プロローグ

Mahler, グスタフ・マーラー 
 2019年11月4日すみだトリフォニー、マーラーの交響曲第8番パートII最後の和音を弾ききったとき、私の40年にわたるマーラー演奏にようやくひとつの区切りを打つことができました。輝かしい音の洪水の中、譜面の最終段の音符を可能な限り弓を上下させていた(マーラーの指定通り)僅かな間に、これまで幸運にも身体上大過ない状態でヴァイオリンを演奏し続けることができたこと、元々たいした腕ではない演奏技術が年齢と共に低下する前にこの時を迎えられたこと、余暇の大半の時間を演奏活動に費やすことを許してくれた周囲の方々への感謝、これでオーケストラ活動から引退か、など様々な想いが走馬灯のように脳裏を去来したのでした。

 グスタフ・マーラーは1860年にボヘミアのイーグラウ(現在チェコ領)に生まれた作曲家。15歳でウィーンに行って作曲を学び、プラハ、ライプツィヒ、ブダペストで指揮者として活動を始めます。この頃から交響曲の作曲も始め第1番を完成させます。ハンブルクに移って指揮をする傍ら交響曲第2番及び3番を作曲。指揮の手腕を見込まれて36歳の時についにウィーン宮廷歌劇場の芸術監督、さらにはウィーン・フィルの指揮者になるなどヨーロッパ楽団の頂点まで登りつめます。この間、交響曲第5番及び第6番を完成させますがウィーンでは演奏させてもらえず、さらには妥協を許さない厳しいリハーサルにより団員から嫌われて辞任、その後はヨーロッパとニューヨークを往復しつつ指揮と作曲の二方面で活躍をします。交響曲第7番、第8番までは演奏できましたが、『大地の歌』、第9交響曲は完成されたものの生前演奏されることはありませんでした。また交響曲第10番の第1楽章は完成されましたが、残る楽章は断片かスケッチしか残っていません。

 最初にマーラーに出会ったのは私が中学生のとき。友人の家でゲオルク・ショルティが指揮する交響曲第5番のLPレコードを聴いて、何コレ?異なる旋律が同時に絡み合って鳴っているなんてアリ?という衝撃は忘れることができません。それまでモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスといった旋律と伴奏が美しく調和された世界しか知らなかった自分にとってマーラーとは宇宙人というほど遥か遠くの作曲家でありました。中学生の頃は上野の東京文化会館や霞ヶ関にあったNHKホールに無料(往復はがきを出すとほぼ毎回当選した)のコンサートに足しげく通っていましたが、「名曲コンサート」「都民コンサート」ではマーラーの演奏に接する機会はついぞありませんでした。

 高校に進学してサッカーをやるつもりが、何故かオーケストラ部に入ってしまい、それが私の人生を大きく変えて(狂わせて?)しまうことになるとは、当然のことながらその時は思っていませんでした。高校1年の1973年に初めてオーケストラで演奏したのがボロディンの2番の交響曲だったというなんとも稀有な体験を経て、早くも翌年には念願の『運命』、すなわちベートーヴェンの5番の交響曲を演奏できたのは、今思えば最初から幸運に恵まれていたと言えます。中学生のときから『運命』のピアノ・リダクション版を様々な指揮者の真似をしながら弾いてひとりで悦に入っていたのですが、当時の私にとっての最大の悩みは、弦楽器のフェルマータがピアノで表現できないこと(いくらペダルを踏んでも音は直ぐに減衰する)と、オーボエのソロの部分がピアノでどう弾いても情けない音楽になってしまう(純正率と平均律の違い、音色の違いなど)ことでした。オーケストラの中で『運命』を弾きたいと漠然と考えながらの受験を経て高校に進学し、校舎の廊下を歩いていて目に留まったのがオーケストラ部への勧誘ポスター。そこに書かれた「初心者歓迎」という文字に釘付けになった時のことは今でも忘れません。「これだ!」と何も考えずに入団してしまったのでした。

 大学に進んでもオーケストラに籍を置いたのは言うまでもありません。運命的なポスターを作製して私の人生を変えた高校の先輩は大学でも同じ先輩となり、卒業後もしばらくは活動を共にさせていただきました。所属していた大学のオーケストラでは4年の間、残念ながらマーラーを演奏する機会はありませんでした。入学の前年に1番が演奏されたばかり、卒業後には5番が演奏されるというめぐり合わせの悪さに見舞われてしまったのです。当時は今と違い、マーラーがアマチュア・オーケストラで演奏されることは「事件」と言われるほど稀なことだったのです。1番を演奏した先輩方がその時の演奏を熱く語る度に強い憧れを抱いたのは今でも忘れられません。

 大学1年生だった1977年には、ショルティがシカゴ交響楽団を率いて来日してマーラーの5番を指揮しました。シカゴ響の実力と曲の真価を知らしめた伝説の公演と今でこそ神格化されていますが、当時は「金管がやかましい」と酷評されていたことも記憶しています。1970年代後半にマーラー・ブームが起きたとされていますが、マーラーの音楽はまだまだ日本では幅広く受け入れられてはいなかったのでしょう。ウィーン・フィルが最晩年のカール・ベームと来日したり、帝王と言われたヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィルとベートーヴェンの交響曲全曲演奏会を行なったりしたことが大きな話題となった時代だったのでした。私自身、当時は室内楽に目覚めた頃で、巷ではスメタナ弦楽四重奏団がベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲録音が始まった時期でその来日公演は常に満席という盛況ぶりでした。オーケストラ、とりわけヴァイオリン・パートの中ではそうした演奏会に行くのがトレンドだったのか、演奏会場でよく仲間と顔を会わせたものでした。マーラーが話題に上がることは少なかったと記憶しています。

           ゲオルク・ショルティ  カール・ベーム  ヘルベルト・フォン・カラヤン

 全11曲のマーラーの交響曲を演奏し終えるにあたって、何か記念品でも作ろうか、マーラーの胸像でも買おうか、マーラー饅頭とかマーラーようかんでも作って友人に配ろうか、マーラーの史跡めぐりに行こうか等々、色々考えたあげく全くお金のかからないそれぞれの曲に纏わる思い出話しを文章にしようと思い、この10年間ほぼ手付かずだった自分のホームページにアップすることにしました。


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