プッチーニ:『蝶々夫人』

第7章 米国席巻とメトロポリタン歌劇場

 
                   New English Opera

   ニュー・イングリッシュ・オペラ・カンパニー公演ポスター(チケット?)
蝶々さん役を歌ったエルザ・ザモシ
(右)


米国初演〜全米巡業公演
 ミラノで初演した同じ年の1904年にはブエノスアイレスとモンテビデオ、翌1905年にはカイロ、ロンドン、そして1906年にはブダペストと『蝶々夫人』の海外公演が実施され、同年秋にはいよいよ米国進出が始まりました。この年の初め、ティート・リコルディは『蝶々夫人』で1906年から1907年にかけて北アメリカ中を7ケ月にわたって巡演する契約(100回公演?)を興行主ヘンリー・サヴェージ率いるニュー・イングリッシュ・オペラ・カンパニーと結びます(その名の通りオペラを英語で上演する一座)。かつて例を見ない冒険的な企てだったとされていますが、この一座は、既に1904年から1905年にかけて英語上演の『パルジファル』で全米ツアーを行なうなど、それなりの実績はあったのでした。

 「『蝶々夫人』の巡回公演はオペラ史上前例のない規模で、アメリカの主要都市で6ヶ月間上演され、タイトルロールには4人のソプラノ歌手、その他の主要役には2つのキャスト、代役、合唱団、そして60人編成のオーケストラが参加し、指揮はティート・リコルディが務めた。この豪華な公演は週8回上演され、R・H・エルキンスによる英語訳で歌われた。1906年10月15日、ワシントンD.C.のコロンビア劇場で初演され、翌日のワシントン・ポスト紙はこの公演を熱狂的に報じた(" Cio-Cio-Sans Metamorphosen " by Geerd Heinsen and Rüdiger Winter )。」

 ニューヨーク・タイムズ紙も10月15日付けでこの公演の記事を書いています。

 「プッチーニの最新オペラ『蝶々夫人』の英語版が、昨晩、ヘンリー・W・サヴェージ劇団によってガーデン・シアターで上演された。初日公演にもかかわらず、大勢の観客が詰めかけ、その素晴らしいパフォーマンスを堪能した。サヴェージ氏はちょうど1年前、昨晩のようにオペラの英語版をニューヨークで上演した人物である(The New York Times)。」
*ガーデン・シアターはニューヨークにあるのですが、これはワシントン公演だったはずで、記者が会場を間違えたのか、日付を間違えたのか・・・。ガーデン・シアター(当時マンハッタンのマディソン・アベニューと27番ストリートにあった劇場)で、初めて『蝶々夫人』が上演されたのは、1907年10月14日のことです。
*1年前の公演とはワーグナーの『パルジファル』(英語歌唱)のことだと思われます。

 この米国公演について、フランツ・ヨセフ・サボーが『The Record Collector』において次のように書いています。

 「ヘンリー・サヴェージ率いるキャッスル・スクエア・オペラ・カンパニーは、『蝶々夫人』のツアーに向けて、アデレード・ノーウッド=ブラント、エルザ・ザモシ、ルイーズ・ジャンセン、エステル・ブルームフィールドという4人の歌手を主役(蝶々夫人役)として用意していました。しかし、初日で主役を歌うのが自分ではなかったことに不満を抱いたノーウッド=ブラントが、初演の翌日に契約を解除してしまいます。そのため、1906年11月、新たなソプラノ歌手が起用されることになりました。それが、出演者の中で最も有名であったとも言えるフローレンス・イーストンです。

