雪の翼のフリージア

 2012年の夏に行われたロンドン五輪に、義足の身で五輪史上初の出場を果たして、陸上競技のレースを走った、オスカー・ピストリウスという南アフリカのアスリートがいた。本来なら、生まれ落ちたときに得た自らの肉体をのみ使い、機械による支援も薬物による心身の増強も許されない世界にひとり、義足という人工物を介在させて走るランナーの出場は、陸上競技やオリンピックのみならず、あらゆる人間的な営みへの挑戦とも言える出来事だった。

 けれども、前例を覆して歴史にその名を刻んだピストリウスの栄誉は、人間的な営みを超える高みへとは絶対に至れないことを前提に与えられた、複雑で微妙なニュアンスを含んだものだったように見える。最新のテクノロジーを使えば、人間より速く走ることができる構造を持った義足くらい、すぐに作れるだろう。腕を失った選手が、最新の義手を付けることによって、槍を投げ、砲丸やハンマーを投げて世界記録の上を行くようなことも可能だ。

 ただし、それは人間の持てる力を試し、競うオリンピックの理念にもとるものとして忌避される。義足や義手の力が人間を上回ってはいけないと排除される。仮にピストリウスが義足で五輪に出場して、世界記録を持つウサイン・ボルトに並ぶ成績を出したとしたら、ピストリウスの成績は義足の力によるものだとして、認められなかったことだろう。

 とはいえ、それがピストリウスの実力ではないと、いったい誰が判断できるのか。人間と同等の義足を使うことだけが認められるのだとして、その範囲に同じ人間のボルトはいらないのか。世間一般の人と同じ力しか認められなかっとしたら、多くの世間の人と同様に、ピストリウスも五輪には出られない。五輪に出る以上は、世間を超えた力を持っている。けれどもボルトに迫る力にはない。その境目を誰がどうやって決めたのか。

 生後11カ月で両脚を切断せざるを得なかったピスリウスに、もしも脚があったらどれくらい走れたかという仮定は出せない。もしかしたら、ボルトを超える可能性を持っていたかもしれない。だからといって、ボルトと同等にする訳にはいかない状況下で、ピストリウスは“最適解”を持った義足で、五輪に出場することを許されたのかもしれない。

 ゼロではない可能性がありながらも、その可能性を試せない曖昧さの中に生きるなら、いっそ、限界を超える力を発揮できる場所を堂々と作れば良い。そこで、あらゆるテクノロジーを使って、高みへと人間を押し上げるような競技を開催すれば、こうした悩みや迷いもなくなるのに。そんな思いも浮かぶ。

 そうした競技を見て楽しいか、それともつまらないか。感動できるか、できないか。当人のどこまでも高みを目指したいという意志とは別に、多くの目は不幸の中から幸福を目指す人たちの頑張りを、美談と受け止めようと期待する。限界を突破し、究極に達する姿を案外に求めてはない。

 何と残酷な心理か。そして尊大な心理か。人の作り出す道具が、人を限界まで幸せにできていないことへの、どこか釈然としない感情を解消するには何が必要なのか。ハンディキャップを追った少女の頑張りを描いた、松山剛による「雪の翼のフリージア」(電撃文庫)という小説が、ロンドン五輪が開かれ、ロンドンパラリンピックが開かれた2012年夏に発売されたのも、そんなことを多くの人に考えさせるきっかけを、誰かが作りたかったからなのかもしれない。

 背中に翼を持った者たちが存在する世界。その翼を使って空を飛び、速さを競うレースを繰り広げる飛翔士たちの中でも、トップクラスの存在として名を挙げていたフリージアという少女がいた。最高峰のレースでも優勝間違いなしと思われ、実際にトップでゴールに飛び込もうかという瞬間。フリージアは翼を傷めて落下し、怪我をした翼の尖端を切り落とされ、再起どころか飛ぶことすら適わない状況へと追い込まれた。

 けれども、フリージアは諦めなかった。人工の義翼を着けてレースに復帰し、空に舞い戻ろうとして、ガレット・マーカスという腕のいい義翼職人が住む家を訪ねて、自分のために義翼を作ってくれと頼む。ガレットは断る。飛ぶことすらやっとの義翼では、レースに復帰することなど無理だというのが大きな理由。それでも、フリージアは引かず、足りない費用は工房で働いて返すと言って居座り、ガレットに翼を作らせる。

 最初は、やはり酷い飛翔しかできなかったフリージアだったけれど、彼女が目標としてきた有名な飛翔士のアドバイスを間接的に受けられたことで、義翼で空気を掴む術を学んで、少しづつ前のような速度を取り戻し、同時に自分への自信を取り戻していく。かつてのライバルで、フリージアがレースを去った後、トップに君臨し続けているグロリアという飛翔士が、「芋虫は、時が経てば蝶になりますけれど」「羽をもがれた蝶は、芋虫に戻れるのかしらね」とフリージアに告げ、義翼の身を嘲っても、沈むことなく、自分を貫こうとする。

 そこから感じられるのは、人を超えるとか、人に劣るとかは関係なく、自身が何を望みどうしたいのか、という強い意志。ハンディキャップを卑下せず、逆に誇ることもしないであるがままを受け入れ、あるいは人工的なサポートを受け入れて、自分が望む道を歩んでいく大切さだ。義足を使って陸上競技を始めたピストリウスも、最初はただ走りたかっただけなのかもしれない。

 フリージアも同様に、飛べることの楽しさを再びその身に味わえたことが、当人にとっては最大の幸福だったのだろう。復帰して挑んだレースの終盤で、グロリアが策謀によって怪我をしながらもゴールを目指す執念を見せた。フリージアも同じような目に遭いながらも、勝負に負けることより飛べなくなってしまうことを嘆いた。ここまでの努力と、それにまつわる思い出が無に帰することを悲しんだ。

 勝ち負けではなく、ハンディキャップのあるなしに関わらず、飛ぶことの価値、そして生きることの意義を示してくれる物語。フリージアに飛ぶことの楽しさを教え、グロリアを空へと導いた飛翔士のウイングバレットと偶然にも同じ、オスカーという名を持つピストリウスの疾走する姿と重ね合わせることで、「雪野翼のフリージア」から放たれるそんなメッセージが、さらに強く染みてくる。


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