夜の童話

 「しあわせ」ってなんでしょう。お金持ちになることかもしれません。美人の彼女なり美男の彼氏と知り合いになることかもしません。会社で出世することかも、文学で生計を立てることかもしれないでしょう。人によって、立場によって「しあわせ」の形はいろいろあるものですし、「しあわせ」の度合いもさまざまです。

 けれどもひとつ肝心なのは、「しあわせ」は誰にだってあるものなのだということです。来ない不幸はありません。けれども終わらない不幸もないのです。不幸が追われば来るのは「しあわせ」。お金持ちになれなくっても美男の彼氏美人の彼女がいなくても、会社では永久にヒラでも書く小説がことごとく一次選考落ちでも、「しあわせ」はどこかにあっていつか来るものなのです。

 待つのも良いでしょうし、探すも良いでしょう。けれどももしも探すのだったら、紺野キタの「夜の童話」(ポプラ社、580円)を読んでみてはいかがでしょうか。そこにはいろいろな人たちの、さまざまな「しあわせ」の見つけ方が描かれて、今まで「しあわせ」なんて見つからなかったという貴方の、きっとお役に立てるはずです。

 「家路」の主人公の春さんは、奥さんのときさんを亡くしてからこのかた、絵ばっかり描いて暮らしています。猫のマリを傍らに春さんが描く絵は、舗装されていない道を歩きながら見上げた電線越しの空に月が浮かんで周りを照らしていたりする、どこか懐かしさを感じさせるものでした。

 実は春さんが描いていたのは夢で見た光景で、そこでは長年連れ添ったときさんが若い頃の姿のままであらわれて、若い姿に戻った春さんと昔のような逢瀬を楽しんでいたのです。そして目覚めた春さんは、「まるで恋文をつづるように」「私の愛した光景を」スケッチブックに水彩で描いていたのです。

 それは春さんの夢の光景です。きっと春さんの経験した思い出です。けれども絵を見た友人のシゲさんにも描かれた世界への記憶があったのです。良い絵だと感じたシゲさんは春さんに個展を開くようすすめ、やがて開催された個展で出版社の人も春さんの絵を見初め、ついには画集になって世の中に広まります。

 そんなある日、ファンだという少女がたずねてきて春さんに言います。「ここはまるで先生の絵の中のようですね」「これはやっぱり夢なのかしら」「だとしたらわたしの夢? それとも先生の夢ですか?」。春さんはこたえます。「いいえ」「だってここはあなたの故郷(ホーム)なのですから」。

 春さんにもシゲさんにも少女にも、人間だったら誰でも持っている”故郷”があって、そこには目をつむりさえばたどり着けるのだということを、「家路」は教えてくれます。絵を描いて個展をひらいて画集を出して少女がたずねて来たことも、もしかしたら一篇の夢のなかの出来事かもしれません。けれども、それでも得られた春さんの「しあわせ」そうな微笑みが、「しあわせ」に近づく方法を語ってくれています。

 王国に生まれた姫君が主人公の「庭」が教えてくれるのは、終わるかもしれない「しあわせ」の辛さ、そして再びおとずれるだろう「しあわせ」の素晴らしさです。優しい王さまとお后さまの間にうまれたお姫さまは、両親の愛とお城に暮らす人たちの愛情を一身に受けて健やかに成長します。醜いこと、辛いことは決してお姫さまのところには届かないようにされていて、光に包まれ花に囲まれたままお姫さままは大きくなります。

 けれどもある年、贈られた美しい庭で出会った園丁の少年と出会ってしばらくして、お姫さまは園丁が庭に来なくなってしまったことに悲しみを覚えます。園丁の母親でお姫さまの乳母だった人がいなくなてしまったこと、お姫さまにとっては母親だった王国のお后さままでがいなくなってしまったことに苦しさを覚えます。

 「お母さまはとおい神のお国へ行ってしまわれたのだ」「ああきっと」「乳母もあの園丁の子も神の国へいってしまったのだ」「わたしだけが何も知らなかったのだわ」。お姫さまが見る冬の庭の木々は枯れて草花はなく、くろぐろととがって暗くくすんでいました。涙があふれて仕方がありませんでした。

 けれどもだからこそ、お姫さまは気づきます。自分がこれまでとても幸福だったことに。いまは悲しくてしかたがないことに。お姫さまは王さまにたずねます。「いつか悲しみはなくなる?」「おしまいになる?」。王さまは答えます「悲しみがお終いになることなど、ないのだ」「だが」「幸福にもけっしてお終いなどないのだよ」。

 悲しみを知り、「しあわせ」を知ったお姫さまがどんな人になったのかは「庭」からは分かりません。けれどもたぶん、というより絶対に素晴らしい人になったでしょう。愛しい娘をおいて神の国へと行かなければならなかった母親のお后さまの、幼い愛情を抱きながらも旅立たなくてはならなかた園丁の少年のぶんまで、いまある世界に「しあわせ」を与えるすばらしい人になって、次の世代へと「しあわせ」を伝える役目を果たしてくれたことでしょう。すくなくともこの物語を読んだ人には、「しあわせ」の暖かさと尊さは伝わったはずです。

 姉ひとり弟ふたりのうちの末っ子だけが離婚した母親にもらわれ、上のふたりは各地を放浪しながら絵本を描いている父親の下、というより戻らない父親を放ってしっかりと自活しているシチュエーションではじまる「春を待つ家」が描く、どんなにぐうたらでも、離ればなれに暮らしていても大好きな父親が父親でいつづけてくれていることの「しあわせ」さからは、人によって形もありかも違うけれど、人には「しあわせ」を感じるものが必ずあるんだということが分かります。

 夜をさまよう黒い服黒い帽子に黒い眼鏡の眼鏡売りが、アタッシェケースから次々と眼鏡を取り出していろいろな人に与えて歩く「眼鏡売りの男」からは、遠眼鏡だったり優しさだったり慈愛だったり一夜の思い出だったりと、さまざまだけれどそれぞれにいだく「しあわせ」の姿が浮かびあがって来ます。

 「あかりさき」に描かれる、肉体は病の床にありながら、心は神さまのお使いになってこどもたちに一番星を見せてあるく少女が、通りすがりの男性に託したさいごのお願いのやさしさは、先立つ「ふしあわせ」を「しあわせ」に変えられた少女の得られた心の「しあわせ」に胸をやかれます。

 一篇一篇が同人誌に発表された作品たちの、これまであまり読まれる機会がなかったことはたしかに「ふしあわせ」なことかもしれません。けれどもこうして一冊にまとまって、おおぜいの人たちに「しあわせ」の物語が読まれるようになって、おおぜいの人たちに「しあわせ」のいろいろな形が伝わるようになったことが、今は一番の「しあわせ」です。

 死んだ母親が「貸猫屋」に頼んで娘にのこした見えない猫がいなくなって母親の愛に気づくエピソード、雪の中に置き去りにされた猫を思うこどもたちの愛が猫を暖かく包み込むエピソード、家庭にぎくしゃくしていた男性が懐かしい「初恋」を思い出して快活さを取り戻すエピソード。単行本のタイトルにも取られた「夜の童話」の3つのエピソードが奏でる情愛の素晴らしさに、恋をすること、愛すること、生きていることの「しあわせ」を感じてみてください。


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