 現存する公演記録によれば、エルザ・ザモシはこの一座のプリマドンナであったようです。彼女はワシントンD.C.、ニューヨーク(ガーデン・シアター)、シカゴ、サンフランシスコ、ソルトレイクシティ、クリーブランドなど各地で行われた初演の多くで、蝶々さん役を歌いました。ツアーはワシントンD.C.で始まり、ボルチモア、ボストンを経て、ニューヨークで6週間を過ごしました。基本的には週8回の公演を行い、休演日は1日、水曜日と土曜日は1日2回公演というスケジュールでした。ツアー後半の休演日は移動に充てられました(訪問地:シンシナティ、クリーブランド、セントルイス、シカゴ、ダルース、グランドフォークス、ビュート、スポケーン、サンフランシスコ、オークランド、ソルトレイクシティ、デンバー、オマハ、トロント、ブルックリン)。


         Elza Szamosi

         
プッチーニとエルザ・ザモシ、1906年(Magyar Nemzetより)


 『グッドウィンズ・ウィークリー』(1906年12月29日付)に掲載された短い記事は、サヴェージの劇団の成功を物語っています。「魅力的な日本を舞台にしたオペラや『ラ・ボエーム』、『トスカ』の作曲家であるジャコモ・プッチーニが、サヴェージ氏に次のような電報を送りました。『あなたは、世界中の他のどの興行主よりも多くの著作権使用料を、アメリカでの「蝶々夫人」上演によって私にもたらしてくれました。これによって、あなたが成功を収めたことがわかります。感謝と心からのお祝いを申し上げます』」。ツアーの終わりに、サヴェージはザモシに対し、レハールの『メリー・ウィドウ』のハンナ・グラヴァリ役での新たな契約を提示しました( フランツ・ヨセフ・サボー著『The Record Collector Volume 66 No.1 』 )。」

 なお、このエルザ・ザモシは、5ケ月前の5月12日にブダペストのハンガリー王立歌劇場でプッチーニの指導の下で蝶々さんを歌ったばかりで、その成功により、プッチーニは彼女をサヴェージに推薦しました。サヴェージは直ちにブダペストに行ってオーディションを行ない、ザモシをこの長期のアメリカ・ツアーの契約を結んだのでした(ハンガリーの日刊紙 Magyar Nemzet 2021年1月21日付)。

 話しは逸れますが、1904年、オーステンデに滞在していたグスタフ・マーラーは、エルザ・ザモシの歌声を聴いてその才能を絶賛し、彼女をウィーン宮廷歌劇場のゲスト出演に招待しました。この招聘を機にザモシはウィーンの舞台で『カルメン』などを演じて大きな称賛を浴びたとされています。但し、マーラーはウィーンで『カルメン』を数回指揮していますが、1904年以降は振っていません。この2年後、ザモシはブダペストでの『蝶々夫人』に抜擢されることになるのでした。

 
 ここで気になるのは、サヴェージのオペラ団体に対して、「キャッスル・スクエア・オペラ・カンパニー」と「ニュー・イングリッシュ・オペラ・カンパニー」との二つの呼び方がなされている点です。調べたところ、どちらも同じことを指していると見なしていいと思います。前者はサヴェージが1894年にボストンで建設したキャッスル・スクエア劇場のことで、後者は劇場を開設後に、「アメリカ国民は最高のオペラを英語で聴きたいと願っている」と信じてサヴェージが設立したオペラ団体のことです(1927年11月30日付 The New York Times)。劇場と団体の違いはありますが、歌手たちや観客にとってはサヴェージのオペラ・カンパニーという点では同じということだと思います。


米国ツアーではどの版が使用されたか
 さて、この米国ツアーで使われた譜面はどういうものだったのでしょうか?1906年の初めにヘンリー・サヴェージとの米国ツアーに関する契約が結ばれると直ぐにティート・リコルディは譜面政策の準備を始めます。ツアーでのオーケストラの指揮もティート・リコルディが行なうことになったこともあり、その準備には余念がなかったはずです。シックリングは次のように述べています。

