより)


三浦環( Tamaki Miura:1884年 - 1946年 )
 海外での20年間の演奏生活の中で、『蝶々夫人』のオペラを2000回(!?)歌った日本人オペラ歌手三浦環について触れないわけにはいきません。

 三浦環は、東京音楽学校へ入学して瀧廉太郎からピアノを、幸田延から声楽を学びます。卒業後は東京音楽学校助教授、帝国劇場の声楽教師を歴任するなど、声楽家として評価を得ていましたが(独唱会、レコードへの吹き込みなど)、私生活における離婚と再婚をめぐるスキャンダルから逃れることもあり、かねてから希望していた本場ヨーロッパに学びに行くことを決断します。1914年5月22日に夫である医師三浦政太郎の留学に伴いベルリン入りを果した三浦環は早速リリー・レーマンに歌の教えを乞うべく訪ねます。ところが、リリー・レーマンはヴァカンスに出掛けて不在で秋まで待つことになってしまいました。しかし同年7月28日に第一次世界大戦が勃発し、次いで8月23日に日本がドイツに対して宣戦布告するに及び日本人である三浦夫妻はドイツにいられなくなり、当時日英同盟を締結していた英国のロンドンへと逃れます(8月16日)。


英国デビュー
 指揮者ヘンリー・ウッドのオーディションに受かった三浦環はロイヤル・アルバート・ホールでの「愛国大演奏会(A Great Patriotic Concert)」でロンドン・デビューを果たします(10月24日)。この演奏会を含めて翌年の3月まで記録で確認できる彼女が出演したコンサートは6回まで数えることができます。このことから、その歌唱はかなり好評を博したものと考えられ、ロンドンの社交界でもいくらかは知られた存在になっていったとされています(早坂牧子著『英国の三浦環 :電子新聞アーカイヴを用いた1914-1915年の受容調査』)。

 1915年3月末か4月初旬のある日、三浦環は『蝶々夫人』のタイトルロールでの出演依頼を受けます。本格的な欧州でのオペラの舞台で、しかもったことのない『蝶々夫人』の主演とあってさすがに物怖じしたとされています。

 「楽器店に行って『お蝶夫人』の楽譜を買って参りました。その翌日から勉強を始めました。リコルディ版の『お蝶夫人』は三百六十二頁ありましたから、毎日十頁ずつ暗記することにきめて、お庭のベンチに腰をかけて一生懸命に暗記しました。暗記が出来るとお家へ入ってピアノを弾いて練習いたしました(吉本明光編 『三浦環「お蝶夫人』)。」

 1915年5月31日、ロンドンのオスカー・ハマースタイン・オペラハウスで三浦環が演じる『蝶々夫人』の幕が上がります。衣装と舞台美術は牧野義雄が担当し、歌手たちの多くはパリで活躍していたレオン・ラフィットを除くとあまり知られていないキャストでしたが、公演の批評では概ね好意的な評価を受けたとされています。この公演の最中の出来事について三浦環はこう回想しています。

 「ピンカートンが乗っている軍艦リンカーン号の、長崎入港の合図の大砲が一発なるのです。で、私がこのくだりをうたい終ると、同時に大砲がドーンとなりました。続いてまた一発大きくドーンと鳴りました。おやッと思いましたが、なにかの間違いだと思って、そのまま私はうたいつづけました。(中略) どうしたのかしらと思ったとたん、またも激しくドーン、ドーンと大砲の釣瓶打ちで、客席もからっぽ、オーケストラボックスもからっぽ、広い舞台に私一人しかいない。こりゃ変だと思った時、誰かが “マダム三浦、早く逃げないと殺される!” と叫んでいる声が聞こえました。ドイツのツェッペリン飛行船のロンドン初空襲だったのです(吉本明光編 『三浦環「お蝶夫人』)。」

 ドイツ軍のツェッペリン飛行船によるロンドン初空襲は、第一次世界大戦中の1915年5月31日から始まっていまして、まさにその日が『蝶々夫人』の初日の日だったということになります。公演は第2幕の途中で打ち切られました。一切の交通機関が止ってしまった真っ暗なロンドン市内をハイヒール脱いで裸足で歩いて下宿先に戻ったとか。このオペラ・シーズンは途中で打ち切られたとされていますが、三浦環本人によると当初5回の出演契約だったのを15回歌ったとしています。早坂牧子氏によると1915年5月から6月までの『蝶々夫人』公演に関する記事がメディアに登場するのが35回と報告していますので、空襲があった中にも関わらず上演は続いていたと考えられます(早坂牧子著『英国の三浦環 :電子新聞アーカイヴを用いた1914-1915年の受容調査』)。三浦環はさらにこう回想しています。

