ゆめだま
夢霊

 夢。幸福になる夢。不幸になる夢。いろいろな夢を人は見る。そして人はそんな夢がかなって欲しいと願うし、かなって欲しくないと厭う。

 たかが夢。眠っている間に脳に浮かぶ記憶の断片。かなうも、かなわないもない。そう言ってしまえば済む話。けれども、だからといって人が夢を見るようになって今日まで、夢にはなにか意味するものがあるはずだと、思われ続けている。

 科学が発達して、医学も進歩して、人がどうして夢を見るのかが解き明かされるようになっても、楽しい夢はかなってほしいと願い、嫌な夢は消えてなくなってほしいと厭う。人間は夢を、しょせんは夢だと捨てられない。

 だから、夢を扱う仕事も成り立つ。人から夢を買い、その夢の吉凶を見立て、人に夢を売る仕事が。

 桑原美波の「夢霊(ゆめだま)」(講談社、1500円)は、そんな夢を売り買いする夢霊師の青年・晴一と、彼の乳姉で、今は都で夢を読み解く夢会わせを生業にしている女性・小雨を描いた連作形式の長編小説だ。

 2人が田舎で共に暮らしていた時。晴一が見た、稲田の中に置いた碁盤の上に乗って月を喰らう夢を、小雨は晴一がいつか都で成功することを示唆した吉夢だから、他人に奪われないよう誰にも喋るなと諭し、晴一も言いつけを守って喋らずにいた。

 けれども小雨は、程なくして貴族に夢合わせの力を認められ都へと上がり、晴一も夢で見た成功をつかむ目的と、小雨に会えるかもしれない期待を持って都に行き今は鰯売りをしながら、他人より夢を買って、そして夢を欲しがる別の誰かに売る仕事をしていた。

 そこに舞い込んで来たのが、公家の屋敷で働く女が見たという、いなくなった猫を見つける夢。失せものが出てくる吉夢だと晴一は見立て、その夢を買って自分の夢にしたところ、郊外の庵で夢合わせをしていた小雨に巡り会えた。

 もっとも一方で、夢を売った女の屋敷では失せものが出てこず、盗ったとその現場にいて疑われた、晴一と仲の良かった男が、失せものとは関係はなかったものの、前から少しづつ行っていた盗みを見つけられて、断罪される。

 夢で喜ぶ人がいて、夢で悲しむ人がいる。夢にはどうしてそんな力があるのか。本当にそんな力を持っているのか。

 家臣の武士が見た夢を吉夢と思わず、逆に反逆の意図を示した凶夢だと見た主人が、武士を放逐したことで起こる事件。夢の形に惑わされて、人の心を見落としてしまったことが破局を招いた。

 妻が見た、都が狂乱に包まれる凶夢を、晴一たちに解いてもらった武士が、実はすべての元凶で、都を狂乱に陥れようとしていたことを見透かされ、諭される事件。夢への信心を利用しようとして陥った事態が、不正直への天罰を思わせる。

 ほかにも収録の夢にまつわるエピソードを重ねた果てに、浮かび上がってくるのは、夜に見る夢よりも、人生に抱く夢の強さであり、尊さだ。

 頭に浮かぶ夢であっても、確かに誰かを幸せにもすることもあったし、不幸にすることもあった。けれどもそれは、夢が力を持って人に働きかけているからではない。そうありたいと願い、見た夢が己れを動かし、周囲を巻き込み、動かしているからだ。

 夢に力はない。夢を抱く心にこそ力がある。碁盤に乗って月を喰らう夢を抱え、後生大事にしてきた晴一は、手痛い裏切りを受けたと思って大いに落ち込む。けれども、そこから立ち直って大いなる成功み、いつかの吉夢を成就した。

 重ねて言う。夢が人を動かすのではない。夢が無為の男を叱咤し、祭り上げるのでも決してない。夢を抱いた人が、見たい夢の実現に、意図するとせざるとに関わらず乗りだし、そうありたいと願って行動するからこそ得られる成功。天与ではない、己が努力と実力の賜だ。

 夢枕獏「陰陽師」シリーズのように、超常的な能力者たちが、凄まじい力を駆使して見せるさまざまな驚異を描いてつなぐ、伝奇とも見てとれないこともない。けれども、本質的には見る夢(ドリーム)というより、抱く夢(ビジョン)がもたらす幸福を説き、常に前向きで、絶対に希望を失わないで生きる尊さを教えようとする青春小説だと言える。

 2007年1月の段階で、まだ21歳と若い著者だけに、若者が好むライトノベルという形式で書く選択肢も、あるいはあるいはあったのかもしれないけれど、そうなれば、キャラクターの間の関係性が単純化されてしまい、小雨と晴一の間に漂う微妙な、それでいて強い感情は描ききれなかっただろう。一般小説として出て正解だった。

 読み終えれば浮かぶ、見た夢に縛られるのではなく、己が抱いた夢に向かい、突き進むことの大切さ。学んでそして進むのだ。


積ん読パラダイスへ戻る