 「1906年1月初旬のトリノでの『蝶々夫人』上演に続き、プッチーニはナポリでの初演(1月24日)に向けたリハーサルに立ち会っていた最中の1906年1月22日、リコルディ社は初の英語版ヴォーカル・スコアの制作に着手しました。この時期、プッチーニは興行主ヘンリー・サヴェージと、米国での英語による一連の公演に関する契約を締結していました。74.E.3は早ければ1906年5月には完成していたとみられ、リハーサル番号が記載されていなかったことから、この版は英米の一般市場向けに販売する意図で作成されたものと推測されます。リハーサルに不可欠な練習番号は、第2の英語版(74.E.4)になって初めて導入されています(ディーター・シックリング著『プッチーニの工房にて〜「蝶々夫人」のいわゆる「版」について』。」
*「74.E.3」、「74.E.4」とはシックリング独自の分類による番号付けで、「ブレシア版」の次に出版されたものです。

 また、ゲルト・ハインセンとリュディガー・ヴィンターも「3つ目の上演版」と次のように述べています。シックリングは「第3版」と見做していませんが、3番目の版ということでは同意見と考えられます。米国ツアーに使用された譜面は「ブレシア版」の次に出版されたものと考えていいと思います。

 「リコルディ社は、ロンドンのコヴェント・ガーデンでの初演( 1905年7月10日、イタリア語上演)のために、R.H.エルキンスによる歌いやすい英語訳とともに、このオペラの新しいイタリア語の楽譜を出版しました。 (中略) 1906年2月までに、アメリカでの『蝶々夫人』初演に向けた準備が完了しました。ヘンリー・W・サヴェージとティート・リコルディが企画した英語上演の巡回公演と、メトロポリタン歌劇場でのイタリア語上演の初演です。これにより、リコルディは北米向けに3つ目の上演版を出版することになりました(ゲルト・ハインセン、リュディガー・ヴィンター共著『蝶々さんの変容〜「蝶々夫人」の4つの版』)。」

 なお、上の記述に「メトロポリタン歌劇場でのイタリア語上演の初演」とありますが、メトロポリタン歌劇場劇場の支配人からプッチーニへ『蝶々夫人』上演の依頼があったのは1906年の秋とされていますので(次項参照)、これは間違いかもしれません。もちろん、プッチーニとリコルディとしてはメトロポリタン歌劇場での上演は最重要候補に入っていたのは当然だと思われますので、それを視野に入れた対応を始めていたことも考えられなくはありません。


メトロポリタン歌劇場での初演
 「プッチーニはニューヨークのメトロポリタン歌劇場の支配人ハインリッヒ・コンリードから翌年の1月と2月にこの歌劇場で彼の作品ばかりで組まれた6週間続きの1シーズンを行なうことになったので、御臨場を願いたい、との招待状を受けたのは、1906年の秋、『蝶々夫人』のフランス初演のために彼がパリに滞在していた時であった。そのシーズンとはいうのは、『ラ・ボエーム』と『トスカ』に加えて、その歌劇場でそれまで上演されたことのなかった『マノン・レスコー』と最新作の『蝶々夫人』とを含んでいた。この新しい上演に単に立ち会うという名目だけのために、プッチーニは、8000ドルとう食指の動く額を申し出されたのである(モスコ・カーナ著『プッチーニ〜生涯・芸術』)。」

 プッチーニがパリに入ったのが1906年10月23日ですから、そのすぐ後にメトロポリタン歌劇場から招待状が届いたことになります。パリの滞在はほんの短期間と考えていたところ、パリでの『蝶々夫人』の上演は遅延に次ぐ遅延で、やっと幕が開いたのは12月28日でした。つまり、プッチーニはニューヨークからの招待状をポケットに入れながら、このフランスの首都でいたずらに2か月以上も待たされていたのでした。なお、この間プッチーニはドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』を観て感銘を受け、「フランシスコ派の修道僧の僧服のように単調で地味な色合いのものですが、非常に面白いものです。そして、それは非凡な和声的特徴と、実に見事な、透明度のある管弦楽法とを示しています。」などと書いている一方、ドビュッシーのオペラを批判して、「あまりに灰色一色でありすぎます。」とも言っています(モスコ・カーナ著『プッチーニ〜生涯・芸術』p.231 )。」と手紙に書いています。プッチーニはこの12年後に『修道女アンジェリカ』を作曲しますが、どこかドビュッシーに影響を受けたような作品と言えなくもなく、人気の点でもその色彩性に問題があるような気がします。