 「『お蝶夫人」は海を渡ってニューヨークの新聞までが書きたてる騒ぎになり、世界一のオペラハウス、ニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスのマネージャーのラビノフから電報で、アメリカへ来てうたえと旅費一千ドルを送って来ました。私はどうしたものかと三浦と相談しました。三浦はロンドン大学で勉強していましたが、その頃は毎晩十一時過ぎになると決ってツェッペリンが空襲に来るので、落付いて勉強も出来ないし、それに空襲で怪我をしたり死んだりしてはつまらないので、二人でニューヨークへ行くことにきめたのでした(吉本明光編 『三浦環「お蝶夫人」』)」。
*ラビノフは、ロシア系アメリカ人の興行主マックス・ラビノフのことで、メトロポリタン歌劇場のマネージャーではなかったようです。

 この5月31日の公演直後、爆撃騒ぎがあったのにもかかわらず、新聞評が出ていました。『Pall Mall Gazette』紙には、

 「日本人の歌手、マダム・タマキ・ミウラがタイトル・ロールを演じるという趣向だ。彼女がオペラに吹き込んだのは、単に出身地の雰囲気という以上のものであった。特に蝶々さんの幸せが表れる場面では、そのチャーミングな所作で舞台全体を明るくさせた。独特な音色のある彼女の声は、完全に西洋的になることはなく多少の東洋的な性質を残している。高いレジスターの声は極めて澄み最も音楽的に響き、中声部にもいくらか驚くほど豊かに響くところがある。緊張からかリズムの不確かな部分があったが、(…)概して素晴らしいデビュー公演だったと言えよう。聴衆からマダム・ミウラに祝福の賞賛が送られた(早坂牧子著『英国の三浦環 :電子新聞アーカイヴを用いた1914-1915年の受容調査』)。」

と書かれ、6月2日にはロンドンの週刊紙『The Tatler』 が「東京、帝国劇場から来た『新しい蝶々さん』」という見出しで、蝶々さんに扮し和傘と扇を持って微笑む三浦の写真を掲載しています(下左)。16日には再び三浦環の写真(下右)を掲載して「三浦はこれまでの演奏家とは全く異なる蝶々さんの解釈を披露した。常に男性を立てるという謙虚な東洋女性の心は、西洋人には恐らく表現できないだろう。この小柄な婦人の声は美しいことに加え、会場内を簡単に満たすだけの声量を持っている。」という説明書きがついていました(早坂牧子著『英国の三浦環 :電子新聞アーカイヴを用いた1914-1915年の受容調査』)。

      Tamaki  Tamaki
                                  
週刊紙『The Tatler』 に掲載された三浦環
      
(早坂牧子著『英国の三浦環 :電子新聞アーカイヴを用いた1914-1915年の受容調査』より)



 三浦環への賞賛はまだ続きます。同日の『Manchester Courier and Lancashire General Advertiser』 では次の通りです。

 「プッチーニによる不朽の名作のタイトル・ロールを演じたマダム・タマキ・ミウラは、本物の日本人であるというばかりでなく、真の芸術家であり、生まれながらの女優、人々を引きつける本物の歌手であるということを、今まさに証明しようとしている。男をひたむきに信じるゆえにたやすく裏切られてしまう蝶々さんを、透き通った、鳥のような歌声と、微妙な表現の変化で見事に演じた。甘く可憐に響く声域はやや狭いが、所作の優美さは何と言っても素晴らしいし、醸し出されるペーソスと、きびきびとした動きがよい効果を生んでいる。もちろん、彼女の演じ方は従来のイタリア・オペラとはかなり異なるものだが、型にはまらない新鮮さが、かえってここでは魅力的にうつる(早坂牧子著『英国の三浦環 :電子新聞アーカイヴを用いた1914-1915年の受容調査』)。」

