やおろず

 唯一にして絶対な教義の土地に生まれたら、見えるのはたった1人というか、そもそも人の形になっているとは限らなかったりして、輝く光が見えるだけといったこともありそうだけれどここは日本、八百万(やおよろず)の神様がおわしめす土地だ。もしも神様が見える力を持っていたら、そこかしこに佇んだり、走り回ったりしている神様の姿を目に出来るだろう。

 古戸マチコの「やおろず」(イースト・プレス、1000円)に登場するのが、まさしくそんな神様を見ることが出来る力を持ってしまった女子大生の高原澄香。子供の頃からおばあちゃんに神様の話を聞かされていて、その時におばあちゃんの口癖だった“やおよろず”がなまった“やおろず”を記憶に刻んでしまったこともあって、ずっと“やおろず”だと思い込んでいた。

 調べればすぐに分かりそうなものだけれども、敢えて調べるほどには神様に興味がなかった澄香だったのに、おばあちゃんの死をきっかけにして生活が一変。なくなったおばあちゃんの家で泣いていた時に、名前を呼ぶ声が聞こえて、見るとそこには祠があって和服姿の人物が屋根の上であぐらをかいていた。

 彼こそがおばあちゃんの家の家神様。澄香はその家神様に頼まれて、自分が暮らすアパートへと連れて帰って来てしまう。一緒にかまどの神様も着いて来てしまい、その上にあらゆる場所におわしめす八百万の神様が見えるようになってしまったから、澄香の暮らしは大変なことになってしまう。

 思いこみが姿を左右するからなのか、おばあちゃんの家にあった古いかまどの印象を受け継ぎ、今はコンロに陣取るかまどの神様は大工の棟梁のように気むずかしげの老人姿。逆にまだ出来て新しいからなのか、トイレにいる神様は幼い男の子どもの姿をして、何かにつけて遊んでとと澄香に迫る。

 そうこうしているうちに、外から道祖神が部屋へと飛び込んで来たりといった具合に神様の数は増える一方。もっともみな気の好い人、ではなく神様たちで、騒々しいけれどもちょっぴり愉快な暮らしを始めた澄香には、神様が見える力が元となった様々なエピソードが到来する。

 まずは子供たちから忘れられ、ゲームのモンスターよりも弱いと思われている鬼を、節分に合わせて子ども達にとって怖い存在なんだと教え、撒く豆によって清められる存在でもあるんだと知らせて復権させようとする。続いて実家から送りつけられた雛人形のお内裏様とお雛様が夫婦げんかをしているのを止めようとする。その時に、ケンカの遠因に自分が子どもの頃にもらした、他愛もないけどそれだけに残酷な言葉があったことを思い出して、ちょっぴり悩んだりもする。

 ほかにも、アルバイト先のコンビニにいるちょっぴり暗い同僚の少年が、わら人形を持ち歩いているのを見て社会復帰させようと頑張ったり、境界線上に止まって外敵から協会内を守る存在であり、また夫婦一対が基本という道祖神が、黄色いフードをかぶったまま単独で街を出歩く姿から察して、道祖神に可愛らしい奥さんをつくってあげたりと活躍する。

 そんなエピソードの数々から浮かんでくるのは、人が神仏を信じるという心理が持つ意味あいであり、そのことががもたらしてくれる心の豊穣さといったものだ。この国が八百万の神様でいっぱいなことの素晴らしさが、改めて見えてきてこの国に生まれて良かったと思えて来る。あと愛というものの尊さも。

 どんな事態にもへこたれず、前向きで明るく元気な澄香のキャラクターが見ていて心地良く、彼女にひっぱられる形で彼女が出会い、関わる神様や人間たちの課題を知って、一緒になって考え、出た答えを自分たちのものとして吸収できるのも、この物語の大きな美点。どこかの新人賞への応募作でなく、ネット上にのサイトで人気になって刊行されたというから日本という国が持つネット文化の豊かさは、やはりなかなかのものだと言えるだろう。

 似たシチュエーションを挙げるなら、アニメーションになった「かみちゅ」が近いか。こちらも街に跳梁する八百万の神様たちがさまざまなビジュアルで表現され、そんな神様たちが織りなすエピソードを楽しめた。

 ただし「かみちゅ」はは神様になってしまった女の子が、取り巻く環境の一変する中で新米の神様として頑張るストーリー。人間として振り回される「やおろず」はこれとは趣も異なる。むしろ人間として超常的な存在をどう感じ、どう考えていくかという意味では「やおろず」の方から学べることの方が多そうだ。


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