 ようやくパリ初演を終えたプッチーニは大西洋を渡ってニューヨークへ向かいます。当時は蒸気船ですので、パリからの陸路移動と乗り継ぎを含めると所要日数は1週間前後と考えられますが、船は濃霧のために到着は2日遅れたとされています。1907年1月18日が『マノン・レスコー』の米国初演の日だったのですが、プッチーニがニューヨークの港に上陸したのがまさにその日の午後6時で、そのまま劇場に駆け付けて第2幕から観ることができたそうです。『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載されたリチャード・オルドリッチはその時の様子を次のように書いています。

 「メトロポリタン歌劇場で今シーズン行われている一連の新作上演に、昨晩、プッチーニの『マノン・レスコー』という重要な作品が加わった。この公演は実に華々しいものとなった。会場は満員の観客で埋め尽くされ、上演には作曲家自身も立ち会った。彼はこの公演に間に合うよう、ちょうどヨーロッパから到着したばかりであった。第1幕終了後、彼はオーケストラからの盛大なファンファーレと、熱烈な称賛の響きを帯びた観客からの拍手によって祝福された。作曲家のみならず、さらに重要なこととして、その作品自体も観客から称賛と評価をもって迎えられた。本作は観客に深く、極めて好意的な印象を与えたことは明らかである。実際、『マノン・レスコー』は、今シーズンこれまでにメトロポリタンで上演された新作の中で、文句なしの成功を収め、レパートリーに長く定着する作品となりそうな唯一の演目であるように思われた(The New York Times)。」
                Met-F

   ジェラルディン・ファーラー(蝶々さん)とルイーズ・ホーマー(スズキ)
(Metropolitan Opera House より)

 1907年2月11日、いよいよ『蝶々夫人』のメトロポリタン歌劇場初演の初日がやってきました。蝶々夫人役をジェラルディン・ファーラー、ピンカートン役をエンリコ・カルーソー、シャープレス役をアントニオ・スコッティ、スズキ役をルイーズ・ホーマー、そしてアルトゥーロ・ヴィーニャが指揮を務めました。ピンカートン役のカルーソーとシャープレス役のスコッティは、ロンドンでの2シーズンにわたって既にその役を歌っていたことから万全な体制を敷いて臨んだことになります。プッチーニは『マノン・レスコー』の初日を終えてから自らリハーサルに乗り込んで直接指導を行うという気の入れようでした。このメトロポリタン歌劇場初演後、次のような批評が新聞に掲載されました。

 「プッチーニの最新オペラが昨晩、メトロポリタン歌劇場で初演され、最高の好条件に恵まれました。大勢の観客が詰めかけ、自ら演出を監修した作曲家プッチーニ自身が舞台に登場して熱狂的な喝采を浴び、何度もカーテンコールされました。 (中略) 彼が用いるいくつかの日本の旋律は、その特徴が紛れもないものであるが、楽譜に不快で不協和な要素をもたらすことはなかった。東洋的な旋律を導入する際に滑稽さを連想させるのは容易ではないが、プッチーニは実際にはそれらを威厳あるものにし、時には高貴なものにさえしている。彼が時折持ち出す「星条旗」の旋律は、アメリカ人のアメリカらしさを暗示するものであり、決して無作法な邪魔なものではなかった(The Metropolitan Opera Archives by Richard Aldrich in “The New York Times”)。」

