夜明けのヴィラン 聖邪たちの行進

 「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」という映画のタイトルだけを見て、浮かぶのは共に正義のヒーローでありながら、どうして対立するのだろうかといった疑問。日本には「マジンガーZ対デビルマン」といった前例のような映画があって、共に正義の味方が最初は誤解しながら最後は手を携え、悪に向かう展開があることを世に知らせた。近作の「サイボーグ009VSデビルマン」も、同様に手を携えて悪と戦う展開になっていた。

 「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」もそうなっているのか違うのか。それは映画を見てのお楽しみとして、バットマンとスーパーマンという稀代のヒーローたちがそれぞれに抱える正義への考え方の違いは、タイトルや予告編などからどことなく漂っている。金で力を買い時には暴力も辞さずに悪を叩くバットマンには、正義と裏腹の闇が漂う。生まれ持った力で勧善懲悪を貫こうとするスーパーマンには、強すぎる力への恐怖が浮かぶ。

 正義とは。ヒーローとは。物草純平による「超飽和セカンドブレイヴズ −勇者失格の少年−」(電撃文庫)と、そして間を置かずに刊行された地本草子による「夜明けのヴィラン 聖邪たちの行進」(集英社、620円)というライトノベル。とてつもない力を持った正義の味方たちが出現しては集い、戦う世界の痛快さ、正義の味方たちの格好良さを感じさせつつ、けれどもそんな“勧善懲悪”の世界に潜む闇が描かれていて、正義とは? ヒーローとはいったい何なのかと問いかける。

 チャンバーなる器官が人に現れ、ここから人智を越えた力が溢れて人をヒーローに変えるようになった世界。一部には悪に走ってヴィランと呼ばれる存在に堕ちる者もいて、世界はヴィランを叩きヒーローを崇めて秩序を維持している。そしてシンザキ・ユウマという少年には、ヒーローとヴィランの関係に関わる過去があり、隠す秘密もあった。「夜明けのヴィラン」の舞台と主役は、そんな設定になっている。

 ユウマが通う学校に転校してきた同級生の少女が、新しくヒーローとして活躍を始めようとしている「ブレイザーガール」のキョウノ・アカリ。Dr.デブリードマンと名乗るヴィランが暴れる現場に駆けつけたブレイザーガールは、燃えさかる炎を生み出す力で、Dr.デブリードマンが放ったミサイルが子供と、その子供を助けようとしたユウマに当たろうとするのを防ごうとする。

 、ブレイザーガールが放った異能は、高熱でミサイルを溶かしたものの部品として使われていたタングステンを蒸発させるには至らず、溶けた金属が子供とユウマに降り注いだ。普通の人間だったら生きては超高熱。ところが、灼熱の金属は子供を避けて降り、ユウマはその場から姿を消していた。

 溶けた金属をユウマがひとり被ったに違いない。だったらユウマは死んでいるか、大火傷を負っているはず。ところが翌日、アカリが格好に行くと、怪我ひとつ負っていないケロリとした姿でユウマは学校に来てた。疑念を抱くアカリ。それも当然で、ユウマにはヒーローの裏側に位置する存在としての異能があった。

 つまりはアカリとは敵という関係に当たるけれど、そこで少年と少女による学園が舞台の異能バトルへと話は向かわない。もっとシリアスで、そしてハードなアクションへと進んでいく。

 街ではDr.デブリードマンがヒーローたちを根こそぎ排除。残ったアカリことブレイザーガールと、トニー・スタ……ではなくトム・スタージェスなる富豪が自ら開発したスーパースーツをまとって変身するワーニングマシーンが立ち向かう。けれども相手は、世界最高クラスのキャプテン・ペイトリオットも倒したほどの強敵。なおかつ裏で巡らされていた謀略が、純粋に正義の味方だったヒーローたちを追い詰め、その命を次々に奪っていく。

 ブレイザーガールもワーニングマシーンにも絶体絶命の瀬戸際が訪れる、その時。ユウマの力が発動して、ヴィランにもヒーローにも属さないその力で世界の危機に立ち向かう。

 正義はやがて腐敗し、反するものはすべて悪として虐げられる、そんな世界の闇を撃つ物語。ユウマの活躍によって暴かれたヒーローの偽善を受け、世界に散って闇に潜んだ奴らが悪の正義を振りかざし、挑んでくる続きに期待がふくらむ。同時に、新たにヒーローとなった者たちが闇に堕ちる可能性がないのかにも。巡る因果の中でヒーローが、常にヒーローであり続けるためには何が必要か? そこについても考えさせられる。

 それにつけてもブレイザーガール。変身するたびに燃え上がって服まで焼いてしまうのは少し大変そう。大量に着替えを用意しているのだろうか。それ以前に元に戻った時にすっぽんぽんになっていないのだろうか。下に燃えないスーツを着ているのだろうか。気になる。とても気になる。


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