1st [1981.04~1987.05]


  • 1981.春 高校の入学祝いにヤマハ「ポータサウンド」を買ってもらった本橋慶康(もとはしのりやす・初代kamadoumaリーダー)と友人の小原仁悟(おばらじんご)は、当時世間で流行していたYMOのコピーバンドを結成。しかし楽器の経験もなく、機材と言えばポータサウンドと足踏みオルガンという状況に行き詰りを感じた二人は、中学時代の同級生で友人の佐々木一郎(ささきいちろう)に「バンドをやらないか」などと言葉巧みに持ちかけ、バンド活動の意味も分らぬ佐々木を唆した。あろう事か二人の策略にはまった佐々木は、当時指一本で弾けることで話題であった「カシオ・ワンキーボード」(といってもその実態は電卓であった)を購入し、ここにkamado-uma?(※カマドウマ/直翅目(バッタ)カマドウマ科)の母体であるアマチュアバンドが生まれた。(この時点でのバンド名は本橋の独断により「TWO」となった。なんでも「タイダル・ウェーヴ・オーガナイザー」だそうである。)
  •    

    カシオ

    ワンキーボード

  • 三人は 早速YMOのスコア楽譜を入手。日夜練習に明け暮れていたが、特にライヴ等の予定も無く(当時はそういう意識さえなかった)ただひたすらに弾くことに没頭していたと言える。そんな中で本橋はポータサウンドという最新兵器を使い「オイシイ」パート(サカモト氏の主旋律)を独り占めにしていた。そんなバンドの状態に業を煮やした小原は静かにバンドを去っていった(実際は面白くないので、徐々に参加する日が減っていたように記憶している)。残された二人は、毎日学校が終わるやいなや本橋の家に集合し、彼らの唯一の練習曲「テクノポリス」を数回練習し、コーヒーを飲んで世間話をしていた。この春、YMOは問題作「BGM」を発表。
  • そんな或る日 二人は夕日を背に浴び自転車をこぐ「少年剣士・知久嘉孝(ちくよしたか)」に出会った。中学時代「暁の体操少年」と呼ばれていた彼は、しばらく会わないうちに健全な精神の宿る少年剣士になっていた。これに目を付けた本橋は、当時「さだまさし」の熱狂的ファンであった知久を、巧みな話術で翻弄させ無謀にもドラマーとしてバンドに参加させることを承諾させた。ここに本橋の構想する「キーボード・シンセベース・ドラム」とゆう黄金率の編成を持つYMOコピーバンドの「形態だけ」が整うことになる。
  • 1981.夏 三人は個々のちゃんとした楽器(まだポータサンド・ワンキーボード・貰ったドラムセット、スネア無しだった)を購入するために、アルバイトという未知の世界に飛び込むことになる。本橋と知久はコンピューターの基盤らしきもの(本人の弁)を製造するらしい(?)工場で、佐々木はそういった基盤の設計図となる写真(そういうのが存在するらしい)を焼いたり修正したりする工場でそれぞれ資金を稼ぐ日々が始まった。ちなみに佐々木の当時の時給は400円である。
  • 購入目標は 本橋が当時発表されたばかりの「KORG POLYSIX」。国産機としては異例の低価格で音色のメモリーを搭載した6音ポリフォニックシンセ。カーティスとゆうメーカーのチップをフィルター部分に用いていたことから「国産Prophet-5」だと一部で詠われていたが、音色は違った。これを手に入れることで本橋はその活動基盤における「主導権」を確かな物にしようと目論んでいたのは間違いない。佐々木はシンセベース担当の為、同時に発表された「KORG MONO/POLY」を購入機種に選択。音色メモリーこそないものの、きめ細かな音作りに適した各種パラメーターを持ち、4音ポリフォニックにもなる機種であった。「POLYSIX」にはないオシレーターシンクやクロスモデュレーションを搭載し、音色の多才さは「POLYSIX」をしのいでいた。そして知久はヤマハのドラムセットを買う予定であったが、機種は決まっていなかった(と思う)。この年の12月、あの強烈な印象を残した「YMO WINTER LIVE 1981」が新宿コマ劇場で行われる。
  • 1982.正月 三人はアルバイトで稼いだ資金とお年玉を合わせて購入資金を捻出。ちなみにこの時期までの練習で、自分だけ音程の無い楽器(爆)を担当することに疑問を持った知久は「実はこの度、ドラムの任を辞して鍵盤に変えてもらいたいと考えている」云々との事実があったことを付け加えておこう。とにもかくにも、三人は当時の16歳には大金であった現金を、四つ折りにし各々の靴下の中に入れて御茶ノ水へ向かった。なにも知らない三人は「在庫あるよ」の言葉に騙され現物を見ずに黒沢楽器で契約(事実だ!今でもあの店員を恨んでるぞ)。結局楽器が届くのに三ヶ月を費やすことになる。このときの教訓は「子供が初めての大きい買い物に行くときは、親が付き添いましょう」である。
  • 1982.春 楽器を手に入れ練習にも一層熱が入った三人は、中学の同窓会を企画しそのメインイベントとして自分達のライヴを組み込むという暴挙にでて、これを強行。中学同級生の山下一郎(やましたいちろう・Ds)、樋代達也(ひしろたつやGt)をサポートに迎え堂々25曲に及ぶレパートリーを演奏した。当時キーボードスタンドを購入できなかったメンバーは、知久の家業である工務店で入手した木材で制作した「豪華・木製鍵盤台」を使っていたので、もう見かけは家具調でそれはそれは豪華絢爛であった。
  • 1983.夏 夏休みに入ると、三人はこれまでの練習成果の集大成としてレコーディングを執り行うことになる(全部YMOのコピーなのは言うまでも無い)。これまでの期間で入手した4トラックカセットデッキ、ローランドTR-606等の機材を使い、ボコーダーの代わりには「カズー」(ラテン音楽で使う楽器らしい。佐々木が先の楽器フェアでもらったものを使用)まで駆出したのは、今となっては懐かしい思い出である。そしてこの録音を期に、本橋の大学受験準備で活動は一時休止となる。しかし暇な残りの二人がたびたび来襲。勉強の邪魔に精をだした。
  • 1984.春 本橋の大学合格を待って活動再開。佐々木も就職が決定したため、期待できるサラリーを見込んで楽器を新期購入。新型リズムコンポーザー・ローランドTR-909、デジタルコンポーザー・ローランドMC-202等テクノの必需品となる機材が着実に増えつつあった。