 しかし、一方で批判的な記事もありました。初演の翌日、ニューヨーク・デイリー・トリビューン紙は次のように書いています。

「プッチーニ氏はニューヨークに滞在し、聴衆に愛される作品の制作に精力的に取り組んでいたにもかかわらず、残念ながら『蝶々夫人』の欠点を是正する余地を見出さなかった。全く不必要で、見るに堪えないピンカートン夫人の人物像は削除すべきである。最終幕の2つの場面は、1904年にミラノで初演された間奏曲で繋げるべきである。廊下を歩き回って噂話をするこの間奏曲は、『夜警』の場面の効果を著しく損なうものである( Opera Lounge )。」

 プッチーニ自身はこの上演について、満足だったようなのですが、蝶々さんの出来栄えにはあまり感心しなかったようです。モスコ・カーナは次のようにプッチーニの手紙を引用しています(2月28日付)。

 「アメリカ公演は、私の望んだとおりの出来でした。劇場では、万事うまくいっています。蝶々さんも上出来です。しかし、私がその中に注ぎ込んだ詩情は失われてしまっています。リハーサルはあまりに急ぎすぎます。そして、あの夫人(ジェラルディン・ファーラー)は、もっとやれるはずなのに、それほどではありません。また、貴方のひいきのスター(ここだけの話ですが)は何も勉強しようとしません。怠けて、自分だけであまりにもいい気持になっているのです。しかし、さすがに声は素晴らしいものです(モスコ・カーナ著『プッチーニ〜生涯・芸術』)。」

 ピンカートン役を歌ったスーパー・スター、エンリコ・カルーソーに対するプッチーニの言い方は面白いですが、一方の蝶々さんを歌ったジェラルディン・ファーラーはその回想録で次のように書いています(1916年)。

 「そのシーズンの真のハイライトは、1907年2月11日に初演された『蝶々夫人』でした。この魅力的なオペラは、後に私のすべての観客を魅了し、国中の人々の支持を確固たるものにすることになります。しかし、当時は、そのような励みとなるような喜ばしい光景は、私には全く見られませんでした。

 私は情熱と熱意を注ぎ込み、聡明で愛らしい日本人女優のフジコから東洋的な所作や身のこなしを学び、彼女の助言を可能な限り取り入れて、悲劇のヒロイン『蝶々さん』を演じ上げようと懸命に努力しました。マエストロたちや、出版社のリコルディ氏、そしてプッチーニ氏も次々と顔を見せました。誰もが口出しをしてきたため、あまりの助言の多さに私は気が狂いそうになるほどでしたが、役を完璧なものにするために(思いつく限りの)あらゆる手を尽くしました。ロンドン公演では、すでにカルーソーとスコッティがデスティンと共に成功を収めていました。ですから、ルイーズ・ホーマーと私が担うべき課題は、二人の女性が織りなす極めて感動的なあの魅力あふれる第2幕を、最大限に素晴らしいものにすることでした(ジェラルディン・ファーラー著『あるアメリカ人歌手の物語』)。

 なお、リコルディ氏(ティート・リコルディ)はこの時プッチーニと手紙のやりとりをしていたことからイタリアにいたことになっていますので、彼女の勘違いと考えられます。或いはリコルディ社から派遣された人物がいたのかもしれません。


「フジコ」って誰? メトに関わった日本人とは
 また、ファーラーの話に出てくる「フジコ」について、彼女はこの助言を受けた以外に他では言及していない上に、当時の記録にその痕跡も残っていないようです。しかし、「フジコ」がファーラーの書き間違い、聞き違いとして、この時代にニューヨークにいた似た名前の日本人女性を調べた研究者による論文がありました。その女性とは、東京音楽学校を中退した後, ヴァイオリニストの高折周一と結婚して渡米し, ニューヨーク音楽院で声楽を学んだソプラノ歌手、高折寿美子(1886 - 1961年)とつきとめているのです。