 もちろん賛辞ばかりで溢れていたわけではなく、批判的記事もありました。『The Sunday Times 』は次のように書いています。

 「昨晩のロンドン・オペラ・ハウスには『蝶々夫人』の公演に超満員の観客が詰めかけた。マダム・タマキ・ミウラが再び主演し、彼女のリアルな解釈は西洋人がこうであってほしいと想像するような日本の雰囲気へ見る者を誘う。しかし、またしても、日本の声で表される蝶々さんの喜び、希望、悲しみというのが、豊かに流れるようなイタリアの旋律とどうしても合致しないのだ(早坂牧子著『英国の三浦環 :電子新聞アーカイヴを用いた1914-1915年の受容調査』)。」

 オペラの上演を記録する録音や映像がなかった時代にあっては、このような新聞や雑誌の記事に頼るしかありません。それにしても当時の音楽評論家や音楽記者達の音楽、とりわけオペラへの造詣の深さとその表現力には感心するばかりです。もちろん個々人の好みや判断基準も様々ですからこうした記事をもってその演奏家の良し悪しを断ずるのは危険ですが、100年近くも前の歌手たちの歌声を想像する一助になるのは間違いありません。


米国デビュー
 「ニューヨークのメトロポリタンのラビノフといふマネージャーから招聘されて、私はアメリカへ渡って、日本人として初めてのプリマドンナとしてお蝶夫人を唄ふことになりました。それ以来、ストルキョも、ファラーも、お蝶夫人は唄はなくなって、是は私の専売物のやうになって仕舞ひました(三浦環著 『わが芸術の道』 p14)」

 おそらくこれはロンドンの空襲を避けて渡米した1915年のことと思われますが、この時期はまだファーラーは『蝶々夫人』を歌っていますので、彼女の記憶違いでしょう(ファーラーは1922年まで『蝶々夫人』を歌っていました。)。

 「マネージャーのラビノフは(中略)、ニューヨークで私の声を聞かせ、万一悪評でも立つといけないからというので、波止場から真直ぐ停車場につれて行って、私をシカゴへ行く急行列車『二十世紀』に乗せてしまいました。(中略)契約は全部私の希望する条件で出来上って、私は署名をいたしました。世界一のオペラハウス、ニューヨークのメトロポリタンと覇を競うシカゴ・オペラカンパニーと一年に百回『お蝶夫人』をうたうこと、一回の出演料は一千ドルというお約束なのです。一年間に十万ドルの契約が出来たのでした。

 アメリカでの私の「お蝶夫人」の初演はシカゴのオーディトリアム・シアターで行いました。この劇場は私の泊っていたオーディトリアム・ホテルと廊下でつながっているので非常に便利でした。私の相手役のアメリカの海軍士官ピンカートンになるテナーはリカルド・マルティンといって、アメリカで人気のあるオペラシンガーでした。マルティンはアメリカ最大のプリマドンナで世界三大『お蝶夫人』歌手の一人、ゼラルチン・ファラーの相手役をつとめ、その当時世界中で愛読されましたビクターレコード会社出版のオペラブックに出て来るテナーでした。私のシカゴでの『お蝶夫人』の初演は大成功でアメリカ中に大変なセンセーションを巻起こして、カリフォルニアはもちろん遠くカナダやハワイまでも私の名声が鳴り響き、方々から引張凧で、今お話しても嘘だと思われる位、私の『お蝶夫人』を観たいという要求が激しく殺到いたしました(吉本明光編 『三浦環「お蝶夫人』)。」

 テナーのリカルド・マルティンは、1908年から1915年までメトロポリタン歌劇場で287回の出演をしていて、そのうちピンカートン役は50回歌っています。その時の蝶々さん役はジェラルディン・ファーラー(46回)とエミー・デスティン(4回)でした。同時期にメトの舞台に立っていたエンリコ・カルーソー(メト出演866回)はこの役のアメリカ初演を歌いながらもメト通算で16回しか歌っていないことからも、いかにリカルド・マルティンのピンカートンが当たり役であったかがわかります。ということは、三浦環は大船に乗った気持ちで歌っていたとも言えるかもしれません。