  • 1984年頃のメンバー。

    左から本橋慶康、佐々木一郎
    そして知久嘉孝の三人。

    ノリヤスのおやじさんにスーツ
    借りて近所の公園でスチール撮影。

    この写真撮って、なにをするつもりだったのか(笑)

  • 1984.03.22 これより以前、雑誌で見つけた「求む、出演バンド」に便乗し、東京・大塚「JELS HALL」に於て行われた「スター・スパングルド・コンサート」で初の東京進出。経験豊富なポップスバンドや謎のグラム風日本語ロック(白のダブルネックが印象的であった(爆))に挟まれ、貴重な体験。この時点でのバンド名は佐々木と知久がジャンケンをした結果、佐々木の提案した「EXOTIC SAITAMA」になった。それ以外の候補に「うに」や「イクラ」等があったことを付け加えておく。なおこの時のゲストプレイヤーは樋代達也(gt)が参加。
  • EXOTIC SAITAMA in Star Spangled Concert 1984
    [1984.03.22 ohtsuka tokyo]

    01.TONG POO (ryuichi sakamoto)
    02.1000 KNIVES (ryuichi sakamoto)
    03.RYDEEN (yukihiro takahashi)
    04.MAIDO (ichiro sasaki)
    05.FACTORY OF EDDIE (ichiro sasaki)
    06.VECTOR POWER (ichiro sasaki)
    07.COSMIC SURFIN (haruomi hosono)
    08.BRIGE OVER TROUBLED MUSIC (Y.M.O)
    09.MAD PIERROT (haruomi hosono)

  • 加速度 をました三人はバンド名を「カマドウマ」に改名(なぜこのような名前になったかは「演奏が達者でないのにバンド名だけが格好良いのはけしからん」というものがあったはず)。 1985.05.03には地元、埼玉・蕨「柏屋センターホール」に友人達のバンドと共に出演。原宿の大中で購入した真っ赤な人民服を身にまとい、一際異様な雰囲気を醸し出しながら、佐々木のオリジナルを含む演奏を披露した。
  • KAMADOUMA SPRING LIVE'85 at kashiwaya hall
    [1985.05.03 warabi-shi saitama]
    01.LIGHT IN DARKNESS (y.t & r.s)
    02.CAMOUFLAGE (yukihiro takahashi)
    03.MUSIC PLANS (ryuichi sakamoto)
    04.1000 KNIVES (ryuichi sakamoto)
    05.SIMPLE LIFE (ichiro sasaki)
    06.RYZOOM (ichiro sasaki)
    07.MAIDO (ichio sasaki)
    08.LA FEMME CHINOISE (yukihiro takahashi)
    09.COSMIC SURFIN (haruomi hosono)
    10.ABSOLUTE EGO DANCE (haruomi hosono)
    11.TONG POO (ryuichi sakamoto)