 「日本における『蝶々夫人』の初演は1914年に行われ、当時の主要な音楽家であった高折周一が指揮を執り、その妻である寿美子が蝶々さん役を演じました。高折夫妻は20世紀の変わり目に米国で音楽を学んだ最初の日本人グループの一員であり、ニューヨーク滞在中、寿美子は当時『蝶々夫人』役で名声を博しつつあったジェラルディン・ファーラーに師事しました。1913年に帰国した後、夫妻は東京の帝国劇場で『蝶々夫人』を上演しました。(以下は注記)ファーラーはインタビューや自伝の中で、「マダム・フジコ」という名の日本人女優について言及しています。フジコはファーラーがメイドとして雇い、彼女から日本の身振り、仕草、マナーを学んだという。この「マダム・フジコ」の正体は確認されていませんが、ファーラーが言及していたのは高折寿美子である可能性が非常に高いと考えられます("The Flight of the Japanese Butterfly: Orientalism, Nationalism, and Performances of Japanese Womanhood" by Mari Yoshihara)。」

 なお、この高折寿美子は『蝶々夫人』のスズキ役でメトロポリタン歌劇場の舞台に立った(マリー・マットフェルトの代役)という記述がWikiにありますが(1911年3月9日)、その日のメトロポリタン歌劇場の公演記録に彼女の名前はありません。しかもその日の蝶々さんはWikiにあるようにファーラーではなく、エミー・デスティンであり、マリー・マットフェルトは代役を立てずに自らスズキ役を歌っていました。また、メトロポリタン歌劇場のアーカイヴそのものに残念ながら高折寿美子の名前は見つかりませんでした。ソプラノの高折寿美子がメゾのスズキ役を歌うこと自体あり得ないのではないでしょうか。

 マリー・マットフェルトから高折寿美子に宛てた手紙があるそうですが、筆者はまだその文面を読んでいないので判断はできません。ニューヨーク・タイムズ紙には当日、「トコウリ夫人(Mme. Tokouri)」が主役を歌ってはいないが、本物の衣装を自ら劇場に持ち込み、スズキ役を演じるアメリカ人歌手に対して徹底的な指導を行ない、衣装の着付けも担当したといったことが書かれているようです(原文を読んではいないので断定はできませんが)。マットフェルトから高折寿美子への手紙は代役へのお礼ではなく、指導してもらったことへのお礼だったのではないでしょうか。

 スズキ役の話が出たので、ここでメトロポリタン歌劇場の『蝶々夫人』のスズキ役を歌った歌手をご紹介します。このオペラのメトロポリタン歌劇場初演から2ケ月間の7回を歌ったのがルイーズ・ホーマー(Louise Homer:メトでは通算734回の出演)、続く1年間の11回をジョセフィン・ジャコビー(Josephine Jacoby:メト通算295回)、1908年から1922年までの14年間の長きにわたる121回をリタ・フォーニア(Rita Fornia:メト通算449回)、そのフォーニアが休んだ1910年〜1911年の間の8回を上記のマリー・マットフェルト(Marie Mattfeld:メト通算900回)、1911年2月18日の1回だけを歌ったのがジュゼッピーナ・ジャコニア(Giuseppina Giaconia)でして、彼女はこの日がメトロポリタン歌劇場デビューでかつ最終公演となっています。しかし驚いたことに彼女は、『蝶々夫人』がミラノ・スカラ座で初演された時にスズキ役を歌っていたのでした。なお、初演から1922年までの14年間に『蝶々夫人』は163回上演され、そのうち、ジェラルディン・ファーラーが139回、エミー・デスティンが14回、フローレンス・イーストンが8回蝶々さんを歌っています。

 高折寿美子が関わった1911年前後は、リタ・フォーニアがほぼ独占的にスズキ役を歌っていて、代役としてマリー・マットフェルト(その年までに373回も舞台に立っているベテランでした。)が数回歌うのみだったことがわかります。病気だったのか海外公演だったのかは不明ですが、フォーニアの穴を埋めるのに世界初演で歌った歌手を招聘するくらいですし、他で実績もなく、しかもソプラノの高折寿美子がスズキ役を歌う可能性は限りなくゼロに近かったのではないでしょうか。