 1915年10月7日、『ニューヨーク・タイムズ』紙は「三浦環の米国デビュー」という次に記事を書いています。「シカゴ、10月6日 ― 日本人プリマドンナ、三浦環が本日、ボストン・オペラ・カンパニーで『蝶々夫人』役としてアメリカデビューを果たしました。東洋出身の若い女性が主役を歌うという斬新さが、多くの観客を魅了した。音楽評論家たちは、このディーヴァがこの役で成功を収めたと評価しました。三浦環は約1年前にロンドンで東洋以外での初舞台を踏んでいました( The New York Times )。」 三浦環はボストンのオペラ・カンパニーと契約をして、シカゴで歌ったということがわかります。

 さらに、その20日後にはニューヨークに戻ったこともわかります。1915年10月29日、ニューヨークのマンハッタン・オペラ・ハウスで三浦環が『蝶々夫人』を歌ってニューヨーク・デビューを飾ったという記事が『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載されています。

 「昨夜マンハッタン・オペラ・ハウスで行われた、ボストン・オペラ・カンパニー所属の日本人ソプラノ歌手、三浦環の初舞台(プッチーニの『蝶々夫人』のタイトルロール)は、予想通り世間の大きな関心を集めたようです。会場は多くの観客で埋まり、聴衆はこの上演に大変満足している様子でした。(中略) ある一人の女性が、イタリア人の台本作家と作曲家によって物語の舞台に選ばれたその国の出身であるというだけの理由で、その夜の舞台は彼女のためにそのすべてが委ねられたのです。この問題には、東洋人が異質な言語で歌い、ヨーロッパのオペラに出演するという要素も絡んでいました(たとえその二つの様式が地球と火星ほどに隔絶したものであったとしても)。そして、これらすべての根底には、根本的な問いが横たわっていたのです。すなわち、三浦夫人は真の芸術家なのか、それとも単なる『珍奇な見せ物』に過ぎないのか、という問いです。抽象的な思索にふけったその夜をうまく締めくくるために、『そもそも芸術とは何か?』という問いを、ついでに投げかけてみたくなるのも無理はないでしょう。

 三浦夫人は際立った個性を持った人物です。彼女は小柄な女性ですが、観客の理屈抜きにその心を捉えて離さないような、優雅さと魅力を兼ね備えています。さらに彼女は、真の才能を持った女優であることも証明しました。彼女が演じる『蝶々さん』は、第1幕では新しい遊びへの期待に胸を躍らせる子供のようであり、第2幕では揺らぎつつも確固たる信念を抱く女性の哀愁を巧みに表現し、そして最終幕では幻滅の犠牲者となる姿を見せてくれます。こうした演技は、我々の基準に照らしても興味深く、魅力的で熟練したものですが、彼女が成功を収めているのは、単に偉大な女優だからというわけではなく、彼女が『他とは違う』存在だからなのです。

 歌唱面について言えば、もしアメリカ人やヨーロッパ人が彼女と同じように歌ったとしたら、その歌手は十分な実力を持つアーティストとは見なされないでしょう。三浦夫人の声は、低音域では良い状態にあることが稀で、不快に響くことさえ少なくありません。高音域は優れていますが、その良さは低音域との対比によって際立っている面もあります。なお、オペラの後半に入ると、彼女の声の調子は良くなりました。

 しかし、そうした諸々の点はある事実の前では吹き飛んでしまいました。すなわち、その小柄な日本人女性がまず人々の好奇心をそそったこと、聴衆の共感を勝ち取るに足る人間的な魅力を備えていたこと、そしてその関心に応えるだけの十分な芸術性を有していたことです。彼女が別のオペラの役を歌う姿は想像しがたく、また繰り返し聴きたいと思うかどうかも疑問ですが、最初に耳にしたその体験は興味深く、かつ一風変わったものでした( The New York Times )。」

 歌唱についての記述から推し量ると、前半は彼女の調子が悪かったのかもしれません。ボストン・オペラ・カンパニーでの活動についてはこれ以上のことはわかっていませんが、その後の1918-19シーズンにシカゴで『蝶々夫人』を歌っていて、次のような記述が残っています。

 「小柄な日本人歌手であるミウラは(彼女自身は「マダム・バターフライ」と発音していたが)、この役を演じた歴代の歌手の中で、外見上最も完璧な『蝶々さん』の姿を体現していた。しかし不思議なことに、その見事なまでの視覚的リアリティが、かえってこの役が持つ精神的な深みを損なってしまっていた。ミウラの姿は常に観客の目を楽しませたが、その歌声が聴衆の心を揺さぶることは稀であった(エドワード・C・ムーア著『シカゴ・オペラの40年』 p.191)。」