  • どうしても YMOのステージのイメージが頭から離れない三人は、1986.11.14。東京・池袋「サンライズ・ホール」においてワンマンライヴ「Winter Live'86」を企画する。オリジナルをも含む16曲のメニューを披露した。
  • KAMADOUMA WINTER LIVE'86 at sunrise hall
    [1986.11.14 ikebukuro tokyo]

    01.VENUS (hideki matsutake)
    02.RYZOOM (ichiro sasaki)
    03.BEHIND THE MASK (ryuichi sakamoto)
    04.TECHNOPOLIS (ryuichi sakamoto)
    05.RYDEEN (yukihiro takahashi)
    06.MAIDO (ichiro sasaki)
    07.MERDERD BY THE MUSIC (yukihiro takahashi)
    08.PERSPECTIVE (ryuichi sakamoto)
    09.ONGAKU (ryuichi sakamoto)
    10.BALLET (yukihiro takahashi)
    11.MUSIC PLAN (ryuichi sakamoto)
    12.KEY (yukihiro takahashi&haruomi hosono)
    13.COSMIC SURFIN (haruomi hosono)
    14.THE END OF ASIA (ryuichi sakamoto)
    ~encore~
    15.TONG POO (ryuichi sakamoto)
    16.WILD AMBITIONS (haruomi hosono)

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    1987春

    雑誌「KB SPECIAL]のアマチャバンド自薦・紹介ページ「突撃・プライベートスタジオ」に申込み、取材を受ける。これは1987年7月号に掲載された。載ってるスコアはマドンナの「LA ISLA BONITA」他。

  • 波に乗った 三人は、明けた1987.05.16。またも東京・池袋「サンライズ・ホール」で「KAMADOUMA SPRING LIVE 1987」をブッキング。 前回のコンセプトを継承しつつ、YMO以外の曲も選曲して全体の流れをコントロール。客層も音楽雑誌を元にハガキや手紙を出しまくり、多才な顔ぶれがそろったのは嬉しい出来事だった。機材的にも前回より導入したヴォコーダーをはじめDX7II,POLY800,DX21等のデジタルシンセを大量投入(借り物多数)。時代の流れと共にMIDI化されたカマドウマに変貌しつつある状況だった。
  • KAMADOUMA SPRING LIVE 1987 at sunrise hall
    [1987.05.16 ikebukuro tokyo]

    01.GERMAN ROAD (ippu-do)
    02.TONG POO (ryuichi sakamoto)
    03.SIMOON (haruomi hosono)
    04.RYZOOM (ichiro sasaki)
    05.FOUR AND HALF (ichiro sasaki)
    06.ATOM HEART FATHR (ichiro sasaki)
    07.VECTOR POWER (ichiro sasaki)
    08.ぼくは やっぱり とりなんだ (ichiro sasaki)
    09.MAIDO (ichiro sasaki)
    10.DRIP DRY EYES (yukihiro takahashi)
    11.CONECTION (yukihiro takahashi)
    12.MUSIC PLAN (ryuichi sakamoto)
    13.COSMIC SURFIN (haruomi hosono)
    14.THE END OF ASIA (ryuichi sakamoto)
    ~encore~
    15.YMO medley
    16.WILD AMBITIONS (haruomi hosono)

    ← poster


  • それから 二週間後の1987.05.31、三人はヤマハが主宰するコンテスト「BAND EXPLOSION.87」の会場にいた。池袋のヤマハLM STUDIOがそこで、午後になってkamado-uma?はオリジナル2曲を演奏。審査員の方に「いいね〜アナログシンセの音。あと10年経つと、テクノの時代が戻ってくるよ」と言われ見事落選(爆)。

    BAND EXPLOSION'87 at ikebukuro yamaha lm studio
    [1987.05.31 ikebukuro tokyo]

    01.ぼくは やっぱり とりなんだ (ichiro sasaki)
    02.RYZOOM (ichiro sasaki)

  • コンテスト 終了後、本橋と佐々木は今後の活動をライヴハウス定期出演による本格的な物にすることで同意する。しかし、バンドメンバーとしてよりも二人の仲介役、そして友人としての立場が色濃かった知久はこの時点で「バンドの足枷になる」として自ら脱退を決意した。
  • update~1998.04.24

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