 こうして、メトロポリタン歌劇場の1906-07年のシーズンは11回の『蝶々夫人』上演を数え、好評のうちにシーズンを終えています。その中には地方公演も含まれていて、フィラデルフィア、ワシントンD.C.、ボストン、シカゴ、セントルイス、ミネアポリスの各都市を巡っています。ニュー・イングリッシュ・オペラ・カンパニーによる英語歌唱による巡業公演のわずか1年で早くも原語上演が各地で行われたことになります。続く1907-08年シーズンは7回、1908-1909年シーズン15回と回数を重ねていきます。1908年11月19日には、いよいよアルトゥーロ・トスカニーニが『蝶々夫人』の指揮を開始し、1915年に辞任するまでの7年間に58回も指揮することになります。その間の全公演回数は81回でしたので、『蝶々夫人』公演の7割以上をトスカニーニが振っていたことになります。


メトロポリタン歌劇場初演で使用された譜面は?
 このメトロポリタン歌劇場で使用された譜面がどの版だったかについて明確に言及している資料あまり多くはありません。パリ版が上演されたのが12月28日で、それからわずか2ケ月と少ししかたっていないし、リハーサルはもっと前から実施されていることを考えると、普通に考えるとメトロポリタン歌劇場ではパリ版そのものが使用されたとは考えにくいところです。しかし、ニューヨークではプッチーニもリハーサルの途中から参加していることもあり、その成果を反故にして前のバージョンに戻ったと考えるのも無理があるところです。メトロポリタン歌劇場初演で蝶々さんを演じたジェラルディン・ファーラーが歌った記録を元に使用した版を推理したルカ・G・ロージは、当時パリ版はまだ出版されていなかったとして次のように述べています。

 「さて、舞台を1907年1月のニューヨークに移しましょう。出演者たちは2月の初演に向けてリハーサルを行っていましたが、彼らはどの版を稽古に使っていたのでしょうか?ディーター・シックリングをはじめとする研究者たちは、プッチーニがフランス語版を経た後に(以前の版へ)立ち戻ることはあり得ず、ニューヨークでは何らかの形で「最終版」が使われたはずだと論じてきました(Schickling and Girardi 39)。しかし、私たちはそうではなかったと主張します。

 第一に、1907年1月の時点では、まだ「最終版」は存在していませんでした。当時、出版されていたイタリア語の楽譜はブレシア版しかなかったため、出演者はそれを使わざるを得なかったのです。また、1907年2月12日付のニューヨーク・タイムズ紙は、アメリカ海軍中尉(すなわちカルーソーが歌った役)の名が「サー・フランシス・ブラミー・ピンカートン(Sir Francis Blummy Pinkerton)」であったと報じています(New York Times)。このことから、メトロポリタン歌劇場のカンパニーは、ブレシア版の最初期の刷りの楽譜を使用していたものと考えられます(ルカ・G・ロージ 著『ファーラー版「蝶々夫人」?』)。」

 この「サー・フランシス・ブラミー・ピンカートン」から「ベンジャミン・フランクリン・ピンカートン」に代わったのが『パリ版』からであれば、「ブレシア版の最初期の刷り」に限らず、1906年6月に出版されたブレシア版の次の版である可能性もあると考えられます。つまり、ザヴェージによる英語歌唱の米国巡業ツアーで使用されたものと同じ版のイタリア語版ということになります。メトロポリタン歌劇場公演に出場するメンバーがサヴェージによるニューヨーク公演(1906年12月)を聴きに行っている事実からして、もし彼らがパリ版でリハーサルを行なっていたら舞台上で演じられることとのあまりの違いに混乱したのではないでしょうか。

 ルカ・G・ロージは、ファーラーの録音を聴いたうえで次のような指摘もしています。なお、彼女がアリアの中間で大幅なカットをしている点については、それは録音の都合上だとして議論から外しています。

