ダークネス・ウォーエンジェル
闇色の天使

 戦争に行っただろう明治生まれの祖父から、人を殺した話を実は聞いたことがなかった。殺さなかったのか殺したことを黙っていたのかそれとも最初から戦争に行かなかったのかは、鬼籍に入って10余年が経った今となっては確かめようがない。だが少し前までは確実に、日本にも戦争で銃を取り、合法的に人を殺した元兵士たちが生きて暮らしていたはずだ。

 責めるつもりは毛頭ない。戦争で人を殺す行為は日常なのだから責めることなど出来はしない。それでも聞いてみたいという思いはある。「どうして殺せたのか」。古来、殺人がタブーとされて来たように人が人と殺す行為には相当の心理的なプレッシャーがある。けれども戦争という場なり気分は人に人を殺す行為を厭わせない。そのメカニズムはいったい何か。「殺さなければ殺される」という脅迫観念かもしれない。「家族を守るため」という義務感もあっただろう。

 「楽しいから」。さてどうだろう、こういった気持ちの人はいただろうか。今となっては確かめるのに困難だし、そう思っても言い出す人などいないだろう。けれども絶対にいなかった、などとは思えない。いけないと言われたことをしてみる快楽が、最大のタブーを合法的に破る機会にどうして発動しないと言えよう。軽蔑されるどころか名誉と讃えられる合法的な殺人を、どうして楽しまないでいられよう。

 無論勝手な想像に過ぎない。その場に居合わせたこともなく、未来この国で居合わせることなど困難な身の上が、でっかちな頭で巡らした妄執かもしれない。けれども神野オキナが「闇色の戦天使 ダークネス・ウォーエンジェル」(アスキー、640円)に描く、”戦争”の渦中で起こる”合法的な殺人”の場面に浮かぶ、慟哭でもなければ使命感でもない、快楽にのみ殺す輩のどす黒い感情に、一面で納得できてしまう気持ちが見えて拭えないのだ。

 ここで言う”合法的な殺人”は戦争での合法的な殺人とは決定的に状況が異なる。殺すのは人ではない。ミュウ、と呼ばれる精神寄生体によって憑依され、人ならぬ能力を持ち、人類の敵と公に認められた「怪物」なのだから、殺して殺人と蔑まれるどころか英雄的な行為と讃えられて当然。だから神萩周防という名の少年の姉が、憑依され「破壊者(ブラスター)」となったがために殺されても、誰も罰せられることはなかった。

 けれども1つの疑問が浮かぶ。憑依された「破壊者」は果たして名前どうりの「破壊者」なのか。都市を1つ吹き飛ばした「破壊者」も過去にはいたが、それとて犯罪を犯した挙げ句に逃げまどい都市ごと自爆したのか、それとも差異を認めない人間の妬みの感情が、異能者である憑依された存在を許さず隔絶した挙げ句に、自滅へと追い込んだのかは判然としない。ましてや周防の姉は憑依されたとは言え一切の破壊行為など行っていない。にもかかわらず「破壊者」として合法定期に始末され、巻き添えとなって真正の人間である両親も殺された。同じ人間たちによって。半ば快楽の対象として。

 冒頭に描かれるのは、少年の家に官憲が突入するのを残念がる近隣の住民たちだ。知り合いが殺されるから、ではない。自分たちの手で蹂躙できなかったことを悔しがっているその様に、人間の持つタブー破りへの快楽が浮かぶ。昨日まで同じ町内に住んで会話をかわしていた人間が、「破壊者」となった途端に喜々として狩られる対象になる。脅威を排除するという使命感だけで、人はそう簡単に変われるものなのだろうか。むしろ合法的に許された殺人を行える喜びに、うち震えているのではないのだろうか。

 周防の幼なじみの少女など、真正の人間でありながら姉が「破壊者」として殺害されたという理由で、周防に「もう学校に来ないで」と叫ぶ。自分が「破壊者」の家族と幼なじみであるということが、そのまま自分の未来を脅かすかもしれないという利己的な理由で、周防に憎悪の限りをぶつける。人間でありなが人間世界から拒絶された少年にとって、だから「破壊者」として国連対異星人攻撃部隊(UAAC)から追われる少女、弓真鏡歌と出逢ったことはかえって幸運だったのかもしれない。

 かつてUAACのために「破壊者」を狩る者として働き、自分を取り戻してからは「破壊者」を助け逃がすために戦うようになった鏡歌。「全人類の敵」とメディアを通じて教えられて来た彼女を見ても、周防は殺したいという欲望に駆られない。むしろ自分を蔑み、排除しようと躍起になり、最後は自ら試験体となってまで周防たちを追いつめようとした幼なじみの少女を、殺してやりたいとう衝動にかられる。けれどもそう思った自分を呪い、鏡歌によって殺されることすら願い乞う。

 快楽を覚える者と罪悪を覚える者。たぶん紙一重の感情がどこで一線を超えるのか。もとより人間には殺人を快楽を思う回路があって、それを理性で押さえつけているだけなのか。違うと思いたいし絶対に違うと断じたい。けれども殺すことを快楽と感じるUAACの「ダガー」、すなわち「破壊者」でありなが保身であったり打算であったり洗脳によってUAACの側に付き、「破壊者」狩りを生業とする女や、かつての幼なじみであっての「破壊者」の家族でありまた「破壊者」を助けた周防を殺して名を上げようとする少女といった存在が、それを許さない。

 確実なディティールの戦闘描写、圧倒的な強さを誇る不死身の美少女、そして超絶の能力を駆使して戦う「破壊者」どうしのバトルシーンなど見るべきところ、語るべき部分の多い作品と言えるだろう。それでも根底に流れる「殺すこと」への懐疑と憧憬の入り交じった複雑な感情があればこそ、アクションもラブシーンもすべてが哀しみの糸によって紡がれ慟哭の物語へと織りあげられるのだ。

 冒頭、それでも殺す際に気持ちを高める儀式を心に対して行う大人たちとは違って、あっけらかんと”殺人”を行い、殺した相手の顔を描いたカードをトレーディング・カードよろしく集めて自慢しあう少年少女たちのことが書かれる。世の中では現実に、意味なき殺人、意味の見えない殺人が幾らも起こっている。もう数年もすると、快楽であっても意味ある殺人が主流であった時代を懐かしむ、決して健全ではない感情が浮かぶ時代が来るのかもしれない。そうならないためにも神野オキナには、逃亡者となった周防と鏡歌の2人のその後を描くことで、痛みを、哀しみを、叫びをもたらす殺人の姿を、その身を切り刻んででも描き続けていってもらいたい。


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