 『蝶々夫人』を歌う日本人歌手についての示唆に富んだこの指摘は、今日でも十分通用するものと思われますがいかがでしょうか。また、ジェラルディン・ファーラーと比較している記事もあります。1900年(明治33年)にニューヨークで創刊された日本語新聞『日米週報』に掲載された記事にはこう書かれています(1919年1月25日付)。おそらく日本人記者による文章と思われ、だいぶ贔屓目な書き方ではあります。

 「『蝶々さん』はファーラーの当たり役です。歌唱という点では、三浦がファーラーに一歩譲らざるを得ないことは否定できません。しかし、『蝶々さん』は日本人女性なのです。たとえファラーが世界最高のオペラ歌手であったとしても、全く異なる風俗や習慣を持つ異民族の役柄を演じきり、日本人である三浦が演じる『蝶々さん』と舞台上で競い合うことがなどできようはずもありません。着物の着こなし、扇子の扱い、草履での歩き方――日本人女性ならではの優雅な所作の数々は、白人には到底真似のできるものではなく、三浦にしか演じられない役なのです。どんなに努力したところで、こうした点においてファーラーが三浦には遠く及ばないでしょう(吉原真里著 "The Flight of the Japanese Butterfly: Orientalism, Nationalism, and Performances of Japanese Womanhood ")。」


 三浦環は回想録で米国での成功を次のように語っています。

 「またシカゴでの私の『お蝶夫人』の批評が遠くニューヨーク・タイムズに掲載されました。それには、三浦環は世界一の名女優サラベルナールに匹敵するドラマティック、アビリティを持つ素晴らしいプリマドンナである、と褒めちぎって下さいました。数年後のことですが、矢張りニューヨーク・タイムズに「シャリアピンの『ボリスゴドノフ』と、アンナ・パヴロヴァの『瀕死の白鳥』とマダム・ミウラの『お蝶夫人』は世界無比の、優れた特徴を持った芸術である」という批評が出まして、私は非常に嬉しくなり、この批評に応えるために更に勉強しようと、一生懸命にうたい続けました。私のシカゴでの「お蝶夫人」の初演は一九一五年(大正四年)でしたが、それから一九三〇年(昭和五年)まで十六年間、ずっとアメリカを中心に「お蝶夫人」をうたいつづけました。(吉本明光編 『三浦環「お蝶夫人』)。」

 1918年5月27-28日に開催されたアメリカ赤十字社のための大規模なチャリティコンサートに、三浦環は客演アーティストとしてメトロポリタン歌劇場に出演して『蝶々夫人』のアリアを歌っています。主演はエンリコ・カルーソーでしたが、彼女とカルーソーはコンサート終了後、ホテル・ニッカーボッカーで開かれた打ち上げの席で、二人は他の出席者から離れて時間を過ごし、発声法や喉のケアについて語り合ったとされています。メトロポリタン歌劇場のアーカイヴには三浦環の名前が記録されていないのですが、それは主催が赤十字社で、会場としてシーズン・オフのメトロポリタン歌劇場を使用したためと考えられます。1917年に録音された三浦環が歌うアリア『ある晴れた日に』は YouTube で聴けます。
Un bel dì vedremo (Tamaki Miura)


プッチーニとの面会
 1919年以降、三浦環はモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマのオペラハウスに客演しています。ローマ歌劇場では1919-1921年の間に『蝶々夫人』を11回歌っているのですが、その1920年4月のローマの公演にプッチーニが来ていて楽屋で彼女と面会しています。彼女は回想録で次のように書いています。



     Tamaki  Tamaki
            左:ローマ歌劇場の三浦環(1920-1921年に11回出演)
                                                           (Teatro Dell'Opera di Roma Archive より)
                                                      右:プッチーニと三浦環(1920年)
                                 (Mt. Fuji International Opera Competition of Shizuokaより)