 「後にファーラーがビクター社でこのオペラの抜粋を録音した際、彼女は第1幕のソロ『昨日、私は行きました(Ieri son salita)』を、――この曲もまたパリで意味合いが変わった箇所の一つですが――スカラ座やブレシアでの初演当時の歌詞で歌っています。これは、彼女がブレシア版のスコアでこの新しい役を学んだという事実と整合しているように思われます。しかし、『お前の母さんが(Che tua madre)』についてはどうでしょうか?(中略)

 (「お前の母さんが(Che tua madre)」の)歌詞について言えば、アリアの冒頭部分はどの版でも同じですが、フランス語版では、芸者として働く生活に戻るくらいなら死んだほうがましだ、と蝶々夫人が宣言する内容に切り替わっていきます。ファーラーはこの考えを歌に込めており、「死ぬわ!(Morta!)と何度も歌っています。そのため、彼女の歌う歌詞はブレシア版には適合せず、フランス語版に近いものとなっていますが、かといって最終的なイタリア語版とも一致するものではありません。ファーラーが歌った歌詞については、単純な説明が可能です。プッチーニ自身がパリに滞在して変化を認識しており、新版が(ゆっくりとではあれ)準備されていることも知っていました。ニューヨークで彼は、ファーラーのために即興で歌詞をいくつか考えたのでしょう(ルカ・G・ロージ 著『ファーラー版「蝶々夫人」?』)。」
*ファーラーが1909年10月2日に吹き込んだ録音です(YouTube)。
Soprano GERALDINE FARRAR - Madama Butterfly - "Ieri son salita..." (1909)
Soprano GERALDINE FARRAR -Madama Butterfly "Sai cos'ebbe cuore...Che tua madre (1909)


 この時ニューヨークにいた関係者の中で、パリ版のことを知っていたのはプッチーニだけだったはずで、ロージの説は間違いないでしょう。このことは、ファーラーが愚痴った「マエストロたちや、出版社のリコルディ氏、そしてプッチーニ氏も次々と顔を見せました。誰もが口出しをしてきたため、あまりの助言の多さに私は気が狂いそうになるほどでした」ということにも符号すると考えられます。譜面に書いていないことを歌えと言われて気を悪くしない歌手はいないからです。

 つまり、メトロポリタン歌劇場で使用された譜面は、基本的には第2版「ブレシア版」或いはその後の第3版とされることが多い1906年6月の版であり、プッチーニが米国に上陸した1月18日から初演日である2月11日までの間に、パリでの改訂作業の成果を部分的に反映させたものと考えていいのではないでしょうか。

 ニューヨークから帰国したプッチーニは1907年7月頃、オーケストラと声楽パートの一部を変更することで最終的な改訂を加えてリコルディ社から出版しています。メトロポリタン歌劇場や他の歌劇場が何時からその版を使用し始めたのかはわかっていません。ルカ・G・ロージは次のように述べています。

 「この版が即座にブレシア版に取って代わったわけではなく、しばらくの間は両方の版が並行して各地の歌劇場で上演されていました。他のディーヴァたちも、最終版が登場した後、それ以前に習得していたブレシア版を歌い続けていましたが、実際にどのような版で歌っていたかを確認できるのは、録音を残している歌手についてのみです。エミー・デスティンは1905年7月にロンドンでプッチーニの前で『蝶々夫人』を歌っていますが、1912年になってもなお、アリア「お前の母さんが(Che tua madre)」を古いブレシア版で録音しています。1919年という遅い時期の録音であるマファルダ・サルヴァティーニの歌唱でさえ、ブレシア版が採用されています。つまり、ブレシア版が『旧版』となってから12年が経過していたにもかかわらず、そうなっていたのです。これに対し、混合版を録音した唯一のソプラノ歌手はファーラーでした。彼女は、最終版の登場が予定されていたものの未完成だったという、あの短い期間にこの役を習得した唯一の歌手だったからです。いわば彼女は、ある種の『時間の空白』に取り残されていたような状態にあったと言えるでしょう(ルカ・G・ロージ 著『ファーラー版「蝶々夫人」?』)。」


 

*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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