 「この時に『お蝶夫人』を作曲したプッチーニが見物に来まして、済んでから楽屋に私を訪問して、大変に喜んで下さって、明日自分の家に来て下さい、といわれましたので私は喜んで御招待をお受けいたしました。翌日、約束の時間にプッチーニの息子のアントニオが自動車を運転してホテルにお迎えに来てくれたので、その自動車に乗ってローマの郊外、トレ湖の湖畔にあるトーレ・デル・ラーゴのプッチーニの山荘へ行きました。山荘に着きますとプッチーニが奥様と子供さんをつれて玄関にお出迎えに見え、私は三十畳位の真四角なお部屋へ案内されました。

 このお部屋にはグランドピアノが置いてあって、それに日本製の錦のピアノ掛けがかけてある。大きな日本の花瓶には赤い綺麗な花が活けてあるし、このお部屋の調度から置物までみんな日本のものでオリエンタルな感じが漂っているので私は驚いてしまいました。そして日本のものばかりなので懐かしくもあり、淡いノスタルジアを感じました。プッチーニはグランドピアノを指さして、『マダム三浦、私は十五年前にこのピアノで『お蝶夫人』を作曲しました。当時日本の大山綱輔公使夫人久子さんから日本の音楽を聴かして貰ったり、日本の音楽のレコードを貰い、それを土台に日本音楽『君が代』、『宮さん宮さん』、『越後獅子』、『元禄花見踊』、『高い山から』の旋律を綺麗に編込んだりして『お蝶夫人』を作曲したのです。」と最初から『お蝶夫人』のお話が始まり、そして昨日観た私の『お蝶夫人』について「あなたの『お蝶夫人』は私が観た『お蝶夫人』のうち最も理想的な蝶々さんでした。

 イタリアはもちろん、アメリカ、スペイン等のプリマドンナが大勢毎晩のように日傘を持ってステージを歩き、そしてうたいますが、みんな私の理想とする『お蝶夫人』はやってくれませんでした。プリマドンナはみんな自尊心を持って自分の歌だけを聴かせようとして、一向に私の蝶々さんの本当の気持ちを現わしてはくれませんでした。中には無闇に大きな声を出して驚かすのもいました。だがマダム三浦、あなたの蝶々さんは第一幕では十五才の子供らしい蝶々さんを素晴らしく見事に現わしてくれました。第二幕第一場では母の愛と、夫の帰りを待つ若き妻の愛情を完全に表現しました。第二幕第二場では子供と別れて自殺する日本婦人の貞淑の悲劇を驚嘆するばかりにドラマティックにやりました。あなたの『お蝶夫人』を観て、私はマダム三浦がうたっているのではない。私が心の中で描く、幻のマダム・バタフライが舞台に現われたと思いました。本当にマダム三浦、あなたの『お蝶夫人』は私の夢を実現して呉れました。あなたには他のプリマドンナのように、自惚れと自尊心のために蝶々さんの性格を現わすことを忘れている欠点がないばかりか、あなたが日本のプリマドンナであるため、日本婦人の貞淑さと日本情緒も完全に出してくれました。あなたは世界にたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さんです」と褒めて下さいました(吉本明光編 『三浦環「お蝶夫人』)。」


 三浦環の回想録は記憶違いによる誤りが少なくないのですが、当時の新聞・雑誌における彼女の歌唱についての記事を読む限り、決して彼女の言うことが誇張と自己賛美に終始しているのではないことは十分証明できると思います。『蝶々夫人』を2000回歌ったということも、歌劇場で全曲歌った回数というのではなく、アリアのコンサートなど規模の大小、出演時間の長短に関わらず、人前で「蝶々さん」を歌った回数とすれば、それくらいはありうる数字ではないでしょうか。また彼女は先に述べた通り、1919-1921年にローマ歌劇場で『蝶々夫人』を11回歌っていますが、その2年後の1923-24年には日本人の原信子が『蝶々夫人』を8回歌っています。また、横浜生まれの日系オランダ人のオペラ歌手で1920年にイタリアに移住していた喜波貞子も1939年1月-2月に『蝶々夫人』をこのローマ歌劇場で3回歌っています。これは3年にわたって三浦環がこの役における日本人としての存在感をローマで示していたからこそ実現できたことであると言えると思います。後に続く日本人のために彼女が大きく貢献していたことは間違いないのです。なお、日独伊三国同盟は1940年ですので、このイタリアにおける日本人の快挙は政治的なこととは無縁であったことをここに付記しておきます。




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